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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
59/65

chapter58 それぞれのコンフリクト、決意、あるいは不一致

 その日、城川が雀の墓を作りたいと言い出したのは、一学期以来のことだった。

 昼休みと五時限目に挟まれた校内清掃の時間。彼女は雀の死骸が入ったビニール袋を手に、裏庭にあらわれた。同じ持ち場である鍋島はちょうど、生徒会室で文化祭経費の計算を手伝っているところだった。

「また靴箱に入れられてたのか?」

「これは、ちがう。わたしのに入ってたんじゃなくて……」

 城川は言いにくそうにして言葉を濁した。俺も念のためそう尋ねただけで、これが誰の靴箱に入れられていたのかなんて、本当は検討がついていた。城川が自責の念に駆られるのは他人の靴箱を勝手に開けてしまったからに違いない。

 校舎裏の湿った砂地に墓穴を掘っていると、体育座りで座る城川がぽつりと言う。

「あのとき、ここで宮下先生が言ったこと、やっと分かった気がする」

 ガーデニングスコップを斜めに地面に突き立て、隣で雑草をいじる彼女の指先に目を落とした。

 一学期の最後、ここで雀の墓を作ったとき、たしか俺と城川でほとんどの雑草はきれいに抜き取ったはずだった。なのに見渡してみると、通路一帯は前よりずっと無秩序な雑草地帯になっていた。はからずも、雀の死骸が土を豊かにしてしまったのだろうか。

「なんて言ってたっけ、宮下先生」

「全ての人間に共通する正義はあり得ない。だからコンフリクトが生まれる。正義がないなら、悪だって考えてはいけない。それを知ってなお不誠実なままなら、わたしたちはきっと後悔する、って」

 指に絡みつく草の葉を見つめながら彼女はそらんじるように言った。

 以前俺は、夏休み中にふと宮下の言葉を思いだして、コンフリクトの意味を調べたことがある。

 コンフリクトは様々な言葉で表現されていた。和訳すれば、つまり衝突であり、軋轢であり、葛藤でも当てはめられる。ある種の競合状態を意味しており、また、二つ以上の個人や集団の間に生じる、対立的ないし敵対的な関係を指している。

 その多くは経済学や企業で用いられる言葉だが、おそらく今の俺たちの状況もコンフリクトに分類されるのだろう。

 風が湿った空気を持ち去る。とはいえ清涼感はあまりなく、湿気の立ちこめた空間は風が吹き止むたびに維持された。

「先生が言った、後悔するって、たぶん、自分だけが後悔するってことじゃないんだと思う」

 城川が右手のひらを差し出した。その手にスコップの柄を乗せる。

「みんな、わたしと同じだから。みんなも教室のどこかに、神さまとか、悪魔みたいな、そんな絶対的な存在がいるって信じてる。上からじっとわたしたちを観察する神さまや悪魔がいて、わたしたちは目を閉じて耳をふさいで体を丸めるばかりで、抵抗する力もなく操られるだけで、いつも何かに怯えながら毎日を過ごしている」

 もしそんな存在がいれば、さしずめ、いじめられる人間は生け贄というところだろうか。生け贄を差し出して、自分たちの身の安全を確かめるように。

「神さまも悪魔も、そんなの、本当はいるわけないのに」

 城川が墓穴を掘りあげた。俺はすでに、両手に一匹の雀を抱えていた。穴の中に寝かせると、しばらく二人で雀の寝顔を眺めた。

「なんか、ちゃんと喋れるようになったな、城川」

「わたし、今度こそ、変わるって決めたから……」

 そう宣言する城川は、自分の台詞が恥ずかしくなったのか、急に語尾を小さくしてうつむいた。



 生徒会室にて、名前も知らない生徒会役員とともに文化祭の客引き看板にコサージュの飾り付けをしていると、入り口の方から鍋島由多加が入ってきて、いきなり俺を呼びつけた。

「これはちょうど良いところに。今泉くん、コピー室まで着いてきてください。仕事があります」

 鍋島は見事なまでの棒読み台詞だった。疑わしい眼差しで見つめていると、隣の寡黙な副生徒会長に「さっさと行ってさっさと戻ってこい」と急かされた。俺のサボり癖に、彼はすっかり辛辣な態度を身につけてしまっていた。

 鍋島の焦る歩調を追い、コピー室に入る。彼女は一度扉から顔を出して廊下の人通りを警戒し、そっと扉を閉じた。

「わざわざ今泉くんを呼び出したのは、他でもありません」

「やっぱ仕事じゃないのかよ」

「あ、いえ。仕事もあります」

 鍋島から一枚のA4用紙を渡される。文化祭のポスターだった。うちの制服を着た謎の金髪女が描かれている。ギターを手に、躍動感ほとばしるジャンプをしていた。結構上手い。

「これ、鍋島が描いたの」

「なんで分かったんですか」

「いや、適当に言ったんだけど。鍋島って絵上手かったんだな」

「元美術部なんだから、これくらいは描けます」

 ちょっと照れくさそうに言って、鍋島はそばのコピー機を指した。八十枚ほど印刷しろ、と命じてくる。

 こんなもの、俺に手伝わせなくても一人で出来そうなものだが、しかし本題は別にあるという。

「実は、そろそろ告白しようと思っているんですけど」

「そうなの」

 印刷設定に苦戦しながら相づちすると、鍋島が幾分憤慨した。

「真面目に聞いてください。今泉くんにも作戦を考えてもらおうと思っているのに」

「作戦もなにも、もう原村には好きって伝えてあるんじゃ」おもわず口を滑らせる。

「なんで知ってるんですか?」

「いや、勘でそう言っただけ」

「勘? それならいいですけど。あまりいい加減なこと言うの止めてくださいね」

 本当は勘じゃない。彼女が原村のアパートに乗り込んでいったことは、もう原村本人から聞いていた。俺がそのことを知ってるって分かったら、なんとなく怒られそうな気がする。

「そうじゃなくて、今度こそちゃんと告白したいんです。成り行きとか、その場の流れとかじゃなくて、ちゃんと」

 印字の途切れたポスターが出てきた。慌ててリセットボタンを押す。紙を正しくセットし直す。

「聞いてます? それで、告白するときって、その、何かプレゼントとか用意した方がいいんでしょうか」

「なに、プレゼントって。お前いつの時代の人間だよ」

 半笑いで顔を上げる。鍋島が顔を真っ赤にして硬直していた。

「いや、ごめん」

「もういいです。今泉くんには相談しません」

 鍋島は腕を組んでパイプ椅子に腰を下ろした。もう何を言っても駄目そうな空気だった。気まずい思いでコピー機に向き直る。

「昭文くんって、最近どうなんですか」

 相談しないと言った矢先だ。これが乙女の気まぐれなのか。

「なんだよ、どうって」

「村瀬さんと、どうなんですか」

「村瀬?」

 天井を見上げて考える。何故ここで村瀬が出てくるのかよく分からない。鍋島はパイプ椅子で縮こまり、頭を垂れ、手元で指を絡ませていた。まるで先生からお叱りを受ける小学生のように。

「最近、屋上へ出入りする村瀬さんをよく見かけます」

 それで納得する。村瀬はあれ以来、やたらと俺や原村とつるみたがっている。原村はどうか知らないが、俺ら以外の人間が頻繁に屋上に訪れることを俺はよく思っていない。いや、今はそんなことどうでもいいか。

「別に、普通だよ。あいつ、ここんとこ早川や吉岡と上手くいってないみたいだし。新しい友達探しでもしたいんじゃないの」

「私、村瀬さんになら、昭文くんのこと取られてもいいかなって思うんです」

 ちょうど設定し終えた俺は、疑惑混じりに鍋島を振り返った。

「大丈夫かよ鍋島。いきなりなにを言い出すんだ」

「村瀬さんはきっと、友達に失望しているんです。私たちが、村瀬さんを裏切り続けたのがいけないんです。彼女はきっと、新しいものを求めているはずです。今はたぶん、男の子ならどうかなって」

「なんでそうなるかな」

「昭文くんに伝えてください。私と村瀬さん、好きな方を選んでくださいって」

 張り飛ばしてやろうかこいつ、と思ったが、残念ながら相手は女子だった。

「お前、村瀬のこと哀れんでるだろ。色んな友達に見捨てられて、憂さ晴らしに吉岡をいじめて、ついに男にまで手を出そうとしてる村瀬に、ただ同情してるだけだろ。馬鹿じゃねえの。そんなんで好きなやつ取られてもいいとか言い出すんだからさ」

「なにが馬鹿なんですか」

 鍋島の声色はおぼつかない。

「一人ぼっちは、寂しいじゃないですか」

「だからって……」

 突如しおらしくなった鍋島に俺は戸惑う。叩くように印刷機のスタートボタンを押した。

「私たちが彼女の寂しさを埋めてあげられなかった。それなら、責任を取るのも私たちじゃないですか」

「それが馬鹿だって言ってんだよ」

 これから自分が言うべき言葉を、胸の中で何度か繰り返してみる。とにかく恥ずかしい台詞だが、それ以外の言い回しが思い浮かばないのだから仕方ない。

「もう一回、あいつと友達になってやればいいだけだろ」

 あとはよろしく、そう言い残してコピー室を出る。背後で椅子を立つ気配を感じ取ったが、俺は構わず廊下を進んだ。



 土曜日。

 夏休み中に原村の携帯代を稼ぎきれなかった俺は、学校の目を盗んでバイトに精を出していた。

 喫茶店ソレイユに到着し、従業員ルームで着替えていると、浅海さんがくわえ煙草で入室してきた。

「禁煙っすよ、ここ」

「お、わりーわりー」

 あの事件以来、俺はぎこちない思いでバイト先に足を運んでいた。浅海さんが不自然なくらいいつも通りに接してくるせいだ。いや、不自然と感じてしまうのは俺だけだろうか。

 午後二時。

 癇癪爺さんの相手を済ませて、店先のスタンド灰皿で一服していると、駐車場の先から早川沙樹がやってきた。

「アキラくんはいる?」

 早川はすこし興奮気味に詰め寄ってきた。俺は半歩後ろにさがって、後方の喫茶店の扉を流し見た。

「いるけど」

「今泉は、いま休憩中?」

「うん」

「じゃあ、私が出てくるまで、お店には入ってこないで」

 店員を相手取って店に入ってくるなとはどういう了見だろう。俺が何か言う前に、早川はソレイユの扉を開けた。それで勢いよく閉めるものだから、ポニーテールが扉に挟まって小さな悲鳴を上げていた。

 ただ事ではない何かを感じつつ、落ち着かない気分で店頭のベンチに座る。

 昨日までとは打って変わって、空は晴天。煙草を三本消費した。

 待機すること二十分。ため息混じりの早川が店から出てきた。手招きをして、ベンチの隣を指し示す。ここまで来て、訳も聞かずに彼女を帰すわけにはいかなかった。

「なんかあったの」

 早川は入店時とは反対に、生気の抜けた目で青空を眺めていた。履いていたサンダルを地面に投げ出し、膝を抱いて憂いを帯びため息を吐く。

「美野里と、アキラくんのことなんだけど」

 そこで、沈黙。俺は根気強く待つ。新しいハイライトの箱を開ける。くわえる。火を灯す。

「美野里、告白されたらしいのよ、アキラくんに」

 煙を吹く。どう受け止めればいいのか分からない。

「付き合ってなかったっけ?」

「だから、付き合ってなかったの。その、なんていうんだっけ……」

「セフレ」

「そう、それよ」

 そうだった。俺ってとことん学習能力ない。

「さっき、アキラくんに問いつめてきた。美野里のこと、本気なのかって」

「そしたら?」

「本気、だってさ」

 俺は浅海さんの顔を思い浮かべてみた。告白したってのは、つまりいつのことだろう。早川の様子だとつい最近なのは間違いなさそうだが、彼は今日も飄々と振る舞っていた。

 実は、この日が来ることを前々から予感していた。あの監禁事件で、吉岡から『平野さんを犯して』と命令されたときの浅海さんの反応。何故あのとき彼が吉岡を裏切ったのか。その意味をずっと考え続けていたが、やはり、そういうことなのだろう。

「本気かどうか、そんなこと訊くために、わざわざここまで来たのか」

「だって、本気じゃなきゃ困るもの」

 早川は両膝に顔を埋めた。つむじ辺りで結わえられた髪の結び目が上を向き、髪先が肩から垂れ落ちた。

「美野里、最近元気なくて。上の空って感じだったのよ。最近みんなから意地悪されてるから、そのせいかなって最初は思ってたけど、それも違うみたいで。思い切って話を聞いたら、実はそんなことがあったなんて……」

 吉岡が上の空という図が俺には想像できなかった。

「今泉、美野里と付き合ったことあるのよね。そのときはどうだった?」

「中学のときな。二週間くらいで別れたし、あんまり覚えてないけど、多分、お互い好きでもなんでもなかったと思う」

 告白される側の気持ちって、どんな感じだっただろう。俺も中学時代、いま隣にいるやつにされたことがある。なのに全く思い出せない。あるいは、あのときは何も考えていなかっただけかもしれない。

「今泉は、誰かを本気で好きになったことってある?」

 よく分からない。

「私は、今でも今泉のことが好きだから、アキラくんの気持ちがよく分かる。美野里もそう。相手が好きだって気づいたとき、すごく心が落ち着くんだよ。テストで難しい問題が出て、やっと解けたときの感覚に似てるかも。でも、それは心の中でだけ。相手の前に立てば、途端に気持ちが浮ついてしまう。無駄に意識しちゃって、何も見えなくなって、最悪、一人じゃ全然喋れなくなる」

 俺は早川の顔を直視できなかった。昔、安易な気持ちのまま彼女の告白を挫いたこと、いま改めて後悔していた。

「美野里もきっと、自分がどうしたらいいのか分からないんだと思う。告白される側って不利よね。告白する方は十分心の整理をつけてくるものだけど、告白される方はそうじゃない。頭の中をかき回されて、相手の心まで委ねられる気分なのよね」

「どうするんだろうな、吉岡」

「迷うのは、それだけアキラくんが気になるってことなのよ」

 でも、と早川は言う。

「美野里、分からないみたい」

「分からないって」

「どうすれば相手に優しくできるのか、もう忘れちゃったみたいな……」

「……それは、さすがに大袈裟だな」

 傾いた日差しが喫茶店の屋根に隠れ、俺たちの周囲に三角形の陰を作っていた。頬に伝う汗を拭う。シャツの胸元を引っ張り、生ぬるい風を入れて涼んだ。

「もう、休憩が長いわよ純一くん……」

 扉を開けて道子叔母さんが顔を出した。並んで座る俺たちを見て、目をしばたかせる。

「お邪魔だった?」

「いえ、私はもう帰ります。まだ他の用事もあるし。ごめんね、今泉」

 早川はサンダルを履いて立ち上がり、叔母さんに小さく会釈して去っていった。



 翌日の日曜日。急遽学校に呼び出され、例によって生徒会室で看板作りを手伝わされた。

 昼になり、各自昼食休憩となったところで、生徒会室の雰囲気にうんざりしていた俺は図書室に行くことにした。

 図書室には原村と依子がいた。漫画喫茶の準備のために自主的に休日登校したのだという。真面目なのか、それとも暇なだけなのか。

 依子はもう昼食を済ませたという。受付内で原村と長机を挟んで座り、昼食を共にしながら雑談した。

「まだ今泉には言ってなかったと思うけど、僕、沙樹んとこに住むことにしたから」

 穏やかそうな表情を浮かべて原村が言った。サンドイッチを頬張りながら、観察するようにその顔を見る。

「もう、大丈夫なのか」

「うん。どうやら、僕が意地張ってただけみたい。やっぱ、最低なのは僕の方だったんだなって。そりゃ、妹を守るだなんて、そんな大層なことはまだ言えないけどさ」

「昔は、早川の話をすることすら嫌がってたのにな」

 原村は頭を掻きながら、ぽつりと、もうそのことは許してくれ、と言う。そして思い出したように顔を上げた。

「そうだ。昨日の夕方に、沙樹が僕のアパートに来てね」

 昨日の夕方、つまり彼女がソレイユを訪れたあとだ。他の用事と言っていたがこのことだったらしい。なんていうか、兄に受け入れられた途端べったりだ。ブラコン臭い。

「で、二人で行ってみたんだよ、あの廃墟の屋上。懐かしかったなぁ。思い出の地とは言うがね、なんだろう。十年近くも前のことなのに、びっくりするくらい鮮明に思い出せて。嘘みたいに広かった屋上は、今でも変わらず広大で。自分の身長が、あの頃に戻ったような錯覚まで起こしたよ」

 原村は弁当箱のふたを閉じる。箸箱に箸を入れて、そこで手を止めた。視線を机の木目に向けると、原村らしくない感傷的な声が漏れてきた。

「沙樹、泣いてたんだ」

 そして自嘲的な笑みを口元に浮かべる。

「どうして沙樹が泣いていたのか、全然分からなかった。僕は、その訳を訊くことさえ出来なかった。分からなかったことも、訊けなかったことも、全部が悔しかった。やり残したことが知らないうちに膨らみ過ぎていた。僕は一体、今まで何をしていたんだろう。あいつの兄貴として、僕がどれだけその役目を果たせていたんだろう。そう考え出したら、本当に悔しくて」

 ふいに弟のことが頭をよぎって、胸がどきりとした。当たり前過ぎて、今まで考えたこともなかった感情が自分の中にあふれていた。

 そんな中で、受付カウンターで図書文集を広げていた依子が口を開いた。

「それでもあたしは、原村先輩や純がうらやましい」

 俺たちは同時に彼女に見る。依子は文集を閉じて、俺たちに向けて座りなおした。

「兄弟がいるからうらやましい、ということじゃない。身近で、当たり前になった人のことを、ちゃんと考えなおしてあげられることに、価値があると思う。そういう風に家族から想ってもらえることも、すごくうらやましい」

 言い切ったぞ、みたいな感じで依子は前に向き直った。俺と原村は顔を見合わせ、しばらくきょとんとしていた。次第におかしくなってきて、そしてどちらともなく笑い合った。依子はかたくなに文集へと目を落としていた。



 副生徒会長の帰宅許可を得て、校舎を出る。駐輪場の灰色の壁を抜けると、そこには髪の長い女が忽然と立っていて、俺は激しくビビってしまった。よく見れば依子で、よく見なくても依子だった。

 依子は俺の自転車のすぐ隣に立っていて、なにもしていなかった。不気味で仕方がない。うっかり声をかければ藁人形でも差し出されそうな雰囲気だ。

「なにしてんの、こんな所で」

「一緒に帰ろうと思って」

 依子が言わなさそうな台詞ランキングがあればこれは間違いなくランクインする。なんかデジャブ。しかし今回は、依子の赤ママチャリはしっかりと駐輪場の隅に停められていた。

 安心して自分の自転車に乗る。依子が荷台に乗ってきた。

「おい。自分の自転車あるだろ」

 依子は返事をしなかった。早く走らせろ、と言わんばかりに俺の腹に手を回してくる。その状態で二分間。何も考えずにペダルに足をかけた。緩めに漕いで校門を抜ける。

 日が落ちるのが早い。夏の終わりを肌で感じる。依子の手は俺のシャツを掴んだまま離さない。背中に密着した彼女の体温が、生々しく届いてきた。

 依子だって、無条件で甘えたくなるときくらいある。例えばこういう日。文化祭の準備に焦燥として、いじめられなくなったけれども代わりに他の誰かがいじめられて、特に自分に何があったわけでもないのに身体だけが疲れて、心にぽっかりと穴が空いてしまったような、そんな空虚な日曜日。

 一言も会話を交わさず、やがて郊外に出る。階段状に連なった田んぼと、山の裾野から見はらせる海の青があって、祖母ちゃんの家が近いことを知った。

 この心音はどちらのものだろうと考えた。依子のものか、それとも俺のものか。

 次に早川や鍋島の言葉を反芻して、浅海さんが吉岡に告白したことを思い出して、ある感情について考えてみた。この歳で常識として体感しているはずの感情を、俺はまだよく知らないままだった。恋情か父性か家族愛か。恥ずかしいことに、俺にはうまく判別できない。

 気付けば、全力でペダルを漕いでいた。息が切れるのも、肺が苦しくなるのも気にならなかった。苛ついていたし、寂しかったし、もどかしかった。思いっきり、依子の手を引き剥がしてやりたいくらいだった。

 神社を通り過ぎ、古びた自販機を横切って、耕耘機を移動させる爺さんを追い抜く。

 道を折れ、あぜ道に入る。二本の轍に挟まれた細長い雑草地帯をわざわざ選んで、そこを駆け抜けた。祖母ちゃんの家が目前にある。

 ここで急ブレーキを掛ける。

 タイヤが湿った草に取られ、自転車が大きく傾いた。車体が左に折れ曲がって祖母ちゃんの田んぼに突っ込みそうになる。スニーカーが汚れるのも構わず強く地面を踏んで、無理矢理自転車を止めた。

 依子は転びかけて、なんとか土の上に降り立った。水たまりが跳ね、彼女の膝を汚す。自転車が地面を滑って水田に半分突っ込み、俺の片足も作土層に浸かって濡れた。膝をつき、無理に立ち上がる。

「いい加減にしろ……」

 息が途切れて言葉にできない。依子は地面に落ちた二つの学生鞄を拾いもせず、固まったまま俺を見ていた。

「どうしたいんだよ、俺のこと。いつまでもいつまでも思わせぶりやがって」

 ぬめった土から足を引き抜いて、依子に詰め寄る。何故か知らんが二の腕を引っ掴んで、睨むように見下ろした。

「いいよもう、こういうの。今まで我慢してたけど、やっぱ性に合わないんだよ。俺のことどう思ってんのか、もう、はっきり言ってくれ」

 依子は逡巡して、逸らしかけた目を必死に俺へと向け続けた。やがて俺の手を取って、ゆっくりと離させる。

「わからない。純のことは好きだけど、でもたぶん、そういう好きじゃ、ないと思う」

 取られた手を中心に力が抜けていく。羞恥心から耳が赤くなっていくのが分かった。いっそ泣いてしまいたいような、理不尽ながら裏切られたような気分にもなった。

「ごめんなさい」

 謝られた瞬間、頭の中で何かが切れた。必死にそれを抑えた結果、彼女の両肩を突き飛ばすだけにとどまった。依子はよろめいて後退した。俺は田んぼに突っ込んだ自転車を起こしてあぜ道に戻し、泥まみれの鞄をかごに入れた。ついでに足にへばり付いていた泥を手にとって依子の足元に投げつけた。泥水でローファーが汚れる。なんかのしょぼい妖怪にでもなった気分。自分のあまりの情けなさにまた涙が出てきそうだった。

 呼吸を荒くして睨む。依子は両手を中途半端に宙に上げたまま、俺に近づこうとした。

「来んな」

 吐き捨てるように叫ぶ。自転車に飛び乗り、逃げるようにその場をあとにした。

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