chapter44 ソレイユ
その日は祖母ちゃんの家に泊まった。
翌日の朝。居間に降りると、依子と弟がWiiのマリオで遊んでいた。俺は二人の後ろに寝転がり、ときおり奇声をあげる弟を中心にその様をぼうっと眺めた。
2プレイのマリオ。ルイージの動きが激しくトロい。依子の操作するルイージだとすぐに分かった。
「もう、依子姉ちゃん真面目にやってよ!」
「やってる」
「やってない!」
寝起きから弟の黄色い声を聞くのは辛かった。
親父と母ちゃんは仕事のため、すでに荷物をまとめて家を出ていったらしい。俺らを置いて颯爽と。俺は自転車で来たからいいけど、弟はどうやって帰ればいいのだろう。
台所から道子叔母さんがやってきて、食卓に置かれたご飯と目玉焼きのラップを剥がした。俺の朝食らしい。
叔母さんが食卓を挟んで俺の正面に座る。昨日から続く気まずさを我慢し、俺は黙って箸を取った。
叔母さんがお茶を淹れ、俺の手元に差し出す。
「純一くん、バイト探してるのよね」
顔を上げ、湯呑みを受け取る。叔母さんは口元でゆるく笑みを作っていた。
「探してるけど、何していいか分かんないんだよね」
道子叔母さん、年々依子に顔似ていくなぁと思いつつ答える。あ、逆か。依子が叔母さんに似ていくんだ。
「よければ、うちで働かない?」
「いいの?」
叔母さんが笑顔でうなずく。
たしか叔母さんは個人経営店で働いているはずだ。行ったことないけど、たしか喫茶店だったような。
「今年は求人取らないつもりだったけど、今年の夏は思ったより忙しくて。従業員も少ないし、純一くんさえよければ、お手伝いしてほしいのよ」
娘と違って簡潔で分かりやすい勧誘。五頭から下された校内清掃もうやむやになった今、暇を持て余した俺に断る理由はなかった。
叔母さんはこれから仕事に向かうという。俺は叔母さんに着いていくことにした。
身支度をして、懸命に画面とコントローラーとを見つめる依子に声をかける。
「依子、それが終わったら雄二に宿題させて」
「させる」
弟がなにかぶつぶつと不満を漏らしたが、俺は無視して家を出た。叔母さんの車に乗り、初夏の田植えにいそしむ祖母ちゃんに向けて、ちょっといってくる、と手を振った。
祖母ちゃんはよく分かっていないようだったが、「いってくりゃええ」とだけ言って笑った。
叔母さんの勤め先まで車で五十分近くもかかったが、その間、お店のこと以外ほとんど会話はなかった。なのに、叔母さんは常時微笑みっぱなしだった。
その喫茶店は、中島丘駅から徒歩十五分の場所で、何故か駐車場の脇奥という分かりにくい位置取りにあった。
いわゆる一軒家カフェというやつで、外観も別の角度から見れば民家と間違えてしまいそうだ。車から降り、喫茶店を正面から捉えて見る。
屋根のすぐ下に、『軽食・喫茶 ソレイユ』と書かれた看板があった。
「ソレイユって、フランス語で太陽、もしくは向日葵って意味らしいわ」
叔母さんが店の一角を指した。そこはオープンテラスになっており、そばには樹木や菜園が造り込まれていた。その中に、こじんまりと向日葵の姿もある。
なんでもいいけど、全体の作りが本当に一般家屋のようだ。立て看板やテラスがなければ喫茶店には見えない。
「普通の民家を改築したお店なの。大学の講師だった人が始めたお店でね。私も、卒業からずっとここに勤めさせてもらっているのよ」
どこか誇らしそうに語る叔母さんに連れられ、板チョコのような色合いと形をした扉を開ける。
古びた鐘が鳴る。目の前のカウンターには、白みがかったの頭髪と口ひげの初老男が居た。
「私の甥の今泉純一くんです。店長さんみたいに無愛想な子ですけど、責任感は強いですから、どうぞよろしくお願いします」
叔母さんの紹介のあと、俺はすぐに頭を下げる。どうして叔母さんの口から責任感という言葉が出たのかは知らないが、思いのほか緊張していた俺に考える余裕はなかった。
彼が叔母さんの言う、元大学講師の店長らしい。
店長は低く小さな声で「あぁ、よろしく」と言うと、静かな足取りで調理場へと下がっていった。
それから休憩室という名の古めかしい六畳間に通され、埃っぽい押入れから出された胡桃色のエプロンを着用した。
営業時間は午前十一時から午後七時まで。開店まであと一時間ほど。
「従業員は私と店長、あとは、あそこのバイトくんが一人だけ。少ないでしょう。純一くんが来てくれて助かったわ」
木製のログハウスみたいな店内を見回していると、叔母さんがテラスの方を指してそう言った。
テラスは喫煙席らしく、癖っ毛茶髪の男が藤椅子に深く腰掛けていた。のほほんと煙草をふかし、邪魔くさそうな尻尾ストラップ付きの携帯をいじっている。
どう見ても浅海さんだった。
店の方針は『我が家よりもアットホームに』らしい。
店長以外が全員顔見知りだと知って、俺も一気にアットホームな気分になっていた。店長も店長で、親父に雰囲気似てるし。
開店二十分前。
浅海さんの隣の幅広な藤椅子に座り、庭に植えられた草木を眺めた。テラスには屋根があり、植え込まれた木々によって斜光も和らげられている。彼と同じタイミングでハイライトを吸う。
「あれがハナミズキ。で、あそこの鉢でプカプカしてんのが睡蓮ね」
なんの前触れもなく、浅海さんの造園解説が始まった。これがあまりに唐突だったため、俺はなにも反応できず、黙って浅海さんの言葉を聞いた。これ、メモっといた方がいいのかな。
解説が終わると、浅海さんが後付けのようにこう付け足す。
「造園趣味のボケた爺さんがよく来るからさ。趣味のくせに、花とか樹の名前すぐ忘れちまうの。毎回聞いてきやがるから、その都度教えてあげて」
そういうのもっと早く言ってほしい。俺は煙草を灰皿に置き、エプロンのポケットからメモ帳を取り出した。
「すんません。もう一回教えて」
「えー、めんどくせーなぁ」
嫌そうな顔をされたが、しぶしぶという感じで造園解説がリスタートした。
中島丘駅周辺には大型ショッピングモールがあり、喫茶店『ソレイユ』もその客足のおこぼれを授かり、夏休みはそれなりに繁盛するようだった。
調理場は店長と叔母さんの担当で、俺と浅海さんがオーダーやその他雑務に努めた。とはいえ、俺はバイト初日のため、まずは浅海さんについて業務を覚えることに専念する。
客は子連れが中心で、店内に設置された本棚には児童文庫類が散見された。次に多いのが、浅海さんと同年代くらいの若者だった。どうやら、近くに在籍人員一万人以上の大学があるらしく、浅海さんもそこに通っているらしい。
造園趣味のボケた爺さんとやらは、夕方ごろにのっそりと現れた。すると浅海さんが、テラス席で喫煙する爺さんをそれとなく顎で指した。
「純一、あれの相手してやって。いい加減に対応したら癇癪おこすかもしんねーから、気をつけて」
新人になんて役目を託すんだ。しかし、浅海さんも来客対応に忙しいようなので、仕方なく俺は爺さんのもとに歩み寄った。
「誰だ貴様。名を名乗れ」
爺さんがじろりと俺を睨んだ。なにこの時代劇みたいな口調。
「新人の今泉っす。お客さま、注文は」
「いつもの」
すげえ常連ぶってる。いや、実際常連なんだろうけど。しかも俺、新人だって言ったばっかなのに。
もうこの時点で面倒くさくなってきたので、聞き返さずに適当にアイスコーヒーを持ってくると、爺さんは「やるな。新米のくせに」と、顔をくしゃくしゃにさせて笑った。
爺さんの希望する『いつもの』にたまたま正解したのか、それとも、『いつもの』を爺さん自身が忘れてしまっただけなのか、多分後者なんだろうけど、本気でどうでもよかった。
もう戻りたかったけど、やっぱり爺さんが離してくれなかった。俺を隣に座らせ、延々と造園話をしてくる。この店もなかなか厄介な常連を持ったものだ。
バイト初日が終了し、叔母さんの車に揺られて祖母ちゃんの家に向かう。
「ありがとうね、純一くん。あのお爺さん、純一くんのこと気に入ってくれたみたい」
「マジか。全然嬉しくない」
「帰っていくとき、純一くんのこと孫に欲しいって言ってたわよ」
たった一日でどんだけ好かれんだよ俺。明日からの勤務が憂鬱なり、俺は密かにため息を吐いた。
家に着くと、依子の作った夕飯が待っていた。弟の要望にでも応えたのか、メインはハンバーグだった。しかも依子のハンバーグは半分だけで、もう半分は弟の皿に追加されている。やはり依子は、弟にだけは敵わないようである。
うまいかと依子に尋ねられ、「うまい。今度親父に教えてやって」と答えると、もう半分のハンバーグも俺の皿に乗せられた。
「いいよ。依子の分がなくなるじゃん」
「太るから、いらない」
なんて下手くそな嘘。
叔母さんと祖母ちゃんが俺たち三人をネタにして大げさに笑い、俺は無駄に照れながら飯をかき込んだ。
二階の空き部屋で、弟と布団を並べる。
弟が「まだ帰りたくない」と駄々をこねたため、なんだかんだで今日も泊まることになってしまった。明日も依子にべったりするつもりなのだろうか。依子が可哀想だ。つか、着替え多めに持ってきといてよかった。
弟が風呂に入っている間、一階の縁側に腰掛け、団扇をあおいで涼んだ。風鈴の音色を楽しんでいると、ふいに俺の携帯が鳴った。
見ると、今日番号を交換したばかりの浅海さんからだった。出てみると、彼の寝起きみたいな声が聞こえてくる。
「あー、八月はじめの五日間さ、ソレイユの休業日じゃん?」
「いや、知らないっすけど」
「仲間と沖縄旅行行くんだけどさ、昭文も連れていこうと思ってんだよね。純一も来る? お前らの旅費は俺がおごるから」
浅海さんと原村の仲の良さに俺はたじろぐ。しかも旅費おごるってどんだけだよ。本当なら行きたいところだったが、俺は丁寧に断りを入れる。
「俺、結構やることあるんで。他にも何かバイト掛け持ちたいし」
「あー残念。つか、んな金稼いでも使わなきゃ意味ないよ。あ、それとこの話、美野里には内緒な」
お忍びなのか。普段どれだけ浅海さんが吉岡の尻に敷かれているのか、想像するだけで彼が不憫でならない。
それから二、三、言葉を交わし、通話を終えた。携帯を閉じ、煙草を吸いながら団扇をあおぐ。
俺が壊した原村のiPhone代、あれだけなら喫茶店のバイトだけで足りるだろう。しかし、俺にはもっと稼がなくてはならない理由と目標が出来てしまった。
俺自身のため、依子や皆のため、そして、叔父さんとの約束のため、夏休みは働き詰めなくてはいけない。だけど、これはまだ皆には内緒にしておこう。
振り返る。テレビを見ていた依子と目が合う。
意味もなくぼうっと目配せしていると、依子の背後の襖から、全裸の弟が裸族ばりの動きで飛び出してきた。
「兄ちゃん風呂入れー」
「お前は服着ろ」
「きて」
俺も依子も嫌がった。