薄月
クラクフスキ酒宴会戦後の我が軍の状況は下記の通り。
エミリア・シレジア王女殿下、健在。
マヤ・クラクフスカ公爵令嬢、小破。
ヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック公爵嫡男、小破。
イリア・ランドフスカ男爵令嬢、撃沈。
サラ・マリノフスカ、撃沈。
ラスドワフ・ノヴァク、嘔吐によりトイレ内で航行不能。
……こりゃひでぇ。
現在時刻は午後5時を少し過ぎた頃。既に外は暗く、本来であれば兵舎に戻らなければならない時間だが……。
「どう考えても3人くらいここから動けそうにもないですね。どうするんですかこれ」
この家の人間にして目の前の惨劇の主犯であるマヤさんに聞いてみる。
「そうだな。とりあえず我が家に泊めさせてあげよう。客室ならたくさんある」
「ご迷惑おかけしますね」
「気にすることはない。むしろいつでも来てほしいくらいだ」
いつでも来いと言われても、いつでも来れる場所にないのが残念だ。
「クラクフスカ公爵令嬢、この度は大変面白い饗宴に御呼びいただき感謝申し上げる」
「あぁ、またこういう機会があったら呼ぶよ。いつでも来たまえローゼンシュトック卿」
「もちろんです。ではまた」
ヘンリクさんはこの惨劇をまるでなかったかのように華麗にスルーすると、短い別れを挨拶を残してさっさと帰って行った。面倒事を押し付けたとも言う。
「とりあえず私はこの死体の処理に専念するが、君はどうする?」
「俺は大人しく兵舎に戻りますよ」
「ふむ。だがここからだと大変だろう。馬車を用意するが?」
「それには及びませんよ。酔いを醒ますためにも、少し歩きたいですし」
「わかった。でも検問所を通る必要があるからな。そこまでは付き合うよ」
「ありがとうございます」
「いいってことさ。じゃ、少し準備と処理をしてくるから待ってくれ」
そう言うと、マヤさんは応接室から退出した。部屋に残されたのは俺と酒によって撃沈し、放心状態でソファの肘掛けを枕にしているイリアさん、俺の膝を枕にしてぐーすか寝てるサラ、そして一人優雅に紅茶を飲んでいるエミリア王女殿下。結局殿下は5時間の宴会で発泡葡萄酒1杯しか飲まなかったようだ。本当に弱いんですね……。
エミリア殿下はカップをゆっくりとテーブルに置くと、俺の方に向き直った。
「さて、ユゼフさん。少しお話があります」
「なんでしょうか」
「明日、軍務省から正式に辞令がありますが、私はあなたの配属先を知っています」
「……ほほう」
まぁ王族だからな。それくらいのことはできるだろう。問題は……。
「まさか殿下、国王陛下のように軍務省の人事に口を出した、とは言いませんよね?」
「……言います。私は人事に口を出しました。ユゼフさんの本来の配属先は、タルタク砦警備隊の作戦参謀補でした」
タルタク砦ってあれか、シュミット准将とかがいた場所か。そこの作戦参謀補ということは、ラスキノ戦争前に作戦説明をしていたルット作戦参謀の推薦もあったのかもしれない。でも、そこには行かないと言うことか。
「殿下、いかに王族と言えど人事に対して口を挿むことはあまり褒められた行為では……」
サラに「王女様なんとかして」と言われて殿下が困った顔をしていたのは、既に手を回していたからなのか。
「わかっております。ですが、ユゼフさんにしか頼めないことがあるのです」
「……なんでしょうか?」
そう問うと、エミリア殿下はその場で起立し毅然とした表情で俺の目を見た。本来であれば俺も起立をすべきなのだろうが、サラの頭が邪魔で立とうにも立てなかった。
「ユゼフ・ワレサ。シレジア王国第一王女エミリア・シレジアの名において命じます」
殿下は大きな深呼吸を2回行った後、俺に命令した。
「貴官を、“オストマルク帝国在勤シレジア王国大使館附武官次席補佐官”に任命します」
「……は?」
俺は予想外の役職に任命されたことに驚き、半秒ほど意識が飛んだ。
「要するに駐在武官、ですか」
「そうです」
「リンツ子爵と交わした、あの取り決めですね?」
「はい」
それは、ラスキノ攻防戦終結後のリンツ子爵との会談で決定した「信頼できる者を双方の大使館に派遣する」というものだ。最終的な目的は、シレジア=オストマルク同盟の成立だ。
「しかし『オストマルクからの使者が来たら、シレジアも使者を送る』という話でしたよね? もう使者が来たのですか?」
そう疑問を呈すると、エミリア殿下はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、まだです。しかし、在シレジア王国オストマルク帝国大使館から今朝連絡がありました。『新たに1人、大使が派遣される』と」
なるほど、すでに向こうの外務大臣さんは了承済みなのか。
「……事情はわかりました。ですが、私で良いのですか?」
「良いのですよ。私にとってこの人選は、唯一の選択であり、そして最良の選択であると思っています。信頼出来る参謀役は、ユゼフさんしかいないんです」
「どうも、買い被りすぎだとは思いますが……」
「不満ですか?」
「いえ、光栄の至りに存じます。謹んで、拝命致します」
エミリア殿下に信頼されて、笑顔でお願いされたら俺は拒否することはできないね。
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ほろ酔い状態のまま、俺は貴族居住区画の外に出た。11月の王都シロンスクの夜空は薄く雲がかかっていて、そして酷く寒い。緯度の高いシレジアは冬が早く来る。体感だけど、気温は既に氷点下に達しているだろうな。
……にしても、在オストマルク帝国大使館か。僻地勤務でないだけマシだけど、想像以上に遠いな。大使館ってことは帝都エスターブルク、芸術の都と称されるほどの立派な都市に勤務すると言うこと。それにどこの世界でも外交官はエリートコースだ。前世世界のように、大陸の言語が大陸帝国の公用語である「帝国語」に統一されているせいで、外交官のハードルが下がってるけどね。
などとうだうだ考えていたら道に迷ってしまった。えーっと、ここはどこだ。
情けない月明かりを頼りに俺は周囲を見渡す。建物はどれも古く、そして道は整備されているとは言い難い。あちこちにゴミが散乱しているし、もし今日が夏だったらかなりの臭いがする事だろう。
つまるところ、ここは貧民街だ。
「やれやれ、夜の貧民街に迷い込むなんて、どう考えたって死亡フラグじゃないか」
自分が悪いのに、ついそうぼやいてしまう。
今は冬だから浮浪者の数は少ない。じゃないと、最悪凍死するからね。それに俺は今、外套を羽織っているとはいえ軍服だ。こんなひょろくて情けない顔しているけど、軍人に手を出そうと考える奴はそうそういないだろう。
と、自分の方から死亡フラグを立て身の安全を図ってみる。来た道を戻ればすぐに貧民街から出れるはずだ。
その道中、俺は街の様子を見学してみる。どう見ても活気はない。人が住んでるかどうかも怪しいし、全部の建物が廃墟に見える。そして路地裏を覗いてみると、一人の子供が蹲っていた。たぶん女の子で、歳は身長から察するに5、6歳程度だが、この見るからに栄養状態の悪そうな町ではプラス2した方が正確かもしれない。
その女の子は、俺の存在に気付くと、じっと見つめてきた。助けを求めるでもなく、何かを欲するわけでもなく、怖がるだけでもなく、特に何も感情を抱かずにただ見つめているだけだ。
俺はその女の子と数秒間目を合わせていたが、すぐに目を逸らした。
女の子を救いたい、と思わなかったと言えば嘘になる。どうにかして兵舎に連れて帰って、面倒を見てあげたいと思ってもいた。
でもそれができるほど、俺は偉くもないし、持ち合わせもない。それに貧民街で物を分け与えるという行動は危険が大きい。もしそうしたら、どこからか現れた別の浮浪者達が俺を身ぐるみ剥がして殺す、なんてことがあり得る。
だから俺は、あの女の子を見捨てるしかない。
5分後、俺は貧民街を無事抜けて見慣れたシロンスクの街に戻った。