chapter45 昼下がりの市立図書館
翌日のバイトを終えた夜、叔母さんたちに礼を言って、祖母ちゃんの家を出て自転車で自宅へと戻る。弟は叔母さんの車で送ってもらえるそうだ。
次の日、保険証と印鑑をバッグに放り込み、郵便局に出向いた。今後のため、差し当たってゆうちょの銀行口座を開設しておく。初めて持つ銀行通帳にこそばゆい気分になりながらも、とりあえず口座番号を叔母さんに伝えた。
ソレイユからの給与が振り込まれるのは八月の終わり頃。そちらは原村のiPhone代に回せばいいだろう。しかし俺には、夏休み中にやっておきたいことがまだまだある。まとまった金が必要だ。
ソレイユの定休日は月曜と木曜。他のバイトと言っても、喫茶店の開店日に掛け持つのは現実的に難しい。
もう日雇いしかないか。だるそうなイメージだし、すごい抵抗あるけど、選んでる余裕なんてない。
両親の寝室に入り、母ちゃんのノートパソコンを拝借して派遣会社をいくつか検索してみる。そしてよく分からんが、さっきから母ちゃんが俺の後ろでそわそわしてる。なんだろう。
「あ、あたしのブログ、絶っ対に見ないでね」
うわー、死ぬほど興味ない。
「いや見たくないから、そんなもん」
と言いつつ、お気に入りを開く。
「えぇと、出来るオンナの節約――」
「あーあー!」
ノートパソコンを取り上げられた。タイトルの時点でもう恥ずかしいし、俺もこれ以上見たくなかったけど。まぁいい、大体の目星はつけた。寝室を出て、自室で横になりつつ、携帯から派遣会社サイトに登録した。
明日は木曜だ。喫茶店も休みのため、出来れば明日にでも日雇いで出稼ぎたい。
数時間ほどで、企業からメールが来た。
俺がこれだけ活動的になった夏休みは、おそらく史上初の事態だった。当然のごとく、今までバイト経験のなかった俺には、世の中には未知の世界が数多く広がっているのだなと実感させられた。
喫茶店と日雇いで一日たりとも休まず、ソレイユ常連の爺さんにこき使われたり、犬猫同然の扱いで森林調査に狩り出されたり、ジャニーズコンサートのスタッフで熱狂ファンに揉まれて圧死させられそうになったり、特に工場の手伝い要員に加わったときなどは、謎の取り扱い説明書の訂正シール貼りを十時間やらされて、うっかり発狂してしまいそうになったのだが、なんとか正常な思考を保ちつつ八月を迎えることが出来た。
気づけば、ソレイユの五日間の休業期間が始まっていた。
俺はこの五日間、出身校である小学校のプール監視員のバイトを任されていた。小学生時代の知り合いから、『夏風邪にかかってプール監視に出られなくなりました』と代理を募る一斉送信メールが来て、たまたまソレイユの休業日と重なった俺が務めることになったのだ。
こんな状況じゃなかったら、こんな面倒くさい頼みなんか絶対に受けないんだけど。
プールサイドのビーチチェアに腰掛け、ほのかな塩素の匂いを懐かしみ、ぎゃあぎゃあと騒ぐ小学生の群れを眺める。
あぁ、俺も思いっきりプールに飛び込んでみたい。
今頃、原村は浅海さんに連れられて、沖縄へと旅立っているのだろう。気楽なものだ。俺も行きたかったのに。
暴力的に降り注ぐ日照りを避けるべく、麦素材のカンカン帽を被りなおす。小学校から支給された帽子だけど、これがまた水槽の亀みたいな臭いで鼻がひん曲がってしまいそうだった。
「兄ちゃん暑そうだなー」
プールの水面からゴーグル姿の弟が顔を出し、俺に向けて嘲笑を送ってくる。シカトしておいた。
「あー涼しー」
再び水に潜っていく弟。そのまま浮かんでこなきゃいいのに。
辟易とした息を吐く。仕事自体は楽だったが、弟含め、さっきからやたらと小学生共からちょっかいを出される。暑いし帽子臭いしで、優しい気持ちになれるわけがなかったが、俺は必死に取り繕った笑顔でちびっ子たちを見守った。
突然、高学年くらいの童女から水鉄砲の洗礼を受ける。顔面に冷水を叩きつけられ、心も冷ややかになっていく気がした。
「ねぇ、笑顔こわいよ。彼女いなさそー」
とんだご挨拶である。口元に笑みを、目に怒りを浮かべ、それを童女に向ける。しかし、俺のそんな暗示は虚しくも通じた様子はなく、そのガキは水鉄砲片手にぴょんとプールに飛び込んでいった。
今、はっきりと分かった。俺は子供が嫌いだ。
「すまんな。あれでも私の娘なんだ」
隣で音がして、俺の真横にスツールが置かれる。そこに座った男を見ると、我が校の現代文担当教師、五頭だった。しかもこのくそ暑い中で何故か背広姿。
ここで俺はあることを思い出す。慌ててカンカン帽を目深に被り、なるべく顔を隠すようにした。
そうだ。処分対象者の俺はアルバイト申請を学校に提出しておらず、こうして無断で働いているのだ。
「暑い中、精が出るな今泉」
駄目だ、普通にバレてるし。あきらめて帽子を取り、両手で鍔を持って押し黙った。
「どうだ、働くのは」
五頭の皮肉めいた質問。俺は軽く頭を下げる。
「あの、すみません、えーと……」
「働くのはどうだ、と聞いている」
前方に視線を固定したまま、五頭が威圧的に言った。全身の筋肉が萎縮してしまい、俺は声を小さくして答える。
「いや、よく分かんないっす。楽しいとか、辛いとかってより、とにかく無我夢中って感じで」
「お前ぐらいの歳なら、それくらいがちょうどいいだろうな」
五頭は前だけを見つめていた。日光に当てられ、でかい眼鏡レンズが反射して輝く。目が痛いので、俺も顔を前に戻した。
さっき俺に水をかけてきた五頭の娘とやらが、今度は俺の弟に絡んでいた。弟の背中に抱きつき、というか、首根っこを絞めつけているようだった。
この光景だけ見ると、俺と五頭の力関係に酷似しているな、と思った。
「そんな風に稼いだ金で、一体なにが欲しいんだ」
あ、説教始まった。
「なにがっていうか。とにかく、俺には必要なんです」
「なんだ、欲しいゲームでもあるのか?」
頬が紅潮し、耳まで真っ赤になっていくのが分かった。五頭の方に身体を向け、彼の冷淡な瞳を見据える。
「そんな下らないものじゃない。自分だけのために安易にバイトなんかしないよ。俺にはちゃんと目標がある」
「しかし、規則を破ったことに変わりはない」
なんだよ、五頭じゃなくて石頭かよ。叩き割ってやりたい。
だけど、それもそうか。たしかに俺は正しいやり方で目標に向かっているわけではない。正規ではなく強引で、もし今目指している金額を手に入れたとしても、その目標が達成されるとは限らない。
だからって、他にどうしようもないんだ。規則や秩序に従い、今までのように行動を起こさないで終わるより、多少強引でもやってみるべきだ。
しばらく無感情な五頭の顔と向き合っていると、ふと彼の方から口を開く。
「たまには、自分のことも大事にしてみろ」
口調に俺をいたわるような影があり、いささか拍子抜けしてしまう。彼の言いたいことは分かるが、しかし見当違いだ。俺は首を振る。
「俺、結構寂しがりっぽくて。他人がいないと駄目みたいで。これでも俺なりに、自分のこと大切にしてるつもりなんですけど」
「そんなことは分かっている。それを踏まえた上でだ」
五頭が、俺の手からカンカン帽を取り上げる。帽子を手に立ち上がる彼を見上げる。相変わらず淡々とした表情と動作で、俺の頭に、押し込むように帽子を被せた。
「背伸びをするにしても、無理だけはするな」
「するよ」
即答し、せめてもの抵抗を見せる。したり顔で帽子の位置をなおす。五頭は深くため息を吐いたが、やがて、プールに向けて声をかけた。
「理香、もう帰る準備をしなさい」
「やだー」
もう一度、頭上でため息。
「いつもこうだ。子供というやつは」
小さく漏らし、五頭はプール出口へと向かっていく。
去っていくその背中に、俺はあること言い忘れていて、蹴るようにビーチチェアを立った。
「あの、ありがとうございます」
五頭が振り返る。礼を言われる意味がわからない、という表情だった。
「いや、その、見逃してくれて、ありがとうございます」
あ、確かにおかしいな、教師に対してこのお礼は。
すると、五頭が鼻だけで笑った。
「勘違いするな馬鹿が。お前は二学期からの一ヶ月間、毎日朝七時からの清掃に来い」
鬼め。
夏休み期間の登校日を目前に控えた、ある日の土曜日。
たとえ長期休暇だろうが、依子が必ず土曜に図書館に来ることは分かっていた。
自転車で一時間も離れた祖母ちゃんの家に行くより、図書館で依子を待ち伏せる方が効率がいい。
昼下がりの市立図書館、駐輪場にて。
キックスタンドを立てた自転車に寄りかかり、煙草とコーラの味を交互に楽しむ。
駐輪場の屋根から木の枝が頭を出し、蝉のじわじわとした鳴き声が俺の気分を高ぶらせた。枝葉が作った網目模様の地面を睨んでいると、少しだけ緊張が治まってくる。
依子が赤ママチャリでやってきた。俺の存在に気づくと、自転車置き場にママチャリを止め、音も立てずに俺のもとに歩みよってくる。
土曜日なので、当然、頭はパイナップルヘアー。何回見ても面白い。そろそろ写メ撮らせてくれないかな。
こんな所でなにをしている、依子はそんな顔をしていた。口には出さないようだけど。
俺は自転車のかごに入れたショルダーバッグを手に取り、中から一枚の紙切れを出した。それを依子に手渡す。
「みんなで行こうと思ってさ」
依子はそれを胸の高さに掲げ、紙に記載された文字をまじまじと目で追った。
八景島シーパラダイスのワンデーパス。一枚五千円で、しかも八人分。計四万円。高すぎ。日雇いの分ほとんど消えたわ。
しかし、まずは一枚、依子に渡せた。
依子はチケット片手に俺を見つめた。しかも、どことなく怒っているような、興奮しているような感じで。なんで?
「あぁいや、どこ行こうかなって迷ってたんだけど、ほら、お前無くしたじゃん、ベルーガのまりもっこり。だから八景島でいいかなって。みんなを誘って、夏の思い出? みたいなの作りたいなーって」
俺は相当照れつつ、回らない呂律で補足する。なんだこれ、ラブレター渡したわけでもあるまいし。
「いく」
依子が、何故か俺のシャツの胸元を掴んで詰め寄ってくる。俺は思わず引いてしまい、一歩どころか五歩ほど後ずさったのだが、それでも依子は俺の胸ぐらを掴んだまま追いかけてきた。駐輪場の柱に背中がぶつかる。
「ぜったい、いく」
依子が恐い。
「うん、分かった、分かったから」
俺は懸命に愛想笑って、そっと依子の手を離させ、彼女の背中を叩いた。
「ちょうど俺の給与日だし、二十五日にしたいから、ちゃんと空けとけよ」
依子がうなずいた。