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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
44/65

chapter43 ひぐらしと暮夜の中で

 小学生の頃、依子と喧嘩をするたびに思ったことがある。

 俺に妹がいたら、こんな感じなんだろうなと。

 口数は少ないくせに人遣いが荒い。笑うより、怒ったり泣いたりする方が多い。乱暴な兄と真っ向から殴り合い、無駄に懐いてくる弟には冷たいくらい無関心。

 そういった想像を重ねるごとに、依子が本当に妹でなくてよかったと思った。当時、依子を妹のように思っていたことからも、それは大きな安堵につながる。

 今、俺は依子に手を引かれ、子供のように嗚咽しながら田園のあぜ道を進んでいた。依子の後ろ姿を見ながら、俺はその光景を昔の依子と重ねた。

 妹のようだと思い込んでいたが、一度だけ、それを覆されたことがある。

 俺が、叔母さんの陶芸趣味で作った湯呑みを割ってしまった日のことだ。そのとき、俺は祖母ちゃんの家にいて、依子と二人きりだった。

 おやつのバウムクーヘンを依子と取り合った直後だったため、彼女はこちらの危機を全く心配してくれず、慌てふためく俺をかたくなに無視して、かいけつゾロリをのうのうと読んでいた。

 割れた破片をくっつけてみても、接着剤やセロハンテープを駆使してみても駄目だった。畳の上で散乱する破片群を前に、俺は膝を抱えて怯えた。

 怒られてしまうからとか、そういう理由で怯えていたわけじゃない。

 割れたものが元に戻ることはない。俺がなんとなく生きていた世界の絶対的な法則と虚無感に、気持ちが折れておののいていたのだ。

 まもなくして帰ってきた叔母さんに正直に告白したことが功を奏したのか、叔母さんは怒らなかった。むしろ俺の馬鹿正直さを褒めてくれたくらいなのだが、何故か俺はそこで泣き出してしまう。

 昔から、叱られることを楽観的に考えていた。この説教さえ終われば解放される。そう思っていた。だから、俺に対する罰を端折り、その上褒められてしまうだなんて、耐えられるわけがない。

 そんなとき、今まで黙っていた依子がふいに俺の手を取った。泣き顔の俺はあえなく依子に連れ出され、訳も分からず野山の散歩に付き合わされた。

 そのときの依子の横顔を、今でもはっきりと覚えている。

 依子は笑っていた。気にする必要はない、だからもう笑っていい、そう言われてるみたいだった。

 今と昔で違うのは、季節が秋か夏かということと、二人の身長差と、お互いが制服を着ているということと、依子が無表情なことぐらいだろうか。

 この瞬間、依子は妹というより、ひどく姉然としていた。

 もう七年以上も前のことなのに、やけに鮮明だった。そのときの空気や匂い、鼻から垂れる鼻水の不快感、依子の手の形、鈴虫の鳴く音、地面に捨てられたボロボロのタオル、声や足音、細かな心境まではっきりと。

 ふと、依子が足を止めた。現在の依子である。振り返り、テンションがた落ちの俺に缶コーヒーを差し出す。いつの間に買ったのかは知らないが、また姉ぶってんのかよ、と心の中で毒づくしかなかった。



 依子の言う神社とは、思った通り、彼女がよく願掛けに通っていた神社だった。

 依子がいまだに手を掴んで引いてくる。暑いし、いい加減歩きにくい。本殿の脇を通り、裏側へと回っていく。その途中、床下に隠されたスケッチブックがはみ出て見えた。原村もたまにここへ来ると言っていたから、多分彼の忘れ物だろう。

 本殿の裏は木陰になっていた。若干ながらも日光が遮られており、心なしか涼しかった。依子は本殿の高床に腰掛け、俺もその隣に座る。

 雑木林が目前で存在感を主張していた。蝉がやかましい。

 俺はここで初めてコーヒーを開け、少しだけ飲んで口内を潤した。黙り込み、手にした缶の縁を指でなぞる。

「吸っていいよ」

 なんのことかと思ったが、どう考えても煙草のことだろう。しかし、吸い殻を捨てる場所がこの缶以外に思いつかない。あの公園での出来事が思い出されて勝手に嫌な気分になる。

 とは言っても、とにかく間が埋まらない。仕方なく胸ポケットから煙草を出した。煙を味わいながら、禁煙でも始めようかと画策する。

「うまい?」

「まずい」

 そう答えるしかなかった。三口だけ吸って、缶の中に入れる。じゅう、という音を立てて缶の底に沈下していく。蝉の喚き声に全てかき消された。

 依子の横顔を見る。相変わらず、何の感情もない顔をしていた。そんな彼女を見ながら、俺は改めて思いなおす。昔みたいに笑わない依子に、俺は腹を立てていたわけではない。ただ、不安だっただけだ。怒るだとか、不快そうな顔だけは今でもする。だけど、泣いたり、笑ったりという表情は、再会して以来一度も見ていない。

 出来ないわけではない、そう便宜的に仮定した。もしかして、笑ったり泣いたりという感情の表現が、自分には許されないとでも思っているのではないか。

 そこで依子と目が合う。

 なんとなく、さっき俺が謝った意味を教えてほしいと、依子から急かされているように思えた。

 俺は罪悪感から顔を逸らし、缶コーヒーのパッケージを見つめながら、やがて口を開いた。

 あの日、叔父さんと交わした会話の内容、約束、頼みごと、細部まで漏らすことなく、たまに胸が苦しくなって断念しそうになる気持ちに喝を入れながら、俺は一部始終を全て話した。

「それで、叔父さんから、俺と依子に最期を看取ってほしいって、そうお願いされたんだよな。結果は、まぁ、ああいう感じだったけど」

 終わりまで言い切ってみたが、依子が反応を見せないので、一向に肩の重荷が降りなかった。手どころか足まで小刻みに震え、心底この場から消え去りたいという思いで満ちていた。

「ごめん。叔父さん、依子に会いたがってたのに」

 依子はなにも言わない。気づくと、蝉の気配が消えていた。一切の音が断絶されている。顔を上げられない。粛然とした空気に押しつぶされそうになる。肌がびりびりと苛まれた。俺はさらに頭をうなだれる。もう、消えてしまいたい。 

「ひぐらしが鳴きそう」

 林の隙間からこぼれる陽光を見つめながら、依子が言った。

「ここに居ると、きれいに聞こえる。いつか、聞かせたいと思ってた」

 誰にだろう、一瞬そう思ったが、その答えを出すのに深く考える必要はなかった。

 涸れたはずの涙がこみ上げる。涸れるなんて嘘だろってくらい溢れてきて、ぼたぼたと指の間に流れ落ちていく。

 わずか数分後、依子の言う通り、ひぐらしの鳴き声が辺りにこだましていた。気づけば、俺の頭に手が乗っていた。叔父さんの手だ。そう錯覚した。

「聞こえる?」

 うなずき、声にならない返事をする。

「きれい?」

「あぁ、すげえ、きれい」

 本当はなにも聞こえなかった。喉や鼻がつまり、咳き込んだり頭が熱かったりで、ひぐらしの鳴き声どころではなかった。でも、きれいに聞こえないはずがないと思った。涙も鼻水も、出すもの全部出したら、いつまでも、ここでのんびりと聞いていたい。



「あのとき、いっぱい殴って、ごめんなさい」

 俺の少し後ろを歩きながら依子が言った。空はすっかり暗んでいる。前方にぽつんと置かれた古めかしい自販機を横切り、俺たちは祖母ちゃんの家に向けてゆっくりと進んでいた。

「もう気にしなくていいよ。傷とか、一週間で完治したし」

 笑いながらそう返す。やけに気分が晴れ晴れとしていた。夜の田舎町は、民家も雑音もほとんどなく、俺のこぼす小さな笑いはすぐに空中に吸い込まれた。

「純のこと、もう嫌いじゃないから」

「俺も嫌いじゃないよ」

 口に出してみて、こっ恥ずかしさから語尾が小さくなってしまう。

「もう、だれのことも、嫌いになりたくない」

 依子の声がわずかに遠まった気がして、俺は歩みを止める。

「本当はみんなのこと、ゆるしてあげたい。好きになりたい」

 振り返る。依子は足を止め佇立していた。後ろの自販機からの逆光により、顔がよく分からない。

「でも、どうすればいいかわからない」

 一歩、二歩と近づいていく。依子が泣いていることを知ると、俺はそれ以上進めなかった。

「ねえ、あたし、どうすればいい」

 宮下の言葉が頭をかすめ、静かにそれを反芻する。

 誰かに謝り忘れていないか。伝えきれなかったことはないか。本当の声を聞きそびれていないか。

 それが出来なかったから、叔父さんとの約束はこんな形で幕を閉じた。

 俺たちのやりそびれたこと、それはきっと人を傷つけるものではない。相手も同じだけの優しさと思いやりを秘め、隠し持っていることを、俺たちも信じてあげなければいけない。信じなければ、相手のために行動出来るわけがないのだから。

「純」

 依子が歩み寄り、俺の制服の端を掴む。頭を俺の胸へと預ける。それは徐々に腹部へと下がっていき、やがて彼女は地面に膝をつけた。むせびながら、それでも腕を俺の足に回す。

「たすけてっ……」

 依子はずっと、この言葉を我慢していたのだろう。

 友達をいじめ、自殺にまで追いやった自分には、この言葉を口にする資格はない。依子はそう思っていたはずだ。あの公園で泣き出しそうな顔をした彼女も、これを言いかけたに違いない。涙と共に、それは依子の中に押し込まれた。

 腰を屈め、顔を伏せる依子を見る。おぼつかない腕で彼女を抱きとめると、くず折れ、抑えつけたものが決壊したように泣き出した。それを耳に響かせる。言葉なんかより、この泣き喚く声こそが、依子の胸中の全てだ。

 助ける。助けられる。信じる。信じられる。たよる。たよられる。

 叔父さんとの約束は、まだ終わっていない。

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