挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
銭(インチキ)の力で、戦国の世を駆け抜ける。(本編完結) 作者:Y.A
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

108/156

第六十四話 天下は夢か?

「上様、津田家の力が大きすぎませぬか?」

「しかし、叔父上は常に織田家に忠実であった。今も忠実だ。波風立てるのは感心せぬぞ」

 岐阜城において織田幕府の政務を執る信忠は、ある人物と話をしていた。
 その人物とは、以前は足利義昭の重臣として活躍しつつ、実は密かに信長に情報を流していた細川藤孝であった。

 義昭が将軍を辞して再び出家した後、彼も隠居して幽斎を名乗り息子忠興に家督を譲っていたが、剣術等の武芸百般、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、古今伝授の伝承者である彼は信忠のよい相談相手になっている。

 間諜のような役割をしていたので信長からはさほど重用されなかったが、信忠は彼をいつも傍に置いた。
 嫡男忠興の名も信忠からもらっており、表立っての功績はさほどないのに細川家は丹後一国を与えられている。

 名門細川家の出とはいえ彼は傍流であり、普通ここまで優遇されるのは珍しい。
 それだけ幽斎が信忠に信用されているという証拠だが、唯一幽斎の助言を聞かない件があった。

 それは、津田光輝への対応である。

 幽斎は光輝を嫌っている。 
 能力はあると認めているが、彼は無教養で、生まれもわからぬ下賤の身で、何より自分を嫌っている。

 光輝が幽斎を嫌いなのは、義昭の威を借る狐だと思っていたからだ。
 能力はあるが、それを傘に着て今まで自分に対応してきたと思っている。
 とはいえ、別に排除など考えていない。

 自分とは距離を置いて、その能力を活かせばいいと思っていた。
 だから、幽斎が信忠に重用されるようになっても光輝は何とも思わなかった。

 幽斎からすれば、それが気に入らない。
 光輝は織田家の一門衆扱いとなり、信長からの信頼も厚い。
 信忠も叔父として敬意を払って接しているし、光輝もそれに応えている。

 共に信忠から重用されているのに、その仲が悪い。
 当代きっての教養人である幽斎は、このままではよくないと考えて光輝を色々な催しに誘ってみた。
 だが光輝は、和歌と連歌は駄目、蹴鞠も苦手、能や舞にも興味なし、茶道も名器を大量に保持している癖にいい加減、将棋は下手、囲碁も覚えようとしないし、料理くらいであろう。
 明や南蛮の料理まで取り入れ相当に気合を入れており、これだけは勝てないと幽斎は認めていた。

 幽斎からすれば、自分の助けで光輝が多少の教養を身に付ければいいと思っていたのだ。
 ところが、光輝の方からそれを拒絶した。
 彼はそれらの教養を、嫌ったり蔑ろにしているわけではない。
 領内でも推奨し、担い手には援助まで出している。

 自分は嗜まないが、普及には理解のある態度を示していた。
 一国を有する自分にでも出来ない懐の広さだ。
 文化、芸術への理解者、これが世間での光輝への評価であったが、それが幽斎には気に入らない。

 幽斎には、もう一つ許せない事があった。
 それは、津田領において新しく発信されている文化と称する下種なものの存在だ。

 津田領内発で、彼の弟である清輝とその妻が奇妙な絵や物語を書いた本を出版し、それが庶民どころか一部武士や公家にも好評なのも気に入らなかった。
 一度入手して見た事があるが、あのような下賤な物を世間に普及させるとはと、怒りのあまりに幽斎は本を破り捨てた事がある。

 関東と東北に、蝦夷、樺太、南方の領地経営も委任されている織田家でナンバー2の存在、いやほぼ同盟相手といっても過言ではない力を持っている。

 だから幽斎は、信忠に津田家の排除を進言するのだ。
 讒言と思う者もいるであろうが、織田幕府の将来を考えると津田家の力を落とす必要がある。

 いくら外地の統治に労力を奪われているとはいえ、いつか織田家に取って替わるのではないかと思っていたのだ。

「朝鮮の状況を知っていよう? 叔父上はその何倍もの外地を抱えて大変なのだ」

 信忠は、津田家が管理している外地に魅力を感じていなかった。
 それよりも、国内の開発を優先的におこなって国力を増すべきであろうと。
 優等生で能力もある信忠であったが、彼は父信長ほど革新的ではない。
 手堅い信忠は、今は日の本国内の開発に傾注すべきだと考えていた。

 外地の産物は、交易で得ればいいのだと。

「それよりも、朝鮮の方は何とかならんのか?」

 もう、何年も兵を出したままだからだ。
 出兵している大名達もそうだが、織田家の財政に大きなダメージがあった。
 信忠は、本当は岐阜ではなく那古野城付近を大々的に開発してそこに本拠を置きたかったが、財政的にそれが出来ずにいる。

 幕府が成立したのに、信忠の本拠地はいまだ定まっていなかった。
 織田家の家督を継いだ時に与えられた岐阜、信長が建設した石山、二条城を行ったり来たりしている。
 本拠地が定まらない征夷大将軍なのだが、石山には織田信長という絶対権力者がいるのでその状況でも何とかなってしまう。

 それでも、さすがにそろそろ新しい拠点をと思って那古野の開発を進めたいのだが、これは予算不足で測量しか行っていない。
 だから信忠としては、いい加減朝鮮の戦を止めてほしいのだ。

「那古野周辺の開発がおこなわれれば、織田家にどれだけの利益があるか。外征で領地を増やすのもいいが、朝鮮だけでこれでは明制圧など不可能であろう。天竺に至っては言うまでもない」

「大殿にとっては、朝鮮は鶏肋ですな」

「そうだな……」

 古代中国三国志の逸話だ。
 鶏の肋骨は、出汁は取れるが食べる場所がない。
 そういえば、曹操が口にした鶏肋という言葉の真意を悟って勝手に動いた楊修は処刑された。

 誰も朝鮮からの撤兵を口に出来ないのは、第二の楊修として信長の勘気を賜るのが嫌だからであろう。

「あの叔父上ですら、父には何も言わぬからな」

「そうですな……」

 津田光輝の態度は正しいと、幽斎は思っている。
 将軍である信忠を差し置いて光輝が信長に意見をし、それで両者が揉めてしまえば織田政権に大打撃となってしまうからだ。

 それはわかるのだが、やはり幽斎は光輝が大嫌いであった。
 だから、どうにか津田家の力を落とそうと画策したりもしている。

「父も講和交渉はしているから、それが上手く纏まるのを祈るしかないな」

「はい……(大殿に何かあれば……、それが契機となるか……)」

 決して口には出さないが、幽斎を含めたみんながそう思っているかもしれない。
 そしてもしそうなれば、今の政情に何か変化が起こるであろうと。

「(情勢によっては、我ら細川家にも機会が……)」

 津田家に代わって、細川家が織田家を支える家になれるやもしれない。
 そう考えた幽斎は、もう暫く待つ事を決意するのであった。





「ミツ、出かけるぞ」

「はい?」

「たまには、二人きりで出かけるのも楽しいものだぞ」

「はあ……」

 石山の屋敷で書状の整理をしていた光輝は、突然信長から外出に誘われた。
 光輝は『仕事中なんだがな……』と思ったが、信長の殿様気質は相変わらずである。
 断るわけにもいかず、『書状の整理はあとでいいか』と思いながら信長について行く。

「大殿、今日は成利殿がいませんね」

「準備をさせておる」

「準備ですか?」

 信長は、光輝を石山の城下町にある一軒の居酒屋へと案内した。
 酒と料理の質もそれほどでもない、庶民向けのいわゆる場末のお店というやつだ。

「大殿にしては珍しい選択ですね」

「こういう店の方が、外の目を気にせずに静かに話せるからな」

 店に入ると中は貸し切り状態であり、唯一森成利が給仕役として中にいた。
 他にも、外から聞き耳を立てる者がいないか監視役を担当するようだ。
 勿論一人では無理なので、成利は口が堅い自分の家臣達を外にも配置していた。

「今日は料理は普通だが、それが主役ではないからな。お蘭がいるが、決してこの話の内容を漏らす事はない」

 信長が成利に視線を送ると、彼は一礼してから料理と酒を出した。
 貸し切った店の料理ではなく成利が手配したものだが、それほどのご馳走というわけでもない。
 どこにでもある普通の酒の肴に、酒も酒精分が低い濁り酒だ。
 織田領でも一部で清酒が出回っていたが、主に飲まれているのはこのような濁り酒であった。

「まずは乾杯といくか」

「はい。何に対して乾杯としましょうか?」

「互いに今も生きている事にしておくか」

 光輝と信長は乾杯をしてから、酒をチビチビ飲みながらツマミを食べ始める。
 酒よりもツマミが優先なのは、信長が下戸で、光輝もさほど酒が好きではないからだ。

「ミツ、相変わらず酒は苦手か?」

「飲もうと思えばいくらでも飲めるのですが、それなら美味しい物を沢山食べた方がいいかなと思うのですよ」

 酒には弱くないが、あまり好きでもない。
 だから光輝は、普段はあまり酒を飲まなかった。

「我は、結局下戸のままであったな。相変わらずあまり飲めぬよ」

「急に酒が飲めるようになっても、奥方様が色々とうるさいのでは? うちも、今日子に絶対に言われると思いますし」

「今日子ならば言いそうだな。うちのお濃も怖いが、今日子はもっと怖いからな。我や謙信坊主に、あそこまで言える女子はおらぬであろう」

 健康のためとはいえ、自分と越後の龍に注意できる女は今日子だけだと、信長は笑いながら語る。

「共に怖い奥がいて大変だな」

「お濃の方様は、大殿の健康に注意していらっしゃるのですよ」

「ミツ、相手が他人だと、奥がなぜ怖いのかが冷静に理解できるものだな」

「大殿、それは所詮他人だからです。俺はお濃の方様は怖くないですし」

「それはそうだ」

 二人は笑いながら酒をチビチビと飲み、料理を食べ続けた。

「それにしても、朝鮮は失敗であったな」

 信長は、素直に朝鮮出兵が誤りであった事を認めた。
 勿論公式には言えず、光輝と二人きりだから言えた事だ。

「ミツ、なぜ公の席で我に反対しなかった? お前なら言っても問題なかったかもしれぬぞ」

 信長は、別に光輝を責めているわけではない。
 純粋に、なぜ光輝が朝鮮出兵に反対しなかったのか知りたかったのだ。

「そうですね……反対するのは意外と難しくはないのですよ。ですが、それで今の統治体制に亀裂が走るのはどうかと……」

 せっかく織田家によって天下が統一されたのに、それを壊してしまっていいのかと光輝は考えてしまったのだ。

「俺が朝鮮出兵に異議を唱えると、最悪織田家と津田家が戦になるかもしれません」

「それはあるな。我がそう思わなくても、家臣や一族には違う考えの者が多い。それにしても、ミツは天下統一に拘るのだな」

「はい、内々で争っている場合じゃないですからね」

 南蛮の国々は、続々と世界各地に出かけて交易や殖民を行っている。
 その手法は強引で残酷であり、彼らの力に屈すれば植民地とされて搾取されるだけだ。
 光輝は南米、アフリカ、一部アジアの状況を信長に説明し、一刻も早く日の本が一丸となって他の国に対処していかなければいけないのだと説明した。

「日の本を統一したら、今度は世界で戦国乱世です。勿論、戦ばかりしているわけにもいきません。ですが、相手が攻めてきたら圧倒するくらいの力がないと、この国も南蛮の植民地になる可能性があります」

「この国が、南蛮人の植民地となる?」

「硝石に景気よく金を支払う国ですからね。隙を見せれば、植民地化を試みるかもしれません。宣教師の布教活動も、その際に信徒達を内応させるためでもありますから」

 神が南蛮の軍勢に味方をしろと、宣教師が扇動する。
 もし兵のみならず将にキリシタンがいた場合、思わぬ裏切りを食らって防衛軍が壊滅する恐れもあった。

「ですから、一刻も早く日の本の統治体勢を整えませんと。織田政権が続いていけば、これらの問題には十分に対応可能なのですから」

「ミツ、お前は日の本の統治体制が整えば、それが誰の主導でも構わないと思うのだな?」

「そうですね」

 津田光輝は天下には野心がない。
 信長は、光輝が嘘をついているようには見えなかった。
 そして自分よりも圧倒的に、光輝がこれからの国家観を詳細に描いている事も理解してしまう。

「ミツ、朝鮮から兵を退けたとして、これからどうする?」

「朝鮮、明、天竺には拘りません。他に人があまり住んでいなくて、いくらでも殖民可能な土地はありますから。日の本を広げて国力を増し、南蛮や他の外国に対抗していけばいい」

「無理に歴史の長さに自信を持つ朝鮮や明を支配しようとしても、それは連中を怒らせるだけ。その労力を他に向ければいいわけだな」

「はい」

 信長は、光輝の意見に納得してから軽く首を縦に振った。

「朝鮮から手を引いたらそうしよう。ただ、交渉は難儀だがな。ところで、ミツに一つ聞きたい事があってな」

「はい、何でしょうか?」

「お前達は何者なのだ?」

 二人きりで半ば無礼講の席であったので、信長はこれがいい機会だと光輝の正体を訪ねた。
 南蛮まで行って活躍していた商人、間違ってはいないと思うが、絶対にそれだけではないと信長は気がついていたのだ。

「そうですね……説明が難しいのですが……大殿は、この世界の外がどうなっていると思いますか?」

「宣教師どもが地球儀なるものを献上してくれた事があったな。連中は、世界が丸いと言っておった」

 地球は丸い、その話を宣教師から聞いてすぐに理解できたのは、この日の本では信長だけであった。
 光輝達は学校で習ったので、最初から知っているだけだ。

「その丸い世界を纏めて地球と言います。そして、地球の周りにも、大量の地球に似た丸いものがあるのです。それを惑星と言います」

「その惑星にも人が住んでおるのか?」

「いいえ、大半が人も住めない惑星ばかりです。極一部に人が住める環境の惑星はあります」

 光輝達がいた未来において人類が銀河系へと殖民に旅立ったが、地球が他の惑星や生物はいても、宇宙人と呼ばれるような存在は結局見つからなかった。
 銀河系に住む人類は、すべて地球人類の子孫だったのだ。

 この世界の宇宙に宇宙人がいるのかはわからないが、カナガワが飛び立てない以上はそれを確認する術がなかった。

「今度は、その人が住める惑星に日の本から殖民に旅立つわけか」

「まあ、俺達が死んでかなり長い時間が経たないと不可能ですけどね」

「そうよな、この世界の外に旅立つ方法など我はわからぬからな」

 飛行機すら実用化されていないこの時代では、いくら信長でも宇宙船は想像できなかった。

「つまり、ミツ達は迷子なのだな?」

「漂流者とも言います」

 信長は、光輝達の正体を理解した。
 そして、今までの対応が間違っていなかった事もだ。
 もし津田家の富と技術と力を奪おうとしていたら、自分は天下を取るところか、今までに滅ぼされた各勢力の後を追っていたであろうと。

「(これは、人には言えぬな)」

 信長は、光輝が自分は他人に漏らさないと信じてその正体を教えてくれたのだとは思っている。
 だが、その前に話が荒唐無稽すぎて、もし正直に話をしても嘘つきか、気が触れたとしか思われないから話さないのであろうとも理解した。 

「戻れるあてもなく、今はこうして生活のために頑張っておりますが」

「生活のために武士となったか。権六辺りが聞けば、激怒するやもしれぬな」

「大殿、我々は商人でもよかったのですよ。それを大殿が気まぐれで武士にしてしまうから」

「そうだったな。我もミツ達と同じか」

 信長は、信忠にも言えないなと思った。
 まず信じてもらえないし、信じた結果、織田幕府が津田家の排除に乗り出そうとすれば逆撃されて天下を失ってしまうからだ。
 信忠の手堅い手腕を見るに、彼がこのまま津田家を一門衆兼実質的な筆頭宿老として扱ってくれる事を祈るしかなかった。

「(随分と順調に天下を統一ができたと思えば……信忠や三法師が、いらぬ判断をしない事を祈るしかないな)この話はこれで終わりだ。お蘭は口が堅いから、今の話が我とミツ以外に漏れる心配はない。さて、飲もうか」

 そのあとは、大して重要でもない世間話をして時間をすごした。

「ミツ、お蘭はこう見えて、食べる物に禁忌が少ないからな。カエルでも、ヘビでも調理して食べてしまうのだ」

 信長は、給仕役をしている成利が顔に似合わず悪食であるという話をした。

「ヘビは蒲焼きに、カエルは足の部分をから揚げにすると美味しいですね。味は鶏肉に似ています」

「ミツはもっと凄いな。我も尾張を駆け回っていた頃は、川で魚を獲って食べたりしていたが勝てぬ」

「成利殿の領地がある信濃ですと、ゲンゴロウとか、ザザムシとか、イナゴ、糸を取った蚕の蛹も栄養価は高いですね」

 虫なので食べる際に生理的な抵抗感があるが、信濃では沢山採れる昆虫なので、既に一部では食べている地元の住民がいるはずだと説明する。

「佃煮にすると長持ちしますよ。名産品としては……珍味として売れるのかな?」

「お蘭、ミツは何でも食べてしまいそうだな」

「禁忌がなく手を出せるからこその、今までの成果なのだと思います」

「確かに、お蘭の言うとおりだ」

 信長と光輝は楽しい時間をすごし、成利は死ぬまでこの時の会話内容を外に漏らさなかった。
 日記などにも残さず、後世、二人が成利の仕切りで秘密の宴会を開いたらしいという事実は伝わったが、そこで話された内容は永遠の謎となってしまうのであった。






「(大殿、どうして急にあんな宴会を開いたのかな?)今日子、大殿って、どこか悪い所とかあるのかな?」

「えっ? 年相応だと思うよ。謙信殿ほど節制していないから、たまにちょっと注意する程度?」

「今日子のちょっとは怖い」

「みっちゃんも、そろそろ気をつけないと」

「藪蛇だった……」

 あの二人きりの宴会から数日後、光輝は今日子にも宴会での話の内容は話していなかった。
 ただ、なぜ急に信長がそんな事をしたのかが気になり、もしかすると体の具合でも悪いのではないかと、信長の主治医である今日子に聞いてみたのだ。

「俺は、気をつけているよ」

「私がいない時に、間食のポテトチップ!」

「うっ!」

「アイスクリーム!」

「うっ!」

「夜中のインスタントラーメン!」

「うっ!」

「回数を減らすように」

「わかりました」

 光輝にとっても、今日子は怖い主治医である。
 どうせ勝ち目もないので、光輝は彼女の言う事を素直に聞く。
 『夫が妻を立ててこそ、夫婦は上手くいく』と家族や周囲に語っているのだが、誰もそうは思っておらず、光輝が今日子の尻に敷かれているだけだと思われていた。

「大殿、具合でも悪いのかな?」

「いや、そういう風には見えなかったけど……」

 やはり気のせいかと光輝が思ったその時、二人の元に石山城からの使いが大慌てて飛び込んできた。

「大変です! 大殿が倒れました!」

「何だと!」

 まさかの信長が倒れたという報に、光輝は思わず大声をあげてしまう。
 一瞬、もしかすると急にあのような席を持ったのは、信長が自分の死期を悟っていたのではないかと考えてしまったからだ。

「津田様と奥方様は、急ぎ石山へ」

「わかった、今日子も急げ」

「そうだね」

 光輝と、診察と治療に必要な道具を持った今日子は、急ぎ石山城へと向かう。




「(好機は思ったよりも早くきたな)」

 結局、幽斎が待った時間はさほどでもなかった。
 倒れた信長の傍に控える信忠の横で、幽斎は自分にもチャンスがきたと心の中でほくそ笑んでいる。

 天正十八年の秋、いつものように朝起きて床を出ようとした信長は、脳溢血を起こして倒れた。
 急ぎ駆けつけた今日子が処置をしたが、その病状は思わしくない。

 信長は目を覚まさず、昏睡状況が続いた。

「今日子、父は目を覚ますのか?」

「難しいと思います」

 薬を投与してみたが、症状が緩和したとは思えない。
 出血した箇所が相当に悪いようだ。
 状況は楽観できないと、今日子は信忠に説明した。

「ふんっ! 女子の分際で医者を名乗るからだ! とんだ藪ではないか!」

 治療中の今日子に、たまたま石山の近くにいて駆けつけた柴田勝家が大声で文句を言う。
 勝家からすれば、信長にとって一番忠実な家臣は自分だという自負がある。
 それなのに、先に光輝夫妻が石山に詰め、更に信長の治療を今日子が担当しているという事実が気に入らない。

 信長が目を覚まさない以上は、今日子の今までの評判など当てにならないと勝家は彼女を非難したのだ。

「権六殿、よしなされ」

「騙されるなよ、五郎左。お前の病気とて、簡単に治るものを大げさにしただけなのだから」

 勝家の光輝嫌いは、津田家全体に及んでいた。
 長秀に、今日子がした手術はインキチだと言ってしまう。
 勝家自体は今に至っても健康で、今日子の世話になった事がないのも大きい。
 医術にも詳しくないので、信長を救えなさそうな彼女を非難したのだ。

「いい加減になされよ。私の胃の病は曲直瀬玄朔も匙を投げたもの。今日子殿の医者の腕前は確かなものだ」

「ふんっ! 五郎左ともあろう者が!」

 悪態をつき続ける勝家に、長秀はこれで縁は切れたなと思った。
 七十を過ぎて偏屈な老人となってしまい、もう付き合いきれないと感じたからだ。

「(早くに隠居して正解か……)とにかくも、大殿の御前である。静かになされよ」

 長老格である長秀の一言で全員が口を噤んだところで、信長は目を覚ました。
 今日子はまさか目を覚ますまいと思っていたので、信長の気力に驚くばかりだ。

「我……は……倒れた……のか……」

「はい、卒中です」

 出血した場所が悪いようで、信長の言葉は途切れ途切れであった。 
 それでも喋れるだけ奇跡だと、医者である今日子は感じていた。

「最近……今日子の……節制命令を……少し破っておったからの……あの軍神ほど……徹底せなんだは……油断だな……」

 同じく今日子から健康指導を受けていた信長と謙信であったが、信長は守ったり守らなかったりで、謙信ほど徹底的に守っていなかった。
 信長は、謙信ほど家の将来に危機感を抱いていなかったのであろう。
 朝鮮での失敗もあり、あとは信忠に任せてもいいと思ったのかもしれない。

 人生を楽しむ方を優先して、病に倒れてしまったのかもしれないと光輝は思っている。

「謙信坊主と……違って……我は……下戸なのにな……」

「謙信殿は、もうお酒は一滴も飲んでいません。大殿は、もう少し塩分の摂取を控えませんと」

「次からは……気をつけよう……我が……これから生きるか死ぬかは……不明だが……」

 倒れても普段の冷静さを失わない信長は、最初に信忠を呼び寄せた。

「あとは……そなたの……好きにせい……もし……助かっても……我は……石山を出る……」

 朝鮮派遣軍の件は信忠に任せる、織田幕府の本拠地については石山の方が相応しいであろうと暗に信忠に勧めていた。 
 もし那古野を開発するにしても、それは織田幕府の体制を整えてからの方がいいと。

「朝鮮で……躓くとはな……」

 国内での戦いとは違って、他の民族を治めるという難しさを信長は実感した。
 諦めずに兵を現地に残し続けたが、朝鮮と明の抵抗が激しく、占領した朝鮮の安定にはほど遠く、これ以上補給線を伸ばせなかった。

 今までに経験した事のない挫折と病が、信長の気を弱くしているようだ。
 常人ではあり得ない気力で次々と集まった者達に声をかけていき、一番最後に声をかけたのは光輝と今日子であった。

「ミツ……今日子……信忠を頼むぞ……」

「「ははっ、お任せを」」

 信長は、光輝にはそれしか言わなかった。
 光輝と今日子はそのままの意に受け取ったが、信長は違う。

「(信忠……決して……ミツを……敵に……回すなよ……)」

 信長は、長い付き合いで光輝をある程度理解した。
 自分の居場所と家族の安全が第一で、だから自分の無茶な命令を全てこなして大領地を築いた。
 関東に移る際に、簡単に苦労して平定、開発した尾張の一部、伊勢、伊賀、紀伊を手放した件でも明らかだ。

 だから、光輝は自分からは織田家を裏切るような真似をしない。
 だが、もし自分達に危険が迫れば、対一向衆戦のように容赦せず敵を粉砕するであろうと。

 信長は、自分の朝鮮、明、天竺平定作戦を失敗であったと今は認めている。
 光輝は反対はしなかったが、関東と東北に、抑えた外地の統治で大変であろうと朝鮮への出兵を免除した。

 朝鮮はともかく、明のような先進地ではなく蛮族が住む過疎地で津田家は持ち出しばかり。 
 実際に金の流れを見ると、津田家は外地経営を領地開発と交易の利益で補っている。

「(だが……)」

 信長は思うのだ。 
 今は未開の過疎地でも、開発が進めば津田家にとって大きな力になるのではないか。
 そしていつの日か、津田家が織田家を圧倒する日が来るのではないかと。

「(信房が……おるか……)」

 信長の五男である信房は光輝の娘婿であり、出羽の大部分を光輝の助けを得て上手く治めている。
 もし何かあれば、信房は津田家につく。
 そうなれば、最悪織田家の滅亡は避けられよう。

「(天下は……取れたのだ……満足すべき……であるか……)少し疲れた……」

 その一言を最後に、信長はまた意識を失った。
 再び今日子が診察と治療を始めるが、限られた薬剤と治療方法では限度があった。
 まさかこの場に、カナガワの最新医療機器を持ち込むわけにもいかない。
 その前に、信長が一度目を醒まして遺言をした時点で奇跡であり、残念ながら今日子の見立てでも信長は救えなさそうだ。

「天下は……夢幻の如くなり……」

「父上!」

「「「「「大殿!」」」」」

 そして翌朝、信長は辞世の句は残さなかったが、最後に一言だけ呟いてから息を引き取った。
 乾坤一擲の桶狭間の戦いからちょうど三十年、天下人となった織田信長は五十七年の生涯を終えるのであった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ