chapter9 踊り場
翌日の朝の教室。
早川沙樹は何故か今日、上履きを履いていなかった。代わりに履いていたのは職員用の群青色スリッパ。
あれ、なんか既視感。
早川はずっと机で俯いていて、友達から「上履き忘れてきたの?」、「私の貸そうか?」などと問われても、じっと黙って首を振るだけだった。すっかりふさぎ込んでいるようだった。そのまま黙っていてくれればいいのになぁ。おっと、これは口に出せない。
明日は期末テストだ。
昨日、家で深夜まで自主学習をしていたのでかなり眠い。朝のホームルームが始まるまで机の上に教科書を広げてぼんやり眺めていたが、どうにも頭に入ってこない。やっぱり夜中じゃないと勉強できないよ、俺。
四時限目前の休み時間のこと。
居眠りをしようと思って首をかくかくさせていたら、思い切り後ろに頭が反ってしまった。おかげで、後ろの鍋島の頭とぶつかってしまう。
お互い頭を抱えてしばらくうなり、それから同時に立ち上がって睨みあった。
「なにすんだこら」
「はぁ、信じらんない。そっちからぶつけてきたくせに。ていうか、寝るなら屋上にでも行ってください。勉強の邪魔です」
「こっちは昨日一夜漬けで勉強してんだよ。居眠りくらい自由にさせろ」
「な、何てこと言ってるんですか。そんな自分勝手、集団の調和を乱します。今すぐ教室から出ていきなさい」
「なんだと。勉強は自分との孤独な戦いなんだ。集団なんて関係ねぇ、個々で責任もって勉強する環境を確保すべきなんだよ。俺のせいにするな!」
「だからって周りに迷惑をかけるなんてことがまかり通りますか! やっぱりあなたはバカ泉です!」
我ながら無茶苦茶な理論だと思った。でもここまで来て引っ込むのも悔しい。
すると、クラス中から「邪魔なのはお前ら二人だ」だの「あんたらが叫んだせいで単語一つ忘れた」だの「痴話喧嘩は犬も食わないワン」だのと野次が飛んでくる。テスト前でみんなピリピリしているようだ。変な野次も混ざってるし。
俺も鍋島も、不服を残しながらも大人しく席に座った。
あっちからもこっちからもシャーペンを走らせる音が聞こえる。ここ、本当にガリ勉校だよなぁ。何で俺この高校入ったんだろ。
眠気眼で視線を送ると、斜め前方には早川がいた。さっきの俺と鍋島の言い合いに全く反応を示さなかったのは、早川と依子ぐらいだった。
依子はともかくとして、早川は明らかに以前と変わった。早川の友達一行も彼女の変貌ぶりにたじろいでいるようで、朝の上履きの件以来、彼女らに会話らしい会話はなかった。
それでも、クラスのほとんどは早川のことなどものともしない様子で、自分のことで精一杯のようだ。早川の友達含め、鍋島含め、依子含め、その他諸々含め、という感じで。
もうどうでもいいや。
俺は開きっぱなしの教科書に目を落とした。
初夏の雰囲気ただよう季節。窓からの斜光が気持ち良くて、俺はまた一分後に居眠りをこいた。
目が覚めたのは放課後のチャイムのおかげで、どうやらあれからずっと眠りおおせたらしい。俺が眠り始めたのは四時限目前だから、合計して三、四時間ってとこか。
誰にも起こされないなんてラッキー、なんて思ってたら、後ろの席の鍋島が教科書に目を向けたまま、「今泉くん、死んで永眠しちゃったのかと思いましたよ」と微塵の心配もなく言う。
「マジで寝てたわ。すげえよな、誰にも起こされないなんて」
「四時限目で五頭先生に起こされまくってましたよ。今泉くん全然起きないし、もう大激怒。掃除の時間も邪魔でした。五頭先生から、放課後必ず職員室に来させるよう言いつけられましたし」
耳が痛くなるような長台詞だった。
俺は五頭からのお告げを無視して屋上へ行き、一本だけ煙草を吸った。珍しく原村がいなかったから、もしやと思い図書室に行ったところ、やはりそこには原村がいた。バガボンド二十三巻を読んでいて、ときおり欠伸をしている。
依子はいつものように受付をやっていて、さすがの俺も、司書の宮下先生って人物は本当は実在しないんじゃないかと疑った。期末テスト前日になってまで、生徒に受付任せっきりじゃん。
「おや、今泉。帰って勉強しなくていいのかい、明日期末だろう」
原村はバガボンドを見つめたまま言う。
「ちょっと漫画読んで帰ろうかなと。原村は勉強いいのかよ。二年生は期末なし?」
「いいかい今泉。結局勉強なんてもんはね、自分の学びたいこと以外、いくらやっても身にならないものだよ」
なんて詭弁。それから原村はゆっくり立ち上がって、「それになぁ、おいらのこの青春は二度と戻ってこないんだぁ、よい」と歌舞伎風に吟じた。原村と関わると悪い影響しか受けなさそうだなぁと、俺は漠然と結論づける。
依子を見ると、彼女はてっきり勉強をしているものと思っていたが、どうしてか今日は小説を読んでいた。
「範囲は一週間前に勉強し尽くしたから、もうやることない」
ということらしい。ガリ勉もここまで来れば極めつけだ。不真面目な原村と真面目な依子とで板挟みになって、俺はどっち側につこうかな、なんて突っ立ったまま考えた。そこで、やっと自分が手ぶらなことに気づく。起きてそのまま煙草を吸いに行ったから、教科書諸々が入ってる鞄を教室に忘れてきた。
今ここで勉強をしようにも出来っこないから、結局俺は漫画を読むことにした。バガボンド面白い、あはは。
図書室も閉まりかけて、原村は鼻歌混じりに二年の教室へ向かった。俺も依子の戸締まりを手伝って、一緒に図書室を出た。
この学校の図書室は五階にあり、一階まで降りるのは多少億劫だ。屋上から図書室へは楽なんだけど。
放課後に聞こえてくるはずの野球部のかけ声や吹奏楽器の音が聞こえてこない。廊下や階段にも人の影すらなくて、あぁ、やっぱり明日は期末テストなんだな、と少し憂鬱になった。
依子は階段を降りながらも小説を読んでいて、本当に節操のない奴だと呆れてくる。暇だったので試しに本を取り上げてみようとしたけれど、依子はそれを見通していたかのように俺の手から本を避けさせる。
「転ぶぞ」
「転びそうになったら支えて」即答。
俺は絶対に手は貸さないと心に誓った。
三階の踊り場に入ると、窓から夕暮れに染まったグラウンドと、その先の街の風景を望めた。夏に入るだけあって日が落ちるのも大分遅くなってきたな、と年寄り臭い風致を感じる。
下から、階段を足早に駆ける音がしてくる。この時間に校舎にいる生徒が俺たち以外にもいるんだな。俺はその程度にしか思っていなかったし、依子にいたっては普段のわれ関せずの態度で本に集中していた。
依子が踊り場を曲がって、また階段を降りようとするのとほぼ同時。階段を駆け上がってくる影が飛び出して、無防備な依子の体とぶつかった。
依子の本が宙を舞い、音も控えめにぱさりと床に落ちる。依子は尻餅をついた。飛び出してきたのは女子生徒で、その女子はよろめき、危うく階段でつまづきかけてその場にへたり込む。その女子の顔を見て、俺の首筋からさっと血の気が引いた。
「おい、大丈夫かよ」
思わず声が裏返りそうになる。二人が転んでいる光景が、しばらく止まって見えた。
まもなくして依子が平然と立ち上がり、スカートのほこりを払う仕草をしてから、地面に腰をつけたままの女子生徒に手をさしのべた。
「大丈夫? 早川さん」
早川は畏怖の表情をつくり、目元に涙を浮かべた。俺にはその顔がどうしてか、わざとらしく見えてしまったのだ。早川は依子の手を取ろうとせず、彼女を拒絶するように顔を手で覆う。
「いやっ、やめて」
親から虐待を受ける子供のように早川は言う。どうして偶然ぶつかったくらいで、そんな顔をして、こんな哀れじみた声を上げるのだろう。
とっさに、俺は依子の手を引いてこの場を逃げ出したくなった。実際そうしようと思い、依子へ手を伸ばしたが、階段の下から発せられた怒声にそれはあっさりと遮られてしまった。
「やめなよ、平野!」
階下の下を見おろし、この声の主を確認した俺は、額に冷や汗が滲んだ。それは中学時代からの見知った顔だった。
吉岡美野里。中学のとき、いつも早川の後ろについていた女子であった。早川の腰巾着的女子は数多くいたが、吉岡だけは目立って早川の隣にいた記憶がある。
吉岡は荒々しく音を鳴らしながら階段を上がってきて、依子から守るように早川の肩を抱いた。依子は口を結んで、一歩後ずさる。
「沙樹、怪我はない?」
早川が吉岡の胸に顔をうずめ、かすかにすすり泣く。吉岡の丸みを帯びた目尻が少し上がり、唇をおおげさに振るわせて依子を睨んだ。
「沙樹になんてことすんの」
吉岡の淡い茶色の前髪が揺れた。肩まで伸びたボブカット。そして校則ぎりぎりの染髪だ。
「たまたま、ぶつかって」依子の語尾はほとんど聞き取れなかった。
「たまたまぶつかって? 私には“平野が乱暴に押し倒したようにしか見えなかった”けど?」
「おい待てよ」
さすがに聞き捨てならなかった。俺がこうしてすぐに口を挟めたのも、吉岡がこんなことを言ってくる確信があったからだ。
「俺は見てたぞ。依子が踊り場を曲がったら、階段を駆け上がってくる早川と偶然鉢合わせになった。なにが乱暴に押し倒しただよ」
「じゃあ、どうして沙樹は泣いてるの」
吉岡が早川の髪を撫で、早川の泣き声が少し強まった。その茶番に苛々きて、俺は腰をかがめて早川の肩を揺すった。
「おい、ふざけんなよ早川。何下手くそな猿芝居してんだてめぇ」
「やめてよ今泉!」
吉岡が叫び、早川は小さく悲鳴を上げる。どうすればいいか分からなかった。ただ、はめられ、仕組まれた苛立ちだけはつのる。
「なんとか言え早川」
「ご、ごめんなさい」
半ば泣き叫ぶように謝る早川に、全身の力が抜けてしまいそうだった。違う。こんな被害者ぶったごめんなさいは、全然意味が違うじゃないか。
ついに吉岡まで泣き始めて、俺は混乱した。握力がなくなって、早川の肩から手がずり落ちる。
「何やってるんだ、お前たち」
後ろから、聞き慣れた堅苦しい声がかかる。振り返ると、書類を胸に抱えた五頭が立っていた。五頭は俺を見下ろして不快そうに眉根を寄せる。
視界の端で、早川が薄く笑った気がした。
「平野さんと今泉が、沙樹のことをいじめてたんです」
吉岡が声を震わせて言う。
五頭まで早川たちと共謀していたのだろうか。一瞬そんな風に思ったが、この教師に限ってそれはないだろう。早川たちとってはこれは僥倖で、俺たちにとってはただ運が悪すぎただけなんだ。
五頭は俺の顔を見て、それから早川たちに視線を移し、最後に依子を見た。依子はこんなときでさえ表情を崩さない。託宣を待つように押し黙る俺たちに、五頭が口を開いた。
「まずは、詳しい話を」
「ごめんなさい」
五頭が言い終わる前に、依子が頭を下げる。早川も吉岡も唖然として、深く頭を下げる依子を見つめた。多分、俺も早川たちと同じような顔をしていたんだと思う。
「テスト勉強でいらいらしてて、偶然見かけた早川さんに、つい八つ当たりをしてしまいました」
本当にごめんなさい、ゆっくりと噛みしめるように依子は言う。俺や早川たちはそんな彼女を前に微動だにできなくて、それは五頭も同じだったようだった。
しばらくして、五頭が短く咳払いをする。
「平野は今から職員室に来なさい」
「はい」
「今泉は、明日一時間早く登校して私のところへ来なさい」
俺は口を開けたまま返事すら出来なかった。
「分かったな」
俺は小さく頷く。それを見届けた五頭は、俺たちの脇を通って階段を降りていった。依子は床に落ちた本を取り、事もなげに俺に押しつけてから「明日返して」と言って、五頭の後を追った。
明日返してと言われても、俺は依子を残して帰ることが出来なかった。胸の底がもやもやして、依子の顔を見るまでは気分が和らぎそうもない。
下駄箱の前で、俺は前髪を掴んでうつむいた。何も頭に浮かんでこない。唯一浮かんでくるのはさっきの階段でのやりとりだけで、俺は自分の軽率さを何度も嘆いた。
そこで待つこと四十分。依子がいつの間にか俺の隣にいて、玄関の先の風景を見据えていた。顔を上げると彼女と目が合い、視線を逸らしたい気持ちを必死でおさえる。もう辺りは暗くて、幸い依子の顔はよく見えなかった。
「悪かった。あんなので熱くなって」
「いいよ。あたし、厳重注意だけで済んだし」
「でも、あの場を混乱させたのは俺のせいで」
「純は悪くないよ」
平坦な口調でそう残し、依子は下駄箱から靴を取る。髪が顔の前に垂れたせいで依子の表情が分からなくて、俺はとてつもなく不安になった。
「帰ろ」
一度もこちらを見ずに玄関へ歩いていく依子を、俺は慌てて追う。彼女の小さな背中を見ながら、自分のあまりのふがいなさに、ぎりと奥歯を鳴らした。