風と月の庵にて
賽ノ地の中心に鄙びた趣を醸しつつ、紅葉の棚に軒を連ねる茶屋『風月庵』。
馴染みの茶屋で午後のひとときを過ごす賽ノ地の町奉行“近松景元”の、何でもない日の出来事。
このお話は、早村友裕さん発案の素敵企画【コラボ侍】の脇役キャラクター達にスポットを当てた、スピンオフ小説です。
早村さんの手掛けられたメインのお話【賽ノ地青嵐抄―さいのちせいらんしょう―】はこちら→http://ncode.syosetu.com/n0713q/
《景元と朋香 イメージ画》
小春日和の昼下がりのこと。
馴染みの茶店で、朋香は野点傘の軒をすいと飛び抜けてゆく赤蜻蛉をぼんやりと目で追っていた。
「町に出たついでだ。いっそこのまま逃げちまうか、二人で」
景元はぷかぷかと紫煙をくゆらせながら、いつもの如く朋香の膝を枕に、紅葉の色彩を溶かし出したような緋毛氈の縁台に寝そべっていた。
「まあ……私が、景元様とですか? それも悪くはありませんが、まだ全てを棄てて逃げてしまうには早いのではありませんか」
ひらひらと宙を舞っていた悪戯好きの紅葉が、景元の鼻の頭にぺたと腰を落ち着けるのを見て、朋香はくすりと微笑んでいた。
蝿を退けるかのようにぱたぱたと手を振り、悪戯小僧を追っ払った景元の目元からはすっかり生気が失せ、いつものぎらぎらとした光は鳴りを潜めてしまっている。
ここのところ、景元はずっとこの調子である。
お白州の中になど居た試しがないというのに、塞ぎ通しで部屋に篭ってばかり居るというので、心配した与力たちが景元を連れ出すようにと気を利かせてくれたのである。
真面目にしていることで周囲を不安がらせてしまう普段の仕事振りもどうなのかと思うところはあったが、それにしても今回の塞ぎ振りは尋常なものではない。
贔屓にしていた色町の太夫に愛想を尽かされた時でさえ、次の日にはけろりと立ち直り、きらきらと瞳を輝かせて別の女郎を追いかけていたというのに。
「分かってるさ、逃げた所で何も始まらねぇ事くらい。だが、考えれば考えるほど己の非力さが悔やまれてならねえ。今の今までさんざ“羅刹”の奴らに縄張りを荒らされた事には目ぇ瞑って、今更奴らと仲良くしろだの、いつ終わるとも知れねぇ仮初の平穏の代償に、この町を差し出せだの。結局動乱の矢面に立つ事の無い頭でっかち共は、そこに“生きてる”人間の苦しみなんざ、雀の涙ほども理解しちゃくれねぇんだ」
「景元様……」
歯痒そうに唇を噛んだ景元は、ゆっくりと朋香の膝の上から身を起こすと、縁台の隅に備え付けられた灰吹きに向かって乱暴に煙草を投げ落とした。
「あいつ等は羅刹共の招致のために、お次はとうとう町の盗賊共の取締まりを強化しろと言って来やがった。羅刹を狩っていた連中は、取締まりを畏れて次々と盗賊狩りに転身しちまってる。この町ではな、何も盗賊がみんな悪ぃ奴だとは限らねえんだ。お互いが持ちつ持たれつでやってるところだってたくさんある。それに盗賊の中にゃ、戦や流行り病で親を無くした餓鬼共も多い……そんな奴らを端から救ってやろうともせずに、邪魔んなったから切り捨てちまえ、だと? 本当の“鬼”は羅刹や夜叉共なんかじゃねえ……腐った欲にまみれた同じ人間の方なのさ」
大きく溜め息を漏らした景元は、腑抜けた顔でただひたすらに、頭上に張り巡らされた紅葉棚を見上げていた。
すっかり意気地を無くした景元の様子は、翼を捥がれた鳥のようである。
もうこれ以上、このお方の沈みきった姿は見たくない。
きっと、景元を連れ出せと提案してきた与力たちも同じ思いでいるはずである。
「景元様、私はちゃんと分かっていますよ。貴方が日々、町人達の間で高まっていく羅刹の排斥思想を何とか穏便に宥め、尚且つお上の非情な下知を水面下で食い止めようとなさっていることを」
意を決した朋香は、うなだれた景元の節くれ立った手をとり、強く握っていた。
「町の方々も貴方のお心を理解しているはず。これほど理不尽な処遇を受けながら、未だ町人たちに表立った動きが見られないのは、景元様のお力あってのことだと思っております」
今にも泣きそうなほど、顔のあちこちに皺を刻んだ景元は、実の歳よりも随分幼く、小さく見えた。
「朋香、済まねえ。俺が泣き言言ったところで何も変わらねえのは分かってるんだが――お前しか話す相手が居ねぇんだ」
「いいえ、私に話す事で景元さまのお心が晴れるなら、いくらでもお話し下さい」
「朋香――」
眼前に迫った景元の顔がこれから何をやらかそうとしているのか、そこも確かに興味を惹かれてはいたのだが、朋香にとってはそれよりも、彼の後ろで袂をたくし上げ、仁王の如き形相で腕を組んで立っている中年の男の方がよほど気になってしまっていたのだった。
「盛り上がってるとこ申し訳ないんだけどねえ、景元様。いい加減店に溜まったツケを払ってもらわねえと、先にこっちが夜逃げしないとならなくなっちまうんだけどね」
「おっさん……数寄も凝らせねえで、鄙びた茶屋の主が務まると思ってんのかよ」
いよいよ朋香の両肩を抱こうとしていた景元は、心底辟易した様子で、虫を見るような目遣いをしながら茶屋の主を振り返っていた。
「あんたが逃げるだの何だのって言うから心配になって出てきたんだろ。こないだお白州の方にしっかりと請求書を送らせてもらったからね。耳揃えて返せなきゃ、地獄の果てまででも取り立てに行ってやるから、覚悟しといておくれよ」
「うるせえ野郎だ、これだから雅のわからねえ親父は」
不貞腐れ、すっかり口を尖らせた景元は、睨め付けるように主人を鋭く見遣ると、わざとらしく舌打ちをしてみせた。しかし、歳の差が倍近くあるとはいえ、茶屋の主人も気迫では一歩も引けを取っていない。
「毎日女の尻ばっかり追いかけてるお奉行に雅がどうのと言われたかないね。とにかく、金を返すまでの間は賽ノ地を出てもらっちゃ困るって事さ」
主人の言い分も尤もだ。
景元は、日々の日課とばかりに、ここ『風月庵』で散々飲み食いしているが、一銭たりと対価を落とした試しがないのである。
しかし、それならそれで、茶屋の主も彼を受け入れなければ済む事だ。
ツケがどうのとぶつくさ言いつつも、彼が景元を根本から拒む事がないのは何故なのだろうか。
「戻るぜ、朋香。まずはこの店の書付を破り捨てるとこから始めるぞ」
「は……はい、景元様」
振り返ることすらなく、景元はあっさりと席を立っていた。
慌てた朋香は、思わず景元の背中と茶屋の主人のしかめっ面とを見比べながら、あちらこちらと着物の隙間を探り、自らの財布の所在を確かめようとしていた。
「ああ、いいんだよ朋香ちゃん。今日の払いも景元さまのツケにしておくからね。全く、本当に碌でもないお奉行様だねえ。朋香ちゃんもいちいち毎度付き合うこと無いんだよ」
「いえ、私は――」
景元が背を向けて歩き出すや否や、苦笑いを浮かべてそう言った主人の表情は、今までの怒りっぷりが嘘のように、柔らかな色を宿していた。
途端、朋香は先に浮かんだ疑問が、如何に間の抜けた愚問であったかということを思い知らされる。
「景元様が泣き言を漏らされたら、いつでもここへ連れておいで。後々しっかりと書付は送らせてもらうけどね」
「はい、ありがとうございます」
自分でも言っていたところではないか。
景元が町の衆を護ろうと奮闘していることは、皆も充分理解している事なのだ、と。
何のことは無い。彼も自分と同じ――景元に心からの信頼を寄せ、彼の人柄を好いているのだ。
「何やってんだ、朋香。行くぞ」
「はい、景元様」
小春日和の空の下、さわさわと紅葉棚を揺らす色無き風に瞳を薄めた朋香は、微笑む主人に向かって軽く会釈を返すと、小走りに駆け出していた。




