chapter6 虚飾/降雨
三時間ほどで目が覚めてしまった。
日が暮れてしまわないうちに早く出かけてしまおう、江戸時代の庶民のような感覚で、時計も確認せずに縁側のスニーカーを履いて外に出る。
真っ昼間はあんなに晴れていたのに、空は灰色の雨雲に覆い尽くされようとしていた。それに気づいたのは祖母ちゃんの家を出て十五分ほど歩いてからで、今さら傘を取りに戻る気にはなれなかった。
一面に広がる田園風景は弱冠十五歳の俺には少し退屈で、よくこんなコンビニもカラオケもゲーセンもないところに住めるものだ、と依子の立場を不憫に思ったが、そもそも依子は本さえあれば他の娯楽など必要なさそうだ。
左を見ると、背の高い石造りの鳥居がぽつんとあって、人の姿も確認した。木々に隠れた奥に石段が伸びていて、そいつはその石段をゆったりとした足取りで降りてくる。
見覚えのある顔だったので、俺は足を止めた。
「原村ぁー」
鳥居をくぐりつつ原村が手をあげる。
原村はこの曇天空のような色のスウェットにサンダル履きという、俺が深夜にコンビニに行くような格好をしていた。原村が近づいてきて分ったんだけど、彼は脇にスケッチブックやその他画材道具を抱えていて、よく見ると彼は目の下にクマをつくっていた。
何をしていたんだと尋ねると、原村は後ろの鳥居を指し、一晩中神社の絵を描いていた、と答えた。
「数時間くらい前か、平野が来てね」
「あいつが、そこの神社に?」
原村はだるそうに頷き、ぼさぼさのマッシュルームカットを掻いた。
「平野がお参りしてたからさ。あーちょっと君、モデルになってよって頼んだんだけど、なんか断られた」
「なんでまた依子を」
「なんでって。いい背景には美少女と決まってるだろう」
原村は当たり前のように言うが、俺にはよく意味が分らなかった。
彼は器用にあくびをしながら笑い、「じゃあ僕は家に帰るよ」と目を半開きにさせて歩き出した。どこへ行くのだろうと眺めていたら、何故か俺の方に寄ってくる。
原村が猫背気味に、頭から俺の胸にぶつかってきた。
「俺はお前の家じゃないぞ」
自分の口から出た台詞がやたらと新鮮だった。
「ごめん」
原村はきょろきょろと辺りを見回し、こっちか、と呟いて俺の歩いてきた道へとふらふら進んでいった。
彼は背中に丈の長い懐中電灯を背負っていた。一晩中って言ってたけど、今ってもう夕方だよな。いつからあの神社にいたんだろう。
清志叔父さんの入院しているという病院に到着して、ようやく気付いた。見舞い品を何も用意してきていない。
幸い病院内に売店があって、俺は今日発売のONEPICE最新刊を購入した。
偶然、受付ロビーには依子が居た。ちょうど彼女も今来たばかりらしい。
受付を済ませ、依子と二人で叔父さんのいるという202号室へ向かった。
叔父さんは半身を起こし、テレビでスポーツニュースを見ていた。俺の顔を見て、「純一か。でかくなったな」と、ひどくこけた頬で、どこかうすら寒い笑みをたたえた。
叔父さんは昔、地区の少年サッカーの監督をやっていて、俺もそのチームに所属していた。普段は温厚なのに、少年チームの指導で啖呵をとばして子供たちを引っ張る姿は、今だから言うけど、俺たちに畏怖と尊敬を交錯して抱かせたものだった。
少し痩せたくらいで顔は変わっていないのに、清志叔父さんの纏う空気は色の沈んだ深淵を思わせた。俺は何を言うべきか分からず、簡単な挨拶とおおまかな身辺情報だけを報告した。
ONEPICEの最新刊を手渡すと、叔父さんは「俺の中ではグランドラインに入ったあたりで止まってる」と気難しい顔をし、「まぁ、これを機会に続きを読んでみるかな」と、また笑った。俺は何も言えなかった。
依子は叔父さんの横で梨を剥き始めた。俺が祖母ちゃんの家で食った梨。
「純一、サッカーはまだ続けてるか?」
「……いや、中学で辞めた。才能がなかったから」
俺は柄にもなく口ごもった。
「何言ってる。才能なんて努力したあとに出てくるもんじゃないか」
「努力する才能がなかったんだ」
嘘を吐く。本当のことは言わなかった。俺はあえて、叔父さんが怒りだしそうな言葉を選んだのだから。
叔父さんは俺を見つめて口を閉ざしたが、すっとテレビに視線を戻して、「なるほど、それじゃあ仕方ねえな」と寂しそうに漏らした。
そんな叔父さんを見て、俺は叔父さんに対してかまを掛けたことを激しく後悔した。
歳を取って丸くなったとか、そういう部類の話ではないように思う。文字通り、『人が変わったよう』だった。
俺は叔父さんから目を逸らして、依子の手元の梨を見つめた。依子が梨を八等分してから、顔を上げる。
「依子、食わしてくれ」叔父さんは言った。
依子が手を添え、叔父さんに梨を食べさせる。叔父さんの顎がゆっくりと咀嚼を始めた。長く、のろい咀嚼だった。
依子は一度皿の上に食べかけの梨を置き、叔父さんが飲み込み終わるのをじっと待った。
「うめえな。林檎もうまいが、俺は梨の方が好きだ」
叔父さんが噛みしめているのは、梨の味だけではないんだろうな。俺は腹のそこで考えた。
病院を出てまもなく、依子が「パパ、脳梗塞なんだ」と短く言った。
俺が空を見上げ、コンビニで傘買っていこうぜ、と言いかけたときだった。
依子は自転車を押し、うつむきながら歩いていた。いつものように表情に変化はなかったけれど、依子が今にも泣き出すのではないかと、俺は気が気でなかった。
自転車のかごには、図書館で借りたらしい本と、夕飯の食材、そして買ったばかりらしい上履きの箱が入っていた。買い物ってこれのことか、と今さらながら気付く。
そのうち雨足が立ってきたので、依子が折傘を取りだした。俺は周囲を見回しコンビニを探した。
「俺も傘買わねえと」
「いいよ、入れてあげる」依子が折傘をよこしてくる。「お金もったいないでしょ」
依子が俺に優しさを見せてくるなど、今まで何度あっただろうか。俺はひそかに感動し、傘を広げた。
相合傘では、傘を持つ側が気を使って相手ができるだけ濡れないように配慮することが多い。今回、少しだけ依子に感激してしまったので、俺もそれに倣って彼女の方へと傘を傾けた。
――依子ちゃん、いじめられてるの?
翌日、日曜日の朝。
朝飯どきに母ちゃんが出してきた話題は、昨日保護者会のあとに鍋島の母親から聞いたという噂だった。母ちゃんは心配そうな顔で訊いてきたけれど、俺にはただの野次馬にしか見えなくて嫌な気分になった。
気晴らしで駅前のCDショップへ行ったときに早川沙樹に出くわして、さらに気分を削がれた。
「今泉じゃん。何してんの?」
棚に隠れてやり過ごそうとしたが、無駄だった。早川はやけに嬉しそうにしていた。
「CD買いに来ただけ」
「暇?」
「まぁな」
「ちょっとだけ、私の買い物付き合ってくんない?」
ね、ね、と早川がねだるように見上げてきて、本当に反吐が出るような思いだった。