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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
42/65

chapter41 失ったもの

 暗がりの街路を突っ走る。

 ここから学校まで、全力で走っても三十分はくだらないだろう。つか、なんで俺走ってんだよ。なんで自転車じゃねえんだ。なんで今日に限ってパンクなんかさせられんだよ。

 錯乱し続けた俺の頭の中は、今まで、空っぽの器でしかなかった。本当はなにも考えていなかった。約束も義理も、すべてほっぽりだしていた。

 今、この器に、混濁した真っ白な洪水が押し寄せてきたのだ。呼吸すらままならず、俺の全てをどろどろに溶かす。

 息を荒げ、俺はあのことを思い出していた。

 叔父さんと約束を交わしたあの日のこと。


 ◆


「依子の依は、たよる、という字なんだけどよ」

 叔父さんは入道雲の空を見上げ、静かに言った。

 鳶の鳴き声を耳にしながら、俺は叔父さんの手元の簡易台へと目を向けた。

 台の上ではノートが開かれており、『よりこ』と、ひらがなで書かれていた。叔父さんの字だ。弱々しく、震えきった文字。

 窓が十センチほど開いていて、病室の白いカーテンが揺れた。

「依子、いじめに遭っているんだろう」

 脈絡もなく、かつ確信めいた口調で叔父さんが言った。

「道子が教えてくれたんだ。依子の自転車が盗まれたらしいって。道子が問い詰めて、依子もようやく白状したよ。純一の家から貸してもらってるってな」

 俺は躊躇いがちにうなずき、赤くなった目を今一度拭った。

「ありがとうな、純一。いつもあいつの世話してくれて。その話聞いたとき、俺、思わず昔のこと思い出したよ」

「昔って?」

「小学生の頃、依子のこと、自転車で送り迎えしてくれたことがあったよな。依子な、そのときも黙ってたんだよ。純一の世話になったこと」

「自転車通学禁止だったもんな。そりゃ依子もバレないようにするだろ」

「まぁ、俺も道子もすぐに気づいたけどな」

 まじかよ、と俺は小さく笑った。叔父さんは笑わなかった。俺はすぐに口元に緊張を浮かべ、その横顔を見つめた。

 依子は、いじめられていることを叔父さんに教えないままだったのだ。

 ――依子、ああ見えて全然俺に甘えてくれねえんだよ。

 さっきは遠回しな言い方だったけど、俺はやっと、叔父さんの言葉の意味を知った。

「もう大人になっちまったんだな、依子も、純一も」

 また感情の波が押し寄せてくる。俺はそれを抑えつけて、代わりに頭を大きく振った。

「全然大人じゃねえよ、俺たちなんか」

「大人さ。いや、もう大人になってもらわなきゃ困る」

「なんだよその言い方。困るってなんだよ。そういうのやめろって、マジで」

 俺は太ももをズボンごと掴み、少しだけ言葉を荒げた。反対に、俺を落ち着かせるように叔父さんは語感を和らげた。

「純一に、頼みたいことがある」

 聞きたくない、直感的にそう思った。

「依子のこと、これからも助けてやってくれ」

「……だから、やめろってば」

 拳で膝を叩く。一回では足りなくて、何度も何度も叩いた。痛みは内側まで届き、骨がきしんだような気がした。

「叔父さんが助けろよ。意味わかんねえ。なんで俺なんだよ。あんた親だろ。依子の面倒、叔父さんが最後まで見てやるべきだろ」

「俺じゃ駄目なんだ」

 叔父さんが首を振った。台に投げ出した仰向けの右手が、やがてうつ伏せに転がった。

「駄目なんだよ」

 叔父さんは再度ペンを取る。さっきよりも震えが増して見えるのは、なにも腕の疲れからだけではなかった。彼の目に涙がにじむのを、俺は見た。

 黙ってその右手を注視する。

「いつまでもあいつの親でありたい。大人になっても、ずっと、俺や道子をたよっていて欲しい。だからこその『依子』だ。だけどな」

 ペン先が紙面に立ち、『よ』の字を書く。『り』の字を書こうとしたところ、握力の限界か、それとも気持ちがくじけたか、叔父さんの指からペンが滑り落ちる。台の上で転がり、縁のぎりぎりで落下を免れる。

 我慢できなくなって、俺はボールペンを取り、叔父さんに差し出した。書いてくれ、嗚咽を混じらせながら頼み込んだ。

 叔父さんは、もう泣いていた。細った指でペンを受け取ると、無言でノートに向かった。

 『り』を書き終える。『こ』の一画目へとペン先を進める。ゆっくりと手を動かしつつ、叔父さんは顔をうつむかせた。

「もう、無理なんだよ」

 涙が紙面を打つ。

「日に日に頭回んなくなって、漢字、忘れちまってさ。手の震え、止まんなくてさ。たよるって字、もう、書けねえんだよ。一人でぼうっとしていると、忘れちまうんだよ、依子の顔」

 滴る間隔がしだいに短くなっていく。叔父さんの手が動きを止めた。『こ』の二画目を書ききれずに、ついにペンが落下する。床を転がっていく音が耳に痛い。

 俺は、頭を垂れ続けるその横顔から目を離さなかった。片手で胸を掴み、台に頭をつけて嗚咽を漏らし続ける叔父さんには、どんな励ましも、どんな言葉も出てこなかった。

「依子が、離れていく」

 台に額を押しつけたままの叔父さんは、声もなく静かに泣いた。相変わらず、遠くでは鳶が鳴き喚いており、入道雲の色が純白さを増していた。


 この日、俺は叔父さんからもう一つの頼みを受けた。

「俺の最期を、是非依子と純一にも看取ってほしい。そのとき、依子が俺のために泣いてくれたなら、それで俺の人生は勝ちだと思うことにする。馬鹿なお願いだろう。でもな、お前らに必要とされてたんだってこと、最後くらいは錯覚させてほしいんだ」

 叔父さんはすっかり元気を取り戻したように言った。俺は無言でうなずき、パイプ椅子を立った。錯覚なんかじゃない、その言葉は言えずじまいだった。

 待合室では、依子が待っていた。俺の泣き顔を依子は指摘してきたが、知らんぷりしておいた。

「依子。これからは自分の携帯、いつも近くに置いとけよ」

「どうして」

「いいから」

 依子の前を歩き、情けない顔を隠す。

 頭の中で葛藤を巡らせた。

 叔父さんの諦めたものを、俺なんかが受け取っていいのか。叔父さんの本心を依子に伝えなくていいのだろうか。

 どれだけ時間が残されているかも分からないのに、俺はいつまでも悠長に葛藤を繰り返した。


 ◆


「馬鹿かよ」

 もつれそうになる足にむち打ち、学校への近道である裏道を疾走する。右手に掴んだ依子の携帯をさらに強く握りしめた。

「どこまで馬鹿なんだよっ、俺はっ……」

 こうして道を踏み外す最後まで分からない。俺は今まで、一体何を悩んでいたんだ。

 小手先ばかりの言葉を羅列し、自分や他人に対して日和見的な言い訳をつけ、気に入らないもの追いつめ、他人の気持ちを知った気になって、ときに冷めた態度で達観したつもりになって、結局、俺はなにも達成していない。どうやって場をやり過ごすか、それしか考えないていなかった。最優先事項は、いつだって自分だった。

 路地を折れる。国道が目の前にあり、車のライトが幾度も通過していく。この道の先に学校がある。

 いよいよ息切れが限界を迎えてきた。中学の頃と比べればかなり体力が落ちている。

 なんで煙草なんかにはまったのか、今の俺ならよく分かる。

 まだ続けられるにも関わらず、足の怪我を理由に部活を辞めた。トラウマなんていう大嫌いな言葉をひた隠しにし、煙草を吸ってそれを紛らわせた。自分が逃げたってことが信じられなくて、受験勉強にのめり込んで自分を騙した。

 面白いくらい逃げてばっかだ。可笑しいくらい口先だけだ。阿呆みたいに全部忘れてきた。その代償が、今ここで叩きつけられたのだ。

 学校が目前となる。

 一般歩道と学校敷地を隔て、背の高いフェンスが鎮座していた。俺はフェンスに指をかけ、そこから見える校内の自転車駐輪場をのぞき込んだ。

 一つ、見落としていたことがある。並べられた放置自転車だ。学校を出る前、あれが視界に入ったにも関わらず、俺は見落としていたのかもしれない。

 視線を巡らせ探してみると、それがあった。母ちゃんの赤いママチャリ、つまり、依子に貸していた自転車だ。

 フェンス沿いに校門へと走る。

 校門に到着すると、ちょうどそのとき、荒々しい音を立てて扉が開いた。そこから顔を出したのは五頭だった。彼は俺を認めると、弾んだ呼吸を整えもせずに言った。

「今泉、さっき平野の親御さんから連絡があった。平野はどこだ」

 俺は腰を屈め、両膝に手をついて息を吐き出した。ちょうどよく門が開いて助かった。俺は切れ切れになる息で無理矢理に声を出す。

「依子は、たぶんまだ、校内に居るっ」

 視界の斜め上で五頭がうなずく。右手に持った二つの懐中電灯のうち、一本を俺に差し出した。

「まだ警備員も到着していない。教師も私一人だ。二人で捜すぞ」

 俺は懐中電灯を受け取った。



 五頭は旧校舎に、俺は西棟に別れて依子を捜した。生徒玄関を通り、まずは一階の廊下を駆けながら一年の教室を覗いていく。二組の教室に入る。依子の机を一応見てみたが、当然のごとく整然とそこに佇むだけで、脇には鞄も掛かっていない。教室を出て階段へ向かった。

 二階、三階、四階。どこにもいない。五階、廊下の突き当たりで踵を返す。全階のトイレを確認し忘れたことに気づき、廊下に足を滑らせながらも来た経路を戻る。

 しかし、駄目だった。ならば東棟だろうか。一年の女子トイレに入ったのち、頭の中で校舎内の図を作る。

 ここで、トイレの床に置かれた小型のゴミ箱に足を取られ、俺は大きく転倒してしまった。

 ゴミ箱の中身が散乱する。ふいに、地面に伏す俺の眼前に何かが入り込んだ。

 一冊の文庫本。トイレのゴミ箱に捨てられるにはあまりにも不自然なものだった。とっさに手に取り、懐中電灯の明かりで表紙を照らす。

 司馬遼太郎の著作だ。本の裏を返すと、裏表紙の左端に、見覚えのある図書館のバーコードが貼り付けてあった。恐らく、依子が図書館で借りた本だろう。

 本を落とし、トイレを出て走り出した。

 俺の想像したことは間違いじゃなかったようだ。街のコンビニに捨てられた依子の携帯、そして、あのトイレに捨てられた文庫本。

 そういういじめだ。どうやって隙をついたのかは知らないが、依子の私物が盗られ、学校中の至るところに捨てられた。学校内だけじゃ飽きたらず、あんな街に点在するゴミ箱にまで。

 依子はいまだに何かを探しているのだろう。それが財布か、家や自転車の鍵かは知らないが、駐輪場に置かれた依子の自転車からして校内にいるのは確からしい。

 東棟の一階から順に見て回る。三階の教室の窓際から旧校舎を見上げた。五頭が旧校舎五階の窓を開け、俺を見下ろした。

「居たかっ」

 五頭の息は相当上がっていた。ただし、俺の方も返事すら出来ないくらい呼吸が乱れていたため、大きく手を振って否定を示した。

 窓際から、旧校舎と東棟に挟まれた中庭へと視線を落とした。明かりを向けるが、照らした箇所以外はほとんど暗闇で見えない。外は直接降りて確認しなければ埒が明かないだろう。

 東棟の四階に上がり、部屋という部屋を見ていくが、依子がどこにも居ない。

「うそだろ」

 焦りきって頭が回らなくなる。細かい虫が背中を這ってくるような悪寒がした。浮上しかけた諦念を打ち消すべく、廊下の壁を叩く。

 はっとして、俺は廊下側の窓から顔を出した。

 そこから見下ろせば、裏庭がある。裏庭には焼却炉やゴミ倉庫があるはずだ。人目につきにくい場所で、もし私物を捨てるのならそこが狙われやすいと思った。しかし、この位置からではうまく確認出来ない。

 慌てて廊下を進み、焼却炉を見下ろせる窓から再度顔を出した。懐中電灯を向ける。

 見つけた。

 焼却炉の蓋が開かれ、いそいそと黒い人影がうごめいている。

「依子!」

 聞こえていないのか、それとも聞こえないふりなのか、影は反応を見せなかった。別にあれが依子だという確証はないが、ことこの場においては彼女以外にあり得ないだろう。

 何度叫んでも変わらない。喉に痰咳が絡まる。俺は下の階へと走った。



 校外のマンションから入る仄かな照明を受け、裏庭周辺は薄明かりに包まれていた。

 やはり、焼却炉には依子が居た。

「おいっ……」

 声が上手く出ない。酸欠で目の前が歪んでいた。それでもうっすらと分かったのが、依子が焼却炉の炭に手を突っ込み、しきりに中を漁っているということだった。

 駆け寄り、その肩に手を置く。

「依子、早く」

「はなして」

 依子が振り向きざまに俺の肩を押した。突然のことで、俺はその場で尻もちをつく。

「携帯がない」

 彼女はそう言った。声が出ないかわりに、ポケットから依子の携帯を出し、立ち上がりつつ差し出す。依子は黙ってそれを受け取った。

 一瞬だけ呼吸を整え、依子の腕を掴む。

「行くぞ」

 掠れているが、声も出る。しかし、

「いらない」

 依子が携帯を放った。濃い灰色に染まった地面に落ち、かつんと音を立てて暗闇の先に消えた。

 また身体を押され、俺は後退る。依子は背を見せ、また焼却炉と向き合った。

「いい加減にしろっ、叔父さんが」

「ベルーガがない」

 この状況だというのに、俺はその言葉に固まった。

「ストラップが見つからない。純がくれたのに、見つからない」

 暗闇を見やる。その中にうっすらと、白い卵型携帯を認めた。たしかにストラップはついていなかった。気づくわけがない、依子が探していたものがあれだなんて。

「悪かったよ……」

 訳も分からず俺は涙ぐんでいて、理由すら曖昧に謝っていた。気に入っているからとか、物の価値観とか、そんなものとっくに飛び越えて、あんなくだらない物に執着していたんだ。その意味が俺なんかに分かるはずがない。

「俺が悪かった、ごめんってば。もう返せって言わないし、新しいの、また今度買ってやるから、今だけは、こっちの話聞いてくれ」

 ほとんど抱くようにして依子を止める。しばらくの沈黙ののち、彼女は顔を上げた。

「叔父さんの容態が急変したって。時間、もう無いかもしれないんだよ」

 懐中電灯が滑り落ち、不快音を鳴らして周囲に響く。依子の腕を掴んで走る。俺たちは自転車置き場に向かった。

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