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第七十一話 暗転

 織田幕府による甲斐と信濃への沙汰が終わり、ようやく平穏な日々が戻った。

 浅井家、幕府代官達による安定化が失敗した両国は、将軍の信忠の命に従った津田家によって安定化している。

 幽斎としては予想外の結末であったが、これに表立って文句を言うわけにもいかない。

 信忠からの甲斐移封の命令を断り、津田光輝に両国を押しつけたのは幽斎自身なのだから。


 幽斎は、自分が領主でも甲斐は治まったはずと思っている。

 だが、彼は一国の領主よりも将軍信忠の傍にいる事に拘った。

 それが、自分が上に行く最短の手段だと思っていたからだ。


 思えば、先代信長の時代には側近衆が大きな力を持っていた。

 信長は即断実行を好む。

 軍団長として各地に派遣された宿老達に素早く自分の意志を伝えるため、彼らに領地ではなく権限を与えたのだ。

 そして、その権限は彼らの大きな力となった。


 あの間抜けに見える津田光輝は、信長のお気に入りだったからだけでなく、側近衆の役割を正確に見抜き、彼らへの贈り物や詳細な報告を欠かさなかった。

 おかげで、信長からわずかな嫌疑すら受けていない。


 贈り物というよりも賄賂だと柴田勝家が文句を言っていたが、その程度の事は他の宿老達もしているから問題ではない。

 第一、津田光輝の贈り物は露骨な金銭などではなく、領地で生産、製造された特産品が多い。

 それで金銭以上の好評を得るのだから、費用効果でいえば津田光輝ほど贈り物が上手な男はいないのかもしれなかった。


 柴田勝家は愚直で人に贈り物などする人間ではなかったが、信長は逆にその愚直さを気に入っていた。

 他の並の武将だと気が利かない奴という評価で終わりだが、その点では勝家は特殊なのかもしれない。

 

 ああ見えて領地の統治も上手であり、勝家が筆頭宿老に命じられているのはちゃんとした理由があったのだ。


 そんな宿老が気を使うほどの存在であった側近衆であったが、信忠の代になるとその力は大分落ちていた。

 側近衆が君側の奸とならないように、信忠がその権限を削ったからだ。

 そのために、信長の臭いが強い森成利などは側近衆から降ろされている。

 

 本人も文句を言うことなく素直に領地に向かったので、信忠は胸を撫で下ろしたほどだ。

 側近衆を伝言役程度とし、信忠は自分の子飼いの家臣、主に尾張と美濃出身者に任せる仕事を増やそうとした。

 その第一弾が信濃と甲斐の接収と統治であったが、結果は失敗に終わっている。

 代官として派遣された彼らが無能というわけではない。

 そんな者達を信忠が重用するはずもないので、幽斎は運が悪かったのであろうなと思っていた。

 浅井家が予想以上に状況を悪化させたため、彼らにも収拾できなかったのであろうと。


 だからこそ、幽斎は津田家に両国を預けた。

 いくら津田家でも、そう上手くはいくまいと思ったからだ。


 ところが、実際には津田家は上手くやっている。

 一時周辺国に逃げていた領民達も、津田家が統治するならばと故郷に戻って来た者が多かった。

 その評判の高さに、信忠は表面上は安堵しつつ、内心では苦々しく思っていると幽斎は感じている。


 津田光輝の嫡男信輝は、信忠によく似たタイプだと幽斎は思っている。

 共にある意味突き抜けた父親を持ち、父親が作った物の維持と更なる発展を担う二代目、足利義詮のような存在であろうと。


 だが、天下を担っていない分、信輝の方が気楽であろう。

 気楽な分、信輝の方がノビノビとやって成果が出ているようにも見えるのだ。

 津田家による信濃と甲斐の接収で、幽斎は津田信輝の粗を探そうとした。


 ところが彼は、一揆勢に囲まれて籠城していた代官達を救出。

 彼らにも従軍を頼み、一揆勢討伐の戦功を分けて彼らの顔を立てるという事まで行った。

 失敗した代官達の顔を立てた津田信輝を非難するわけにもいかず、両国の統治も上手く行っている。

 信濃で加増された真田信輝は、もはや津田家の家臣と言われても誰も不思議に思わないであろう。


 この状況に、織田信忠は愚痴の一つも言いたいはずだ。

 だが、それを公の場で言えば織田幕府の権威が落ちてしまう。

 織田幕府と津田家の不和を疑われれば、またどこかで大規模な反乱や一揆が発生する可能性もあった。


 信忠はそれらの感情をすべて呑み込み、根気よくコツコツと織田幕府を安定化させないといけないのだ。

 今まで優等生と評価されてきただけに、彼はその枠から外れるわけにもいかない。


 幽斎としてはそんな信忠を支えつつ、自分の出世も遂げる。

 という目標で動いていた。

 あくまでも、信忠あっての自分というわけだ。


「幽斎殿! 此度の沙汰はあまりに不公平ではないですか!」


 相談役である幽斎は、信忠からの期待に応えるべく努力は怠っていない。

 一部諸将からは信忠の腰巾着だと嫌われていたが、織田幕府という組織において嫌われ役も必要だという認識で動いていた。

 

 津田光輝もそれを理解しているから、自分を排除しようとは思っていない。

 幽斎は光輝が嫌いであったが、そういう部分だけは彼を評価していた。


 色々と考え事をしていると、一人のうるさい若造が幽斎を訪ねてきた。

 今回の騒動の責任者の一人である浅井忠長であり、彼は幽斎に何か言いたい事があるらしい。


「津田家の悪行は、許されるものではありませんぞ!」


 一連の騒乱のせいで一万石の小大名に転落した浅井忠長は、津田家を大いに恨むようになった。

 幽斎から見ても浅井家の自業自得であるが、同じ津田光輝嫌いという点で見捨てるのも不憫だと思ってしまった。


 それに、一応大名ではある。

 自分が上に上がるため、細川家としても仲間を作らないといけない。

 せっかく自分を訪ねてきたのだから、無下にするのもどうかと思って相手をする幽斎であった。


「確かに、少しやりすぎですな」


 じゃあ、何で浅井亮政は津田領で略奪をした挙句、津田軍への攻撃を続行したのだと幽斎は思ったが、それを口に出さないだけの分別はあった。

 それに、そんな正論を吐いても目の前の男は余計に怒るだけであろう。

 ここは機嫌を取っておくかと、幽斎は話を続ける。


「機会をお待ちください。必ずや浅井家を国持ち大名に復帰させるように上様にお願いしますので」


「幽斎殿、かたじけない」


 どんなアホでも数は力、幽斎は割り切って仲間を集めて派閥を作っていく。

 領地では津田家に勝てないが、自分は将軍信忠の傍にいる。

 その権力をもってして、いつか織田幕府の執政となろう。


 幽斎は、それこそが細川家でも傍流であった自分が成り上がる最高の手段だと思っていた。


「(そのためにも、もっと上様の信用を得ないといけないのだ)」


 自分の出世も大切だが、それと同じく織田幕府の安定化も大切。

 幽斎にも野心はあるが、それはあくまでも織田幕府があっての事。

 そんな風に、幽斎は思っていた。


「おおっ! 一国をですか!」


「浅井家は、織田家の準一門です。織田幕府を支えてもらうためにも、必ず一国の太守に復帰していただかないと」


「幽斎殿、感謝する」


 どこを与えるかだが、やはり甲斐しか残っていない。

 津田家とて、大身になりすぎた自分達が織田幕府から警戒感を抱かれるのは嫌なはず。

 彼らは交易路の整備と外地の開発に忙しいから、そちらの権利を認めて甲斐と真田領以外の信濃を返上させるしかない。


 津田光輝はともかく、津田信輝にはそのくらいの物わかりのよさを期待したかった。


「幽斎殿、頼みましたぞ」


 先ほどアホだと言ったが、浅井忠長もいきなり父や兄が死んで混乱しての失敗である。

 条件を整えれば、信忠の補佐は十分にできそうだ。


 そう思いながら信忠の下に行くと、彼は夜遅くまで大量の書状と格闘していた。


「上様、その書状は明日でも構わないのでは?」


「とは思うのだが、眠れなくてな」


 信忠は、眠れないから暇潰しに書状を見ているのだと幽斎に語った。


「お体に障ります。床に入ってください」


「幽斎、お前は起きているじゃないか」


「私は年寄りですから、若い時よりは睡眠時間が短いのです。それに、もう床に入るつもりです」


 現在の幽斎は嫡男忠興が治めている領地には戻らず、石山城に一室を貰ってそこで生活をしていた。


「このところ忙しかったから、能をやる時間もなくて困る」


「私もそうですね」


 信忠は能が趣味で、幽斎も能への造詣が深い。

 一緒に能を舞ったり道具を貸し借りする事も多く、趣味友達としても仲がよかったのだ。


「津田家によって信濃と甲斐は落ち着きました。今度一緒に、能の稽古でもいたしましょう」


「それはいいな。しかし、幽斎が叔父上を褒めるとはな」


「嫌いですが、その能力を認めないわけではありません」


 同時に、ただの有能な者とは違うその不気味さにも気がついていた。

 武芸に優れているわけでもなく、軍勢の統率が特に上手いわけでもなく、頭が特別に切れるわけでもない。

 ただのお人好しの成金にしか見えないのに、彼は圧倒的な強者であった。


 幽斎は光輝が隠しているものを不気味だと感じ、それが光輝嫌いの根底にある。

 あの織田信長ですら、それが何であるか死ぬまで確認しなかった。

 いや、信長ですら藪を突いて蛇を出すのを避けたのかもしれない。


「(だからこそ、私は津田光輝を抑えないといけないのだ)」


 自分が死ぬまでに、織田幕府内における津田家の立ち位置を決めないといけない。

 もしそれが難しいようなら、最悪奥州藤原氏のように滅ぼす必要もあるであろう。

 織田幕府が全力で攻めれば、津田家は戦力を各地に広げすぎている。

 津田家討伐は可能であろうと、幽斎は思っていた。


「叔父上が正式に隠居したら、信輝にも幕政に参加してもらうさ。二人とも登用すると周囲がうるさいからな。信輝は能力もあるし、話もわかる男だ。そうなれば、織田幕府も落ち着くはず」


「そうですな」


 幽斎も、津田信輝なら交渉の余地はあるかと思っていた。

 国内の領地を少し削っても、もっと他の外地の開発許可を与えれば受け入れるのではないかと。

 それに、彼には光輝のような不気味さを感じないのだ。


「さて、私は寝るとするか」


「それがいいと思います。上様に倒れられると困りますから」


「そうだな、私にはまだやる事が多い」


 幽斎は寝室へと向かう信忠の背中を見送ってから、自分も寝るために与えられた部屋へと向かった。

 明日からも色々と仕事があるが、それも自分が織田幕府の執政となるため。


 そう思いながら、床に着く。

 だが、それからすぐに幽斎も含めて織田家家臣達の運命が大きく流転するとは、今の時点では誰にも予想できなかった。







「幽斎様! 大変です!」


 翌朝、早く起きて朝食を取っていた幽斎の下に、信忠付きの小姓が血相を変えて飛び込んで来る。


「何事だ?」


「上様が!」


「上様がどうなされた?」


「大変です! 上様が倒れられました!」


「何だと! それで病状は?」


 織田信忠が倒れたという報に、幽斎は驚きを隠せない。

 そして、自分が織田幕府の執政として天下を差配するという計画も大きく崩れてしまった。

 信忠だからこそ、自分は天下の執政を目指した。

 だが、もし彼に何かがあれば……。

 そう考えた時に、幽斎の奥底から抗いようのないある感情が沸き出してくる。

 幽斎本人は、それが何なのか気がつかない……いや、あえて気がつかないフリをした。

 齢五十を超えた自分に湧きあがってくるその感情、もし信忠に何かがあればその嫡男信重はまだ若い……幼いと言っても過言ではない。


 ならば、自分は何を目指すのか?


「(ええい! 今は上様の容態を確認する方が先だ!)すぐに行く!」


 幽斎は急ぎ信忠の寝室へと向かうが、それと同時に今までの自分と今の自分とが違う生き物になってしまった事に気がついてしまった。

 

 戦国大名、そう自分は隙あらば天下を狙える位置にいるのだと。

 突然降って湧いた野心を幽斎は受け入れ、これからは否応なしに津田光輝との戦いが早まると覚悟を決めるのであった。








 将軍信忠の死は突然であった。

 寝ている間に苦しまずに急死したようで、その顔はまるで眠っているかのようだ。

 朝、信忠が予定の時刻になっても起きて来ないので小姓が起こしに行ったら、既に死んでいたらしい。

 小姓は信忠が倒れたと幽斎に知らせたが、実はもうとっくに死んでいたのだ。


「(上様……)」


 信忠の死を、幽斎は心から悲しんだ。

 だが、同時に天下への野心にも目覚めてしまっている。

 段々とその道筋が見えてきてしまい、もうそれに抗えなくなっていたのだ。

 幽斎はその野心を隠しつつ、今は信忠の死を悲しむ事に傾倒する。

 少なくとも、その悲しみは本物なのだから。


「今日子殿、何とかならないのか?」


「こうも長時間心臓が止まってしまうと、私ではどうにもなりません。残念ですが、お亡くなりになっています」


 この場を取り仕切る丹羽長秀の問いに、信忠を診察した今日子が悲しげな表情で首を横に振った。

 倒れてすぐならともかく、今の時点で治療をしても無駄だからだ。


「わかった。すぐに領地に戻っている諸将にも連絡を入れる」


 信忠の死は、すぐさま諸将に知らされた。

 急ぎ石山へと向かっている者も多かったが、たまたま石山にいた津田夫妻、柴田勝家、丹羽長秀などは急ぎ駆けつけている。


「浅井長政様のような事もある。今日子殿、調べていただけぬか?」


「わかりました」

 

 まだ三十代と若い信忠の突然死である。

 毒殺が疑われたので今日子が検死を行ったが、特に怪しい点はなかった。

 夜中に突然心臓の発作が起き、運悪く誰も気がつけなかった。

 発作の原因はストレスだと思われる。

 最近、なかなか寝付けなくて困っていたそうで、それが遠因かもしれないと今日子は診断した。


「心筋梗塞ですね。就寝中に突然発作がきたものと思われます」


「おいっ! ヤブ医者! お前が何かの役に立った事があるのか?」 


 信忠の遺体の前で、今日子の検死結果を聞いた柴田勝家が吼えた。

 信長の時と同じように、医者の癖に役立たずだとケチをつけたのだ。


「心臓の発作だと言った。就寝中にいきなり発作を起こされては、いくら今日子が名医でもどうにもならない。いい年をして吠えるのは止めろ」


「貴様! ワシを誰だと!」


「筆頭大老の癖に分別もないのか! 三つ子の魂百までとはよく言ったものだな!」


「何だと!」


 勝家のあまりの無礼さに、珍しく光輝はキレた。

 言い返されて激怒した勝家が光輝に掴みかかるが、さすがに老いた勝家と、アンチエイジング効果のおかげで五十をすぎても肉体は三十代の光輝とでは勝負にならない。

 

 おまけに元から、光輝の方が体は大きいのだ。

 自分に掴みかかった勝家を、光輝は難なく突き飛ばしてしまう。

 武芸ならともかく、単純な力比べでは光輝の方に圧倒的に分があった。

 いや、単純に年老いた勝家が衰えたともいえる。


「権六も、中納言も止めい!」


 二人の争いは、隠居の身ではあるがこの場を取り仕切っていた丹羽長秀の一喝で収まった。


「二人が怒鳴り合ったところで、信忠様が生き返るわけでもない。これから、いかに新将軍信重様を支えていくかが重要だ」


 まだ数えで十三、実際には十一でしかない若い信重を、いかにして支えていくか。

 そちらの方が重要だと、長秀は言う。


「下手に体制は弄れぬな……」


 今は、なるべく大きな混乱を起こさないように統治体制を整えないといけない。

 そんな事情もあり、さほど役職に変化はなかった。


 浅井亮政の不慮の死と浅井家の没落により、中老次席の穴を細川忠興が埋める事となった。

 奉行も、筆頭の河尻秀隆が急死したばかりで、筆頭に前田利家から代替わりした利長へ、次席に蒲生氏郷が、池田元助と坂井越中守が島津討伐で討ち死にしていたので、林通政、佐久間信栄、佐治一成が新たに奉行に任命されている。


 信忠寄りというよりは、織田家譜代重臣の子息を優遇した結果が見えてくる人事だ。

 特に林通政と佐久間信栄は、父の隠居や討ち死にで影響力が著しく落ちていたので、久しぶりの表舞台復帰ともいえる。


 なお、この人事案を裏で糸を引いたのは細川幽斎であった。

 息子忠興と謀り、若い新将軍の元でその影響力を増そうと暗躍していた。


「とにかく、信忠様の葬儀を行わなければ……」


 言い争っている場合ではない。

 今この間にも、織田幕府は続いているのだから。

 幽斎による至極真っ当な意見が当たり前のように採用され、石山において大規模な葬儀が行われた。

 その前に、信重の征夷大将軍任官の工作もある。

 その両方で、細川親子は水を得た魚のように大活躍をした。


 信重はまだ幼く、二人が実務を取り仕切ったのだ。

 官位の任官に関しても、教養人で朝廷とも縁が深い幽斎の一人舞台であった。

 

「幽斎こそ、余のもう一人の父である」


 父信忠の急死で不安が大きかった信重は、親身になって実務をおこなってくれる幽斎を大きく信用するようになった。

 同じくその息子である忠興も、まるで兄のように慕うようになる。

 そしてその状況は、幽斎の野心を次第に大きくしていく。

 

 信忠の死後、彼が思い浮かべた天下への道を予定どおりに歩めてしまっているからだ。


「細川家は、我が世の春か」


 ようやく信忠の葬儀が終わって世情が落ち着いた頃、石山にある津田屋敷において、徳川信康が幽斎親子を皮肉っていた。

 彼は中老筆頭なので石山に詰めているのだが、新将軍信重のお気に入りの細川忠興ばかりが重用され、信康は冷や飯食いであったからだ。


「政務はちゃんと回っておりますからな」


 信重は、信忠の政策を踏襲している。

 とはいえ信重はまだ若く、実務は細川親子に握られていた。

 それに不満を感じる諸将もいたが、幽斎は今の信重は統治を学ぶ時機であり、もう少し大人になってから実際に政務を見ていただくと説明している。


 確かに今の信重に任せるのは危険であり、幽斎の言っている事は間違っていないのだ。


「津田殿も、あまり上様に呼ばれませぬな」


「楽でいいけどね」


 信重の光輝に対する感情は、嫌いではない程度だ。

 これでも幼い頃には遊んであげたり、お菓子をあげたりしたのだが、もう一人の父と兄である細川親子には遠く及ばないというわけだ。

 光輝は、上手くやったものだと細川親子にある意味感心した。


「政務は回っておりますが、家臣間の断絶が酷い事になっています」


 信重のせいというよりも、細川親子の仕業である。

 まず大老は、筆頭である柴田勝家が重用された。

 信重が、祖父信長の話が聞きたいとよく呼ぶようになり、それで勝家がご機嫌なのだ。

 勿論そこには、細川親子の影響力がある。

 逆に、同じ大老である上杉景勝は、忠興との関係のせいでほとんど呼ばれない。


 中老は、細川忠興以外では準一門衆である蒲生氏郷が重用されている。

 だが彼はキリスト教徒であり、その点を細川忠興が気に入らないらしく、両者の間は微妙であった。

 奉行では、前田利長、斎藤利治、森長可、池田輝政、村井貞成、林通政、佐久間信栄、佐治一成と、譜代家臣の子息が優遇されていた。


 細川親子は信長の代の譜代家臣子息を信重に優遇させ、その纏め役として大いに権勢を振るっているという状態であった。


「私的な人事も目立ちますな」


 信康が許せないのは、散々に迷惑をかけた浅井忠長が紀伊一国の領主に返り咲き、中老に任じられると聞いたからだ。

 他にも、斯波義銀、義康親子、山名豊国、今川氏真、六角定治、三好義兼、北畠昌教、朝倉信景、武田元明、武田盛信、武田信貞、武田信清、別所吉治、小寺氏職、赤松則房、大友義乗などが一万石以上の所領を与えられて大名に復帰している。


「名門の復権ですか」


 そしてそれらの名門大名達も、信重を支えるのと同時に復権に手を貸した細川親子に感謝する事となる。

 細川親子は、織田政権内の名門派閥の取りまとめ役にもなったのだ。


「細川親子の成り上がりの早さは凄いですね」


「絶好の機会があって、あの親子の能力も合わさったからな」


 信忠が急死して、幼い信重が新しい将軍になった。

 それだけだが、それは細川親子にとっては大きな転換点であったのだ。


「それと、あの御仁も復活しました」


「生きていたんだな、あいつ」


「津田殿は、相変わらずですな」


「あんな奴、あいつで十分だ」


 信長が傀儡にして抑えに抑えた足利義昭、捨扶持を与えられ寺に押し込まれた彼であったが、嫡男義尋は大名に復帰し、本人も准三宮に任じられて信重の御伽衆となった。


 勿論、細川親子の引きである。

 義昭は彼らに感謝し、まるで水を得た魚のように細川親子と名門大名達との間を取り持っている。

 光輝は、顔も見たくないので無視していたが。


「信康殿、そんな状況なら上様に呼ばれない方がいいではないか。堅苦しくて堪らない」


 どうせ光輝が顔を出しても、自分の家の先祖の自慢話しか聞けないのだ、

 ならば、昼寝でもしていた方がマシだと、光輝は信康に言う。


「確かに、好んであんな場所に出入りしたくありません」


 若い頃に無謀な行動を光輝の妻今日子に叱責され、それ以降は分別もある人物に成長していた信康であったが、やはり石山の名門ばかり集まる空気には慣れなかった。


「織田幕府の権威を上げようとしているのは理解できるのですが……」


 譜代の子息と名門一族のサロンと化した石山城に、信康は苦手意識を持ち始めていた。


「名門の復権が、織田幕府の復活に繋がるのでしょうか?」


「わからない。だが……」


 光輝には、細川親子の魂胆などお見通しであった。

 名門をただ大名に復帰させるだけでなく、各地に配して恩を売り、自分が織田幕府の第一人者になろうとしているのだと。


「(小賢しいが、有効な手ではあるな……)」


 細川親子にはその能力があり、しかも若い信重は彼らを信用している。

 彼らが白い物を黒いと言っても、信重は肯定してしまうのだ。


「暫くは様子を見るしかない」


「そうですね……」


 その暫く、信忠の四十九日が終わった頃、幕府内では新将軍信重の正妻を誰にするかで議論が起こっていた。

 ただし候補者は、名門の娘ばかりだ。

 

 勿論、津田家の娘は候補にも上がらなかった。

 幽斎が、外戚の専横で滅んだ中国王朝の話を厭味ったらしく光輝にしたのだ。

 だが、光輝自身は娘や孫娘を外に嫁に出さずに済んで喜んでいたので、幽斎の思惑どおりに行かず、渋い顔を見せている。

 嫌味が通用しない光輝に、幽斎が勝手に腹を立てたのだ。


 候補者が出揃い、数日議論の後に信重の妻がようやく決定する。


「決まったのは、義昭公の養女だそうで……」


 しかも、その実親は幽斎であった。

 そのまま幽斎の実娘を嫁がせるのは露骨なので、一旦義昭の養女にしてから嫁がせる。

 こうすれば、織田家と足利家が縁戚関係になり織田幕府の権威が高まるという口実で、実は幽斎が外戚として権力を握るためなのは誰にでもわかった。


「やれやれ、これは大変だ。というか、よく人の事が言えたな。あの古今東西」


「津田殿、古今伝授ですよ」


 信康は、律儀に光輝の言い間違いを指摘した。


「どっちでもいいけどね。俺は無教養人だから」


「私も同じようなものですけど」


 戦は起こっていなかったが、大きな政変ともいえる。

 わずかな時間で劇的に悪化していく周囲の状況に、光輝はそう遠くない将来、大きな人生の決断をしなければならないと覚悟を決めるのであった。

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