一一一 司馬懿の野望
~~~魏 洛陽 司馬懿邸~~~
「そうですか。并州の刺史に赴任ということは……。
ええと、栄転……ですな?」
「いや、左遷だ」
「すみませんすみませんすみません!
決して孫礼様の以前の役職を忘れていたわけではなく、
ただちょっと栄転と左遷を取り違えてしまっただけで!!」
「別に構わぬ。名誉職を与えられ隠居を強いられているお主に比べれば、
現職に留め置かれているだけマシだからな」
「はあ……。私はおかげさまで悠々自適の毎日を送らせていただいております」
「ご歓談中すみません父上。李勝様が面会に来られました」
「ならば私はお暇しよう。
……司馬懿殿。お主がまた往時のように立たれる日を、楽しみにしているぞ」
「はい? 私ならまだ立って歩き厠へ行くこともできますが……」
「父上、孫礼殿は吾輩がお見送りする。早く李勝殿のもとへ」
「ああ! すみませんすみません!!」
「……李勝といえば曹爽の取り巻きか」
「ええ。おそらく父の様子を偵察に来たのでしょう」
「油断ならぬな。司馬懿殿は来たる日に必要な方だ。
どうかお子らでもり立ててくれたまえ」
「肝に銘じましょう」
「それはそうと助かったぞ司馬師殿。
お主の不思議な力のおかげで虎の呪いがすっかり解け申した」
「吾輩の邪眼に掛かれば造作も無いことです」
「では御免つかまつウォォォォォン!!」
「!? や、やはりまだ虎の呪いが残って――」
「いや、長く患っていたせいで、たまに叫ばないとどうも調子が出なくてな。
驚かせてあいすまぬ。御免つかまつる」
~~~魏 洛陽 司馬懿邸~~~
「すみませんすみませんすみません!!」
「お、落ち着かれよ司馬懿殿。今のは孫礼殿のいつもの咆哮でしょう」
「そ、そ、孫礼様の……? ああ、そうですか……。
良かった……。私はてっきり妻がまた癇癪を起こしたのかと……」
「奥様が? そ、それはそうと司馬懿殿。
お身体の具合が悪いとうかがったが、体調はいかがですかな」
「はあ。ご覧の通り曹爽様のおかげで毎日、本を読みたいだけ読める、
楽しい日々を送らせていただいております」
「……司馬懿殿といえばかの諸葛亮とも互角に戦った稀代の戦略家。
戦場が恋しくはなりませんか?」
「と、と、と、とんでもない!
あんな恐ろしい所には二度と戻りたくありません!!」
(……演技には見えない。
司馬懿はすっかり腑抜けているという噂は本当なのか?)
「ところで李勝様、このたび并州刺史に就任されたとお聞きしましたが。
ええと……。お気の毒に左遷、ですかな?」
「いえ、并州ではなく荊州刺史へ栄転です」
「ああっ! も、も、申し訳ない!!
并州のような糞田舎と荊州のような大都会を取り違えるなんて!!」
「……新たに并州刺史に就任されたのは先ほど帰られた孫礼殿ですが」
「ぎゃああっ!! そ、そ、孫礼様にな、な、なんという無礼なことを……。
……そうだ。死のう。
あいすみませんが李勝様、お手数ですが
そこの荒縄と踏み台を取っていただけますか」
「は、早まられるな司馬懿殿! というかなぜ応接間に首吊りセットが……?」
「私のような死にぞこないは、お客人の機嫌を損じたら、
いつでも首をくくれるように準備を整えているものでございます。
さあ李勝様、そこの鴨居など頑丈で縄を結ぶのにうってつけです。
どうかこの老いぼれを哀れと思って、死出の旅へのお手伝いを……」
(聞きしに勝るネガティブぶり……。
もはや司馬懿にかつてのような覇気はない。曹爽様にはそう報告しよう……)
~~~魏 洛陽 曹爽の屋敷~~~
「このところ毎日のように変な夢を見るのよ。
アタシの鼻の周りにね、ハエが何十匹もたかってくるの。
もう不潔でいやんなっちゃう。ねえ管輅、これはいったい何を暗示してるのかしら」
「……鼻はお主の地位を表しておる。
地位の高い者の周りには有象無象が集まる。
油断すれば足元をすくわれる、という意味だろう」
「なんだ下らぬ。偉くなればその分、
妬む者も増え地位が危うくなるのは当たり前だ。
夢占いの大家と聞いていたが、そんなことはそこらのジジイでも話せるわ!」
「いかにも。この私の知恵袋その二十八にも書かれています」
「老人は死が近い分、若者には見えぬこの世ならざるものが見えるのだ。
老人の言葉には真実が含まれておる」
「今度は説教か。忘年会の余興にと呼んでやったが抹香臭くてかなわんわ!
ほれ、銅貨をくれてやるからさっさと帰れ」
「………………」
「……年が明けたらまた話を聞いてくれるかしら。
羊祜、管輅を送って差し上げて」
「わかりメェ~した」
~~~魏 洛陽 路上~~~
「曹爽様は悪酔いしてご機嫌が悪かったようです。
どうかお気になさらないでくださいメェ~」
「わしは何晏と話しに来たのだ。外野に何を言われても気にせんよ」
「ああ、それがいけメェ~せん。
管輅様の言葉は少しあけすけに過ぎます。
曹爽様はいまやこの都の主に等しい方。ご機嫌を損じれば命が危ないですよ」
「お主は年若いのに気が利くな。
だが心配するな。死人には何も出来やせんよ」
「メェ? シニン?」
「なんでもない。
……親切の見返りに一つ占ってやろう。
お主は随分と出世しそうだ。だが間もなくこの都で騒動が起こる。
つまらぬことで命を落とさぬよう気をつけることだ」
「高名な管輅様に出世を保証されるとはうれしいですメェ~!
でも……都で騒動が起こるとは穏やかな話ではありメェ~せん」
「困ったことがあればお主の親戚の……。
なんといったかな、あの眼鏡美人は」
「伯母の辛憲英ですか?」
「そうだ。彼女に尋ねるといい。言う通りにすれば間違いあるまい。
……送るのはここまでで結構だ。よいな、くれぐれも用心しろよ」
~~~魏 洛陽 司馬懿邸~~~
「聞いたか兄者!
曹爽一派が先帝(曹叡)の新年の墓参りのため、陛下をつれて都を出たぞ!」
「いよいよ時が来たか。
曹爽め、隠居した父上のネガティブぶりに惑わされるとは愚かな。
かつては自分のその目でネガティブさを存分に見ていたろうに」
「あるいは父上を、そして我ら兄弟を甘く見ていたのだろう。
面白い。そのことをこれからたっぷりと後悔させてやる」
「……だがまずは一にも二にも、父上を決起させなければならない。
無名の吾輩らが号令を掛けても大した兵は集まらぬ。
父上が立てば、多くの者が従うだろう。しかし……」
「……隠居して以来、ますます父上のネガティブぶりと
覇気の無さには磨きが掛かっている。
最近はガチで痴呆を患っているのではと思うことも多々あるな。
あの父上を立たせるのは容易ではない」
「それでもどうにかして父上に発破をかけ……ぐううっ!?
く、くそ。この大変な時に吾輩の邪眼が暴走を……。
は、早く吾輩の抑えが効くうちに父上のもとに行くんだ昭よ。
説得は任せたぞ……」
(……また都合の良いタイミングで暴走しやがって)
~~~魏 洛陽 司馬懿邸~~~
「はあ。曹爽様が陛下と墓参へ。
それは大変ですね。都の守備をしっかり固めませんと。
でも隠居した私にはもう何も出来ません。
守備兵の皆さんを陰ながら応援しましょう」
「父上、時が来たのです。
今こそ立ち上がり、曹爽一派を一掃し、
父上が、いや我ら司馬氏が覇権を握るのです!」
「お、お、恐れ多いことを言ってはいけませんよ昭さん。
今の私は曹爽様のはからいで、毎日何事も無く過ごせているのです。
その感謝を忘れてクーデターを起こそうなんてと、と、と、とんでもない!」
「父上がなんと仰られても、是が非でも立ってもらわねばならないのです。
曹爽の支配が続けば、いずれ蜀や呉に滅ぼされることもありえ――」
「昭!! なにをグズグズしてるのよぉぉ」
「は、母上」
「さっさとこのネガティブジジイを家から追い出しなさいよぉぉ。
この陰気で根暗で気弱で意思薄弱なジジイと
毎日毎日顔を付き合わせるのは限界なのよぉぉ。
一刻も早く私の目の届かないところに連れてきなさいよぉぉ」
「ひ、ひぃぃぃぃぃ!!
は、刃物をしまいなさい。わ、わ、私なら今すぐここを出ていきますから。
犬小屋でも豚小屋でも鶏小屋でもどこでも暮らせますから」
「な、ならばそのついでに兵舎に顔を出していただきたい!
父上が現れたと聞けば、すぐさま兵が駆けつける手はずを整えてあります」
「で、ですから私はクーデターになんて加担する気は……。
ああっ!! そ、そういえばさっき大変なことを言ってませんでしたか。
た、たしか曹爽様と陛下が墓参りに行かれたとか……」
「ええ。ですからこの隙に都を占拠して――」
「なんということだ!!
せ、せ、先帝陛下に怒られる……」
「え?」
「私が墓参りに来ていないと知れば、先帝は怒り狂われるでしょう。
そ、曹爽様と陛下はいるのに、私がいないなんて……。
昭さん、すぐに馬の手配をお願いします!」
「かしこまりました! 馬ならば兵舎に用意させてあります。
さあ、早く参りましょう!」
~~~魏 皇帝の陵墓~~~
「し、し、司馬懿が都を占拠しただと!?」
「包囲を破って駆けつけた羊祜からの急報だ。
司馬懿にはもはや大それたことをしでかす気力はないと見誤ったか……」
「そ、そんな……。もう今にも自ら首をくくりそうな様子だったのに」
「だがまだ望みが絶たれたわけではない。陛下は我々の手の内にあるのだ。
近くの都市に落ち延び、そこで兵を集める。
そして司馬懿こそが反逆者だという詔を出していただけば、挽回できる」
「し、司馬懿と戦うのか? あの悪魔のような諸葛亮と互角に戦った司馬懿と」
「いかに司馬懿といえども実戦を離れてだいぶ経つ。
この智囊と呼ばれた私の頭脳に掛かれば……」
「申し上げます! 高柔様が司馬懿の使者として来られメェ~した」
「高柔殿が? と、とにかくお通ししろ」
「はいはい、すいませんね。お邪魔しますよ。
よっこらしょっと。ふう。
これはこれは曹爽殿、このたびは大変なことになりましたなあ」
「し、司馬懿の、いや司馬懿殿の使者として来られたそうだな。用件を伺いたい」
「私もこう見えて年ですからねえ。
あまり長話はできませんので単刀直入に言いますよ。
降伏してください。以上です」
「……陛下は我らのもとにある。
陛下の留守をうかがい反乱を起こした謀叛人が、我々に降伏を命じるだと?」
「そう目くじらを立てなさんな。私は中立ですよ。
司馬懿に頼まれて隠居の身なのにわざわざやって来たのです」
(こののらくらジジイを担ぎ出すとは考えたな司馬懿め……)
「私は司馬懿の言葉をそのまま伝えるだけです。
だから私にあれこれ言っても無駄ですよ。
おとなしく降伏してくれれば、身分や命は保証するそうです」
「なに!? そ、それは本当か高柔殿!!」
「ですから言うままに伝えているだけです。
そりゃあ以前のように我が物顔に振る舞われるのは遠慮してもらいますが、
皇族としてそれなりの待遇はさせてもらえるんじゃないですかねえ」
「こ、これは願ってもない話ですぞ曹爽様!
早速、司馬懿殿に承諾の返事を――」
「そんな虫の良い話があるものか!!
これは司馬懿の見え透いた罠だ。私の知恵袋を開くまでもない!」
「め、めったなことを言うな!
こ、高柔殿。桓範は少し頭に血が昇っているようです。
どうかあなたからも司馬懿殿に口添えを――」
「この醜く肥え太った鈍牛どもめ!!
お前の父の曹真は貫禄ある大した男だった。
だがお前らはただの牛だ!
お前らの道連れで身を滅ぼすとは、この知恵袋も底が知れるわ……」
「………………」
「話はまとまりましたかな? 早くしていただけると助かるんですがねえ。
ところで、お茶の一杯くらい出してくれてもいいんじゃないでしょうか?」
~~~魏 洛陽 宮廷~~~
「師さん、昭さん。ここは……陛下の陵墓なのですか?
いつの間にか宮廷そっくりに改装されたのでしょうか……?」
「いいえ父上。ここは正真正銘の宮廷です。
吾輩らが占拠しました」
「き、き、宮廷を占拠!? な、な、なんということをしたのですか。
陵墓に案内すると聞いてついてきたら、なぜこんなことに……」
「宮廷はもとい魏国は曹爽一派に牛耳られていました。
我らは逆賊の曹爽らを一掃し、陛下をお守りするために立ち上がったのです」
「陛下を……?
ああ、そうだ!! 先帝陛下のお墓参りに行かなくてはいけません!」
「間もなく曹爽一派が甘言につられて降伏してきます。
その後にごゆるりと墓参に行かれてください」
「……その様子では、一連の流れを仕組んだのは司馬懿じゃなくて息子のほうか。
司馬懿なら命までは取らないよう説得できるかと思ったが、無理そうだな」
「これは蒋済様らしくもない。『駑馬は短豆を恋う』と言います。
目の前の餌に飛びつき命を落とすのは、彼らの自業自得です」
「曹爽の親父さん(曹真)には世話になったんだ。
恩返しがしたかったんだがな……」
「兄上、何晏殿をお連れいたした」
「へ? こ、これはこれは何晏様。
愚弟がお呼びつけしてしまったようで、ご無礼を……。
はてさて。私にいったい何の御用でしょうか」
「ああ叔父上、ありがとうございます。
後は吾輩が引き受けますから、父上はそのへんで蒋済様とご歓談を。
――何晏。とっくに都を逃げ出したと思っていたが、まだ残っていたのか」
「……管輅の言った通りだったからね。
で、アタシは何をすればいいのかしら。
知ってる限りの曹爽一味の名を挙げればいいの?」
「ああ。それがそのまま処刑者のリストとなる」
「だったらもう用意しといたわよ。
仕事が早いって? そりゃあ昨年から準備できたからね」
「言ってる意味がわからんが、とにかく見せてみろ。
曹爽、李勝、桓範……うん?
この羊なんたらという者の名はなぜ消されている?」
「その子は都にいたのにわざわざ包囲を破って、
曹爽へ司馬懿の謀叛を知らせに行ったのよ。大した忠義者でしょ。
まだ若いんだし助けてあげてもいいじゃない」
「間違えるな。謀叛したのは我らではない、曹爽だ。
……ほう、最後に自分の名を付け加えるとは殊勝なものだな」
「仲間を売って生き長らえるほど図太い神経してないのよ」
「フン、まあ良く出来ている。ありがたく使わせてもらおう。
昭、降伏した者とこのリストを照らし合わせ、逃げている者をあぶり出せ」
「はい。……よろしいですな父上?」
「は、はい!? 何が何やらさっぱりですが、
師さんと昭さんの思う通りにやってくださって結構ですよ。
そんなことより、私は一刻も早くお墓参りへ……」
(司馬懿の息子らがいつの間にかここまで成長していたとはな。
曹爽に代わり、今度はこいつらが国を牛耳るか。
俺もそろそろ潮時だな……)
~~~魏 洛陽~~~
「曹爽様、李勝様、桓範様、何晏様……。
みなさん処刑されてしまいメェ~した。
私も間一髪でした。管輅様のおかげです」
「礼なら善後策を相談した伯母さんに言いなさい。
包囲を破り曹爽のもとへ駆けつけるべきだという助言は実に的確だ」
「いいえ。この子が私に相談に来たのは、
管輅様があらかじめ言い含めていたからです。私からもお礼申し上げます」
「それにしても管輅様の占いは素晴らしい!
何晏様の死も予言なさっていたとか。
あなたの名声はますます高まることでしょうメェ~」
「どうでもいい話だ。
それに名声などもうすぐわしには関係なくなる」
「メェ?」
「フン。羊祜、こんなところで油を売っていたのか。
司馬師様が事情聴取の続きをしたいと言っている。早く戻れ」
「ではわしはお暇しよう。
噂の眼鏡美人に会えて良かったよ。いい冥土の土産が出来た」
「私のほうこそ。甥っ子を助けていただき本当にありがとうございました」
(ほう。これが噂の辛憲英か。ママに少し似ている……)
「私の顔に何か?」
「フッ。羊祜のヒツジ顔にはあまり似ていないと思ってな。
――先に行っているぞ」
「……羊祜、今の方はどなた?」
「鍾会です。鍾繇様の息子です。
蜀の征伐論をメェ~メェ~、失礼、前々から唱えてまして、
そのうち討伐軍を任されるのではないかと噂されてますメェ~」
「まるで武器庫みたいな子ね」
「メェ? 武器庫?」
「槍や刀がギラギラ光ってるみたいな目をしてたわ。
その刃に内側から食い破られなきゃいいけど」
「お、伯母上。あまり物騒なことは言わないでください。
どこに他人の耳があるかわかりませんからメェ~」
「司馬師、司馬昭、それに鍾会……。
この国は内も外も騒がしくなりそうね。くれぐれも気をつけるのよ」
「………………」
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かくして司馬一族は都を牛耳る曹爽一派を一掃した。
司馬師、司馬昭ら若き麒麟児が代わって都を牛耳る。
魏の国内が激動する中、呉でも政変が起ころうとしていた。
次回 一一二 二宮の変