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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
61/65

chapter60 境界の結び目/懊悩

 室内に反響するのは一つのすすり泣く声。いつから続いていたのか分からない。吉岡を包んでいた鍋島の腕が徐々に緩んでいく。やがて彼女の肩にしがみつくまでになると、鍋島はそのまま頭をうなだれて鼻をすすった。

「いじめるって、苦しいものじゃないんですか。叩く方だって、本当は痛いはずじゃないですか。みんなは、痛いの嫌じゃないんですか」

 吉岡は胸元でしゃくり上げる鍋島を一瞥し、それから周りを見渡した。無感情に首と瞳を動かし一人一人の表情を確かめる。

「こういうの、なんて言うんだっけ。泣き落とし?」

 両腕を抱き、寒さを耐えるような仕草をして、

「鳥肌立っちゃう。なんなの、この子。なに大声で喚いてんの。耳、きーんてした。みっともなく感情むき出しにして、言ってることもおかしいし。押しつけがましいったらないよね。ねぇ鍋島さん、それどこの宗教? それにこの手、超痛いんですけど。はやく離してよ」

 鍋島の腕をつかみ上げ、離そうとして、吉岡は眉をひそめる。口元のかすり傷を拭う。血痕のついた右手は痛々しく、その手で鍋島の身体を引き剥がそうとする。それでも離れなかった。

 骨を抜かれたように脱力して、痛いってば、とつぶやく。

 取り囲んでいた女子たちが目配せを始めた。ヘたり込む二人を指して、ぎこちなく笑い合うも、すぐに白けて黙り込んだ。

 モップの繊維の先から灰色の汚水がしたたり、床に小さな水たまりを作っていた。村瀬はモップの柄を遊ぶように持ちながら、立ち尽くして二人を見下ろしていた。その肩に手が置かれる。

「もうどっか行こ。先生呼ばれてたらマズいし」

 彼女のすぐ背後に居た女子は入り口の方を見ながら言った。

 村瀬はうなずいて扉の方に向かう。

 その道を立ち往生でふさいだのは城川だった。城川の目は村瀬だけではなく、教室全体を透かして見ていた。

「美野里ちゃんに、あやまって」

 そう言って室内に視線を巡らせる。俺は彼女の後ろ姿から目を離せなくなっていた。

「わたしが言えたことじゃないけれど、みんなはもうこれ以上、卑怯な臆病者になっちゃだめだよ」

 村瀬は頬をかっと赤くする。空いた手で城川の身体を突き飛ばそうとする。俺はその手を押し戻した。彼女は驚いて俺を見返した。

「やめとけよ。城川、もう泣いてるから」

「泣いてない」

 城川は顔を隠すように軽く伏せ、前へ進み出て村瀬の腕を押した。

「はやくあやまってよっ」

 必死にしがみついてくる城川に、村瀬は瞳を小刻みに揺らして戸惑う。群衆の誰もが口を閉ざして、彼女の弱々しい反抗を見守った。

「弱い者いじめしたら、あやまらなきゃ、だめなんだよっ」

 やがて小さなため息がひとつ聞こえた。

「興ざめ」

 言って村瀬が腕を振り払うと、城川はよろめいて後ずさった。背中から俺にぶつかって支えられる。

「あーあ、冷めた。つまんね。つか、そういうのもういいし。ていうかこれ、もうつまんねーよ。もう飽きちゃったし」

 乾いた声で言って彼女はモップを投げ捨てた。床に落下し、乱暴な反響音が空き教室内にこだました。



 村瀬が教室を飛び出していった直後、教室を見回すと、吉岡の姿はなかった。教室に残った女子たちに村瀬や吉岡を追う者はいなかった。ただ、それぞれが離散して孤立しあい、啜り泣く者もいれば何をするでもなく黙って窓の外を眺めている者もいた。

 鍋島は涙の跡を拭いもせず、いつのまにか城川のそばで彼女の手を握っていた。下を向いてときおり滴を落とす鍋島は、今だけは城川より小さく見えた。

「手、もう震えてないです」と彼女は言う。

 城川も同じようにうつむいて謙遜のかぶりを振った。

「そんなことない」

「いつか私は言いました。あなたと私は同じだって。保身を盾に自分を守っているから、私たちは誰かを見捨てることに慣れてしまったんだって。でも城川さんは変わったんです。だから私も勇気が出せたんだと思います」

「そんなこと、ないのに」

 城川は取られた手を離すことができない。あるいはそこに身をゆだねているように思えた。

「ほんとうに、ありがとう……」

 そのまま二人は言葉を交わさなくなってしまった。その代わり、少なくとも俺が教室を出ていくその瞬間まで彼女たちは手を握り合っていた。



 村瀬と吉岡はついに六時限目まで姿を見せなかったが、放課後になると村瀬は教室に顔を出して、そそくさと帰り支度を始めていた。

 俺はあれから屋上に顔を出していない。ずっと生徒会室にこもりっきりだったからだ。村瀬は今まで、おそらく屋上に入り浸っていたのだろうと思った。屋上に買い溜めて置いてある煙草に火を灯す彼女の姿を、俺は勝手に想像してみる。あくまで想像上でだが、彼女の喫煙姿はそこそこ様になっているのだった。

 なんとなく、俺は席に着いたまま二組の教室を眺めていた。



 誰かが置きっぱなしにした携帯のアラームが鳴る。その頃には生徒の姿は数えるほどしかおらず、ポップなアラーム音はおもちゃの鍵盤みたいに湿った空気をぽんぽんと叩いた。

 俺同様に依子が席に着いて待っていた。音もなく立ち、俺の隣まで近づいてぴたりと止まった。どうしても俺と仲直りしたいらしい。しかし彼女の口から言葉らしい言葉は出てこない。じっとこちらを見下ろしてくるばかりだった。

 ふと、俺たちはほぼ同時に、廊下側へと目を向けた。

 それはちょうど教室前方の入り口、廊下と教室との境界をまたぎ、その三人は向き合っていた。鍋島、城川と、村瀬の三人だった。

 鍋島と城川はこちらに背を向けて顔が分からない。村瀬はいささか廊下へはみ出す形でたたずみ、視線を泳がせながら二人と対面していた。

 声量が小さいのもあるが、ここからでは彼女らの会話は聞こえてこない。ただし、雰囲気だけで伝わるものがあった。

 村瀬は肩に鞄をかけ、手を後ろで組んでいた。それも、かたくなにというほど両手は微動にしない。

 俺は、過去に村瀬が女子の誰かに抱きつき、髪を撫で回したりする映像を思い浮かべた。その行為が女子の間でひそかに迷惑がられていたことも、吉岡から面と向かって拒絶されたことも、彼女が屋上で自分の腕を抱き、物憂げに煙草を吸っていたことも、俺は緻密に再現して思い起こした。

 そして鍋島の手が伸びる。腕が村瀬の首もとに回された。はっとする間もなく、今度は城川が寄り添っていく。二人の手によってかんじがらめに抱き寄せられる。身動きの取れなくなった村瀬はしばらくの間呆然として、やがてぽつりと一筋の涙を伝わせた。

 静かな放課後だった。午後五時十六分。空気の波が潮の満ち引きのように肌に触れる。辺りはしんと沈黙し、些少の耳鳴りを起こさせた。

 気をつけて椅子を引き、足音を立てないように教室入り口へと向かう。依子が黙ってついてくる。

 抱き合う三人の横を通り過ぎるとき、後ろで依子が立ち止まる気配を察した。依子は薄桃色のハンカチを手にしていた。泣き止まない村瀬の手にハンカチを持たせると、彼女はまた俺のあとを追って歩き出した。


 ◆


 学校を出て自転車をゆっくりと漕ぐ。その後ろを依子の赤チャリが着いて走る。

 ある公園の前で自転車を止める。エンジュの樹でキジバトがよく鳴いていた。かつて依子と大喧嘩したあの公園。夜になれば人通りはなく、俺はたまに学校の帰りに煙草を吸いにここへ来る。今日もそのつもりだった。依子が俺の背後を離れないことを除けば普段通りの習慣風景だった。

 ベンチに座ってキジバトの寂しげな音に耳を傾け、ハイライトを肺いっぱいに吸い込んだ。依子は隣に座ってじっとしていた。俺は彼女の方を見ないよう細心の注意を払う。

 公園の隅には砂場がある。近所の子供が忘れていったのか、プラスチック製のカラフルなバケツやシャベルが上手い具合にグラデーションを模し、砂地に整然かつシックに打ち捨てられていた。俺はそれとなく感心し、そして自分の幼児時代を思い出そうとして、すんでのところで止めておいた。どうしても当時の依子がちらついてしまう。

「純の気持ち、あたしはまだ聞いてない」

 現在の依子は言う。俺の吐く煙より数段質量の薄い声で、依子は口ずさむ。

「あれからいろいろ考えた。あたしは自分の気持ちを言ったけど、よく考えたら、純の気持ちは、まだあたし、聞いてない」

 街灯が依子の横顔に影を落とし、目元を隠している。自分がとっさに彼女を見ていたのだと気付いたのはそのときだった。携帯灰皿に吸い殻を押し込む。ビニール越しに熱を感じる。

「十分だけ、ここに居て」

 返答は確認しなかった。依子は大抵の要求には黙って従う。だから、それに甘えてあえて確認せず、どこか別の方に顔を背けながら俺はベンチを立った。

 公園を出て街道に出る。五十メートルほど先にはコンビニがあった。あそこでまたミニッツメイドを買ってこよう。いや、トロピカーナだ。

 地方展開らしき名もなきコンビニに入ると、まず雑誌コーナーで週刊雑誌を手に取った。大して興味もない税制問題の記事に目を通す。頭の隅で一通り思考を巡らせると、トロピカーナの350mlペットボトルを二本購入した。

 店先で一本開ける。キャップを開けてペットボトルを傾けてからもう一本煙草を吸った。

 そして再び街道に出る。

 公園まであと数メートルという位置。エンジュの幹の間から、ベンチに座る依子の後ろ姿を確認できた。脇に停めてある自転車のかごに二本のペットボトルを入れて、今置かれた状況について考えた。

 依子がここで反問してきたことは、逆に幸いだったように思える。俺はこれまで依子にばかり答えを求め過ぎていた。相手の身勝手な言葉と行動に振り回されていたのは、俺だけでなく依子も同じだったのではないか。

 こうして立ち止まり、見るともなしに上を見上げながらぼんやり考えるということを、俺はたびたび放棄してきた。こういうとき、毎回そうだったと気づく。そのたびに自分の言動への後悔を繰り返していた。深呼吸をして、相手ではなく自分と対話する。答えのほとんどは、往々にして自分の中にしかない。

 改めて自分の身体を見回す。右手の治りかけた親指は、いまだ薄茶に変色して不格好だった。スラックスをたくし上げて足首を露出させる。一昨日田んぼに突っ込んだ左足には縦線の裂傷が走り、右足には中学時代の手術痕がうっすらと残っていた。さらに、ふくらはぎの上部にはスタンガンの火傷痕が裾から見え隠れしている。頬に触れる。色んな奴らにぶん殴られたためか、ここ最近ずっと奥歯のあたりの鈍痛が消えてくれない。それに、鼻骨を悪くしたのかここの所よく鼻血が出る。

 怪我してばっかりだ。小学生みたいに。

 何故こんなに怪我を負わねばならないのか。色んな人たちと様々な確執を作ってしまったせいだ、とすぐに理解した。

 依子のことについて思考を戻した。さっき彼女に尋ねられたばかりなのだ。こっちはもう伝えた、じゃあ俺の気持ちはどうなのだと。

 依子を特別視しだしたのはいつからだっただろう。全身のこの傷はなにも依子のためだけに負ったものではない。誰かのそばで身を固めるということを俺は今までしなかった。今さら依子の隣に居続けたいと思う自分が分からない。

 ――純のことは好きだけど、でも、そういう好きじゃ、ないと思う。

 結局、俺も依子と同じ考えなのだろう。今の俺は勘違いしているだけだ。依子を好きかもしれないと、錯覚しているだけなのだ。

 今まで色々あり過ぎたせいだ。きっと吊り橋効果かなにかで、不可抗力的に感情のフィルターがかかってしまった。そうでないとおかしい。中学時代を抜いても、依子とは何年の付き合いだと思ってる。ここに来ていきなりこういう気持ちになる方がおかしいのだから。

 やっぱり錯覚だったんだ。俺の中ではもう、そういった確信で満ちていた。

 ――そういう好きじゃ、ないと思う。

 突然、息が詰まるような苦しさに襲われた。この決断で正しいかどうか、もう一度息を整えて確かめよう。そう思ったときだった。この息苦しさがなんなのか、俺はまた分からなくなっていた。まるで誰かの手によって心臓をつかまれ、揺さぶられているみたいだった。

 これは誰の手だろう、と考えた。最初は依子の手だと思った。しかし、それはどうやら違うようだった。

 俺自身の手だった。答えは大抵自分の中で見つかると、ついさっき考えたばかりだったのに、やっと気づいた。身体の内側から自分ですら知覚できない何か強い力が働いている。身体の外側、すなわち現実の手のひらで抑えつけようとしても抵抗できないもののようだった。

 これまでにも辛いと思うことは何度もあったが、これはもっと違う種類の辛さだった。

 これは一体なんだろう。ここまでの痛みに、他の皆も今まで耐えてきたのだろうか。鍋島や早川や浅海さんもこれを通過してきたのだろうか。もし知らないままなら、知らないまま終わった方がよかったんじゃないか。

 トロピカーナを手に取り、公園へと足を踏み入れた。

 依子は俺に気付くと、糸で引かれたようにふらりと立ち上がった。近づくと、俺はペットボトルを差し出した。依子はそれを受け取る。

「とりあえず、これで仲直りでいいよな」

 依子は無言でうなずく。気をつけなければ分からないほど微妙な差異で頬がゆるんでいた。それに安心して俺は言う。

「俺も、落ち着いてよく考えたんだけど」

 そうして俺は気づく。心の底をここまで開いて見せたのは、依子が初めてだった。

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