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流水の管理者の一歩 作者:桐谷瑞香
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前編

「えっと、今、何と言いましたか?」
「だからテレーズの異動先は水環すいかん省だ。国全体の水に関連することを管理している場所だ。ここよりも遠くなるが大丈夫だよな?」
「すい……かん……」
 ソファーに座り、復唱したテレーズの顔は徐々に強ばっていく。予想外の展開に頭がついていかなかった。
 目の前に座っている異動先を告げた上司は、申し訳なさそうな表情をしている。彼は一息吐いた後に口を開いた。
「……嫌なら断ることもできる」
 視線が下がりがちだったテレーズは勢いよく顔を上げた。しかし上司の表情は依然として浮かない。
「ただしその場合、他の誰かが代わりに行くことになるし、将来にも影響してくることになるだろう」
 つまり断ることは可能だが、その場合他の人に迷惑がかかるだけでなく、出世に響くということだ。なんと理不尽な世の中だろう。自分の意見さえ、まともに通らないなど。そのようなことをテレーズは声には出さずに思っていた。
「……それじゃあ断れないじゃないですか」
 やっと言葉を漏らすと、上司は視線を合わせてきた。
「本当は止めたかったが、どうしてもと言われて上からの意向に逆らえなかった。すまない。……どんな仕事でも繋がりはある。どんな内容でも今後に生きる部分はある。向こうで知識を得てこちらに戻ってこられたら、是非ともその経験を生かしてほしい」
 この上司は本当にテレーズのことを想っているのだろう。言葉や態度の端々からそれが感じ取れた。
 望む、望まないに関わらず、社会の荒波に飛び込んだ時点で、動き続けなければならない歯車になるのは決まっていた。まだ影響力は少ないが、ここで歯車を脱輪させて他の人に迷惑はかけられない。
 テレーズは唇を軽く噛みしめてから、口を開いた。
「わかりました、頑張ってみます」


 * * *


 慣れない道を歩きながら、テレーズは地図を片手に進んでいた。肩に付くくらいの焦げ茶色の髪を一本に結った二十代半ばの女性は、時折周囲を見渡して歩いていた。初めて行く土地のため念には念を入れて調べたが、それでも心配だった。懐中時計で時間を確認しつつ足早に進んだ。
 右側には工場地帯が見える。そこからは灰色の煙が絶え間なく出ていた。汽笛もかすかに聞こえる。近くに汽車が乗り入れる駅があるようだ。それらを見たり聞いたりすることで、ここが郊外ではなく、町の中心地なのだと実感することができた。
 蒸気機関の発明により円を描くようにして急速に発展したハーベルク都市。水によって守られているとも言われている都市だ。この都市には北から川が流れ込んできており、それが中心部で東西に分かれて円を描くようにして南下し、最終的に南側でぶつかり、一本の川となって流れている。つまり都市の内部に水の円で囲まれた地域があるのだ。その川の内側には政治的にも社会的にも重要な施設が置かれている。
 一般人ではあまり馴染みのない川を越えると、今日からテレーズが勤める建物が見えてきた。
「水車の管理者だった人間が、まさか水環省にいくことになるなんて……。せめて建築省なら賦に落ちた点はあるんだけど」
 肩をすくめながら『水環省』と書かれた建物を見上げた。
 かつてテレーズは都市の郊外にて、その近辺で流れている川の水を水車によって汲み上げ、近隣の住民に配っている水の仲介役の仕事をしていた。そこは建築省の出先機関で、机の上で作業するよりも現場仕事が多かった。皆で団結して動く仕事ばかりだったので、誰かと何かを作り上げたいというテレーズの性格にはあっている職場だった。
 だから異動する可能性があると言われたときは、同じような場所で希望を申し出た。しかし結果として予想外の職場に異動となったのである。
「水環省って何をするんだろう。省の内部の仕事って事務処理が多いって聞いたけど……」
 何をしているかわからないということが、まずテレーズの心を不安にさせていく。さらに知っている人がいないということも、心細さを助長させていた。
 そんな感情を抱きながら水環省の前に来ると、警備員に証明書を見せるよう言われる。テレーズは前の職場の所長からもらった異動先が書かれた一枚の紙を見せた。
「初めまして、お世話になります。本日付けで水環省に配属になった、テレーズ・カルメと申します」
「ああ、今日から来ることになったカルメさんだね。話は聞いている。カルメさんの配属先は管理部の第二担当だ。中に入って目の前にある階段を三階まで上り、東側に沿って進むと部屋が見えてくる。実働部第二担当が廊下を挟んで逆側にあるから、誤ってそっちに入らないように」
「ありがとうございます」
 礼を言ってから、テレーズは中に入った。二階まで続いている大きな階段と、大広間を明るく照らし出しているシャンデリアが出迎えてくれる。そこをせわしない人たちが上り下りしていた。
 誰もがスーツや小綺麗な服を着ている。前の職場では制服でもあった作業服を着ている人など、どこにもいなかった。
「本当にどうして私なんかがここに送られたのよ……」
 持っていた鞄をぎゅっと握りしめて階段を上った。
 三階まで上り、言われた通りに東へ進む。やがて天井から吊るされている『第二担当』という文字が見えてきた。その真上に立ち止まると、左右にあるドアには『実働部』と『管理部』と書かれていた。
 騒がしい声が聞こえる実働部のドアを背にして、管理部のドアをノックした。中から声がかかったので、おそるおそるドアを押す。
「おはようございます」
 ドアを開くと、傍にいた三つ編みの女性が立ち上がっている。しかしそれ以外の者は軽く視線を向けただけだ。席はいくつもあるが、ほとんど座っていなかった。
「おはようございます。恐れ入りますがどのようなご用件でしょうか?」
 テレーズは慌てて頭を下げる。
「初めまして。今日からお世話になります、テレーズ・カルメと申します。建築省の第七支部より来ました。一から仕事を覚えることになり、ご迷惑をかけることが多々ありますが、よろしくお願いします」
「貴女が異動してきた……。こちらこそよろしくお願いします。でも本当によろしくされる人たちが今はいないんです。私はただの非常勤の職員で……」
 女性は腕を組んで、困ったような顔をしていた。空白の席が目立つのと今の発言は関係あるのだろうか。
「何かあったのですか?」
「実働部から応援を頼まれて、それに狩り出されています。じきに終わると思いますので席にでも座っていてください」
「はあ……」
 入り口から少し離れたところにある席に案内される。使い込まれた本が机の上に五冊置かれていた。
「全部法律本……?」
 分厚い本を試しに持ってみると、ずっしりとした重みを感じた。まずこの重みで挫けそうだ。すべて覚えなければならないのだろうか。
「――その本は必要なときに読めば大丈夫さ。自分たちだってすべて覚えているわけがない」
 斜め前の席に座っている、眼鏡をかけた青年が顔を上げずに言ってくる。二十代後半の灰茶色の髪の彼は、一心不乱に何かを書き留めているようだった。
「そうなんですか、教えてくださりありがとうございます」
 テレーズが口を閉じて椅子に座ると、静かになった。物音がほとんどしない。
 楽しくも賑やかな人がたくさんいた前の職場とは、雰囲気まで真逆のようだった。


 テレーズはしばらく机の上にあった薄めの本を眺めていた。すると誰かが駆け込んでくる騒々しい音がした。誰だろうと思っていると、ドアが勢いよく開かれる。
「おい、誰かいるか!?」
 入ってきたのは、三十歳くらいの強面で無精ひげを生やした男性。三つ編みの女性は慌てて彼に駆け寄った。
「ルベグランさん、こっちは実働部ではなく管理部です。部屋を間違わないでください」
「違う、管理部でいい」
「なら何かご用ですか?」
「ああ……にしても、人が少ないな」
「実働部が応援を要請したの、知っていますよね? おかげでこっちは仕事が進まなくて、困っているんですよ!」
「管理部の仕事って、届けられた書類の確認だっけ? そんなの後回しで――」
「その届出の有無がすぐに確認できなければ、今頃どうなっていますかね?」
「う……」
「届出の受理業務は、水環省でも要となる仕事です。皆が皆、実働部が登場しなければならない不正を働いているわけではありません。今回の件、通報もありましたが、ある書類が不足しているとわかったから、躊躇うことなく動き出せたんじゃないですか!?」
 両手を腰に添えた女性が一喝すると、男性の体は小さくなった。
「そうだったな……。本当に感謝している」
「わかったのなら、早く問題の事業者から話を聞き出してください」
 そう言って女性は深々と息を吐いた。テレーズはおずおずと彼女の近くに寄る。
「あの、何があったんですか?」
 ルベグランと呼ばれた男性が目を丸くしている。女性はテレーズのことを軽く見た。
「今日から赴任された方ですよ。カルメさん、こちらは実働部所属のルベグランさんです。ほとんど外に出ている人であまり接点はないでしょうが、こういう人もいるということで驚かないでくださいね」
「は、はあ……。テレーズ・カルメといいます。よろしくお願いします、ルベグランさん」
「ああ、よろしくな」
 ルベグランは視線をテレーズから再び女性に向けた。
「なあ、話変わるけどよ、過去の届出ってすぐに確認できるか?」
「種類によります。何の届出ですか?」
「水車利用の届出。これは目に見えてわかるから、たしか出しているはずなんだが……」
 眼鏡をかけた男性がすっと立ち上がり、奥に向かって歩いていく。そこには扉が閉まった棚が一面に並べられていた。その棚の扉を開けて、彼は上から下まで見始める。棚の上部には大気、水、土などと書かれており、一面にびっしりと書類がしまい込まれていた。
「ルベグランさん、例の事業所ですか?」
「そうだ。手間かけて悪いな、バルド」
「別に構いませんよ、すぐに終わることですから。名前や住所とか、最低限必要な事項は既に情報提供しているはずですが、それ以外の内容が見たいのですか?」
「そうだ。俺は事業所の構造を知りたいんだ」
「なるほど」
 青年は足を動かすことなく、目だけで棚を見ていた。程なくして書類の束をいくつか抜きだし、それを机の上に広げた。テレーズとルベグランはその机の周りに寄る。真新しい紙から黄ばんだ紙まで、新旧様々な書類が並べられていた。
「たしか今から三年くらい前の――」
 ルベグランが天井に軽く視線を向けて考えている間に、バルドが書類を一束差し出した。
「これですね」
「そうだ、ありがとな! その物事を的確に処理する素早さ、実働部に是非欲しいぜ」
「お断りします」
 にこにこと言ったルベグランに反して、バルドは冷たい瞳で言い放った。
「相変わらず即答だな」
「ルベグランさんに引っ張り回されて、へとへとになっている人たちをたくさん見ていますから」
「別に振り回しているわけじゃないが……。なら勧誘はしないから、ちょっと手伝ってくれないか?」
「はい?」
 バルドは眉をひそめる。ルベグランは彼の真正面に立ち、両肩に手を乗せた。
「危ないところには連れて行かない。管理部の知識が欲しいんだ」
「それならここで情報を提供します。何が必要――」
「現場で適正か適正でないか、判断して欲しい。それはここではできないことだ。これを提出された時点では問題はないだろうが、現時点ではどうだろうな?」
 口元に笑みを浮かべながらルベグランは言う。バルドの眉の形はそのままだった。
「実働部の人間なら、わかる案件ではないのですか」
「確実とは言えない。水車も関連してくる案件だから、現場で水車を動かしていたバルドに是非来て欲しいんだ」
「え、水車……?」
 テレーズが呟くと、ルベグランが目を瞬かせて見てきた。後ろで女性が口添えをしてくれる。
「カルメさんは異動するまで、建築省の東部にある支部にいたんですよ。あそこは水車の整備が中心だった気がします」
 ルベグランの顔がテレーズに向かって突き出される。
「嬢ちゃん、暇か?」
 こくりと頷くと、手を掴まれた。
「バルドと一緒に来てくれ。絶対に無茶はさせないから」
 後ろでバルドが目をつり上げて何かを言っていたが、ルベグランはテレーズのことしか見ていなかった。
 仕事もまともに始めていない状態で、自分の部署の仕事をする前に他部署に力を貸すのはどうだろうか。しかも必ずしもテレーズの力が役立つとは限らない。ルベグランにがっかりされる可能性はある。
 様々な考えが頭の中を駆け巡っていると、バルドがルベグランを差し置いて、前に出てきた。
「どうするんだ。行くのか行かないのか?」
「えっと……」
「悩んでいるなら行くぞ。迷惑をかける可能性があるからやめようとか思うな。どんな人間でも行動しなければ始まらない」
 バルドの瞳が真っ直ぐ突きつけられる。鋭かったため、少したじろぎそうになったが、彼が意を決して言ってきたのは伝わってきた。
 新しい職場や仕事に対して、迷いや不安はある。しかしテレーズ・カルメの人生は水環省の一員として歩み始めている。時間はもう巻き戻せない。バルドの言うとおり、今は進んでいかなければ。
 テレーズはバルドとルベグランを交互に見て、口を開いた。
「私が役に立つかはわかりませんが、ご迷惑をおかけしないよう気をつけますので、是非行かせてください!」
 ルベグランの口元は揺るみ、頷き返される。
 バルドは顔を横に逸らして、資料を片づけ始めた。テレーズも見よう見まねで、彼が出した資料を整え出した。
「ちなみにルベグランさん、その届出を見ることで何がわかりましたか?」
 バルドは顔を向けずに、書類をぱらぱら見ている男性に問いかける。
「紙の上を見るだけじゃ、何もわからねぇよ。実際に現場に行かないと意味がない」
「その通りですね。届出を通すために、紙の上では誤魔化している場合がありますから」
 そう呟いたバルドの口元がうっすらと笑みを浮かべているのを、テレーズは目撃していた。
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