chapter5 梅雨の晴れ間に
家に帰った頃にはもう八時を過ぎていて、俺は疲れあまり、すぐに居間の畳へと倒れ込んだ。
少しだけ寝ようとしたら、母ちゃんに「邪魔」と背中を蹴られ、俺は転がりながら居間の隅っこで小さく丸まった。
母ちゃんが食卓にしゃぶしゃぶの鍋を置き、「父ちゃんと雄二呼んできて」と命令され、俺はのっそり立ち上がり、弟と親父の部屋へ向かった。弟も親父も布団に寝そべって居眠りをこいてたので、母ちゃんみたいに二人とも蹴り起こした。そしたら弟の方と少し喧嘩になった。
家族四人で、もそもそとしゃぶしゃぶの豚を頬張る。
小学生の弟はさっき俺にぶん殴られて半べそをかいていたが、誰一人として慰めはしなかった。そのとき、俺が母ちゃんに保護者だよりを見せたために、注目はむしろそちらへ集中した。
「明日って、また急ねぇ。これ、絶対出なきゃいかんの?」
母ちゃんが眉をひそめて保護者だよりを眺めた。やっぱり面倒臭そう。
「自由参加じゃね。知らんけど」
俺は豚肉の少なさに絶望しながら答えた。
横を見ると、弟の受け皿に豚肉が大量に積まれていた。弟が涙目であっかんべーをする。さっきの仕返しらしい。
まぁいいけど。お菓子食いすぎてあんま腹減ってないし。
「年に一回くらいは出席しとけな、母さん。それに、純一が高校入って初めての保護者会だろう」
親父は眼鏡を曇らせながら味噌汁をすすった。汁が気管に入ったのか、二、三度咳をして、親父のでかい図体が揺れた。親父の唾があたりに飛び散って俺たち三人は顔をしかめる。
母ちゃんは保護者だよりを見つめて何か言いたそうにしていたが、その口を塞ぐようにレタスを食べた。
食後、弟はすぐに部屋に向かった。明日は休みだろうに、もう寝るなんて我が弟ながら感心だ。
親父と母ちゃんに、今日祖母ちゃんの家に行ったことを話すと、二人はテレビから俺へと視線をシフトした。
「道子はいたか?」
親父が顎を撫でながら言う。道子叔母さんは親父の妹である。
「いなかったよ。叔母さんも祖母ちゃんも、清志叔父さんのお見舞いに行ってた」
道子さんも大変よねぇ、と母ちゃんが虚空をあおぐ。親父は黙ってビールを飲んだ。そんな雰囲気の中で清志叔父さんの容態を聞く気にはなれなくて、今度お見舞いに行ってみようかな、と俺はこっそり計画を立て始めた。
次に依子のことを話すと、母ちゃんがえらい勢いで食いついてきた。俺すら知らない、依子の武勇伝的なものを聞かされた。
母ちゃんによると、依子は中学で生徒会長をやっていたらしく、成績は学年で常にトップをキープしてたとか、男子にはモテモテだったとか、活発な子で友達もいっぱいだったとか、うだるような長話をしてきた。なにその漫画みたいな完璧人間。
俺は、とてもじゃないがその噂を信じることは出来なかった。
「本当、あんたが依子ちゃんと同じ学校に入れたことが奇跡よね」
愚痴が始まりそうだったので、俺は自分の部屋に戻った。机で教科書を広げ、期末テストの範囲を追って勉強を始める。やっぱり学問は一人で学ぶに限る。
五時間ほど机に向かって、ふと壁時計を見れば、針は午前三時を指していた。一度伸びをして、風呂でシャワーを浴び、煙草を三本吸って俺はベッドに飛び込んだ。
そして翌朝。俺の目を覚ましたのは携帯の着信音だった。
俺は布団を被ってそのけたたましく鳴る着信音を拒絶する。しかしこれが一向に鳴りやむ気配がない。
しばらくして鳴り止んだと思えば、一分もしないうちにまた鳴り始める。一時、これは目覚まし時計のスヌーズ機能ではないかと疑ったが、どうかんがえても昨日の晩に目覚ましをセットした覚えはないし、そもそも曲が携帯の着信用に設定されたものだった。
鳴って切れて鳴って切れてが十分ほどエンドレスする中、今度は部屋のドアが蹴り叩かれるような音がした。
「兄ちゃんうるせぇ!」
弟だ。お前がドア蹴る音のがうるせえ。
せっかくの休日なのにさんざんだった。
布団から手だけを出して枕元の携帯を取ると、その瞬間、また着信音は止まった。せっかく出ようと思ったのに。怒りに任せて壁に携帯を叩きつけてやろうかとも思った。
携帯を開くと、寝起きにはきつい液晶の光が瞼を刺激する。ちょっとだけ瞼を開くと、着信十六件と表示されていた。どこの阿呆だよ。
また着信が来る。通話ボタンを押すと、最近やたらと関わりが出来てしまった親戚の声が、「迎えに来て」と言った。
無視して切ろうかともくろんでいた所、声はまた「自転車で来て」とやたら滑舌よく補足してきた。
「挨拶くらいしろバカ」
「おはようございます」
依子は無感情に言う。一昔前に流行ったファービー人形でももっとマシなリアクションをしてくれそうなものだ。俺のペースも乱されそうだったから、俺はさらに苛立ちを表現してみる。
「あと俺の睡眠妨げたから謝れ」
「ごめんなさい」
声のトーンは一ミリも変わっていないようで、俺はやむなくため息だけを吐いた。
「なんか用? 俺が寝ながらでも大丈夫な用事にしてくれ」
「出掛けなきゃいけないから、自転車で迎え来て」
「やだ。俺の家までくりゃ貸してやる」
「あたしと純の家って、どれくらい離れてるかな」
「十キロくらいじゃね」
俺は適当に答えた。昨日ゆっくり走って一時間かかったから、多分それくらい。
依子が黙った。電話越しに息づかいすら聞こえてこないから、居なくなってしまったんじゃないかと疑ったが、名前を呼ぶと「なに」とだけ返ってくる。会話は続かない。
「ママは今日仕事だから、送ってもらえない。お祖母ちゃんは畑仕事」
「あっそ」
また依子が閉口した。無言の怒りを伝えたいらしい。俺だって怒りたい。休日の早朝から駆り出される身にもなってほしい。
沈黙はそれからも五分ほど続いた。切ればよかったんだけど、無言の依子を相手に電話を切れば後で生き霊となって呪い殺しにきそうだったから、俺は激しくこめかみを掻いて半身を起こした。
「行けばいいんだろ行けば!」
「ありがと」
依子が即座に電話を切った。やり場のない怒りを壁にぶつけたら、壁が「兄ちゃんうるせえ!」と返事をした。
依子の家に着いたのは十一時ほどで、俺は依子と祖母ちゃんと素麺を食べた。
相変わらず空気はじめついていたけど、空は絵に描いたような晴天で、縁側には早くも風鈴が取り付けてあった。時期の早い夏を堪能する。
祖母ちゃんは昔と変わらず無口で、俺との久々の再会を果たしたのが嬉しいのか、ずっとにこにこしていた。素麺を食べ終えたあとヨーグルトを食べされられ、煎餅を勧められ、梨を無理矢理食わされたりで、満腹だと言っても祖母ちゃんは「そんなんじゃ大きくならん」と、食え食え攻撃を止めなかった。
祖母ちゃんはそのあと畑仕事へ向かった。ようやく昼寝できそうだ。
しばらく縁側に寝転がっていると、依子がやってきた。俺のそばで足を崩して座り、「図書館行ったり買い物行ったりするけど」とだけ言う。
「俺の自転車使うんだろ。いいよ、使えば」
「純も来る?」
「いい。寝る」
図書館も買い物も興味がなかった。昨日はまともに寝なかったから、昼寝もしたいし。
すると、大根をいっぱいに抱えた祖母ちゃんがひょっこりと顔を出して、「デートかい、行ってくりゃええ」と笑い、農具庫の方へさっさと行ってしまった。梅雨の晴れ間の畑仕事は忙しいらしい。
「パパのお見舞いも行くよ」
たたんだ座布団の上に頭を乗せたまま、ぶら下がった風鈴を見上げて俺は考える。外から温風がやってきて、俺の前髪と依子のスカートを揺らす。
「清志叔父さん、どこの病院いんの」
「駅の近くにある中央総合病院」
ここから歩いて五十分ってとこか。
「分かった。ちょっと寝たら、歩いて行くわ」
依子は頷いて、縁側のたもとに並べられたカジュアルサンダルを履いた。俺の自転車をこぎ出し、ガタガタあぜ道を進んでいく。依子の小さな背中を見送りながら、俺は瞼を閉じた。