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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
43/65

chapter42 乖離

 自転車を二人乗りで走らせ、病院に到着する。俺の腹を掴んでいた依子の手が離れる。ママチャリを捨てるようにアスファルトに倒し、病院の正門を抜ける。玄関には弟と母ちゃんが居て、俺たちを認めた瞬間、うつむかせた顔を弾くように上げた。

 徐々に速度を落としていく俺の足が、ついに玄関前で止まった。依子が顔面から俺の背中にぶつかる。弟と母ちゃんが、ゆっくりとした足取りで俺たちのもとに歩み寄る。

 喉の奥で血の味がした。薄ら寒い空気に全身を撫でられた気がして、立っていられなくなり、俺は両膝を地面に落とした。さっきまで依子に掴まれていた脇腹に手を当てる。疲れと痛みが足元からじわじわと沸き上がり、だらしなく口を開けたまま、母ちゃんと、泣き顔を見せる弟を見上げた。

 依子は俺たちに目もくれず、駆け足で病院玄関を通っていく。

 母ちゃんの顔がやけに優しく、包むように俺の手を取る。

「清志さんの顔、見てあげて」

 案内されたのは202号室ではなく、地下の霊安室だった。



 エレベーターで地下一階に降りる。暗い照明に照らされた通路。白とは言い難く、ベージュにくすんだ色合いの細長い景色の先、親父が壁に背中を預け、俺の到着を横目で見た。

 無言で親父の横を通る。親父はなにも言わなかったし、それ以上の視線を送ってこなかった。

 遠くからか、近くからか、轟々としたボイラーの音が届いてくる。通路を進むごとに増していく線香の匂いが独特だった。

 斜め前を歩いていた担当医師が足を止め、ある一室の扉を開ける。

 今度こそ、白一色の風景が目前にあった。殺風景なその部屋には、すでに依子と道子叔母さんの背中があった。二人ともこちらに背中を見せている。叔母さんは跪いて泣いており、依子は白い布を手にして立ち尽くしていた。彼女の背中に隠され、俺にはその顔が分からない。

 お悔やみ申し上げます。

 背後にいた医師が小さく言った。途端に寒気が襲ってくる。異常なほどの冷気が部屋に立ちこめていることに今更気づいた。自分の二の腕を掴み、小刻みにさする。

 依子は相変わらず布を持ったままで、その手はぴたりと空中で制止していた。俺は、そこから一歩たりとも足を踏み出せなかった。顔が見えない。誰の顔も見ることができなかった。



 清志叔父さんが亡くなったのは、俺たちが到着する十六分ほど前だったそうだ。この数字は何の意味も持たない。

 間に合わなかったという事実だけだった。静かに重々しく、常に眼前に横たわっているようで、俺の脳裏に張り付いて離れなかった。



 遺体は祖母ちゃんの家に搬送され、通夜は翌日に行われた。

 葬儀社スタッフの指示に基づき、母ちゃんの補助として、俺と依子は交代で受付と香典の管理を手伝った。喪主を務めあげる道子叔母さんは終始家中を動き回っており、しきりに参列客に頭を下げていた。

 芳名帳に見知った名前を幾度も発見する。叔父さんが監督をしていた、地元の少年サッカーのメンバー達だった。彼らとの思い出は、むしろ中学での部活以上に深く記憶に刻まれている。純粋に、俺がサッカーを楽しんでいたからに違いない。

 高校初の終業式には、結局出られず仕舞だった。参列客の中に五頭が居て、夏休みの校内清掃の件について変更の説明があるかと思ったが、弔問以外は何も受け取れなかった。

 さらに翌日、祖母ちゃんの家で粛々と葬儀が行われる。十二畳の広間に読経が響きわたる。

 依子の背中を前に、俺は座布団の上に座していた。斜め前に座る道子叔母さんも、ここでは依子と同じく微動だにしない。

 叔父さんは生前から、誘い笑いでもかけるかのような笑みをよくしていた。遺影に映るその顔も、まさにそういう瞬間を切り取っていた。叔父さんが俺に「笑え」と促しているように見えた。

 笑う、というより、涙すら出てこなかったけど。



 あれから七日が経つ。

 もうとっくに夏休みが始まっているはずだが、実感が全くなかった。俺を気遣ってかは知らないが、いまだに夏休みの課題が手元に来ない。もうこっちから受け取りに行った方がいいのかな。何にしろ、葬儀を終えた直後は精神肉体共に疲れ果てて何もできなかった。

 朝九時ごろに起床し、地味な暑さと闘いながら布団で横になり、労働意欲の有無など知れずに求人誌を広げた。なんだかんだで二日は煙草を吸っていないことに気づき、火を点けてくわえてみたが、肺に来る刺激が久しく、かつ不快であったためにすぐに灰皿行きとなった。

 求人誌を畳に投げる。天井を見上げると、いまだに蜘蛛の巣が張られていた。明日こそ掃除しよう。今日はだるいからしないけど。

 起きあがって制服に着替える。今日は法要であるため、昼は祖母ちゃんの家で食事をすることになっていた。親父の車に乗ってもいいのだけど、のんびりと自転車で行きたい気分だった。俺の自転車は、昨日学校に出向き、キャップとバルブを取り付けて持ち帰ってきていた。

 親父と母ちゃんに一人で行く旨を伝え、ついてこようとする弟を振り払い、単独で自転車を漕いだ。

 朝方にも関わらず、日光にやられて五分走っただけで額に汗が浮かんだ。完全に夏が到来していた。

 時間があるため、遠回りをする。

 人見川沿いを無意味に走った。向かい風が頬を打つたび、鼻の中がすっと通るのが気持ちよかった。澄んだ水面に反射する太陽光が目に痛いが、逆にそれも心地よい。

 土手で、村瀬がまた携帯ゲームを投げていないかなと思った。もし今度見かけたら、捨てるくらいなら俺にくれ、と言いたい。

 本心から欲しいと思っているわけではない。ずるずると引きずられていく人の死という現実から、少しでも解放されてみたいと思ったのだ。

 当たり前だけど、村瀬はどこにもいなかった。

 橋のたもとで自転車を止める。対岸のさらに向こう、その先には祖母ちゃんたちの住む田舎町があり、青々とした山が広がっていた。錆びた高身長の鉄塔があり、その頂上ではカラスが数羽舞っていた。あの鉄塔をゴジラが踏み倒してくれればどんなに気が晴れることか、そんなことを意味なく夢想した。



 親戚一同が介し、葬儀の行われた例の大広間で食事が始まった。

 親父が作ったという黒ずんだスモークチキンには誰一人として手を伸ばさず、見かねた俺が口に入れていく。見た目は悪いが、味はさほど問題ない。

 上座には道子叔母さんと祖母ちゃんが着き、左隣には親父と母ちゃんが座った。祖母ちゃんの右隣に依子、弟、俺の順で座る。

 叔父さんの友人という壮年の男が俺の隣に座った。煩わしいくらい話しかけてくる。俺は黙って相づちを打った。

 それと同じように、弟がひたすら依子に話しかける。俺と同じく無言でうなずく依子。

 親父と叔母さんは、ときおり笑みを浮かべながら焼酎を煽りあっていた。俺は、その光景に訝しんだ視線を送らずにはいられない。

 叔父さんの死はもう過去のことなのだろうか。そんなはずはないのだが、そう疑わざるを得ない。

「清志くん、昔から純一を息子みたいに可愛がってくれたよな。なぁ、純一」

 ふいに親父から話を振られる。周囲の視線が集まるのを感じつつ、俺は閉口してうなずく。無神経だ、と言いたくなるのを我慢した。

 道子叔母さんが柔和な笑みで俺を見る。依子とそっくりな顔で、常に張り付いたような笑顔だけは相変わらずだった。

「兄さんは知らないでしょう。純一くん、依子と一緒に、こっそり清志さんのお見舞いに行ってくれたのよ。そうよね?」

 うなずく。うなずいたまま、下を向いた。依子が流し目で俺を見る。もうやめてほしい、と思った。

 俺の様子を察したのか、残念だったわね、と誰かが言う。叔母さんが潤んだ声をしてそれに答える。

「もう仕方のないことだけど、ただ心残りは、そうですよね」

 俺がまだ子供だから、分からないのだろうか。故人の悔いとか、遺族の念とか、たとえ配偶者だからって、どうしてこうも平気で代弁できるのだろう。たしかに周知しておくべきかもしれない。でなければこの会食の意味はない。悲しみを血縁者全員で共有することに意義がある。

 だとしても、どうしても腑に落ちない。

「依子と純一くん、あの日せっかく駆けつけてくれたのに」

 信じられない。本当に言うつもりかよ。

「清志さんね、依子と純一くんには、」

「やめろ」

 台の裏に膝を打ちつけながら立ち上がる。コップが倒れ、オレンジジュースが畳と座布団を汚した。空気が張りつめ、誰もが口を閉ざす。手が震え、いいようのない怒りがこみ上げてくる。

「誰に向けて話してんだよ。もう言うなよ。聞きたくない、そんな話」

 叔母さんが目を見開き、こちらを見上げた。

 あるいは、悪いのは俺だけなのかもしれない。一度依子を見捨て、そのために叔父さんの要望に応えられなかった。これは俺が招いた行き違いで、悔いるのは依子の方だ。俺の抱える悔いは、依子とは種類が違う。

 親父が憤怒を浮かべ、膝を立てる。それを冷静に止めるのは叔母さんだった。顔にしろ、性格にしろ、とてもこの二人が兄妹だとは思えない。

「ごめんね、純一くん」

 我に返り、慌てて首を振った。

「いや、違う。ただ、俺はさ」

 道子叔母さんの目から感じ取る。清志叔父さんの願いが俺に伝えられていただなんて、きっと叔母さんは知らなかったのだろう。だから彼女は、この場で俺たちに伝えてあげようとした。

「本当は俺、叔父さんから、その」

 そして、これは俺が言うべきことだった。本来は叔母さんの口からではなく、俺が依子に伝えておくべきことなのだ。

 それなのに、喉元からせり上がってくる異物みたいなものに邪魔されて、上手く言葉が出てこない。家族や親戚からの視線にやられ、実際はそういう意図じゃないって分かってるんだけど、疎ましさと軽蔑を向けられているように思えてきて、俺は突っ立ったまま、まともに喋ることすら出来なかった。

「ごめん、ごめんなさい……」

 依子に謝るつもりだったが、俺は明後日の方を向いて頭を下げていた。叔父さんが死んでから、俺はちゃんと依子と話せないままだったし、後ろめたさで顔を合わせることもできなかった。この瞬間でもそうなのかと、自分の情けなさが嫌で仕方がなかった。

「依子」

 ここで道子叔母さんが、小さいのによく通る声で依子を呼んだ。依子の反応はなかった。

「もうお腹いっぱいでしょう。純一くんといっしょに、散歩にでも行ってらっしゃい」

 しんと静まり返る広間の中、一つの衣擦れ音がかすかに聞こえる。頭を下げたまま固まる俺の手が、後ろから引かれた。

 力無く振り返り、俺の手を握ってくる依子を見た。彼女の顔にはいつも通り、表情がなかった。

「あたし、神社いきたい」

 鼻をすすり、俺は引っ張られるように依子の後ろを歩いた。

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