参戦1
「お前、好きな人いないの?」
二十一年間生きてきて、耳タコなほどかけられた言葉だ。
僕は『人を好きになる』というのがどういうものなのか理解できなかった。というより、どんな気持ちが『好き』と呼ばれる感情なのかが想像できなかった。
もちろん相性の認識はある。この人は話しやすいとか、この人はちょっと苦手とか。だが世間一般で囁かれるような、所謂恋愛感情は湧いて出てきたことがない。いや、もしかすると心の奥底で小さく湧いていたのかもしれないが、それがどういう形を成しているのかわからないのでは仕様がない。異性のふとした所作にときめくとか、ドキッとするとか、そういうのあるだろ? あるよな? な? なんて呑みの場でしつこく問い詰められても、はいはいそうですねと適当にあしらうのが常だった。そうやって欠けたロマンを安っぽいパテで埋め合わせるのが常套手段だった。
そんな僕が初めて知った。
理解し難かった感情を今、僕は天啓のように理解し、とめどなく溢れるその優美な影に翻弄されつつある。
メイド服、茶髪──目を見張るほどの、美少女。
「すみませんでした……まさかアルバイト希望の方だとは思わずご無礼を……」
「あ、いえ、僕の方こそ突然で」
少女はテーブルの淵すれすれまで頭を下げた。
そもそも急に立ち止まって彼女を見つめるだけ見つめて恐がらせた挙句突然アルバイトを申し出た不審者は僕だ。そんな必要はないのに、戸惑う僕に有無を言わせないほど恭しいのは彼女の人柄なのだろうか。だとするとそんな彼女の姿に胸を抉られそうになる。
「あの、頭を上げてください。どちらかというと僕が怖がらせてしま──」
「ありがとうございますぅ……!」
「えっ?」
顔を上げた少女の目には決壊寸前に溜まりきった涙。急激な変わりように思わず戦いた。
「実はここのバイト私しかいなくて、入ってもみんなすぐ辞めちゃって、もうかれこれ半年も新しい人がいなくて、私も本当に、もうどうしたらいいかってすごく悩んでてぇ……!」
「ち、ちょっと!?」
そしてついに、嗚咽混じりに泣き始めてしまった。
昔、受験勉強をしていたファミレスでこんな場面を見たことがある。訥々と俯いて会話をするカップルの内、彼女の方が堰を切ったように泣き出してしまった。衆目もなんのその。感情のままに泣き腫らすその様子に、こんな僕でも事態を察し、「彼氏よ、しっかりしろ」と心中で諭した経験がある。
これはたぶん、その時と似た光景に映ってしまうのでは?
「やっと、やっと来てくれましたぁ!」
「お、落ち着いて、泣かないでください、ほら……」
脇目も振らず泣く少女に、僕は持っていたハンカチを渡した。向こうのカウンターに立っている店長と思しき強面な男の目が恐い。違うんです、誤解なんです、だからレジ打ちながら僕を睨まないで。
ところで、人は感情的になっている人を見ると逆に冷静になれる生き物である。よって僕の中にも、今さらながらえらいことを口走ってしまったという自覚が芽生え始めていた。
いつもは通らない道だった。ここで素通りしたら二度と会うこともないだろうと思った。壁に貼ってあったアルバイト募集の走り書きを見て即決した。自分にもこんな度胸があったのかと今になって思うが、誰がどう見ても早計だ。面白いくらい衝動的で後先考えなさすぎである。
少女が涙を拭いている間に、それとなく店内を見回す。ヴィンテージだとかクラシックだとか言えば聞こえはいいが、埃っぽくて古びた内装は客足が少ないことを裏づけていた。現にさっき客が一組出ていったことで、店内には僕と少女、僕を睨み続ける男の三人しかいない。南側を向く窓たちもカーテンが閉められていて陽が入らない。そもそもが大きな店ではないから、そういう寂寥が充満している。
次々とバイトが辞めてしまうのも頷けた。あてられそうなくらい満ちる陰気さ。進んでバイトしたいと思うような人はなかなかいないと思う。僕も同様に。
「……ちょっと寂しいですか?」
僕の頭の中を見透かしたように、まだ少し目元を光らせて少女が口を開いた。
「わかります。でも、私はこのお店の雰囲気に馴染んじゃいました。他の人は、客商売なんだからもう少し綺麗にした方がいいって言うけど……。店長も私も、今さら直すつもりはありません」
優しくあたたかな笑みを浮かべた少女に、僕は思わず息を呑んだ。
綺麗だった。
決して明るくはない店内を、彼女の笑顔が照らしていた。綺麗で、眩しくて、心がふわっと浮き上がるような、陽だまりの笑顔だった。カーテンを閉めているのも頷ける。太陽はここにあった。
太陽──なのに、目を逸らすことができない。強い引力で見惚れてしまう。そして胸が、心臓が鷲掴みにされたような錯覚に陥る。
「あ、ハンカチありがとうございました。あとで洗って返しますね」
「えっ? あ、は、はい」
「どうかしましたか?」
「いや、別になんでも……」
苦笑で心境をひた隠しにする。気を抜けばすぐ顔に出てしまいそうだった。
会ってからまだ小一時間も経っていないのにどれだけ入れ込んでいるんだと、傍から見たら思われるかもしれない。しかし今の僕にはそんなことは些末な問題だし、時間によって変動するような機械的な心を僕は持ち合わせていない。
新鮮で純粋な感情が僕の中ではっきりと芽を出している。これこそが『好き』というものなのだと実感する。そうして初めて得た経験を反芻するだけで、言い知れぬ高揚感が波のように押し寄せた。その波に乗って、また心がふわりと浮いた。
この人がいるならそれでいい。この人がいる場所がいい。そう思えた。
「……頑張らせていただきます。よろしくお願いします」
「おぉ……!」
少女は喜々として目に星を輝かせた。顔がだらしなく綻ぶのをなんとか我慢する。
「ありがとうございます! では改めまして、私は落木部玲と申します! あそこにいるコワモテなマッチョは店長の真中です!」
「あ、百瀬潤です。よろしくお願いします」
「はい! お願いします百瀬さん! じゃあ早速履歴書を貰っちゃいますね!」
「え?」
「え?」
僕が固まると、反射的に落木部さんも固まった。
「も、百瀬さん……?」
「……」
「百瀬さん?」
「はい」
「顔色がすごく悪いんですけど 、大丈夫ですか……?」
「落木部さん」
「はい?」
「大丈夫かと言われると、大丈夫ではないですね」
「やっぱりそうですよね!?」
手汗がすごい。いや、手汗どころか、汗腺が爆破でもされたかのように全身から脂汗が噴き出している。
ゆっくりとリュックを持ち上げて、中を覗く。無駄になった三限の資料と通学時間で読もうとしていたマンガ雑誌が、まったくのとばっちりであることはわかっていても妙に憎たらしい。お前たちはどうして履歴書じゃないんだ、顔写真くらい今週号の表紙で代用してやるから今すぐ履歴書に生まれ変われ、と大口開けたリュックの中に怒鳴りつけたい気分だった。
「あはは、冗談です。全然大丈夫です。安心してください。あるわけな──ないわけないじゃないですか」
「え、え……?」
口が滑った。
「……もしかして、お持ちではないんですか?」
その訝しげな目に、いっそ石にされたいと思った。
「……すみません、ちょっと急いでいて、家に置いてきてしまいました」
「履歴書をですか?」
「はい……」
「んー、なるほど……」
「……やっぱり、持ってこないことには採用の話も?」
「そうですねぇ。履歴書を確認できなければ保留にしろって、店長には言いつけられてるんですけど……」
落木部さんは眉を顰め、顎に手を添えて唸る。
詰めが甘い。見切り発車でとんとん拍子に上手くいくわけがない。当たり前のことさえいとも容易く目に入らなくなってしまう。きっとこれが世に言う『恋は盲目』の正体だ。もしこれでバイトの面接の準備すらままならないぞんざいな人間だと不名誉なレッテルを貼られてしまえば……そう考えただけで寒気が止まらない。
僕が大量の脂汗をかき、落木部さんの眉間の皺が着々と深くなっていると、
「今回だけ特別よ」
野太いのに妙に女々しい声が上から降ってきた。
「ウチもそろそろ火の車だしね。玲、アンタも真面目なのはいいけど、言われたことだけ守ってちゃダメよ? アタシは臨機応変に、とも言ったでしょ?」
「店長……」
落木部さんが見上げた先には、さっきまで僕を睨んでいた強面の男が立っていた。
店長……ついさっき落木部さんに紹介された真中さんだ。想像を超える偉丈夫で筋骨隆々、頬に刻まれた三日月の傷。これで堅気なわけがない。
「潤ちゃん」
「え? ……は、はい」
「とりあえず、名前と住所、あと電話番号があればいいわ。アタシとしてはちゃんと働いてくれるならそれで十分だから、バイトの面接も玲と馬が合う人を採用できるようにこの子に任せてる」
店長と合う人である方が大事なのでは?
「この子に不満がなければアンタは採用よ。玲、どうする?」
落木部さんはびくっと跳ねて、
「あ、もちろん不満なんてないです! 万事オッケーです!」
「はい決まり。じゃあ明日からよろしくね、潤ちゃん」
真中さんは僕に弾けるようなウインクを放って、またカウンターへと戻っていった。
「と、いうことなので……改めてよろしくお願いします、百瀬さん」
「あ、はい。よろしく……お願い、します」
呆けていた僕の目に、落木部さんの眩しい笑顔が染みた。
「じゃあ店長に言われた通り、えっと……あ、確かメモ帳が……」
落木部さんはエプロンのポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、「どうぞ!」と僕の前に差し出した。
不思議な店だなと思った。つまり落木部さんが働きやすいと思える人が採用基準、ということである。どれだけ寵愛を受けているのだろう。たった一人のバイトにそれだけ肩入れするから新人が続かないのではないかとも思う。店長の落木部さんに対する眼差しは親が子を見るようなものだった。
しかし店長のおかげで難を逃れたのは事実だ。何より、そこは平バイト風情の僕が首を突っ込むところではないし、僕のこの感情をくすぐる採用基準と結果を受けてしまったからには、もう何も言うつもりはない。少なくとも落木部さん自身が僕と馬が合いそうと思ってくれたのだ。正直踊り出したい気分である。
そんなことを考えながら、僕は言われた項目を書き連ねていく。
「あれ、私と近いですね」
僕の筆跡を追っていたらしい落木部さんが呟いた。
「もしかして一人暮らしですか?」
「はい。大学に通っているので」
「おぉ、そうなんですか! 私も一人暮らしなんですよ。あの辺はマンションとかアパートが多いし、大学も周りにたくさんありますもんね。学生生活は大変ですか?」
「実家にいるよりは大変ですね。その分自由ですけど」
「おぉ」
「あと大学はこっちなので、電車で通ってます」
「おぉ! ……って百瀬さん、なんかすごい手震えてます?」
壊滅的なまでの大嵐が何度も心を揺らす。
ご近所さん。ご近所さんらしい。生活圏がドンピシャ。休日に寝起きのままコンビニに行っている姿を見られていたらどうしよう。というか一人暮らしって、なんと甘美な響き──そこまで考えて自分の頬を殴った。突然のことで落木部さんが「えぇ!? 大丈夫ですか!?」と慌てていたが、僕はにこやかに「なんでもないですよ」と返す。危うくあられもない妄想に耽るところだった。煩悩とはかくも恐ろしいものなりや。
それにしても、彼女の口振りからすると学生というわけでもないらしい。僕と同じくらいの歳だと見込んでいたから、どうやら早合点だったようだ。
「終わりました。お願いします」
「はい、ありがとうございます」
僕はメモ帳を閉じ、どうにかこうにか手が触れないように気をつけながらペンと一緒に返却する。
「では、これでとりあえずはオッケーです。細かいあれこれはあとでまとめてやるとして……早速で申し訳ないんですけど、明日から入ることってできますか?」
「はい、大丈夫です。明日は講義もないので」
「おぉ! じゃあ明日の午後二時にまたお店に来てください! 制服は私の方で用意しておくので、手ぶらでも大丈夫ですよ!」
落木部さんは心底嬉しそうに、エプロンの裾を持ち上げて揺らして見せた。そのふとした仕草だけでもう僕の頭はお花畑だった。情けないくらい煩悩に支配されつつある。このままではまずいと、僕は冗談混じりに、努めて何の気なしに聞いた。
「まさかとは思うんですけど、僕の制服はメイド服じゃないですよね?」
「……そ、うですよね。メイド服じゃないです」
「僕今すごい危機を回避しましたか?」
持っているエプロンの裾で顔を隠して明後日の方向を見ているあたり、図らずも僕の社会的危機は未然に防止できたようだった。なるほど、彼女は現代的な性の価値観をしっかり持っているらしい。だから性別の壁を超えてメイド服を推奨するのだ。少なくとも今はそう解釈しておくことにする。
「とっ、ともかく、明日までにはきちんと用意しておくので、百瀬さんは気軽に来てもらえれば大丈夫です。きちんと用意しておくので」
「はい、わかりました。きちんと」
「はい……ええ、きちんと、はい……」
心なしか不貞腐れたような反応だった。しかし、さっきまでとはベクトルの違う彼女の様子を見て僕が失笑すると、それにつられて落木部さんの顔にも笑みが浮かんだ。
やっぱり笑顔が似合う。笑顔以外の表情とこんなに縁もゆかりもなさそうな人を僕は見たことがない。そしてこの笑顔こそが彼女の魅力そのものだと思う。思わずにはいられない。きっと誰もが僕のように惹きつけられてしまうに違いない。
それから細かい手続きをし、少し談笑した後、僕は落木部さんの笑顔に見送られて店を後にした。正直名残惜しくてたまらないが、これから先何度も会えると考えれば一晩会えなくてもどうということはない。と、自分に言い聞かせながら駅までの道を歩いた。落木部さんの期待に染め上げられた別れ際の眼差しと元気に手を振る姿が目に焼きつき、思い返す度に心拍数が上がる。
そこそこ混み合う上り電車に乗り、運よく端の席を陣取り、秋の夕日が射す車内で、ようやくいつもの帰り道に軌道修正したことを実感した。
さっきの非日常だった時間も、明日からは日常として僕の人生に組み込まれていく。そう考えるだけで口元が緩んでしまう。慌ててリュックに顔を埋めた。
頑張ろう。
気がつくと、そう思う時には必ず彼女の笑顔が浮かんできてしまっていて、ふと顔を上げた拍子に向かいの席の小学生たちに指を差されて笑われた。