第六十一.七五話 卵料理と桶狭間
「先代様、今日の朝食はいかがいたしましょうか?」
「いつものでいいよ」
「畏まりました」
今日も光輝は、石山にある津田屋敷にいた。
朝鮮派遣軍の件もあり、信長に呼ばれる事が多かったからだ。
「先代様かぁ……みっちゃんもお爺さんだね」
「この時代だと、そういう扱いかぁ……」
今の光輝は、信長と同じような立場にいた。
信長は、織田家の家督はとっくに信忠に譲っている。
だが、織田政権の最高責任者は彼のままであった。
なので信長は、『大殿』とか『上様』などと呼ばれる事が多い。
征夷大将軍である信忠も、『上様』だったり『殿』だったりと、人によって呼び方が違ったりする。
たかが呼び方であったが、呼び方が統一されていないのはまだ織田政権が安定していないからだと光輝は思っていた。
光輝も、津田家の家督は信輝に譲ってしまった。
津田領の最高責任者にして、度々石山城に顔を出して信長の相談役をする事が多くなっている。
滝川一益が亡くなってから、信長は彼の代わりに光輝に意見を求める事が多くなっていたのだ。
そのため、丹羽長秀と共に相談役としては双璧という扱いであった。
なお、筆頭宿老である柴田勝家はこの役を命じられていない。
信長は人の能力を見抜くのが上手いので、勝家に相談役など向かず、戦場であれば輝くという事をよく理解していたからだ。
だから、彼は朝鮮にいた。
話を戻すが、光輝は津田領の統治に関しては、信長以上に息子達に任せてしまっている。
信輝が弟の信秀と共に優秀で、清輝、信清、信行もいるので何も心配していなかったからだ。
そのため光輝も、『先代様』、『大殿』、いまだ『殿』と呼ぶ人もいて紛らわしかったりする。
「若いとは言わないけど、爺さんでもないような……」
「よっ! 中年の星!」
「よっ! 今日子も同じく中年の星!」
「それを口に出すなぁーーー!」
「ふみぃ!」
今日子が光輝の両頬を引っ張りながら遊んでいる。
夫婦は、この年齢になってもこのような感じでずっと仲がよかった。
「先代様、今日子様、朝食です」
二人で遊んでいる間に、朝食の御膳が出てきた。
メニューは、ご飯、大根の味噌汁、大根の煮物、焼き鮭、納豆、大根の葉の漬物……そして生卵であった。
この時代の衛生管理で生卵を食べるのは危険なので、勿論これはカナガワの艦内や江戸城近辺の養鶏場でも、特別な管理をして採卵したものばかりだ。
石山にいる光輝と今日子のために、温度管理を行ないながら生鮮食品を江戸から運ぶ快速船便が昨日運んできたものであった。
「みっちゃん、生卵は久しぶりだね」
「その辺で普通に手に入る卵は、ちゃんと火を通さないと危険だからなぁ……」
サルモネラ菌などが原因の食中毒になる危険があるので、光輝も今日子に言われて管理された卵以外は必ず完全に火を通してから食べる事にしていた。
実際に、よく火を通さないで卵を食べて食中毒になっている人がこの時代には多かったのだ。
他の食べ物でも、勿体ないからと傷んだ食べ物を食べて食中毒で死ぬという人も珍しくなかった。
津田領では今日子達が衛生指導をしてそういう人は減っていたが、まったくいないわけでもない。
昔からの風習だからといって、本来生食に向かないようなものを温度管理や適切な処置もしないで生食し、食中毒になったり死んだりする人が後を絶たなかった。
「これは、大丈夫な卵だからね」
「このくらいの特権は許されるよな」
「随分とセコイ特権だけどね」
「でも、生卵は重要でしょう」
光輝と今日子は、生卵を器に割ってから醤油を入れてよくかき回し、ご飯に投入した。
「卵を生で食べて大丈夫なのか?」
「はい、これは特別に管理された卵でって! 大殿?」
光輝が卵かけご飯を食べようとしたら聞きなれた声がしたので顔をあげると、そこには卵かけご飯を興味深そうに見つめる信長の姿があった。
「あの……何かご用件でも?」
「いや、特には。今はミツと今日子が石山にいるからな。何か珍しいものでも食べていないかと来てみれば、生卵を食べておる。大丈夫なのかと心配したまでだ」
「大丈夫ですけど……」
それよりも、信長も朝食の時間のはずなのに、ここに居て大丈夫なのかと光輝は心配になってしまう。
あの濃姫に怒られてしまうのではないかと、心配してしまったのだ。
「勿論、うちで特別に生産した卵以外では駄目ですよ」
「そうなのか……そうなのであろうな。ところで、ミツ、今日子、腹が減ったな」
ここで、朝食は二人分しかありませんと言えないのが封建主義というやつである。
光輝と今日子は、急ぎ信長の分と……今回もちゃっかりと森成利がご相伴に与っていた。
「これは美味いではないか! お替り!」
信長は、卵かけご飯の美味しさに感動してお替りを頼んでいた。
「特別な卵でないと駄目なのが辛いな……」
「死んでしまいますから」
今日子は信長に、生卵で発生する食中毒について説明する。
美味しいからと言って、ちゃんと管理した卵でないと生食は危険だと説いたのだ。
「特別な管理か……」
「はい」
鶏を厳選して清潔な鶏舎で数を少なく飼育し、特別な飼料を与え、採卵後には卵の洗浄を徹底している。
保存も温度管理を厳密に行い、必ず採卵日から一週間以内に食べる事を徹底している。
その期間がすぎたら、確実に火を通して食べるようにしていた。
「何というか……徹底しておるな……」
「そのくらいはしないと、卵の生食は危険ですからね」
未来だとそこまでの手間でもないものが、この時代だと物凄い手間になる。
費用もかかるので、津田領において生卵を食べられる機会は極端に少なかった。
家臣達の間では、生卵は高級品の扱いになっていた。
津田家が主催する食事会などでしか食べられないからだ。
「ミツ、その小さな卵は何だ?」
「烏骨鶏の卵ですね」
中国では霊鳥として扱われ、不老不死の食材と呼ばれた歴史がある鶏の一種だ。
皮膚、内臓、骨に到るまで黒色であり、栄養に優れて美味であった。
ただし、卵は一週間から十日に一度しか生まず、光輝がいた未来では一個五百新円ほどもした。
「そのような貴重な鶏なのか。して、どうやって明から?」
「そこは、蛇の道は蛇というわけでして」
世の中には、大金を積むと不可能でなくなる事案がある。
つまり、烏骨鶏を育てている者と、管理している明の役人を買収して密輸したというわけだ。
琉球の黒豚と同じ手法である。
「なるほどな。して、その味はどうかな」
光輝が密輸をしたくらいで、信長は何とも思っていなかった。
むしろ、明に打撃を与えているので喜んでいるくらいだ。
それよりも、早く烏骨鶏の卵を食べたい信長であった。
「成りは小さいが、烏骨鶏の卵かけご飯は美味いな!」
信長は烏骨鶏の卵を気に入り、当然の如く持ち帰る事になった。
今日子から加熱してから食べろと注意を受けたが、ここで持ち帰らないようでは逆に信長ではないと思えるようになった光輝と今日子は、慣れというものの恐ろしさを感じてしまう。
「津田様、奥様、ご馳走になりました」
「いつもお疲れ様です」
「いえ、大殿の傍にいられるのであればこれ以上の幸せはないと。津田様の傍におられる奥様も、同じだと私は思うのです」
「みっちゃん、成利様はいい事を言うね」
そして、常に信長の傍にあって何気に恩恵を受けている森成利。
だが、みんな普段からの主君信長への献身と苦労を知っているので、お裾分けをもらったくらいでは悪く思われなかった。
光輝は、少なくとも代わりたいとは思わない。
気が休まる暇がないと思うからだ。
「(やっぱり、イケメンは得だよなぁ……来世はイケメンに生まれたい)」
礼儀正しい成利は、今日子お気に入りの織田家若手家臣であった。
だが、そこにはイケメン補正がかなり混じっている事に、光輝は気がついてしまうのであった。
「さてと、そろそろ石山を発たねばならないのだが……」
数日後、光輝と今日子は江戸に戻る事になった。
最近はそんな生活ばかりなので慣れたが、慣れてくるとしなければいけない事があった。
それは、生鮮食品の在庫処分だ。
足りないと困るので屋敷にある冷蔵庫に多目に入れていたが、また戻ってくる日を計算すると、今の内に処分しておかなければいけない食材が出てくる。
これを今日の内に消費して、余れば石山在住の家臣達に配るとしても、勿体ないので早めに調理して処分する事にした。
『津田家初代の奥方とは思えない、節約主婦みたいですね』
『信輝、いくら金持ちになっても、偉くなっても、食べ物を粗末にしては駄目なのよ』
以前にその話を聞いて呆れた信輝に、今日子はそのように注意した。
美味しい物を食べられる事に感謝をし、食材の無駄は極力避けるべきだと。
「卵が多いな……」
「卵料理を作ろうか?」
「そうだな。俺も久しぶりに作ろう」
こうして夫婦二人で、冷蔵庫に入った食品の処分を行う事にした。
メインは卵料理であり、光輝も手伝って豪華な夕食が完成する。
「オムレツ、ポーチドエッグ、スコッチエッグ、茶碗蒸し、明石焼き、ハムエッグ、う巻き、親子丼、かに玉、カルボナーラ、かき玉汁……見事に卵尽くしだな」
「デザートには、プリンと甘くしてから焼いた厚焼き玉子があるよ」
「でも、作りすぎ?」
「かもしれないねぇ……」
テーブルの上に並ぶ沢山の卵料理であったが、その種類と量の多さにさすがに作りすぎたと二人は思ってしまう。
「余ったら、屋敷にいる人達にあげればいいか」
「今日子、安心せい。余らないからな」
「「大殿?」」
ここで再び、突然信長が姿を見せた。
津田屋敷の警備は厳重にしてあるが、まさか警備兵達も信長を入れないわけにもいかず、だから信長と蘭丸は突然現れるのだ。
「見よ、お蘭。我の言うとおりであろう?」
「さすがは大殿、大殿の卓見にお蘭は感服いたしました」
「あの、大殿?」
「気にするな、今日子。簡単な予想だ。お主ら夫婦は明日に石山を発つであろう? そうなると、屋敷にある足の早い食材の処分が行われる。お主らが作りすぎる事は予想済みで、となれば、我がご馳走になれば料理が無駄にならず、我も大満足する。一石二鳥の方策というわけだ」
信長の言い分は正しくはあったが、そこに光輝と今日子への遠慮というものは存在しない。
なぜなら、彼は生まれながらにして織田家の当主であり、殿様であるからだ。
究極のジャイニズムというわけだが、光輝と今日子は特に気にもしていない。
なぜなら、大した事ではないと思っているからだ。
「「(大殿、少しオバサンが入っている?)」」
信長の予測云々よりも、光輝と今日子は信長が飯をタカリくる構図が、お裾分けを狙う近所のオバサンのように感じてしまう。
「今日子とミツが作ったのか。美味そうではないか」
信長は、そのまま料理の前に座って食事を取り始める。
その横で、森成利も静かに礼儀正しく食事を始めていた。
成利は食事をしつつも、信長の茶碗にお茶がないと甲斐甲斐しく注ぎ足したり、信長の動きをじっと観察したりし続けている。
光輝は、自分には務まらない仕事だと感心した。
「卵の料理がこんなにあるとはな。うちの調理人にも作り方を教えてくれ」
「はい、あとで作り方を届けさせます」
「うむ、我の予想が的確に当たったの。桶狭間のようだ」
「はあ……(うちの食事が豪華になる日の予想と、起死回生の大勝利を同等にするってどうなんだろう?)」
信長の言いように、光輝はそう思わずにはいられなかった。
桶狭間の戦いは、光輝と今日子が尾張に姿を見せる前に行われたので又聞き程度にしか聞いた事がない。
光輝と清輝が、秀吉などから聞いた話を元にカナガワのコンピューターで戦術シミュレーションを走らせてみたが、どうやっても織田家側に勝利判定が出ず、なぜ織田家が勝てたのか不思議でしょうがなかったのだ。
『私でも……というか、近代的な軍事教育を受けた人からすると、ますます勝因が理解できないと思う』
正式な軍事教育を受けていた今日子などは、逆に分析をしようとも思わなかった。
どう計算しても、信長に神の恩寵でもなければ勝てなかった戦いだと理解していたからだ。
「二万対、二千五百ですからね……」
「公称四万であったが、あれは荷駄なども合わせてだからな。実戦部隊はそのくらいであろう」
世界ではもっと戦力差があっても勝てた人は多いが、都合よく敵の総大将を討てたケースは少ないので、信長はやはり物凄いというわけだ。
「我には、義元本陣の動きが手に取るように理解できたからの」
「凄いですね。さすがは、大殿」
「まあな」
あまり事情をよくは知らないが、信長が比類なき勝利をあげたのは事実である。
だから光輝は、何も考えずに信長を褒めた。
その表裏のない光輝の態度に、信長も悪い気がしない。
「(まあ、今川軍の先陣を木っ端微塵に打ち砕いて戦意を高揚しようとしたら、たまたまそこが義元の本陣だったのだがな……重臣連中や実務を担当する側近達も巻き込まれて大量に討ち死にしたから、今川家も仇討ちどころではなくなったわけだ)」
勿論信長は、その事実を墓の中まで持って行くつもりであった。
桶狭間の神懸り的な勝利のおかげで、今まで大分得をしてきたのだ。
真相を話して、その得てきたものを捨てるつもりはなかった。
信長も年を取り、昔の戦功に尾鰭がつくのが当たり前になっただけの事だ。
「ご馳走になったな」
予告どおりに、信長は成利と共にすべての料理を食べ尽した。
さすがに、デザートのプリンと甘い厚焼き卵はお土産にして持ち帰ったが、それにしても相変わらずの遠慮のなさである。
しかしながら、信長も学習していない部分はある。
それは、持ち帰ったお土産をあとで食べようとした点だ。
「この卵焼きは、お菓子のように甘くて美味しいですね」
「ぷりんというお菓子も最高ですね。濃姫様」
案の定、お腹が一杯になった信長が早めに就寝してから、デザート類はお濃の方や他の愛妾達によってすべて食べられてしまうのであった。
そして翌朝、光輝と今日子が石山出発前に最後の朝食を取っていると……。
「ミツ! 今日子! あの甘い厚焼き卵を焼いてくれ!」
再び、信長が成利と共に姿を見せた。
しかも、かなり切迫しているように見える。
「織田家の調理人じゃ駄目なのですか?」
「なぜか上手く仕上がらないのだ!」
厚焼き卵を上手く焼ける玉子焼き鍋は現在津田領にしかなく、信長は形が整っていない厚焼き卵が美味しくないと駄々をこねた。
仕方なしに再び今日子が焼いてあげる事になり、そのせいで一時間ほど出発が遅れてしまう二人であった。