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こぼれ話 その2

1.ある日のアズマ工房


「こんにちは」


「あら、クルトさん。いらっしゃいなのです」


 ある日の十時過ぎ。カレー粉もポーション類も本日のノルマを達成し、何をしようかと考えていると、クルトが顔を見せる。


「今日はランディさんは一緒じゃないのですか?」


「ちょっと野暮用で別行動」


「なるほど」


 相方のランディが別行動である事に、特に疑問を持たずにあいさつ代わりの世間話を切り上げるノーラ。いくらそれなりに仲がいいとはいえ、冒険者の個人の事情に口を突っ込むような真似はしない。


「いつもの奴、頼みたいんだ」


「あ~、はいなのです。容器はあるのですか?」


「これにお願い。後、これはお土産。ジャックリザードの内臓と皮。確か、内臓は七級ポーションの材料に使えたよね?」


「正規のレシピじゃないけど使えるのですよ。とてもありがたいのです。サービスするのです」


 容器と料金、それからお土産の入った袋を受け取ったノーラが、渡された容器に料金よりやや多めに醤油や味噌、カレー粉を詰めていく。はっきり言って、ほとんど材料費すれすれである。


 ランディとクルトは、宏達がウルスに来た時に色々手助けをしたり、エアリスを助け出した時の事後処理その他に協力したりしたのが縁で、工房を開いた時からいろんなものを直接売って貰っている。法的な理由でメリザ商会を通さねばならないポーション類はともかく、現在の主力商品である調味料などは最高級品を卸値以下の値段で売って貰えるという非常に優遇された立場に居る。


 無論、その厚意に一方的に甘えるつもりはない二人は、依頼のついでにあれこれ素材として使えそうなものを調達しては、せっせとお土産として工房に貢いでいる。工房サイドも現金で貰うよりそちらの方がありがたいので、ある種のギブアンドテイクが成立しているといえば言えなくもない。


 特に、今回のジャックリザード素材のように、ウルスやオルテム村など、工房から直通でいける都市の周辺で手に入らないものは非常にありがたい。宏達が倉庫に突っ込んでくる素材は、どれもこれもノーラ達工房の職員の手には余るものばかりなのでなおさらである。


「他に必要なものはないのですか?」


「この間売ってもらった速度強化、あれがあるとありがたい。逃げるにも畳み込むにも重宝してるからね」


「ちょっと待ってくださいなのです」


 クルトが指定したアイテムを確認しに、倉庫の方へと引っ込むノーラ。ついでにクルトに売った調味料を帳面に記録する。春菜のような非常識な記憶力は持っていないため、どのアイテムがどの程度在庫があるかなど完全に把握できていないのだ。


 幸い、速度強化はこの間中途半端に余った素材を使いきるためにたくさん作ったため、七級のものが十分な量、在庫してあった。とりあえず十個ほど倉庫から引っ張り出して、クルトの元へ戻る。


「お待たせしましたのです。七級のものがあったのですよ。とりあえず十個ほど持ってきたのですが足りるのです?」


「まあ、奥の手に近いからそんなもんかな。いくら?」


「ひとつ五十クローネなのです」


「了解」


 普通に買えば十倍はするドーピングアイテムだが、アズマ工房の場合は材料費がタダ同然なので、直売だと驚くほど安い。五十クローネというのはほぼ純粋に技術料だけだといえる。


 他の錬金術師達と比べると、アズマ工房は六級以下のアイテムに関しては材料調達がやりやすい。何しろ、オルテム村の周辺で採れる素材は、どれも普通に使えば六級以上、わざとランクを落として七級のアイテムに使うことも可能、というものばかりなのだ。しかも、村の中で栽培している作物の使わない部分にも、七級ぐらいのアイテムの素材になるものもたくさんある。たかが三人、最近初歩の安全なものを触り始めたライムとオルテム村から勉強に来ているエルフを含めても五人程度の職人で使いきれるような量ではない。


 故に、失敗を気にせずにガンガン消費できるため、他の工房の弟子達に比べるとノーラ達の技量の上昇は早く、その分大量に作れるようになるため、必然的に技術料が下がる、という好循環が発生していた。


 正直、身内価格についてはもっと下げてもいいのだが、メリザやランディたち、更には直接取引がある他の冒険者からも相場(正確には冒険者協会での売値)の一割程度にしておけと釘を刺されているため、相場の一割ほどをもらっている。


 一割という価格も、もともと値段と品質の幅が非常に広い博打要素のあるアイテムで、大抵の業者が懇意の冒険者に融通している価格である。もっとも他の業者の場合、半分以上材料費になるのだが。


「さて、そろそろ帰るよ。いつもありがとう」


「こちらこそなのです」


 その後しばらく雑談し、互いに有意義な情報を交換したところでクルトが話を切り上げる。まだ昼には早いが、ランディの野暮用が割と早くけりがつきそうだとの事。故に、さっさと合流して明日からの仕事を探す事にしたのだ。


「帳簿、確認しておいた方がいいかもなのです」


 クルトが立ち去ったところで、そろそろ在庫チェックと帳簿の見直しが必要だと、先月に仮締めした時の貸借対照表の内容を思い出しながら心に決めるノーラであった。








「おっ? クルトか?」


「あ、ハンサムさん、ちっす」


「……なんか、すっかりそのあだ名が定着したなあ……」


 工房から出てすぐに、ウルスではそこそこ有名な冒険者と遭遇するクルト。


 ハーン・サンドローム。二カ月ほど前に五級に上がった、それなりに成功しているチームに所属する中堅冒険者の一人である。宏達が、長距離移動の練習を兼ねた護衛任務を受けた時に知り合いとなった。その後も何度かこまごまとした仕事で一緒になり、気が付けば直接取引をする程度には仲良くなった相手だ。


 ハンサムという呼び名に関しては、宏が初対面の時に余計な事を言ったのが始まりで、その後も仕事が一緒になるたびに宏がハンサムさんハンサムさんと呼び続けた結果、いつの間にかあだ名が爆発的に広まり、きっちり定着してしまったのである。


「お前達も買い物か?」


「はい。調味料とブーストアイテムをちょっと」


「なるほどな。カレー粉はあると便利だからなあ」


「本当ですよ。今や長期任務だと、カレー粉と醤油を持ってるだけでちょっとした英雄扱いですし」


「どっちも、まともな奴は今、普通に買うと高いからなあ……」


 ハンサムの言葉に、しみじみ頷くクルト。何しろ、現在カレー粉は需要が急激に増えたため値上がり傾向で、正規のルートで市販のものを買うと、大きめのハンドクリーム程度の容器に入る量で、五クローネもするのだ。醤油と味噌に至っては、アズマ工房のものは同じ量で二十クローネ、宿によっては素泊まりで十日は泊まれる値段である。フォレストジャイアントが売りに来ているものは格段に安いが、そっちは買えるかどうかが運になる。


 はっきり言って、アズマ工房が広めた調味料で現在安く手に入るのは、それほどノウハウが必要なく、少々の人海戦術で簡単に量産できるマヨネーズぐらいなものだ。他の調味料は熟成が絡むものが多いため、一部の料理屋が自家消費する分を作るのが精いっぱい、という状況である。


 醤油や味噌などはその最たる例で、エアリスが行ったそば屋にしても、開業するまでにどうにか自分のところで自家消費する分の品質を安定させることには成功したが、品質的にはフォレストジャイアントと競合するレベルで、しかも他所に売るほどの量は作れていない。他のところも似たり寄ったりで、あちらこちらの商会がもどきにも至っていない物を売っては大やけどしているのが現実である。


 カレー粉に至っては、いまだにたくさんまとめて手早く計量して調合する手段を確立した業者は数えるほどで、アズマ工房が大量生産して流通させているから醤油や味噌より安いだけ、という状況がいまだに続いている。どの調味料よりも早くお目見えしたにもかかわらずこの体たらくなのだから、日本のように一般庶民が気軽に買えるようになるまでは時間がかかりそうだ。


「ハンサムさんも、カレー粉ですか?」


「それに、ブーストアイテムと、後長丁場になりそうだからインスタントラーメンを、な」


「あ~、そっちに手を出せるんですか」


「今回は奮発しよう、って話になってな」


 インスタントラーメンは現在、作ったものを片っ端から王宮が買い上げている状況である。そのため常に在庫量が際どく、他のものより値段がお高くなっている。具体的には、市販のカレー粉の小容器二本分ぐらいだ。


「そういやノーラが言ってたんですが、インスタントラーメンは近いうちに、専用の工場を作ることになったそうです」


「へえ、そいつはありがたい」


「本当にねえ」


 クルトからもたらされた朗報に、ハンサムだけでなく別の女性も歓迎の声を割り込ませてくる。


「なんだ、イルヴァ。いつからいたんだ?」


「ついさっきよ。こっちも長丁場になるから、カレー粉をちょっと多めに調達しておこうって事になってね」


 口を挟んできたのは、女性だけの冒険者チーム「ブラッディ・ローズ」のリーダー、イルヴァ・ミール。こっちは真琴つながりである。そろそろ婚期がやばそうなのを気にしているのは、本人はここだけの秘密にしたがっている一般常識なのは言うまでも無い。


「で、その情報、本当?」


「ノーラが言ったんだから、本当だと思いますよ。ガセだったり口にしちゃまずい話だったりする事は絶対言わないですし」


「なるほど。だとしたら、本気でありがたい話ね」


 などと、街の外に長期滞在する場合、あると非常にありがたいインスタント食品について盛り上がる冒険者達であった。








「いつ来ても、緊張するなあ……」


「王宮よりましじゃない?」


「そうだけど、そもそもどっちもあたしみたいなスラム生まれが出入りする場所じゃないし……」


 昼を少し回った時間帯。ノーラを留守番に残して、ファムとテレスは中央市場の百貨店に納品に訪れていた。普段はメリザ商会が納品に来るのだが、現在王室御用達の政商になりつつあるメリザ商会は色々忙しく、日によってはこちらの納品に手が回らなくなる事がある。そういう時はアズマ工房から直接納品し、メリザ商会に支払いを頼むというやり方をしている。どうせかけ売りなので、伝票さえちゃんとしておけば大した問題はない。


「お待たせしました。いつもお世話になっております」


「こちらこそ。それで、こちらが本日の納品分です」


 テレスがリストと伝票を渡している間に、ファムが台車の上に今日の納品分をどんどん積み重ねていく。全部で数百キロの重さになるのだから、台車なしでは到底運搬できない。特に醤油と味噌が重く、小分けしたものでなければファムの腕力では取り出すことすらできない。これをがっつり詰めた樽を普通にかついで商売できるフォレストジャイアント達が、どれほど凄まじい体力と筋力をしているのか良く分かる話である。


「……確かに。それで、ですね」


「そのへんの交渉は、今フォーレに居るはずの工房主か、メリザ商会のトップとお願いします」


「やっぱり駄目ですか」


「私達の一存ではちょっと。それに、今の人員だと、正直そこまで手が回らないと思うんですよ」


 納品に立ち会った担当者の言葉を、先回りして潰すテレス。その反応の速さに、やっぱり無理かとため息を漏らすしかない百貨店側の担当者。中央市場の百貨店は、ファーレーン中の商会や工房が直接取引を夢見る第二位の相手だ。第一位が言うまでも無く王宮である事を考えると、実質的に一番だと言ってもいい。


 そんな百貨店を持ってしても、アズマ工房との直接取引は出来ない。その事実が、本人達の意識とは裏腹に、どんどん工房の価値を高めてしまう。


 だがしかし、そもそも取引したい第一位の王宮からガンガン依頼が来る現状、所詮小規模工房であるアズマ工房には百貨店と直接取引する余裕など、どうやっても捻出できない。最近ではどう言うコネの作り方をしたのか、ダール王宮からもあれこれ細かい注文が入るようになって、正直生産能力よりも精神的な面でこれ以上新規の大口取引先を作る余力などない。


「それでは、伝票は回しておきますので、いつものように支払いはメリザ商会にお願いします」


「分かりました。今後ともよろしくお願いします」


 これ以上ごり押しして、メリザ商会とのパイプすら切れてはまずい。そう判断した担当者は、ため息を飲みこんで笑顔でファム達を送り出すのであった。








 夕方。


「頼んでいたものの数は、揃っているか?」


「ぎりぎりだけど、何とか」


「いつもすまないな」


 王宮から、レイナがインスタントラーメンとカレー粉を受け取りに来る。醤油と味噌は昨日、ケチャップと各種ソース類は三日前に樽で十個、などという単位で納品しているためしばらくは必要ない。マヨネーズは見習いが毎日必死になって作っているそうなので、これまたアズマ工房から納品する必要はない。


 わざわざレイナが来るのは、工房の場所を知っていて関係者と顔つなぎが済んでいる数少ない人材だからだ。王宮としては、いろいろな理由であまりアズマ工房関係者と顔見知りの人間を増やしたくはなく、かといって支払いや大量の荷物の受け取りに王族が直接出ていく訳にもいかないため、パシリとしてレイナが良く使われるのである。


「それで、ようやく用地買収の目途が立ったそうだ」


 ファムが伝票を書き終るのを待つ間、雑談を振るレイナ。情報として知らせておいた方が無難だから、覚えていたら話しておいてくれと上司から言われていたのだ。


「じゃあ、ついに?」


「ああ。これで、インスタントラーメンの品不足はある程度解消できるだろう。何しろ、原料自体はいくらでもあるのだからな」


「そうだね。小麦とか、ここ数年は毎年備蓄出来ない分が出てるって言ってたし」


 レイナの期待に満ちた言葉に、思わず苦笑しながら頷くファム。インスタントラーメンは、今のところアズマ工房から特定の冒険者に流す分以外、一切市場には出回っていない。だが、騎士団の大規模討伐やその特定の冒険者を経由して、存在自体は地味に広く知れ渡っている。実際に食べた事がある人間もそれなりに増え、生産量をどうにか増やせないかと今一番せっつかれている品物だろう。


 なお、レイナとファムの言葉は嘘ではない。ここ数年、ファーレーンでは農業技術の上昇に加えて豊作が続き、他国に輸出して限界いっぱいまで備蓄してもなお、消費しきれずあふれた小麦が結構あった。ファム達スラム住民が職にあぶれながらもどうにか生きて来れたのも、備蓄からあふれた分を国が買い上げ、パンに加工して生活保護の一環として無償でスラムに配っていたからだ。スラムの治安がそこまで悪くなかったのも、その食料政策のおかげだったのは間違いない。


 他にもあまり料理に使われていない小エビや小魚など、今まではどちらかというと捨てられている事が多かった魚介も、インスタントラーメンの具やダシに使えるために無駄が大きく減る。口減らしも兼ねて地方から出稼ぎに来た若者の雇用の受け皿としても期待できるため、インスタントラーメン工場はいろんな意味で経済効果が大きい。


「それで、噂は流したのか?」


「うん。後は、工場が出来たら人をいっぱい集めなきゃいけないんだよね?」


「らしいな。私はそのあたりはよく分からんのだが、レイオット殿下がどうにかなさるだろう」


「まあ、醤油とかの問題もあるから、完成して人が揃っても、すぐにラーメンの生産量は増えないだろうけど」


 などと、明日への希望に目を輝かせながら、これから行われる大規模なプロジェクトの話で花を咲かせる二人。実際には用地買収が終わった後、宏が戻ってきて工場や設備を作ってからの話になるのだが、そんな言われずとも分かっている事は二人とも口にしない。


「さて、そろそろ引き上げるか。来月も頼む」


「はいよ、毎度あり」


 書き終えた伝票をファムから受け取り、いくつかの確認事項を終えた所でレイナが席を立つ。そんなこんなで、ある日のアズマ工房の仕事は終わるのであった。







2.真琴さんの同人誌


「やっとペン入れ終わった……」


 ある日の夜。ある程度の作業を終えて、大きく伸びをしながら真琴がつぶやく。原稿用紙には、二人の男の絡み合いが、なかなか美麗な絵柄で描かれている。内容的には、おそらく比較的ソフトなものなのだろう。ページ数は大体三十六ページぐらいか。


「やっぱ、ブランク大きいわ~。これぐらいでこんなに時間かかるなんて……」


 牛乳を飲みほして、ため息交じりにぼやく真琴。宏から印刷機を含む同人誌制作セットをもらってから一週間。毎日半日以上引きこもって描いていたにも拘らず、ようやくペン入れが終わっただけだ。この後まだまだ作業がある事を考えると、夜の間だけの作業では一カ月ぐらいかかったかもしれない。


「現役時代は、この程度の厚さだったら大学の講義受けて課題こなしてアニメとか見ても普通に一カ月でいけたんだけどなあ……」


 流石に投機の元手を作れるだけ稼いでいた同人作家、というところか。真琴の言葉が本当ならば、かつてはなかなかとんでもない作業の速さだったようだ。


「別に期限はないって言っても、この世界での初陣なんだから、あんまりちんたらやりたくはないのよねえ。ネームどころかプロット段階のもあるし」


 ネタ帳やラフ手前の段階の作品などをチェックしながら、作業の遅さに唸る真琴。一度火が付いた創作意欲とは裏腹に、現実の作業はなかなか前に進まない。


 とは言え、ただ嘆いているだけでは、進むものも進まない。作業に戻ろうとしたところで、扉がノックされる。


「は~い」


「俺だ。夜食持ってきた」


「開いてるから、勝手に入って」


 達也の呼びかけにそう答え、とりあえず散らかっている原稿などをざっと片づける。ペン入れが終わったものはインクを乾かさなければいけないため、とりあえずそのままにしてあるが。


「夜食って何?」


「明日の屋台で出す予定の団子だと」


「作ったの、春菜よね? どうして達也が?」


「なんか、自分や澪が入るのはいろいろヤバそうな気がしたんだと。それで俺に押し付けるあたり、なかなかいい度胸してると思わねえか?」


「まあ、未成年に見せるにはちょっと問題があるのは確かだけどね」


 春菜の行動に対する達也のぼやきに、思わず苦笑しながらそう答えるしかない真琴。何しろ、今描いているものはいくらソフトな内容とはいえ、業界の自主規制に合わせるなら間違いなく十八禁になる。誕生日を過ぎている春菜は問題ないかもしれないが、なんとなく彼女に見せるのは気がとがめる。澪に至っては、普通に年齢制限でアウトだ。


「しかし、レイニーから貰ったネタで描いてる割には、実在の連中には似せてねえんだな。俺達が絡んでる風のカップリングもねえみたいだし」


「それやったら、あたしがまるで反省してないみたいじゃない」


「まあ、そうだよな」


「大体、この状況であんたと宏掛け算した本を書くとか、どれだけ空気読めてない馬鹿なのよ? あたしだってそれなりに学習能力はあるつもりだし、自殺願望もないわよ?」


 真琴の実に正しい現状認識に、何とも言えない表情を浮かべる達也。確かにそんなものを描けばいろんな事が破綻するし、彼女の過去を考えればまるで反省も学習もしていない事になる。だが


「その割には、きっちり妄想はしてたみたいだが?」


 どんなに反省したところで、習い性となった行動はどうにもならないらしい。まともな恋愛が出来なくなるほど後悔したくせに、真琴はきっちり達也と宏の掛け算をしていたようだ。


「それはもう、腐女子のどうにもならない種類の習性って事にしておいてよ。男の少なくない割合が、薄着の時の春菜見て挟んでるところとか妄想するのと同じようなもんって事で」


「まあ、そう言われりゃそうなのかもしれねえけどよ」


「表に出さない分にはノーカン、って事にしてくれると本当に助かるんだけど、駄目?」


「……表に出さなきゃ、誰に迷惑かける訳じゃねえか」


 腐女子に妄想するな、というのは、大酒飲みに禁酒を押し付けるようなものだ。それが可能なら、そもそもそこまで深みにはまることなどない。


「妄想するぐらいは別にいいが、本人の耳に入る形で垂れ流したりはするなよ? 割と洒落にならねえんだから」


「分かってるって」


 BL趣味に割と寛容な達也の言葉に、真顔で頷く真琴。達也に言われた事は、はっきり言って最低限のマナーだ。過去の事件に関しては、真琴的にはその最低限のマナーを破ったのだから自業自得という認識である。


 もっとも、達也から言わせれば、わざわざ自分が掛け算されたことなど触れまわって大学中に広めた時点で、男の方も碌でなしだという結論にはなる。百パーセントそうだとはいえないが、普通の神経をしていれば、わざわざ自分がゲイの濡れ衣を着せられたなどという、そっちの気がない人間としては考えるだけでおぞましい事を広めたりはしない。本当にそうだと思われるリスクを考えても、普通はしない。


 だが、あえてそれをやったという事はおそらく、自爆してでも真琴に報復したかったか、真琴を悪役にして同情を得たかったかのどちらかであろう。学校全体という規模から考えると、どちらにしても少々度が過ぎる。


 実のところ、達也のこの思考はほぼ的中しており、男の方は自分が悪役にならずに真琴を振る、その口実を探していたのだ。一度やって気が済んだという理由である。男のその目論見は実にうまく行き、割とすぐにそれなりに可愛い女の子を毒牙にかけている。


 今の真琴なら、間違ってもそんな男には引っかからないだろう。だが、当時は恋愛経験全くゼロで社会的に痛い目を見た経験も無い単なる腐女子、男を見る目もやりそうな事を察知出来る経験や想像力も無かったのだからどうにもならない。それに、ここで痛い目を見ていなければ、社会に出てから同じ事をやらかして、もっと致命的な結果につながっていた可能性もある。そう考えれば、別に悪い事ばかりでもない。


「まあ、それはそれとして、ちょっといいか?」


「何?」


「別に、お前さんが何を描いてもまったく問題はないんだが、出来たらBL以外に普通の漫画も一緒に描けねえか?」


「何で?」


 達也からの意外な提案に、思わず真琴が驚きの声を上げる。その反応を予想していた達也が、思うところを正直に述べる事にする。


「別に、BLでもまったく問題はないんだがな。こっちにゃまだ、俺らが読んで育ったような漫画の文化はねえよな?」


「まあ、ないわね。本だって、庶民が気軽に買えるほど安くはないし」


 達也の言葉に、素直に頷く真琴。この世界は製紙技術もそれなりに進んでおり、活版印刷の技術も存在する。それゆえに、本も庶民が買えないほど高価なものではない。だが、識字率がそれほど高くないことも手伝ってかそれほど安いものではなく、売られているものも娯楽小説などの類はあまり多くない。


 活版印刷ゆえに真琴が描いているような高度で繊細な挿絵が入る本も存在せず、絵を大量に使う漫画本など当然作りたくても作れない。ダールのミシェイラ女王がネタにした艶本の類も、実際には表紙も含めて挿絵の類は一切ないものだ。春画なども量産されているものではないので、割といい値段がする。


 故に、漫画文化が生まれるための下地が出来ていないのだ。


「そこに、俺らが見て馴染んだ漫画を持ちこむんだから、当然新しい文化の始まりになるよな?」


「そうね。そうなるわね」


「そのしょっぱながBLだけだと、それしか描いちゃいけない、って固定観念が生まれそうな気がしねえか?」


「……」


 達也の鋭い指摘に、思わず深く納得する真琴。自分の趣味に没頭するあまり、その視点はなかったのだ。


「そういう訳だから、できれば子供に見せても問題ないのも描いてもらえねえかな、ってな」


「そうね、了解。何かネタ出してみるわ。あんた達をモデルにしても?」


「著しくディスったりしてなきゃ、俺については別にかまわねえ」


 その言葉を聞き、少しネタを考える。とはいえ、とっつきやすい内容というとぱっと思い付くものが既に二つある。身内のネタを使っていいのであれば、その二つは割と簡単に漫画化できる。


「四コマ漫画で『アズマ工房奮闘記』ってのと、ラブコメのストーリー漫画で『春菜ちゃん、頑張る』ってのを考えたんだけど、どうかしら?」


「面白そうだな。工房の方はまあ、芸人体質の人間ばかりだから問題ねえだろう。ラブコメは、ちゃんと春菜にも許可取れよ」


「分かってるって」


「あと、ラフぐらいの段階で、いっぺん内容を確認させてくれ。出来ればやめてほしいネタとかあるだろうしな」


「了解。じゃあ、もうちょっと頑張ってみるわ」


 そう言って、食べ終わった団子の串を皿に乗せて達也に預ける真琴。その後真琴の奮闘により、エアリス達と合流する直前ぐらいに全百二十ページの「アズマ工房奮闘記」と全百四十四ページの「春菜ちゃん、頑張る」のラフが出来あがり、関係者全員の許可を取った上でフォーレを出る直前ぐらいに完成することになる。


 完成した二つの漫画は新しい娯楽文化の幕開けとしてアズマ工房関係者からじわじわと浸透し、ダールに渡ったところで大地の民の印刷技術も利用して爆発的に広まる事になる。その後、各地の工房が印刷技術を発展させることに力を注ぎ、世界中で漫画文化が定着していくのだが


「……やっぱりここは、アルヴァン×デントリス本が定番」


「……あえて掟破りのレイオット殿下×アルヴァンなんかも……」


「……いやいや、まずは主君と忠臣のカップリングをコンプリートしてから」


 真琴と同じ種類の病気の持ち主も水面下で爆発的に増え、決して表に出る事のない、ネタにされた本人に見せられない類の本もどんどん増えていくのであった。

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