第六十六.五話 津田家直営マス釣り場
「大殿、ついに完成いたしましたぞ」
「よくやったぞ! 秀綱!」
津田家の家臣鮭延秀綱は、戦で負傷して二度と戦場には立てなくなった。
だが、彼は武勇だけの人ではなく、文官としても優れた人物だ。
津田家に仕官後、内政の分野で活躍する事となる。
最近では、津田家に貿易黒字を呼び込む鮭、鱒関連の事業を統括していた。
津田領内中で鮭の人工ふ化、漁業資源保護、蝦夷や樺太、沿海州にまで学者と赴いて鮭、鱒類の捕獲や研究をおこなっている。
養殖に向く種類の鮭、鱒類を集め、実際に飼育、繁殖などを試みていたわけだ。
そしてそれらを、津田領内中の川の上流や、標高の高い池や湖などで飼育、養殖する事業も行っている。
海から遠い場所に住む人達に安価なタンパク源を安定的に提供するためと、観光地と連動して人工の鱒釣り場などを経営するためであった。
山の上にある水が綺麗で冷たい川を改修し、そこに養殖した鱒やトラウトなどを放流する。
客はそこで料金を払って釣りを行い、釣った魚を現地で調理して食べたり、加工して持ち帰ったりできるようにする。
未来では、どこの観光地にもあるようなマス釣り場であった。
マス類の養殖と合わせて、釣り場の管理は現地の領民達を使えば雇用確保にも繋がるというわけだ。
「このマス釣り場をひな形に、津田領内に支店網を構築するのだ」
「はい、大殿の案どおりに進んでおります」
光輝が計画し、秀綱が現場で奔走してマス釣り場が完成した。
「ですが、まだ費用の問題が……」
「それは仕方がない。世間に普及して時が経てば、自然と人は工夫して値段が下がっていくのだから」
マス釣り場は、交通の便が悪い場所にある。
街道の整備も進めているが、今の時点でここに来れる人は富裕層のみというわけだ。
徐々に普及していけば利用料も安くなっていくと、光輝は秀綱に説明した。
「それに、秀綱が努力をしていないわけではないからな」
庶民向けに、通常の河川に洪水対策も兼ねて人工の支流やため池などを作り、そこにフナ、コイ、ナマズなど、食べられる川魚の養殖や放流も行った。
安価な釣り堀というわけで、みんなが気軽に魚を食べられるようにしたのだ。
他にも、鮎やワカサギの人工ふ化や、稚魚の放流なども行っている。
禁漁期間の設定や入漁料の徴収なども始め、違反者には罰金、悪質な密漁者に厳罰を処すようにもなった。
無暗に乱獲されると、魚が簡単にいなくなってしまうからだ。
「とまあ難しい話はそこまでで……今日は、特別解放の日だからな」
一般に向けてオープンする前に、一部関係者のみで実際に施設を利用して不具合などを探す……という名目で、オーナーが先に楽しんで何が悪いという事である。
試し釣りができるという事もあり、光輝はワクワクしている。
「奥方様がおりませぬな」
「夕の世話もあるし、他にも忙しいからな。次の釣り場の開店時には参加するそうだ」
「それは残念です。次の釣り場は、ここよりももっと素晴らしくしておきます」
今日子や子供達はいなかったが、その代わりに弟の清輝と、その子供である信清、信行の三名がいた。
「親子三人で珍しく外に出たな。初めての事じゃないのか?」
「伯父上、我らとて江戸城内の庭くらいなら、毎日出ていますよ」
「江戸城の外には、週に一度も怪しいですけどね」
信清と信行も、清輝と同じく普段は奥の院かカナガワに詰めて色々と研究している。
津田家では、当主にして表の光輝一族と、津田家躍進の鍵である技術を握る清輝の一族とに役割が別れていた。
「たまには外に出ろと、母上がうるさいのです」
「そうなのか。それでその肝心の孝子は?」
「本人は、新刊の締め切りが迫っているので欠席です」
「お前ら親子は、本当にいい性格をしているよな……」
優秀なのだが、かなりマイペースで、あまり人の上に立つのに向いていない。
兄弟の差が子にも受け継がれ、役割分担は効率的な津田家運営の手段というわけだ。
「今日は深く考えないで釣ればいいのだ。野郎ばかりだが、特別に一人だけ女性がいます」
「それで、愛を連れて来いと?」
今日、光輝の護衛を担当しているのは田村光顕であり、彼は光輝の命令で妻の愛姫をつれてきていた。
彼は武藤喜兵衛の次男で、もし運命が違えば、武藤信繁、真田幸村などと呼ばれていたかもしれない人物だ。
今は隠居した田村清顕に代わり、田村本家の当主になっている。
「今日はあまりに男ばかりでムサイ……というのもあるけど、女性にも試しに釣ってもらおうかと」
そこで、光輝は自分がお気に入りの愛(姫)も参加させたというわけだ。
「愛ちゃん、これが竿でこれが餌ね」
早速光輝は、釣り場で貸してもらえる予定の釣竿と餌を渡す。
餌は川虫とミミズであったが、この時代の女性で虫を怖がるのは余程の上流階級の人間くらいであろう。
愛姫は、ミミズを見ても悲鳴をあげはしなかった。
「はい、でも大丈夫でしょうか?」
「素人でも釣れるように、魚を放流しているから大丈夫」
光輝に促されて愛姫が仕掛けを投入すると、あっという間に魚がかかった。
「大殿様、本当に釣れましたね」
「あとは弱らせてから引き揚げるだけだ」
「はい」
愛姫は、無事に大きめのニジマスを釣り上げた。
「大丈夫そうだな。俺達も試しに釣ろう」
光輝達も釣りを始め、一時間ほどで魚籠に一杯になるほどニジマス、イワナ、ヤマメなどが釣れた。
釣れた魚は早速塩焼きにされたり、持ち帰るために釣り場の職員が味噌漬けなどに加工してくれた。
燻製や焼き干しへの加工も行われるが、これはさすがに釣った魚を加工していたら時間が間に合わないので、完成品と交換という事にしている。
「これだけ釣れば十分だな」
釣った魚は塩焼きなどに調理され、追加料金で魚料理以外にも食事が出てくるので、みんなでバーベキューをして楽しんだ。
「でも、やっぱり兄貴が一番釣れないのな」
「そっ、そんな事はないし……」
「えーーー、そうじゃん。愛ちゃんが一番釣っていたのと違う?」
清輝の言っている事は、事実であった。
気合を入れて自前の釣り道具まで準備した光輝が一番釣れず、釣り場で借りた竿で釣っていた愛姫が一番釣れていた。
しかも、大物を連発している。
管理釣り場なので清輝達も特に苦労もなく大量に釣れ、ここまでくると光輝の釣り下手はある意味伝説であろう。
「大殿様が、一番ヤマメを釣りましたね」
「そうそう、愛ちゃんの言う通り」
ヤマメは警戒感が強く、なかなか釣れない。
愛姫は、それを一番多く釣った光輝を褒めた。
「(愛ちゃん、優しいなぁ……)」
ただし、たまたま光輝が愛姫よりも一匹多く釣った程度でしかない。
それに養殖されたヤマメなので、自然のものよりも警戒感が薄くて簡単に釣れてしまうという現実もあった。
「とにかくだ。こういう場所をこれから徐々に増やしていくのさ」
「素晴らしいお考えですね、大殿様」
「そうだろう? だからもっと釣り場を増やすのさ」
津田家が始めたマス釣り場経営は、後世、民間に経営権が譲渡されてからも続き、多くの客を楽しませる事になるのであった。
「なるほどの、管理釣り場とは面白いものよな」
この日は共に石山城にいた信長と光輝は、一緒に夕食を取りながら話をしていた。
話題に出た管理釣り場で加工してもらったニジマスの味噌漬け、ヤマメの焼き干しを材料にしたスープ、燻製などが食卓に上り、信長は美味しそうに食べている。
「養殖した魚を放っておけば、確かにボウズは免れるであろうな」
「たまに来て釣るような層にはちょうどいいのですよ」
釣りは釣れないと面白くないので、釣り堀りも悪くはないと光輝が言う。
「我も若い頃は、ちょくちょく釣りをしたものだ」
若い頃、傾き者のいでたちで若い近習達と尾張中を遊びまわっていた信長は、腹が空くと魚を釣ってから焼いて食べたものだと、思い出に浸りながら話をする。
「もっとも、鮒やハヤだからこの山女魚ほど美味しくはなかったがな。思ったように釣れない時もあって、近くいた農民から売ってもらった事もあった。どういうわけか、焼いても生臭い時があったな」
「それは、獲ってすぐに内臓抜かないからですよ。あとは、焼く前に塩を振って少し置くと、水分と一緒に魚の臭みが抜けるのです」
「ミツの料理への詳しさは相変わらずだな」
信長は、光輝の料理への深い知識を再確認する。
最近、息子信忠が重用している細川幽斎も料理には詳しいと聞くが、それ以上であろうと思っていた。
前に信長は、一度彼が作らせた料理をご馳走になった事がある。
確かに美味しいと思ったが、上品すぎて信長には合わなかった。
光輝も上品な料理を出す事が多いが、上手く工夫されていて濃い味が好きな信長にも合う味になっていたのだ。
「今日の料理は美味いが、やはり釣りたてを塩焼きにして食べたいものだな」
「ヤマメですと、摂津にも釣れる川があるはずです」
「では、時間を作って行こうではないか」
信長の提案により、二人は忙しい時間を縫ってヤマメ釣りに出かけた。
摂津にも河川があり、その上流の渓谷ではヤマメが釣れる川があるからだ。
ただし、かなり上流で水が冷たくないとヤマメは生きていけない。
ヤマメの日本における主な生息地は、東北と蝦夷であった。
「定期的に釣りに行こうと考えると、道の整備が必要だな」
信長は、到着した渓流で汗を拭いながら光輝に話しかける。
この時代の山道なのでほとんど整備されておらず、一行は地元の猟師が案内する釣り場まで到着するのに汗まみれになってしまった。
「ミツ、偉くなるのも考えものだな」
「そうですね。二人で釣りをと言っても、それで済ませられない事情がありますし」
信長と光輝二人の釣行とは言っているが、勿論それで済むはずがない。
現在の日の本のナンバー1とナンバー2が揃っているので、多くの護衛がついていた。
「我は年を取った。昔なら、この程度の移動であまり疲れなかったがな」
「四十をすぎると、体の衰えを実感できますよ」
「であるな。お蘭! 道具の準備だ!」
「ははっ!」
光輝は持参した釣り道具の準備を自分で行うが、信長がそんな事をするはずがない。
側近衆で今回の釣行に同行している森成利に道具の準備を命じた。
彼は事前に購入しておいた釣竿に、仕掛けと餌をつけてから信長へと渡す。
このくらいは自然に対応できるのが、森成利という男であった。
「いい道具ではあるが……ミツ、お前のには負けるな」
「どうでしょうか? これは江戸にいる職人に頼んで作らせたものですが」
釣り好きな光輝のために、江戸では釣り道具を作る職人は保護され、その結果多くの釣り道具が売られるようになっていた。
さすがに、ナイロンやカーボン製の釣り道具は津田一族が使っているだけであったが、入手可能な代替材料で進んだ原理の釣り道具が作られて領外に輸出もされている。
他にも、漁具などは津田領の物が最良とされて人気があった。
「穂先の素材は、クジラのひげですよ」
津田領では捕鯨が始まったので、クジラのヒゲが手に入るようになっている。
釣竿の穂先の素材としては最高級品であった。
「なるほどな」
「俺は釣り具には拘るんです」
高価な材料で、オーダーメイドで釣竿を作ってもらう。
光輝が、大名になってよかったと一番実感する瞬間であった。
「しかし、釣りは腕前が一番よ。どちらが多く釣るか競争だな」
「はい」
信長と光輝は釣り勝負を始める。
「いきなり釣れた!」
今回は珍しく、光輝にも釣りの神様が降臨しているようだ。
第一投目から、大きめのヤマメが釣れた。
「やるではないか。我も釣れたぞ!」
光輝は、取り込み、餌つけなど全部自分でやったが、信長は常に傍にいる成利が釣れたヤマメを外し、新しい餌をつけていた。
いかにも殿様釣りであったが、信長は久しぶりに子供のようにはしゃいで釣りをしている。
「大物だ!」
「これは大きめだな!」
暫く二人は釣りを楽しみ、釣果も競うように増していく。
地元の猟師が恩賞目当てで穴場を紹介してくれたようで、入れ食いの状態が続いた。
「さあ、どっちが多く釣れたか」
時間切れとなり、二人は魚籠に大量に入ったヤマメを数え始めた。
ほぼ同数に見えたが、結果はわずか一匹の差で信長の勝利であった。
「まだまだ精進が足りぬの、ミツ」
「大物は、俺の勝ちですよ」
「そうか? 一番の大物も我ではないか」
釣ったヤマメは、光輝が連れてきた料理人が内臓を抜き、串に刺してから塩を振り、たき火の傍に刺して焼き始めた。
食べない分も、燻製と焼き干しに加工をし始めている。
「沢山釣れてよかったですね」
「そうよな、おおっ! 釣りたて焼きたては美味いの」
「炊き込みご飯も美味しいですね」
「普段は酒は飲まぬが、炙った頭を入れた酒は美味いな」
信長と光輝はヤマメ料理を堪能し、燻製と焼き干しを嬉しそうに持ち帰る。
こうして二人は、久しぶりに充実した休日を送るのであった。
「ミツ! 釣りに行くぞ!」
釣りから一週間後、光輝が津田屋敷で釣り道具の手入れをしていると、そこに信長が飛び込んでくる。
「えっ? 一週間前に行ったばかりでは?」
「それがな、お濃達が持ち帰ったヤマメの燻製と焼き干しをみんな食べてしまったのだ。保存食なのに、なぜこうもなくなるのが早いのか?」
光輝は、あれだけ奥さんや子供がいればなくなるのも早いなと納得してしまう。
光輝自身も娘や孫達に送ってしまい、燻製と焼き干しの在庫は既にほとんどなかった。
「ミツ、釣りに行くぞ」
「いやあ、予定が組めますかね? 俺はいいですけど……」
光輝の懸念通り、信長は日程が取れずに釣りに行けなかった。
そこで、なぜか光輝が代わりにヤマメ釣りに出かける羽目になってしまう。
殿様命令で、ヤマメの調達を頼まれたというわけだ。
常識的に考えて織田政権ナンバー2に頼む仕事ではないが、光輝は仕事で釣りができると喜んでいた。
周囲が勝手に色々と噂をしているが、光輝はそんなものは気にしないで先日と同じ場所に釣りに出かけている。
「好きだからいいけどねぇ……成利殿、調子の方は?」
「順調です、津田殿の釣竿はアタリが取りやすいですね」
「上手だな、成利殿は……」
信長の代わりに成利が光輝に同行し、彼が確保したヤマメを材料に再び燻製と焼き干しが作られるのであった。