第10話
「ウォルディスのモンスター兵が、ついにマルクトに攻め込んだようだ」
「来ると思ってたよ。まあ、予想よりちょっと早いが」
翌朝。朝食の席でレイオットから報告を受け、達也が正直な感想を告げる。
ウォルディス国内、及びウォルディスが侵略中の地域は各種アイテムによる通信が妨害されている事を考えると、レイオットのもとに情報が届いている時点で、ほぼ軍事行動は終わっていると考えて間違いないのだ。
しかも、ウォルディスの軍勢はモンスター兵。一般的な軍より行軍速度が大幅に速く、また兵站の問題もモンスターであるが故に普通の方法では成立しないため、荷駄などが足を引っ張ることもない。レイオットや達也の見立てでは後一日ぐらいの猶予はありそうだったのだが、その猶予が無かったといっても驚くに値するほどではない。
なお、他の王達は朝一番にレイオットからその情報をもらった段階で、一旦自分達の国に戻っている。実のところ元より、細かい指示ともろもろの進捗を確認するため、朝食が終わって軽い打ち合わせをしたら昼ごろまでは一度自国に戻る予定であった。
レイオットがレイニー経由でウォルディスのマルクト進攻を伝えたため、そのタイミングが早くなっただけである。
「それで、確認しておきたい事が二つある」
「なんや?」
「現在、この城がどのあたりに来ているのかと、我々がどの程度この城を利用させてもらっていいのか、だ」
「せやなあ。位置に関しては、十一時頃にはアルファト上空に、そのまま進めるんやったら二時前には国境近くに到着する感じやな。ローリエを管理者に設定したから、大分スピードは上がっとるし」
そこまで言って言葉を切り、少し考え込むような様子を見せる宏。そのまま、ちらりと達也の方へ視線を向ける。
宏の視線に小さく頷き、達也が口を開く。
「どの程度城を使っていいのか、に関してだが、その前にこっちからも確認しておきたい」
「なんだ?」
「正直な話、俺達はウォルディス自体にはこれと言って因縁の類はないんだが、そっちはどの程度まで付き合わせるつもりなんだ?」
「どの程度、か……」
達也の言いたい事を察し、難しい顔で沈黙するレイオット。
「達兄、どの程度って?」
その言葉の意味が少しピンと来なかったらしい澪が、小さく首をかしげて確認する。彼女の認識では、ウォルディスと邪神教団と邪神は完全に一体になっているのだ。
「ウォルディスの国王がモンスターになっちまってるからちょっとややこしいが、本来俺らが相手にしなきゃならないのは邪神と邪神教団であって、ウォルディスって国じゃねえのは、分かるよな?」
「ん。でも、ウォルディスの王様が邪神教団のモンスターなら、必然的にウォルディスと事を構えるんじゃ?」
「その認識も間違っちゃいないが、俺らが気にしてるのは、邪神と偽王を排除し、モンスター兵を全部駆逐した後の事だ」
「それが終わったら、ウォルディスとの戦争なんて終わってるんじゃ?」
「とも限らない。リーファ王女派の連中が生きてたように、邪神と無関係な勢力が全滅したとは言い切れない。で、その生き延びた勢力が、ファーレーンをはじめとした五大国やマルクトに協力的だとも断言できない。
仮に元々のウォルディスに思想的に近い、その上邪神教団とも一切関係が無い一派がそれなり以上の軍事力を保った状態で生き延びていた場合、そいつらと俺達が事を構える理由はない、ってのが今の話なんだが、分かったか?」
「ん、理解した。言われてみれば、ウォルディス全部が邪神教団だとは誰も言っていない」
澪が納得したところで、達也がレイオットに視線を向ける。達也に視線で促されて、レイオットが重い口を開く。
「まず最初に、少なくともウォルディスから距離が遠い西部三大国とファルダニアには、ウォルディス国内の邪神教団排除後はお前達に関わらせる気はない。
生臭い話になるが、あまり戦功を立てさせると各国の政府内で警戒が強まってややこしい事になる。それに、ウォルディスの領土をどうするか、と言う話し合いについても、お前達にあまり頼り過ぎるともめるきっかけになる。
もっとも、お前達が旧ウォルディス領を欲しいというのであれば、好きなだけ暴れてくれて構わん。後々のために、リーファ王女の血筋の誰かをお前達の国のトップ、もしくはその嫡子と結婚させる必要はあるだろうが」
「と言う事らしいけど、宏は領地とかいる?」
「欲しかったらこの城拡張するから、わざわざ人様の土地なんざ要らん」
宏の言葉に頷くレイオット。一応レイオット達の世界とつながっている神の城だが、半分は独立した異世界だ。資材やエネルギーが足りれば、実質無限に拡張できる。
その事を説明されて理解しているだけに、アズマ同盟に参加している王達やレイオットは、宏達が領土的な野心を持つことなどあり得ないと心の底から納得している。と言うより、門の外に広がっていた大平原や大海原を実際に見て、領地が欲しければ拡張するという言葉を疑うのは難しい。
だが、それを直接関わっていない人間に説明しても、到底納得などしてもらえないのもまた、事実である。
ならばどうするのか。できるだけ大人しく、攻撃的な事はしないようにすればいいのだ。
「それで、我々はどの程度利用させてもらっていい?」
「ぶっちゃけた話、せいぜい難民と怪我人の一時避難場所として以上は貸さんつもりや。やろう思ったら大規模な兵員輸送も物資供給もできるけど、そこまでやったらうちらの領分超えるやん」
「そうだな。こちらとしても、その程度で抑えてくれる方がありがたい。はっきり言って、この城の防衛能力やお前達の持つ供給能力は魅力的だし、神の船やワンボックスカーの兵器も使ってもらえるのであれば非常に助かるのは事実だ。
だが、それを実際にやってしまえば、我々の負債が大きく増える上に政治的な後始末が面倒になる。そうでなくても不本意ながら色々頼りきっているのだから、これ以上本分ではない所で手を借りては信義にもとる。
今更と言われれば今更の話だが、な」
今更と言われれば今更、と口にした時のレイオットの自嘲するような表情に、思わず苦笑が漏れる宏達。
こちらに飛ばされて一番最初に住みついた場所だけあってか、ファーレーン王家とアズマ工房の関係の深さは、他の王家とは一線を画する。そのため、彼らの活動により一番多くの利益を得ているのがファーレーン王家であり、本分ではないところで手を借りるのも今更、とレイオットが自嘲するのも無理はない。
ただし、ファーレーン王家や第三者から見ればそうでも、宏達の側から見ればまた事情が変わってくる。
と、言うのも、宏達は宏達で、それなりに上手くファーレーン王家を利用して、ちゃんと大きな利益を得ているのだ。
たとえば、インスタントラーメン工場などのように、やりたいが自分達だけでは手に余るという規模の大きな案件を、ファーレーン王家を巻き込むことで面倒なところを全部丸投げしてやりたい事だけをやっているケースはいくつかある。工房の拡張にしても、ファーレーン王家やメリザ商会が借りを返すためと勝手にせっせと骨を折ってくれ、更に不必要に妬まれないように裏で動き回ってくれているため、毎回余計な事に手間をかけずに済んでいる。
また、装備品を格安で押し付けたりと言った行動も、一見してファーレーン王国だけが一方的に利益を得ているように見えて、その実素材を消費するために作ったはいいが倉庫を圧迫し処分に困っていたものを、貨幣経済に混乱を与えずに体よく厄介払いしているだけだったりする。
価値観が違うために一方的に見えるが、そもそも一般的な地位や名誉、金などは宏達に対して利益たりえない。金が宏達の利益となりえた時期もあったが、それとて最初の工房を入手するまでのわずかな期間であり、それ以降はある程度好き勝手をやっても問題にならない、後始末は国が勝手にやってくれる、と言う立場が一番の利益だったのだ。
利害の利の部分が噛み合っていないだけで、宏達はちゃんと利害の一致で動いているのである。その自覚があるだけに、レイオットの考え方には苦笑するしかなかったのだ。
「後、とりあえず確認しときたいんやけど、ウォルディスのモンスター兵に仕掛けるん自体は問題あらへんか?」
「ああ。一応軍の体裁は整えているようだが、結局のところ連中は何処まで行ってもただのモンスターだ。アズマ工房としてあれに仕掛けたからと言って、誰かに何かを言われるような事はない。そもそも、お前達は冒険者としての側面も持っているしな。
ただし、ウォルディスの領内に直接仕掛けに行くのは、こちらの許可を取ってからにしてくれ」
「なるほどな、了解や」
それで、お互いに今確認すべき事は終わったとばかりに、食事に意識を戻す宏達。食事を終えたところで、それまでずっと黙っていたエアリスが口を開く。
「ヒロシ様。そろそろ他の巫女の方に声をかけて、一度集まっていただいた方がよろしいのではないでしょうか?」
「せやなあ。やっぱりその方がええか?」
「はい。このお城は言ってしまえば動く地脈ですし、邪神教団やモンスター兵との戦いを考えるなら、できるだけ近場で儀式を行った方がいいものもあります。それに、昨日の初期設定で聖堂を用意していただいていますので、設備と言う面でも各神殿の本殿とまったく遜色はありませんし」
「なるほどな。ほな、許可は出すから、ちょっと代わりに呼んできて。誰呼んでくるかの判断は任すわ」
「分かりました。そうですね、アルチェムさんとジュディスさんは確定、ナザリアさんとサーシャさんもいた方がよろしいでしょう。プリムラさんはまだザナフェル様の巫女として調整中ですので、それが終わるまではザナフェル様の元におられた方がよさそうです」
「つまり、基本はいつものメンバーっちゅうこっちゃな。分かった、それで頼むわ」
「はい」
宏から許可を得て、一つお辞儀をしてエアリスが転移する。それを見届けた後、次の行動を考える宏。
「やっぱり、何ぼ考えても人手が足らん。アルファト着くまで、作れるだけのドールサーバントとかオートマタ作っとくか」
「じゃあ、私は昨日に続いて、野戦食とか作れるだけ作っておくよ」
「ボクはファム達のサポート」
「んじゃ、俺と真琴は、こっちに避難してる人たちの手伝いでもしとくか」
「そうね」
とにかく、やるべき事はいくらでもある。ほんの少しの時間でも可能な限り無駄にしないように、大層勤勉に働く日本人一同であった。
神の城が到着した時、最前線はこう着状態に陥っていた。
「こらまた、えらいことになっとんなあ……」
大量のモンスター兵と乱戦になりながら、必死になって前線を維持しているマルクト軍。その様子を見て、どう手を出すか悩みながら後方に城を着地させる宏。
アルファトに寄った際に宏達が頼まれた事柄は、負傷兵の保護と治療のみ。戦闘に関しては、介入しろともするなとも言われていない。
場合によっては、精鋭兵が到着するまで一時的に兵を回収して籠城することも頼まれているが、現状では彼らが神の城に逃げ込むような余裕すらなさそうだ。
「なあ、ヒロ。このままいくと、そんなにかからずに全滅しないか?」
「せやねんなあ。っちゅうたかて、迂闊に大規模な攻撃ぶちこめる状態でもあらへんし」
「だよなあ。少なくとも、天地波動砲以上の攻撃は無理だ。余波でマルクト兵も巻き込む」
明らかに分の悪い戦況に、中立論などあっという間に投げ捨てて介入を考える宏と達也。
これが普通の戦争であれば、どちらか一方に肩入れなど考えなかった。それ以前にそもそも、宏達が関わることなどなかったであろう。関わったとして、せいぜい負傷者の治療ぐらい。こんな場所に神の城を持ってくることなどなかった。
だが、今の状況はどう見ても、必死になって軍がモンスターの大規模発生に抵抗しているようにしか見えない。この現場を見ていれば、アズマ工房がウォルディスとの戦争に介入したなどと非難する事は誰にも出来まい。
もっとも、こういう状況になるのがほぼ確定していたからこそ、宏達がわざわざ最前線に神の城を運んできているのだが。
「てか、モンスターがいるから、こういう大規模な戦争はできなかったんじゃないの?」
「真琴姉、今それ言っても意味が無い。まずは介入するかどうか、介入するにしても何をするか決めないと」
「澪の言う通りやな。っちゅうてもとりあえず、できそうな事っちゅうたら春菜さんの歌増幅して聞かせてみるぐらいやけど」
「そうだね。なんとなくだけど、般若心経シリーズか聖歌なら、ちゃんと相手だけを弱体化させられそうだし」
などと言いながら、歌の準備に入る春菜。その意図を汲んだかのように、世界樹の根元、コアルームの反対側にある聖堂でスタンバイしていたエアリスから通信が入る。
『ハルナ様。戦場全域に聖属性の強化フィールドを張ろうかと思うのですが、いかがでしょうか?』
「お願いして、大丈夫?」
『はい。こういう時のために、ここに揃っているのですし』
「じゃあ、お願いするね」
『お任せください』
春菜から要請を受け、儀式に入るために通信を打ち切るエアリス。
「マスター、舞台の準備は整えておきました。ハルナ様、大ホールへお願いします」
「段取りええなあ、助かるわ。スピーカーとかは?」
「既に起動、及びテストは完了しております。現在戦闘状態になっている全域に音が届くよう、遠隔操作のスピーカーも放出・配置済みです」
「了解や。ほな、春菜さん」
「うん。宏君達は、ここで他の事を進めておいて」
「分かった」
主達の意図をくみ、先周りで準備を完了させているローリエ。昨日の時点で、それなり以上の数のドールサーバントが用意されていたからこそ、可能だった荒技だ。
「後は、負傷者をどうやって保護するか、やな」
「相手が一旦引かない限りは、保護なんて無理だ」
「劣勢になった訳でもないのに、相手が引く訳ないわよね。と言うかそもそも、あいつらの命令系統って、どうなってるのかしら?」
「師匠、達兄、真琴姉。指揮官って、多分あれだと思う」
頼まれている負傷者の保護。それをどう果たすかを相談しているうちに、澪がモンスター兵の中に混ざっているそれっぽい存在を発見する。そのタイミングで聖属性強化フィールドが戦場を覆い、春菜の聖歌が響き渡る。
と言っても、やはり外見はどこからどう見てもモンスターだ。ただ、動きを見ている感じでは他のモンスター兵に指示を出しているように見えるし、比較しなければ分からない程度の差ではあるが見た目そのものも他のに比べて強そうだ。
「あれだけか? 他にもおりそうやけど」
「多分、探せばもっといるだろうな。ただ、総大将はこんな前線にはいないとは思うが」
などと言いながら、もう一度戦場全体を確認する。一度見つけてしまえば不思議と見分けやすくなるもので、次々と指揮官を発見していく宏達。
恐らく小隊長から中隊長ぐらいに当たるであろう指揮官は、全部で二十五体いた。
「さて、排除するとして、問題は二つ。あれをどうやって排除するかと、排除したとして連中がどう動くかやな」
「マスター。現在、この城は攻撃手段が使えません。攻撃するには、城の外に出る必要があります」
「せやな。残念ながら、安全圏から、とはいかん」
ローリエの指摘に頷き、少し考え込む宏。残念ながらこういうとき、宏達には丁度いい攻撃手段が少ないのだ。
「澪の狙撃は……」
「距離がありすぎて無理」
「やんなあ。天地波動砲とかは、最初言うたみたいに余波がヤバすぎてアウトやし……」
結局、なんとなく攻撃する流れで宏達の話が進んで行く。春菜の歌の効果で敵の動きが鈍った事と乱戦ぶりが酷過ぎて迂闊に手を出せない事から、状況の緊迫ぶりとは裏腹に実にのんきな感じで話し合いが進む。
とりあえず大型化ライトで誰かを巨大化させる、もしくは小型化ライトで敵を片っ端から小型化する、あたりで話がまとまりかけたところで、宏が何やら思い出す。
「せやせや。よう考えたら、神の船のミサイル、威力的に丁度ええんちゃうか?」
「そういや、そんな武装もあったわね」
「乗りもんの武装はほとんど使わんから、どうも忘れがちやねんなあ」
そう言いながらも、さっさと神の船を出すべく本宮の外に出る宏達。空から攻撃できる事と爆発の範囲が限定的な事、そしてミサイル自体に結構な誘導性がある事から、後方の指揮官個体に撃ちこむ分には誤射や巻き添えのリスクも自分が殴られるリスクも低い。
やっと適度な介入手段を見つけた事で、少々前のめりに行動しようとする宏達。そんな彼らを更に焦らせるように、ウォルディス軍が展開している場所、その中央付近で急激に魔力が膨れ上がる。
「こらやばい! 急いで潰さんと!」
焦りながらも神の船を出し、大急ぎで乗り込んで離陸させる宏。誰にでも分かるほど巨大な魔力に、絶望を感じつつも一切引く気配を見せないマルクト軍。上空を駆け抜ける複数の大きな影。
そんな彼らををあざ笑うかのように魔力が膨れ上がっていき……。
「まてい!!」
聞き覚えのある声が戦場全体に響き渡ると同時に、まるで妨害系のスキルでも食らったかのように一瞬で魔力が霧散する。
「泣き叫ぶ無辜の民を踏みにじり、笑いながら蹂躙する。己が欲望を満たすために他者の故郷を奪うは、畜生にも悖る行いと知れ。
人、それを侵略と言う!」
いつの間にか戦場に現れ、地面に着地していた白い大きなワイバーンの群れ。その中でもひときわ巨大な個体の頭上に居る人物が、朗々と口上を述べる。
あまりに唐突に表れた謎の人物。太陽の向きを完全に無視した逆光のおかげで、どう頑張ってもシルエットしか見えない所が、その謎さ加減に拍車をかける。
そんな怪人物とワイバーンの群れ。その両者の相乗効果で、戦闘は完全に中断していた。
「何者だ!?」
不気味な沈黙の中、先ほど巨大な魔力を叩きつけようとしていたらしい、恐らくウォルディス軍の指揮官か何かだと思われる存在が、この戦闘においてウォルディス側としては初めて、人間の言葉で叫び声を上げる。
あえて人間だと、会話が通じる可能性がある相手だと思わせないよう、人を小馬鹿にした笑顔を浮かべながらずっとモンスターの振りをしていた指揮官。そんな彼をしてついつい声を上げてしまうほど、この怪人物の登場は衝撃的だったらしい。
「様式美に従うなら『貴様らに名乗る名などない!』と答えるところだが、ここはあえてこう名乗ろう。全ての女性の下僕、お兄様だ!」
その声と同時に、不自然な逆光が消え怪人物の姿が余すことなくさらされる。
そこに居たのは、まごう事なき変態であった。
ただ唐突に現れただけならまだいい。問題なのは、バーストの現在の姿。バーストは現在、彼自身の努力ではどうにもできないいくつかの事情が重なり、ブーメランパンツと若干の服の残骸、そして何故か無傷のマスクとカタール以外はほぼ全裸と言う、本来ならとても人様の前に出られないような格好をしていたのだ。
しかも厄介な事に、「お兄様だ!」と高らかに名乗った瞬間、気合を入れ過ぎたか力みすぎたか、辛うじてちゃんと機能を残していた最後の砦が、力尽きたようにはじけ飛んでしまう。
何故か現在どの方向から見てもワイバーンの頭部か謎の自然光が仕事をし、肝心の部分はどうやっても目視できないから助かっているが、間違っても戦場に存在していい人間の姿はしていない。
その変質者全開の姿に、その手の倫理観なんぞ最初から持っていないはずのモンスター兵すら絶句し、完全に動きを止めていた。
なお、かなりどうでもいい話だが、ゲーム「フェアリーテイル・クロニクル」には、開発がノリと勢いで実装したとしか思えないネタスキルが多数存在している。その中のひとつに、裸族御用達のネタスキル・局部修正というものがある。その効果は実にわかりやすく、湯気や自然光、葉っぱ、障害物などで見えてはいけない状況で見えてはいけない場所を隠す、というものだ。
スキルレベルが上がるれば上がるほど隠される範囲が減少し、最終的にはインナー装備時とほぼ同じ範囲だけ湯気や自然光が覆い隠すという、誰もが認めるバカスキルである。
ちょうどバーストは、そのスキルを完全に極めきったぐらいの範囲だけ露出している感じだ。なぜこんなスキルをマスターしているのか、という疑問はあるが、そこはもうバーストなので気にするだけ無駄であろう。もっとも、この世界の場合、習得すらしていなかったはずのスキルがある日突然最大レベルまで育っていることがごくまれにあるため、バーストが好き好んで習得して育てた、という証拠もない。そもそもバーストの変態性とは方向性が違うので、自力で習得して育てたとなると、微妙にしっくり来ないところではある。
「行くぞ、ワイ太郎、ワイ美、ワイ吉、ワイ助、ワイ香!!」
「「「「「クエ~!!」」」」」
その隙を見逃さず、ワイバーン達に声をかけてウォルディス軍に襲いかかるバースト。声をかけられた五匹に続くように、無数のワイバーン達が容赦なくウォルディス軍を食い荒らす。
「成敗!!」
そんな中、雑魚をワイバーン達に任せ、バーストが真っ先に先ほど大魔力を発射しようとしたモンスター兵を一撃のもと解体する。相変わらず、不意打ちからの一撃は健在のようだ。
恐らく誰もが納得するであろうどうしようもない理由があるとはいえ、どう見ても全裸の変質者なのが惜しい活躍ぶりである。
余談ながら、バーストが縦横無尽に動き回っている間中も、謎の自然光その他はずっと仕事を続けており、どの瞬間を切り取っても局部がまったく見えないのはここだけの話である。
「……むう、変態にあれをやられるのって、なんとなくものすごく腹が立つ」
「……タイミングとか挙動とかが妙に完璧なのが、余計に人の神経逆なでするよな、あれ」
「……そうよね。なんかこう、大事なものをものすごく無遠慮に汚された感じがするわよね」
「……久しぶりに悪質なパロディ見た気分やでな」
バーストの活躍に、色々釈然としないものを感じて少々不機嫌そうにコメントする宏達。その間にも、バーストは次々と指揮官モンスターを仕留めていく。
バーストが無事だったのは一応喜ばしい事で、怪我人も死人も多数出て全滅コース一直線だった状況を変えてくれたのは十分にありがたいことだ。なのに、素直に感謝する気にも喜ぶ気にもなれないのはどう言う事だろう?
「……まあ、変態兄さんが頑張ってくれとるし、今のうちに助けられる怪我人は全部回収や!」
「お、おう!」
「そ、そうね!」
「お仕事お仕事」
変態の変態らしからぬ活躍とその悪質なパロディぶりに完全に状況を忘れていた宏達が、ようやく己の仕事を思い出して行動を開始する。今回は城の転送機能を使った方が早いと判断し、各種ステルスアイテムで姿を隠して戦場へ散っていく。
「総員撤退!」
同じタイミングで、我に返ったマルクト軍の指揮官が撤退を指示する。その動きを見て、城と自身のステルスモードを解除し、指揮官の前に移動して宏が声をかける。
「こちらアズマ工房の工房主、東宏です! マルクト王の要請を受けて支援しに来ました! あの城は安全圏ですんで、あそこに逃げ込んだって下さい!」
「……疑っている余裕はないか! 聞いたな! 全員、あの城へ逃げ込め!!」
壊滅的な被害を受けている自軍の状況を考え、一か八かで宏の申し出を受け入れる指揮官。その背後では撤退を支援するかのように、ワイバーン達がウォルディス兵を片っ端から蹂躙している。
あわや壊滅するかと思われたマルクト軍。その生存者が全員神の城へ逃げ込み、宏達が取り残された治療可能な怪我人を全員回収したとほぼ同時期に、潰走しはじめたウォルディス軍がワイバーン達の総攻撃で一兵残らず殲滅された。
「よう、ご苦労さん」
戦闘の終了を確認し、ワイバーンの頭から飛び降りて宏達に声をかけるバースト。いまだに自然光は頑張って仕事を続けている。
「お巡りさん、この人です」
「お巡りさん、僕です!!」
その余りに堂に入った変態ぶりに思わずネタをぶつけた澪に対し、やたらめったらよく通るいい声でそんなネタを返すバースト。
「自覚があったのかよ!?」
「いや、様式美じゃないか」
「そう言う問題じゃないわよ!」
「まあ、そういう問題じゃねえわな。っつうか正直、あのハルナって姉ちゃんがいなくて助かったわ。あの娘がいると、ちっと洒落ですまない感じがするしなあ」
珍しく少々困った様子を見せながら、ポリポリと頭を掻いてそう言うバースト。状況とノリで色々やってしまったが、地味に本人も全裸がまずい自覚ぐらいはちゃんと持っているのである。いくら不自然な自然光が仕事をしていても、それで許される訳ではない。
もっとも、地味に真琴と澪に関しては、全裸をさらして暴れていても洒落で済むと思っていて、しかも洒落で済む扱いされた当人達も内心で同意しているあたり、色々突っ込むべきではあろうが。
「でまあ、悪いんだが、誰か服譲ってくれね?」
「そうやと思って、今用意してるからちょい待ち」
バーストの頼みを快く聞き入れ、男物の服を数点鞄から取り出す宏。いくら不自然な自然光が仕事をしているといっても、全裸の細マッチョな男などマジマジと見ていたいものではない。
そうやって用意した服を渡そうとしたその時。
「何やってんだこの腐れ兄貴!!」
「わいば~ん!?」
何処からともなく表れた僧服姿のウサギ系獣人の男に吹っ飛ばされ、バーストが何とも言えない悲鳴を上げてお星さまになる。
「すみません、うちのあんちゃんが見苦しい姿をお見せして……」
「いやまあ、何で全裸やったんかは大体予想はついとるし、その理由が正しかったら恐らく変態兄さんにとっても不可抗力やし、ここにおるメンツはあんまり気にしてへんけど……」
「いや、そういう問題じゃねえんで」
とりなすような宏の言葉に、やけにきりっとした顔できっぱり言い切る僧服ウサギ。これがバースト専属の突っ込み・制裁役、イーヴァスとアズマ工房との出会いであった。
「人の話を聞く前に吹っ飛ばすのは、さすがによくないと思うぞ弟よ」
「普通、女性の前で身内が全裸さらして変態行為してりゃ、まずは問答無用で吹っ飛ばすだろうよ」
戻ってきてちゃんと服を着たバーストが、真っ先に弟に対して苦情をぶつける。その苦情に対して、取りつく島もない態度を見せるイーヴァス。
ようやくたどり着いた精鋭部隊が被害の確認と今後の侵略に備えた準備を行っている中、空気を読まずに行われるバーストへの尋問。ワイバーンの群れがその様子をじっと大人しく観察している所が、異様な空気を醸し出して実にシュールである。
「実の身内が全裸で戦場を飛びまわってるの見た時、俺がどんな気持だったか分かるか? あんちゃん、俺本気で情けなかったんだからな」
「お兄ちゃんだって、別に好き好んで全裸で暴れ回ってた訳じゃねえぞ。そもそもの話、俺らみたいな使い捨てのアサシンが、ワイバーンに食われかけて無事に済むような防具着てる訳ねえじゃん」
「そりゃそうかもしれねえけど、それ言い出したらそもそも、何であんちゃんはワイバーンに食われて無事だったんだよ?」
「そりゃ、お兄ちゃんだからな」
バーストの答えになっていない答えに思わず眉間を押さえ、色々諦めたように首を左右に振って尋問を続ける。
「まあ、理解できないけどそれはいいとして、だ。ワイバーンに食われかけて無事に生き延びれるあんちゃんが、何で予備の服の一着も持ってなかったんだよ?」
「そりゃ簡単だ。荷物を持ってない状態で拉致されたからな。そもそもこっちは身軽さが身上のアサシンだぜ? いくらなんでも、ベースキャンプの護衛中に予備の服まで持ち歩いてねえよ」
「持ってなくても、現地調達ぐらいできるだろうが!」
「あのなあ。そっちの工房主じゃあるまいし、ワイバーンが生息してるような場所で手に入る皮とか繊維なんか、お兄ちゃんに加工できる訳ないだろう?」
「適当に切って腰に巻くぐらい何で出来ないんだよ!?」
イーヴァスのその台詞に、宏と澪、バーストの三人から何言ってんだこいつ、という視線が突き刺さる。達也と真琴もどこか遠い目をしているあたり、同じ事を考えて失敗した経験があるのだろう。
実際のところ、トロール鳥ぐらいまでのモンスターならともかく、ワイバーンが普段生息している土地で狩れるモンスターは、解体はともかく加工となるとどんな単純な作業でも職人技なしには不可能だ。
解体の段階までは、生産スキルなしでもまったく問題はない。せいぜい貴重な素材が分からずに無駄にするぐらいで、解体そのものは普通にできる。
だが、一度解体して素材にしてしまうと、今度は急に単純な加工すら素人には許されなくなる。たとえば皮の場合、適当なサイズに切ろうとしても刃物が通らなかったり、訳の分からない切れ方をしたりと、どういう訳か加工とすら呼べないレベルの事すら上手くできなくなるのだ。
更に、そこが上手く行ったとしても洗浄して血の臭いを落とすのがまた、非常に難易度が高い。解体の途中に適度なサイズに切ればいい、という意見が実行不可能なのも、このあたりの問題が大きい。特に解体途中だと、変に切り落とすとやたら血の臭いなどが染みやすくなるので、更に問題は酷くなる。
たとえアサシンでなくても、ワイバーンが飛びまわりイビルタイガーやヘルハウンドの上位種がうろうろしている環境で、こびりついた血の臭いを周囲にこれでもかとまき散らすような皮を身にまとうなど、自殺行為以外の何ものでもない。バーストが諦めるのも当然であろう。
この世界で後半マップに飛ばされて、現地調達で衣食住を確保できるのは宏か頑張ってもせいぜい澪ぐらいなのだ。
「なあ、変態兄さん。こっちのツッコミ兄さん、もしかしてヘルハウンドとかばらした後加工しようとした経験あらへん人?」
「弟の私生活まではちゃんと把握してねえが、多分そんな経験はないだろうなあ。あったら、こんな頭の悪い事言わねえし」
「そうよねえ。あれを経験してたら、絶対に出て来ない台詞よねえ、あれ」
「ん。そんな簡単だったら、師匠もボクも春姉も苦労はしない」
どうにも自身には理解できない理由で、駄目出しの集中砲火を食らうイーヴァス。何故か味方が一人もいない事から、どうやら適当に切って腰に巻くだけ、と言うのが不可能なのは何とか理解したが、どうにも釈然としないものを感じる。
「……それが無理ってのはまあいいとして、何で全裸のままでワイバーンに乗ってこんなところで暴れてるのさ? 途中どこかで服調達するとか、考えなかったのかよ?」
「最初は、オルガ村で調達するつもりだったんだよ。服が無いのと同じ理由で文無しだから、自分の荷物回収するか、最悪シームリットの家に書置きしてちょっと服を拝借する予定だった。一応言っておくが、最悪の場合でもさすがに勝手に持って行くのは弟に悪いから、後で埋め合わせはするつもりだったんだぜ?」
「いやまあ、あんちゃんがいなきゃ俺ら生きてねえから、俺もシームリット兄ちゃんも服ぐらいあんちゃんにいくらでも提供するけどさ。じゃあ、何でそうしなかったんだよ?」
「ワイ太郎がな、ワイバーンの、っつうか大型の上級モンスターの本能に逆らえなくて、ここの大規模戦闘に一直線に突っ込んじまったんだよ。オルガ村まで到底歩いていける距離じゃなかったから、ワイ太郎に頼るしかなくて、どうにも防ぎようが無かった」
「……そもそも、何でワイバーンと意思疎通できてんだよ? つうか、そのワイバーン、何で瘴気の欠片もないんだよ?」
「そりゃまあ、ワイ太郎達は御仏の教えに目覚めてるからなあ。それに、お兄ちゃんと意思疎通できるのは、ずっと一緒に暮らしてたからだし。なあ、ワイ太郎?」
「クケ~!!」
バーストに呼びかけられて、その通りとばかりに胸を張って高らかに鳴くワイ太郎。物凄く仲がよさそうだ。ワイバーンとは思えないつぶらな瞳が実にラブリーである。
「正直、今でもワイ太郎達との甘美な蜜月の日々に未練はあるが、ワイバーン以外の女性にもそろそろご奉仕したくなって戻ってくる事にした結果が、今の状況な訳だが」
「別に、そのままずっと蜜月の日々を過ごしてても良かったと思う」
「いや、正直、ワイ美もワイ香もワイ恵も他のワイバーン達も、できる美の追求をやりきっちまったところがあってなあ。お兄ちゃんとしては腕を錆びつかせないためにも、ワイ美達をもっと磨きあげるためにも、いい加減人里に戻る時期だったんだよ」
そう言って雌ワイバーン達の方に視線を向けるバースト。視線の先には、キラキラと輝く鱗と整った爪や牙、そして何よりワイバーンらしからぬ優美な優しい曲線を描く身体とつぶらな瞳が美しい、価値観が違う人間達の目から見ても美ワイバーンとしか言いようがない集団がいた。
「女性ならワイバーンでもいいのね……」
「お兄ちゃんは、全ての女性の下僕だからな!」
ワイ美達の成果を見て疲れたようにコメントする真琴に対して、胸を張ってそんな宣言をするバースト。ここまで徹底されると、いっそ清々しい。
「で、わざわざ全裸さらしてまで、あんな見栄切って口上ぶちあげたんは何でなん? 自分アサシンやねんから、立場的にああいうんはあかんのとちゃうん?」
「そのまま突っ込んで行ったら、マルクト兵にも余計な被害が出そうだったからな。効果があるかどうかはかなり博打だったが、注目を集めつつ魔力の溜めを潰せるちょっとした発声方法を試してみた訳だ。これでも、御仏の教えに目覚めたワイ太郎達のためにも、少しでも被害を抑えようと無い知恵絞って色々考えたんだぜ?」
「つうことはつまり、それが思った以上に効果があったから、相手の意気をくじくために道化っぽい真似やってみた、ってところか?」
「そそ。乗ってきたら儲けもん、ぐらいのつもりで、伝説の客人が伝えた物語のクライマックスシーンを真似てみたら、ウォルディスのモンスター兵の癖に見事に様式美にあわせてきたからな。そのまま勢いで押し切ったって訳だ」
宏と達也の確認に、何を考えて全裸であんな真似をしたのかを説明するバースト。全面的に無罪判決を出せるかどうかはともかく、経緯を考えるとバーストを責めるのは酷な面がある。
話を聞いただけの人間が後からああすればよかった、こうすればよかったというのは簡単だが、当事者になってしまうと大抵は思いつかない、もしくは思い付いても実行できないものだ。
それに、そもそもワイバーンに拉致されて、そのワイバーンを手懐けた上で生還したというだけで、既に普通は出来ない種類の偉業である。その上、今回は全裸だった事以外に行動に問題があった訳ではなく、むしろ被害を大きく抑えた状態で一部隊だけとはいえ敵軍を完全に殲滅しているのだ。
全裸同然の格好で来るしかなかった事情まで含めて考えると、今回に限って言えばバーストは責められるほど悪い事はしていない。いかに日ごろの行いが悪かろうと、それだけで全否定はいくらなんでも不当であろう。
口上がらみの部分とそれをよりにもよってほぼ全裸のバーストが行った事に関しては色々思うところがある宏達だが、そもそも全裸だった事自体が不可抗力だし、逆に言えば明確に非難できるところは全裸であった事だけなのだ。既にイーヴァスが一度吹っ飛ばしてお星様にしている事だし、これ以上は本当に不当にすぎる。
「それにしても、ワイバーンが仏教、なあ……」
「おう。ちゃんと般若心経も唱えられるんだぜ。なあ?」
「「「「「クエ~!!」」」」」
微妙な表情を浮かべながらワイバーンを見てそうこぼした達也に、どれだけ仏教徒なのかを証明するようにワイ太郎達に声をかけるバースト。
バーストの言葉を受けて、ワイ太郎達が一声鳴いてから般若心経を唱和し始める。
「本気で般若心経ね……」
「さすがにワイバーンがお経唱えるんは、シュールを通り越してコメントできひん世界になっとんでなあ……」
「師匠、真琴姉。そもそもワイバーンの口の構造で、何で般若心経が正確に唱えられるの?」
「さすがにそれは分からんわ……」
「そこは永遠の謎ね……」
見事な般若心経の唱和に、宏達が物凄く悩ましい表情を浮かべる。ユニコーンのそれと同様に、恐らくちゃんとした効果がありそうなのが悩ましい。
「……ねえ、宏君……」
「春菜さん、いつの間に……?」
「今来たところ。怪我人の治療で相談したかったんだけど……」
そう言いながらも、春菜の視線は般若心経を唱和するワイバーンに釘付けだ。その、どことなく悲しそうな表情に、春菜の気持ちと言いたい事を察してしまう宏達。
「私って、結局なんなんだろうね……」
「駄目よ春菜! 深く考えちゃダメ!」
「そうだぞ春菜! これはお前がどうってより、単純にブッダが偉大だっただけだ!!」
「春姉、大丈夫だから!」
次々にモンスターが仏門に帰依していく姿を見せられ、己のアイデンティティに重大な疑義を抱き始める春菜。ダールの頃にやった悪乗りの結果がこれなのは、いくら因果応報と言っても少々度が過ぎている気がする。
そんな春菜を慌てて一生懸命なだめる真琴達。戦況が押し迫っている今、春菜のテンションがここまでマイナス方向なのは少々どころではなく困る。
「なあ、春菜さん。別に悪いことした訳やないんやし、あんまり気にしたり落ち込んだりするんもどうかと思うで」
「まあ、そうなんだけどね……」
宏にたしなめられても、いまいち気分が上向かないらしい春菜。先ほどエアリス達に儀式を頼んだ時の様子を見る限りでは、般若心経関係のあれこれについてはそれなりに折り合いがついているように見えた。だがそれでも、さすがにワイバーンが仏門に帰依して人間と連携を取り、挙句に般若心経を唱和してのけた姿はショックが大きかったらしい。
今の春菜は、放置しておくとなんちゃってでいい加減な仏教を広めた責任を取るため、頭を丸めて出家しかねない危うさがある。
「とりあえずあんちゃん。さっきの事情は分かった。恐らくやり過ぎなんだろうとは思うが、そこは日ごろの行いって事で諦めろ」
工房総出で春菜を慰め、なだめすかし、たしなめてどうにか気持ちを切り替えさせようと奮闘しているその横で、イーヴァスがバーストに対して先ほどの話の続きを始めていた。
「諦めろって、それは酷いぞ弟よ」
「だけどな、あんちゃん。閻魔帳に色々増えてる分の制裁は、これはこれで別口なんだわ。特に、異文化出身の相手にいくらなかった事にしてくれる人しかいなかったとはいえ、人前で堂々と太もも触るのはさすがにきっちり制裁しとかなきゃいけない案件なんだぞ?」
「それはさっきの分と相殺で良くないか?」
「こたえはノー。それはそれ、これはこれ、だ。てな訳であと三発ほど、累積分で制裁するわ」
「ちょっと待て弟よ。いくらなんでも横暴すぎる話しあべし!?」
バーストの必死の主張もむなしく、公約通りイーヴァスに、ではなく最初の一発はワイ太郎に尻尾で大きく弾き飛ばされる。
己の仕事をよもやワイバーンに横取りされるとは思わず、一瞬呆然とするイーヴァス。だが、すぐに気を取り直して戻ってきたバーストを更にお星さまにする。
そんな事をやっていると、般若心経の唱和を終えたワイバーン達が、ワイ太郎を残して次々に飛び立っていく。飛び立つ先は彼らの営巣地である北西部の山脈、ではなく、何故か南東の方。
「お~、ワイバーンの群れが飛んどる」
「あっちの方向に行くって事は、南東方面にもウォルディスが来てるって事かしら?」
「うん。さっき連絡があって、南東部からもウォルディス軍が侵入してきてるのが確認されてるんだ。怪我人の治療で相談したい、って言うのも、そのあたりの事が関係してるし」
「なるほどな。ほな、そっちの対応も含めて、作業急ごか」
「うん、お願い」
春菜の話を聞き、大急ぎで治療にめどをつけるべく行動を開始する宏。マルクトとウォルディスの戦争は、順調に規模を拡大していくのであった。
とりあえず、お兄様の目立った出番はこれで終わりです。
後は出てきてもワンカットとか、地の文で活躍していることをさらっと描写される、とか、その程度です。