16.ふさわしい強さと心<2/5>
大人が座るにはちょっと小さい鏡台の椅子も、ランシィには十分な大きさだった。凝った刺繍の施された布張りの、背もたれのない四角い椅子を、ランシィは最初、座るものだとは思わなかったようだ。物珍しそうに眺めるその小さな体をきちんと座らせ、湯気の立った陶器のカップを差し出したのは、金髪の美しい歌姫パルディナだった。
カップの中では、赤茶色の液体が湯気と一緒に甘い香りを漂わせている。ランシィは不思議そうに、パルディナとカップの液体を交互に見やると、おそるおそるそれに口をつけた。なにに驚いたのか、目をまん丸にしてグレイスを見上げる。
「それは、コアコアって言うんだよ」
沸かした湯を次のカップに注ぎ、棒でかき回しながら答えたのは、歌姫の舞台でリュートを弾いていた男だった。間近で見ると、思っていたよりも年配のようだが、細身ながら姿勢もよく声にも張りがある。町のおしゃれな酒場で酒でも作らせたら、しっくりしそうな雰囲気だった。
ユーシフと名乗ったその男は、ランシィの後ろで肩身狭そうに立っているグレイスにもカップを差し出してきた。
「あまり多く飲むと逆に目が冴えてしまうんだが、体を温めるにはいいだろう。その子のは、ちょっと甘めに作ってあるよ」
ユーシフはそう言うと、自分は暖炉の前に持ってきた椅子に腰掛けた。グレイスは受け取ったカップの表面を眺め、さっきのランシィと同じようにおそるおそる口をつけた。
赤土を溶かしたような見た目とは裏腹に、甘くて、多少苦みはあるがコクもある不思議な飲み物だった。確かに、これなら体が温まりそうだ。パルディナは自分もカップを片手に、物珍しそうにコアコアを飲んでいるグレイスとランシィをしばらく眺めていた。
「あなたも、遠慮してないで座れば?」
言いながらパルディナは、自分が椅子代わりに腰掛けている寝台の隣を意地悪く示した。
防戦一方の情けない自分の姿が思い出されて、グレイスはぎこちない笑顔で首を横に振った。その態度がまた不満だったのか、パルディナが判りやすく頬をふくらませ、グレイスは内心で冷や汗をかいた。
「もう、そのくらいにしときなさい。その神官さんはお前を助けに入ってくれたんだろう?」
苦笑いしながら、ユーシフがパルディナをたしなめる。パルディナはいたずらがばれた子供のように肩をすくめた。
「だって、悔しかったんだもの。今まであの歌の最中に、横を向いてお喋りする男なんかいなかったんだから」
「だからあれは絵のことを……」
「それはさっき聞いたわよ」
つい言い訳がましい口調になってしまうグレイスを、パルディナが冷ややかに見返した。言葉に詰まったグレイスをしばらく眺め、今度はくすくす笑い出す。
化粧を落とし、丈の長い夜着に着替えたパルディナは、舞台での大人っぽさが嘘のようだった。ひょっとしてグレイスよりも年下なのかも知れない。美しさに変わりはないが、細めた目元にはあどけなさまで感じられる。化粧は見た目を補うためではなく、歌にあわせて雰囲気を演出するためのものなのだろう。
「いいわ、その子に免じてもう許してあげる」
「それはどうも……」
反射的に頭を下げてから、なぜ自分がここで礼を言わなければならないのか、思わず考えてしまった。許すも許さないもなにも、自分はなにひとつ悪いことはしていないはずなのだが……
「で、時の選びし者とか、ジェノヴァの剣とか言ってたのは、あれはなぁに?」
両手でカップを抱え、大事そうにコアコアを飲んでいたランシィの動きが止まった。灰色の服の男との会話を思い出したのだろう。しかし、あの男の声がいくらよく通るものだったとはいえ、パルディナはあの場にはいなかったではないか。
「商売柄、耳はいいのよ。様子を見るのにちょっと扉をあけたら聞こえてきたんだけど……」
問うように見返したグレイスに、パルディナは形の良い自分の耳を指さした。
「あたしからは見えなかったけど、あなたたち以外にも、誰かいたわよね? ジェノヴァがどうとか言っていたのは誰?」
確かに、歌姫にとって耳は喉と同じくらい大事なものだろう。しかし、あの距離で声色の違いまで聞き分けるのか。グレイスは内心舌を巻いた。
別に、ここでパルディナに全てを語る必要はない。歌姫とは今日初めて出会ったばかりで、ランシィなどまともな会話は今が初めてなのだ。
しかしランシィは、いろいろ思いを巡らすグレイスにはお構いなしで、灰色の右目で真っ直ぐにパルディナを見た。
「左目を取り戻したければ、強くなれって言われた」
そう言われてパルディナは、左目を覆うほど伸びたランシィの前髪の意味に気付いたようだ。
ランシィの左目はまぶたが開かないだけで、一見しただけでは異常があるようには見えない。見る者は、横着で髪を整えてないだけのように思うらしかった。
「ジェノヴァってあの絵の女の人なんでしょう? あの人が剣をくれたら、目が見えるようになるの?」
「ジェノヴァって……女神ジェノヴァの事よね?」
ランシィの言葉を、パルディナはいぶかりも笑いもしなかった。
「カーシャムの半身で、戦と裁きを司る、隻眼の女神。王国サルツニアの伝承では始祖シャール大帝を守護する証として、自分の『裁定の左目』の入った宝剣ルベロクロスを与えたのよね」
グレイスの知識にはなかった、サルツニアの始祖の名前まで知っている。
一般に、歌姫や吟遊詩人と呼ばれる者たちは、歌そのものだけではなく、各地の伝説や古い文化にも詳しい。歌の背景にある人間関係や人々の生活にも精通しているからこそ、人の心に訴えかける歌が唄えるのだろう。
パルディナはしばらくランシィを見た後、どう答えていいか判らないでいるグレイスに目を向けた。
「あなた、なにも言わなくていいの? ジェノヴァ神殿にある宝剣ルベロクロスは、カーシャム教会の見解では、本来の女神ジェノヴァとは無関係なことになってるんじゃないの?」
「それは……」
現状の教会の見解にあわないからと、頭から話を否定する必要はないと、グレイスは思っている。神剣ジェノヴィアに関しては、証拠になるものをサルツニアが外に出さないから、教会側の考察や検証が進んでいないだけなのかも知れないのだ。
だがそんな理屈よりも、グレイスには、あの絵を見た時に思い出したサルツニアの騎士剣に埋め込まれた紋章の意味が、すとんと腑に落ちてしまったことの方が重要に思えた。
「……あの絵以外にも、この子と女神ジェノヴァが関わるような心当たりが、あなたにはあるのね?」
なんと聡い娘なのか。確信を持ったパルディナの瞳に、グレイスは否定も肯定もできず黙り込んだ。
「グレイスさん、だっけ?」
それまで黙って話を聞いていたユーシフが、静かに笑みを浮かべた。