アイドル・オブ・アローン2
つまるところ有名人とは、テレビに出たり雑誌に載ったり、少なくとも僕とは生きる次元の違う空想の生物のようなもの。……というのが、僕の有名人に対する前提だった。
だが僕は今、その次元を超えた邂逅を果たしていた。
これは一般人である僕のただの主観だ。しかしそういう主観に支配されるくらいには、彼女との出会いが気の置けない友達と会うようなものではないことを僕は理解していた。
「お久しぶりですね。最後に来たのいつでしたっけ」
「四月ね。久々に大きい仕事入ってたからあんまり来られなかったわ」
「じゃあもうお仕事は終わりですか?」
「さっきまで近くでちょっとしたのがあったからね。その帰りに寄ってみた」
「あ、あの」
そんな僕を尻目に旧知の友が近況報告し合うように淡々と話す二人を、僕は思わず止めた。
「き、綺羅めくるさん……ですよね?」
「うん」
「おぉ。百瀬さん、ももこちゃんのこと知ってたんですね。テレビに出てたの結構前なのに」
「一言多い。あと本名で呼ぶな」
「いや、そりゃ知ってますよ。綺羅めくるっていったら、テレビで見ない日はないくらいの大人気アイドルだったじゃないですか。CDなんて出せば一位常連で。僕も持ってましたよ」
「ほう……」
少し熱っぽく話してしまった僕に、綺羅めくるはまんざらでもなさそうな顔を向ける。
実のところ、僕はアイドルというジャンルを好む人間だったりする。そんな僕の前に現れた人物がまさかのそれで、しかも大物だなんて、体が浮遊感に包まれて落ち着かなかった。目の前にいる少女が、かつてこの国を席巻したという輝かしい経歴を持つ存在であることを、僕はまだ上手く掴めずにいた。
綺羅めくるは得意げに僕を見上げて、
「あんた見込みがあるわね。さてはあたしのファンでしょ?」
「ファン……というか、なんというか……」
「いいのよ正直に言っても。まあ昔ほど人気はないとはいえ、あたしもそれなりに実績を積んできたつもりだし」
「ファンではないです」
「オブラートに包め! 悪魔かあんたは!」
正直に言えって言ったのに。
ただ、口が上手く回らなかったのは事実だった。思ったままを、考えて練って加工することなく吐き出すしかなかった。
「まあまあ。百瀬さんは別にももこちゃんのことを嫌いとは言ってないですよ」
怒っているような、はたまた悲しんでいるような微妙な表情で僕を威嚇する綺羅めくるを、落木部さんが制してくれる。なんて素敵な助け舟だろう。永遠に揺られていたい。
落木部さんの言葉が効いたらしく、綺羅めくるは鼻で笑って、
「あー、なるほどなるほど。あんたあれね、アイドルだったら何でもいいやつね」
「いや、それはその、言い方が悪いというか……」
「でも間違いじゃないでしょ?」
「まあ……」
実際その通りだった。広く浅く慎ましやかに腹を満たしている。彼女を見て驚いたのも、彼女が殊更に有名だったからだ。
ふと、不安がよぎった。アイドル好きなんて、人気の普遍化と同時に群雄割拠の戦国時代に入った今でさえ虐げられやすいもの。数多のアンケートで「女性ウケが悪い趣味」の上位常連。そんな女性ウケの悪い僕を知ったら、ただでさえ進んでいない落木部さんとの関係が後退してしまうのではないか。
「おぉ、百瀬さんアイドル好きだったんですか?」
「え? ああ、まあ、はい。嗜む程度ですけど……」
僕の懸念は、落木部さんの質問であっさりと徒労に終わった。不快感を示すこともなく、むしろ妙に食いつきがいい。少し拍子抜けしたが、考えてみれば知人にアイドルがいるんだし、偏見とか嫌悪とかを心配するだけ無駄かもしれない。
「あんたみたいな身なりの人って、そういう人多いわよねー。あたしの頃とは違うわ」
「自虐ですか?」
「結果的にはそう聞こえるけど、決してそういうつもりで言ったわけじゃないから」
初めて毒を吐いた落木部さんに、つい笑ってしまう。
普段とは違う落木部さんの立場と、その相手が僕とは一線を画した存在とさえ思っていた綺羅めくるだという構図はどこか新鮮で、それを目にする前と後では世界ががらりと変わってしまったようだった。身近な人が異次元の人と仲良く話している姿に、僕は気分の高揚さえ覚えた。きっと人類が宇宙人と初めての交信に成功しても同じ感情を抱くと思う。
「もしかして、綺羅めくるさんってうちの常連さんなんですか?」
高揚ついでに、僕は落木部さんと綺羅めくる双方に問うた。
「常連さんというか、ほぼ関係者です。前は忙しいスケジュールの合間を縫って来てくれたりして」
「ほうほう」
「ま、ここは人もあんまり来ないし、知り合いがいるってだけで気が楽だからね。少なくともあんたみたいなペーペーよりはこの店のこといろいろ知ってるわ」
「今さらっと僕と店のことをバカにしましたか?」
「細かいことはいいのよ」
綺羅めくるはカフェオレをゆっくりとストローで吸い上げた。
「とりあえず」
そして大きく咳払いをし、かわいらしい顔に似合わず尊大に腕を組む。
「とりあえず、あんた、あたしがこの店に来てることは他言無用よ。お忍びなんだから。あんたがこの店の一員になった以上、それだけは絶対に守ってもらうわ」
鋭利な眼光を覗かせる大きな飴色の瞳が、僕を見据えていた。
僕はその目に気圧されて、咄嗟に頷いてしまった。
大物ぶっているところは少し自意識過剰な気もするが……この人を利用すればこの店の火の車脱却も夢ではないのでは? などというタチの悪い煩悩が膨らんできて、僕はすぐにそれを振り払う。これまで店長たちがそれをしてこなかったのは、つまりそういうことなのだろう。
「じゃあ百瀬さん、私たちは仕事に戻りましょう」
落木部さんに催促され、既に出された食事に手を出し始めている綺羅めくるに会釈して落木部さんの後を追った。彼女も軽く手を挙げて答えた。
とはいえ、客もおらず、特にこれといってすることが思い浮かばなかった僕は、先にカウンターに戻った落木部さんに声をかけた。
「落木部さんは、綺羅めくるとどういう関係なんですか?」
「んー、なんていうか、長い付き合いですかねぇ。友達以上ではあるというか」
昼食の食器を片づけ始めていた落木部さんは、その手を止めることなく言った。僕はカウンターの中に入って、落木部さんから重ねられた食器を受け取る。なんだか煮え切らない答えだが、間違っていないのは確かだ。あれだけ仲良く話していれば突っ込む余地もない。
「友達以上って、もしかして幼馴染みとか?」
「んー、間違ってはないですね」
「おー、すごいですね。なんだか羨ましいですよ、有名人が身近にいるなんて」
「ももこちゃんは立派ですから」
落木部さんはカウンターを拭きながら微笑んだ。少し淡白な印象なのは、僕があくまで一般人的な考えで話しているからで、落木部さんにとっては自分の人間関係を適当に説明しているに過ぎないからだろう。
ふと綺羅めくるの方に目を遣ると、昼の落木部さんのようにがつがつと食事を口に運んでいた。なんとなく、二人の姿が重なって見えた。血縁関係さえも疑わせるくらいに、二人の関係が僕の中で綺麗に腑に落ちた。たぶん、落木部さんが姉で、綺羅めくるが妹。
「そんなことより、百瀬さんってアイドルが好きだったんですか!?」
唐突にカウンターから身を乗り出した落木部さんは、爛々と目を煌めかせて迫ってきた。僕にとっては「そんなこと」で片づけられる内容ではないのだが。
「ちょっと詳しいってくらいですよ。生活費まで注ぎ込むとか、そういうのではないです」
「いいんですいいんです、そんなことは! こういうのは好きになったもん勝ちですよ! それに私も趣味の範囲です!」
「は、はぁ……」
「この服もですね、ちょっとでもあんなかわいい衣装着たいなーって思って、自分で作ったんです! 五着くらい!」
「五着!?」
肩からかかるエプロンのレースを摘んで自慢げに語る落木部さん。
想像以上にどっぷりと浸っているようだった。僕なんかよりもよっぽど熱を感じて、いよいよさっき抱いた僕の懸念が馬鹿らしく思えてくる。
「で、百瀬さんは誰が好きなんですか! ちなみに私はニッチなのもいけますよ! 雑誌購読してますし!」
「あー、恥ずかしながら僕は言われたとおり雑食で……」
「おぉ、じゃあ選り好みはしないってことですね! ももこちゃんはあんな風に言いましたけど、私も同じような感じですし、別に悪いことなんてないですよ! いやむしろいい! そう、まさに私たちは市場を広げるファクターのひとつなんです! 素晴らしい!」
みるみるうちにボルテージが上がっていく落木部さんは強烈で、昨日まで僕と話している時はこんなに熱くなったことなんてないのに、などと誰に対してか分からない嫉妬さえ芽生えてしまう。その元凶が僕自身であることに気がつくまで数秒。恋愛ビギナーの僕は、二週間という時間の中で落木部さんの何を知ることができただろうか。
しかし、過程はどうあれ今この瞬間、落木部さんの好きなものを知ることができた。それは誰が何と言おうと落木部さんの一面だ。だが最も身近なアイドルであろう綺羅めくるにそれ相応の対応を取っていたのは、やはり落木部さんの仕事への態度からか。それとも単に慣れ親しんだ仲だからか。どちらにせよ、綺羅めくるのおかげでいいことを知った。
僥倖だ。喜ばしいことだ。でも何故だろう、違和感がある。
落木部さんが僕の中心になりつつあった。僕でもなく、もちろん他の誰かでもなく、落木部さんが。
心が恋に吸収される。嫌な気はしなかった。
綺羅めくるは翌日もレインダンスにやってきた。
昼下がりの閑散とした店内で、昨日と同じ席に座り、昨日と同じ量の食事を注文し、カフェオレを飲む。服装には変化があった。といっても白いコートがファーのついたジャケットになったり、赤チェックのスカートが灰色のショートパンツになったりするだけで、顔を覆い隠すサングラスとマスク、枯草色のツインテールはそのままだった。そのツインテールが激しく主張をしているようにも思えたが、人気があった数年前と同じ髪型だったので、本人にも何か思うところがあるのだろうと、僕はわざわざ指摘するようなことはしなかった。
僕はカウンターを拭き、落木部さんはその他の事務的な作業をする。今はカウンターの中で備品の在庫を確認していた。
まだまだ僕は落木部さんの足元にも及ばないので、必然的に仕事の比重が落木部さんに偏ってしまう。一刻でも早く素人を脱却して落木部さんと肩を並べたい。並べさえすれば、落木部さんも楽になるし、その分会話に割ける時間が増えて、win-winとなる。そんな不純な動機でいいのかと自分で自分を戒めてしまいそうになるが、世の中利害関係さえ上手くいってしまえば何事もどうにかなるという腐った見方をこじつけて正当化した。それでいいのだ。別に誰かに迷惑をかけるわけじゃないし。
ふと、綺羅めくるを見る。彼女くらいになると、そういう利害関係とかの、願わくば表に出したくないような事情もたくさん持っていそうだ。彼女が活躍している世界が生易しいものではないことは、特にそういう世界と縁のない僕だって知っているし、外面が物を言うのだから、水面下でそういうことがまかり通っていても何ら不思議ではない。
だが彼女に関しては、ただの僕の先入観にすぎないが、そういうややこしいことはあまり好まないように思えた。彼女がアイドルだから、僕の中のイメージを崩したくないが故の防衛本能なのかもしれない。あるいは「落木部さんの友達なら大丈夫だろう」と勝手に決めつけているだけかもしれない。それでも、利害関係に囚われない大らかな感性を持っていそうだなあと、なんとなく感じていた。贔屓目にもほどがあると自分でも思う。
「玲ー! れぇーいぃー!」
よく通る声が、緩やかに反響しながらここまで届く。客がいないとはいえ大声を張り上げるのは通念上どうなのか。
「落木部さん、呼んでます……よ?」
カウンターを見ると、さっきまでいそいそと仕事をしていた落木部さんが跡形もなく消えていた。それに気のせいか、重くて鈍い音が聞こえた気がする。
確認のためカウンターの裏を覗いてみると、そこには両膝を抱くようにして蹲っている落木部さんがいた。
「だ、大丈夫ですか?」
「……ももせさ……っ……私はもう、ダメ……ですっ……! 代わりに、代わりに私の使命を……っ!」
「そんな重いものじゃないと思うんですが……」
声も体も震えている落木部さんは、顔にびっしりと脂汗やら涙やらを浮かべて満身創痍だった。
カウンターの裏にはグラス棚がある。後づけなのか内側に少し出っ張っているのが厄介で、慌てた拍子にそこへ膝をぶつけたのだと推理した。しかし推理したところで落木部さんが元気になるはずもなく、僕はとりあえずソフトドリンクのサーバーの横にある小型冷凍庫から氷を適当に取り出し、袋に入れ、近くにあったタオルで包んで落木部さんの膝にあてがった。
「あ……ありがとうございま……!」
「いえ。じっとしてれば治まりますから」
半泣きでお礼を言う落木部さんをなだめ、僕は言われた通り綺羅めくるの元へ向かった。無論見捨てたわけではない。むしろ痛みが治まるまで傍にいてあげたいものだが、こればっかりは仕方がない。落木部さんには強く生きていて欲しい。
向かってきているのが目的のお相手ではないことに気がついた綺羅めくるは、何とも不思議そうな顔をした。
「あれ? 玲は?」
「心までは砕けていないので、今は勘弁してください」
「何があったのよ……。まあいいわ。あんたにもちょうど用があったし」
「僕にですか?」
「そうよ。とりあえず座って」
綺羅めくるはカフェオレをストローで吸い上げながら、真正面の席を指差した。僕は一度カウンターを見てから、示された通りの席に着いた。
テーブルの上に山ほどあった食事は綺麗さっぱり消え、皿が食した本人の手元に重ねられていた。あの量をこの短時間で、という驚きはあったが、ふと落木部さんがまた頭の片隅に浮かんできて、何故か、ああそうかと納得する。フードファイターになれそうだ。
綺羅めくるはカフェオレをテーブルに置き、眉根を寄せて僕を見た。
「あんた、ももなんとかって呼ばれてたわね」
「百瀬潤です」
「もも被りねぇ。昨日から紛らわしかったのよ」
「綺羅めくるっていう素晴らしい名前があるじゃないですか」
「それはあくまで芸名で、仮のあたしに過ぎないの。それに外でそんな風に呼ばれたら大変なことになるじゃない」
「三年前ならそうなってたかもしれませんね」
「……あんた、薬を飲まずにオブラートだけ食べちゃうタイプよね」
「というか、落木部さんには本名で呼ぶなって言ってたじゃないですか」
「それは、ほら、あたしの顔を知ったあんたがいたからで、一応非公開情報だから。あとあの子少しアホだから」
綺羅めくるは諦めともつかない深い溜め息をついた。一体何が彼女の呼吸の一つを台無しにしているのかは気にしないことにするが、彼女も彼女で自分の本名を嫌ってはいないらしい。
「まあいいわ。あんた入ってどれくらい?」
「二週間くらいです」
「まだ半月なの!?」
「落木部さんの教え方が丁寧で」
「いや別に褒めてないわよ。まあでも、始めたばっかの頃の玲よりは使えそうね……。いや、あの子を基準にするのはダメか……」
いちいち棘のある言い方をしてくることよりも、店長どころか客である綺羅めくるにそこまで言わせる当時の落木部さんを見てみたい。
「それでさあ、あんたさあ」
「はい?」
綺羅めくるはいやらしい笑みを浮かべた。
「どうせ玲のこと好きなんでしょ?」
「はっ?」
途轍もなく大きな爆弾が飛んできた。
「どうせ玲のことが好きなのよね?」
「き、聞こえてますけど……。え、は、な、なんでそうなるんですか」
「バレバレだから」
「バレっ……」
「昨日からちらちら玲のこと見ててさ。何? 違うの?」
勢いで吐かせようとする綺羅めくるは、飴色が光る大きな瞳でじっと僕を見据えてきた。
「……ち、違いますよ。僕は全然そんなこと……」
「へぇ」
言ってから、僕は自分の想いと口から出た言葉の差異に驚愕した。
何故、否定が口を突いて出たのだろう。顔が熱い。考える余裕もないくらい反射的に放った答えは、まるで僕の意思を反映していない。いやむしろ反映しているのか。他人にこの心を悟られたくないとでも言うのだろうか。
僕の言動に僕自身が戸惑っていると、綺羅めくるはつまらなそうに僕を三白眼で見てから、
「違うんだ。そっかそっか。あー違うなら仕方ないわねぇ。図星だったら、玲にあんたのこと下の名前で呼ぶように説き伏せたところなんだけど。違うなら諦めるしかないかぁ」
「どっ、どういうことですかそれ」
「そのままの意味よ。あんた、あたしと名前被ってるし、この際だから同情の意味も込めてあの子にけしかけてやろうと思ったんだけど、違うならこの話は破談ね。ご愁傷さま」
ふふん、と勝ち誇ったような笑みを作る綺羅めくる。
完全に選択肢を間違えた。正直に答えていれば、輝かしいウイニングロードが待っていたかもしれないのに。
「まあ、別にあんたがどう思おうと、あたしが知ったことじゃないんだけどさ」
何故聞いた。
しかし僕が反論する前に、綺羅めくるは目の奥に少しだけ憂いを覗かせた。そして生まれてしまったわずかな静寂を取り繕うように、カフェオレをストローでかき混ぜる。氷の擦れる音が、ワインレッドのカーテンに吸収された。
彼女はテレビ慣れしているし、ファンと関わることも多いからあまり感情の機微を見せないものかと思っていたが、今のは僕でも分かった。急転したその態度にただならぬものを感じた。
「あんたさ、店長にどれくらい教えられた? 玲のこと」
「? いや、特に何も」
「……あのゴリマッチョ、またか」
しかめっ面で忌々しそうに小さく舌打ちをする。
実際、店長からは落木部さんに関して個人的なことは何一つ教えられていない。そもそも言う必要がない。
「あの……何かあるんですか? 落木部さんに」
だが落木部さんと親密な綺羅めくるがこんな顔をしていて、あまつさえ既知かどうかを僕に問うた時点で、僕が聞き返すことは必然だった。
「この店を辞めないって約束するなら教えてあげる」
「大学を卒業するまでなら、必ず」
僕は間髪入れずに答えた。
「……あたしは言っちゃったからよく分かってるし、店長もあんたに教えなかったとはいえ、口にしないよう注意してる。あの子には、禁句がある。それに関する言葉も。少なくともあの子の目が届く範囲では、それを言わないようにしてもらいたい」
「禁句?」
ここまで予想の斜め上を行くとは思わなかった。厳密に言えば心当たりが皆無で予想なんて高度なことはできなかったが、それでも僕が発想し得るであろうあらゆる可能性を超えていたと思う。
あの溌剌とした落木部さんに言葉の制約があるなんて。僕が落木部さんの上辺しか知らないと言ってしまえばにべもないが、あの笑顔の裏に禁じられた言葉があるなど、一体誰が分かるだろう。
綺羅めくるは言おうとして、逡巡した。カフェオレをテーブルに置き、カウンターを一瞥してから、僕を見据える。
「家族」
「え?」
「家族と、それを思わせるような言葉」
言い終わった時には、もうすでに綺羅めくるの視線は僕ではなく、テーブルの中心に落ちていた。一度迷ったくせに、その声は淡々としていた。まるで今回だけは特別扱いとでも言うように。
拍子抜けだった。その禁句とやらが案外身近な言葉だったことも、理由がどうであれあの笑顔がその言葉を受けつけないことも。
「な、なんで……」
「それは──」
綺羅めくるが僕の率直な疑問に答えようとした時、店の入り口から甲高い音が聞こえた。
「ぃ……いらっしゃいませ……」
落木部さんが悶絶しながら気合いを見せたので、僕も倣って立ち上がり、入り口に向き直る。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは女性だった。OL風のスーツ姿ですらりと手足が長い。若いが凛とした空気を漂わせており、黒縁の眼鏡が知的な印象を抱かせた。
女性は迷うことなくカウンターに向かい、昨日の昼に落木部さんが座った席に腰かける。
「すみません、この話はあと……で……?」
落木部さんが行動不能ではどうしようもないので、了承を得ようと綺羅めくるへ振り返った──が、さっきまでとは違う彼女の様子に言葉が詰まった。
驚嘆の表情を顔にべったりと貼りつけた綺羅めくるは、額に汗を滲ませて、こちらに背を向けて座る女性を見ていた。
「どうかしましたか?」
「…………都……」
「はい?」
「都……。都よ。あの人の名前」
「誰です? 知り合いですか?」
そんな名前のアイドルは聞いたことがない。とすればやはりただの知人だろうか。
綺羅めくるは唾を飲み込むと、薄く開いた口から渇いた吐息を漏らした。
「……あたしのマネージャー」
感情に押し潰された小さな小さな呟きが、吐息の代わりに薄い唇の隙間から漏れ出た。
理由も分からず、僕は息苦しくなった。胸が何かに圧迫されて、痛かった。
この寂れたカフェで確率の渦に呑まれるのは僕だけではなく、そしてそれは時期を問わずやってきてしまうらしい。
理解した時にはもう遅い。後戻りのできない人生の選択の結果が、幾重にもなってこの空間に横たわっているような気がした。