chapter39 紙飛行機/雀の墓/偽善
今日はほとんどパニック状態で教室を飛び出してしまったため、教室に鞄を忘れてきた。
校舎内は薄暗く、生徒の姿はなかったが、念を入れて忍び足で廊下を進んだ。一年二組の教室に到着し、扉から中を覗く。暗すぎてうまく確認できないが、ともかく人の気配は感じられない。
扉を開け、右足を出すと、つま先が何かにぶつかった。ごつん、みたいな感覚。悲鳴を上げそうになるのをこらえ、ゆっくり下を見下ろす。
宮下が、体育座りで俺を見上げていた。俺は彼のすねを蹴ってしまっていたらしく、宮下は足を抑えてすごく痛そうにしていた。
一方の俺は、ビビり過ぎて声すら上げずに固まっていたのだけど。
「今泉くん、先生を見下しつつ蹴るなんて、君も中々やるようになったね」
言い返したいことや突っ込みたいことは山ほどあったが、丁寧に息を整え、宮下をシカトして教室内へと歩を進めた。
痛がりながらも、俺の背後をキープして着いてくる宮下。しかも電気を点けていないので、思いっきり暗がりの中である。なんの妖怪だよ。
自分の席に掛けられた学生鞄を取り、早足で教室を抜け出そうとしたが、やっぱり宮下から肩を掴まれて引き留められた。
「んだよ、生徒指導はこんな夜中までやんなきゃなんないの? マジ大変だな、教師って」
「そうじゃない」
俺のすね蹴りは相当効いていたらしく、声が引きつっていた。
「宮下はね、今泉くんには、今日のことぐらいでグレてほしくないんですよ」
「今日のことぐらいって、俺的にはもう引っ込みつかないんだけど。それに、もうすぐ終業式だしいいじゃん。二学期からは来るからさ、たぶん」
「そんなのやだ。最近の宮下、ただでさえ今泉くんが図書室来なくて寂しい思いをしてるんですよ。宮下が図書室に通えるようになったのだって、ほとんど今泉くんのお陰なんだからね。宮下、教員の仲間内では半分ハブられてるからね?」
なんだか気色悪くなってきて、俺は宮下の手を振り払った。
「知らねえよ。俺には関係ないし、つか、なにその理由。あんたほんとに教師? それが精神的にまいってる生徒にかける言葉かよ」
「教師だとか生徒だとか、授業時間外の、今この瞬間では全く意味を為しません。現時刻においての宮下と今泉くんは、ただの友人同士です」
暗くてよく分からないが、そんな破綻しまくった理論を振りかざす宮下の顔つきは、信じ難いことに真面目一辺倒だった。
俺は引くと同時に、目の前に立つ教師が頭の病気にでもかかったのかと心配したり、それともこういう教育方針なのかと疑ったり、しかし最後までなにも言い返せず、黙って背を向けて教室を出た。
また背後からなにやら声を掛けられたが、俺は聞こえないふりをして廊下を突っ走っていった。
で、結局。
翌日の俺は、学校へと赴いてしまっていた。
一体なにが俺の足をここへ運んでしまったのか自分でも不思議でならない。俺は、宮下のあの訳の分からない話術に、まんまと嵌められてしまったのだろうか。
学校の敷地に入り、生徒玄関に向かうにつれ、校舎全体から拒絶されるような感覚を受けた。気のせいだと思いたかったが、自分の靴箱を開けた途端、それは確信に変わった。
――雰囲気悪くなるから早く帰ってね(笑)
丁寧に二つ折りにされた便せんに、これまたクソ丁寧な字でそう書かれていた。膝の力が抜け落ちてしまいそうだった。
冷静に考えれば当然の扱いなのだろうが、俺はそれでも、心のどこかで信じていた。
へまをしでかした馬鹿な俺を、快く受け入れてくれるクラスメイトの良心を。
玄関から、昨日と同じく前髪全開の村瀬が入ってくる。俺は頬が引きつるのを我慢して、挨拶をしようとした。だけど、出来なかった。
目を、逸らされてしまったのだから。
教室に入ると、まるで空気が変わっていた。俺に対する反応だ。誰もが俺を見ようとしない。冷やかしもしなければ、嘲笑もしない。誰も彼もが俺を避けようとしていた。いや、これは避けるなんて生易しいものではない。
俺の存在を、最初からなかったものとしている。俺だけを別の世界に閉じこめ、クラス内では、何事もなかったかのような談笑が交わされている。
目の前の女子が財布から小銭を落とし、五百円玉が俺の足下に転がってくる。俺はそれを拾おうとしたが、伸ばしかけた手は追いつかなかった。俺の手をわざとらしく押し退け、近くに居た男子が拾い上げたのだ。彼はことも無げに女子にそれを渡し、俺の存在はあっさりと否定される。
俺は得体の知れない寂寥感に全身を支配され、力無く自分の席に着いた。
何気なく机の引き出しに手を入れると、そこにも、靴箱と似たような内容の紙が数枚入っていた。
ゴミ箱に捨てにいく気力も沸かないので、俺はそのまま机に突っ伏した。
宮下を恨むべきなのだろうか。
違う。これは間違いなく俺の責任だ。人間関係なんて、結局そうなんだ。自分の意志で起こした行動だって、他人からそそのかされて起こした行動だって、全てのしっぺ返しは自分に返ってくる。そのしっぺ返しを予測出来ない、覚悟できない、俺自身が悪いのだ。
机に顔を落としつつ、俺はいつかの、鍋島の言葉を思い出していた。
――いじめられて、初めて見える景色があって。
そう、こんな感じ。
――景色が色あせて見えるんです。視界が狭くなるんです。何も見えなくなって、目の前が、真っ黒のどろどろになっちゃうんです。
なるほど、どろどろかもな。
自分だけは大丈夫、俺はきっとそんな風に思い込んでいた。どれだけいじめに首を突っ込んだって、どれだけ親身になっている風を装っていたって、所詮、他人は他人でしかないと思っていたんだ。
だからこんな風に、途端に自分の環境を崩されると、プライドも存在もあっさり否定されてしまうと、いともたやすく殻が破られ、どろどろになってしまうのだ。
ふいに、頭になにかが当たった。
顔を上げて確認する。机の端に、一枚の紙飛行機が乗っていた。誰が飛ばしたものかは検討もつかない。だけど、そこに何が書かれているのかは、大体予想がつく。
見る必要もないし、見たくもないはずなのに、俺はその紙飛行機に手を伸ばし、開いていた。
――学校辞めるor死ぬ?
その日の記憶は驚くほど希薄だった。
そしてその翌日、懲りずに俺が学校へ向かったのは、もはや義務感のみが原動力となっていたからだ。これは、『無視』といういじめを受け入れるべきだという、俺自らに課せられた義務であり、罰なのだと思った。そう思うことにした。
依子や城川は相変わらず何らかのいじめを受けていたようだが、とにかく興味が沸かなかった。明日は終業式だし、お互い、どうせあと一日我慢すればいいだけの話だ。俺はただ机に伏し、また歪み始めていく視界をふさいだ。
昼休みを屋上で過ごし、掃除の時間となる。
裏庭に出向き、一人で掃除を開始した。同じ持ち場である城川が五分遅れでやってくる。俺は彼女の到着を無視し、いつものようにプランターの水やりを始めた。
そのとき、城川が俺の制服のすそを引いた。
振り返る。彼女は手に白いビニール袋を持っており、すがりつくような目で俺を見つめていた。俺はその視線にたじろぎ、黙って見返すことしか出来なかった。
「手伝って、ほしいの」
俺の制服から手を離し、彼女はビニール袋を広げた。ためらいつつも、俺はその中を覗き込む。そして、思わず顔をしかめた。
袋の中には、数羽の雀の死骸があった。眠っているのではないか思うほど綺麗な死骸もあれば、内臓や羽が抜け落ちた凄惨な死骸もあり、数は十羽ほどあった。
城川はその死骸の山へと目を向けつつ、ぽつりと口を開く。
「わたしと依ちゃんの靴箱に、今まで入れ続けられたもの。埋めてあげないと、可哀想だから」
「なんで俺なんだよ。お前らんとこに入れられたんだから、依子に手伝ってもらえばいいじゃん」
城川は唇をふるわせ、小さく首を振った。何かを伝えようとしきりに口をうごめかせていたが、嗚咽によってそれは遮られる。俺は彼女の説明をじっと待つ。
掃除終了を知らせるチャイムが鳴った。目の前の渡り廊下を続々と生徒が通り過ぎていく。俺たちに怪訝な目を向ける者もいたが、さして気にした様子もなく、俺と城川は徐々にその流れから取り残されていく。
顔を下げ続ける城川を見る。死骸に涙を数粒落とす彼女に、俺はやむなくため息を吐いた。
「どこに埋める?」
太陽光が雲によって遮られ、昼間にしては地面がやけに灰色がかって見えた。俺は城川の背中を軽く押す。
ありがとう、短くそう聞こえた。
校庭用のガーデニングスコップを一個ずつ持ち出し、裏庭に戻る。そこから校舎の壁を右に曲がる。そこは校舎と校門から伸びる壁に挟まれ、閑散とした細い通路となっていた。雑草が伸びきってはいるが、土も軟らかく、校内では最も人通りのない場所だ。雀の墓を作るには最適だろう。
校舎の壁際に寄り添い、城川と並んでしゃがみ込む。二人の間に例のビニール袋を置いた。
そこで、五時限目開始を告げるチャイムが鳴り響く。それを聞き届け、俺たちは作業を始めた。
俺はハンドスコップで雑草ごと砂を掘りあげようとしたが、根っこにスコップの先が当たり、動きが一瞬止まってしまった。見た目以上に、地面が固かった。
「俺が掘るから、城川はその辺の草むしりしといて」
指示を出すと、城川は小さくうなずき、さっそく草に手をかけた。俺も黙って手を動かす。
やがて、一つ目の墓穴が出来あがった。
城川が素手で雀を取り出そうとするので、俺は慌ててその手を掴んだ。
「雑菌だらけだからさ、雀って」
そう言って、俺はビニール袋の中にスコップを差し入れようとしたが、今度は城川の方が俺の手を制止してきた。
「手でする」
彼女らしくない、意志のこもった目だった。俺はスコップをおろし、城川が雀を取り出すのを見届けた。
雀を両手で包むようにして、ゆっくりと墓穴へ運ぶ。そっと穴の中に入れると、城川の指が雀の背中を撫でた。
十センチにも満たない小さな身体を、俺は羽毛の細部まで見つめた。
「小さいな」
当たり前のことを言うと、城川は声もなくうなずいた。
「こんなに小さいのに、飛べてたんだよな。力無いくせに、俺らにも出来ないこと、平気でやっちゃってんだよ。よく考えると不思議だよな。信じらんねえ」
雀のすぐそばに、一滴のしずくが滴り落ちる。城川の指が雀から離れ、震えていた。そんな彼女の姿に、思わず頬が緩む。
「雀が死んだくらいで泣けんの、うちのクラスじゃお前くらいだよ」
一滴ずつ規則的に落ちていき、いっそう、指の震えが強まっていく。
「ちがう」
ふいに、城川が大きく首を振った。
「わたし、そんなにいいやつじゃない」
悲鳴にも似た声をあげ、乱暴な手つきで雀に土をかけていく。
「わたしは、こんな雀、可哀想だなんて思ってないっ」
俺は閉口し、墓穴を埋めていく城川の様をじっと眺めた。投げるように土を放り入れ、叩くように地面を固め、荒っぽく土の表面をならしていく。指先に土がまとわりつき、爪の間が汚れる。
埋葬し終わると、彼女は真っ赤にした目をこちらに向けた。
「道ばたで孤独に死んで、死んだあとも、こうして誰かが誰かをあざ笑うために使われる。すごくみじめで、救いのない死に方。わたしも、最後はこんな風に死ぬのかなって思えてきて、怖くなって、手が震えて、だから泣いた。自分もこうなるんだって、想像したら怖くなっただけで、わたし、雀のことが可哀想だなんて、ぜんぜん思ってないっ」
ほとんど呼吸を挟まずに言い切り、城川は大きく息を吐き出し、俺を見据えた。
「でも、雀の死で泣いたことに、変わりはないだろ」
城川はかたくなに頭を振って否定するが、俺はそのまま二つ目の墓を掘り始めた。
ふと異変に気づき、隣を見ると、城川が地面に両膝を押しつけ、スコップも持たずに地面に指を立てていた。やめるよう言いつけたが、やはり彼女は首を振った。
口出しはもう野暮なのだろうか。逡巡するが、どう考えても放っておくわけにはいかず、俺はその両手を掴んで地面から引き離した。
「怪我したらばい菌入んだろうが。ちょっと落ち着けよお前」
「依ちゃんが、もういいって……」
目をつむり、語尾に些少の嗚咽が混ざる。城川が急に大人しくなったのに気づくと、俺はそっと手を放した。
城川が地面に両手をつき、手の甲に涙を落とす。
「いじめ、もう止めなくていいって。もう、心結までいじめられることはないって。さっき、依ちゃんにそう言われた」
それにわたしは、と続け、いったん言葉が途切れる。うめきが絶えず喉元から漏れる。一度大きく深呼吸をして、城川が叫ぶように言った。
「依ちゃんの言葉に、わたしはほっとした。もういじめられなくていいんだって、安心したっ。依ちゃんばっかりが苦しんでいるのに、わたしは、どうしても自分がかわいいっ……」
俺は奥歯を噛み、耳を塞ぎたい気持ちを必死で抑えた。城川の指が草を握り、少しずつ繊維が裂かれる音がする。耳障りな音に俺は眉をひそめ、ついに彼女から視線を外した。
「ずっと、ずっと由多加ちゃんみたいになりたかった。由多加ちゃんみたいに、格好よくて、明るくて、勉強ができて、誰にでも優しくて、いじめだって、構わず止めてくれる」
――城川さん、昔いじめられてたんですよ。
「いじめにだって負けないような……」
――私、助けようとしたんです。止めろって喚いたり、直接先生に訴えたり。そうすると、今度は私がいじめられ出したんです。いじめられて初めて見える風景があるんだなって。
「由多加ちゃんみたいにっ……」
――結局、私は逃げました。
「わたしは、」
――私、弱いものいじめは大嫌いだし、見るのも嫌なんですけど、でも、されるのはもっと、嫌だったから。
「由多加ちゃん」
――人をいじめから庇ったことを、後悔してみてくださいよ。
小さな拳が地面に落ちる。
「後悔なんかしないでよっ! 後悔するくらいなら、最初から助けないでよっ。わたしまで、後悔しちゃうよっ……」
続けざまに振り落とされる拳をつかんで止める。
「城川」
名前を呼ぶ。しかし、それ以上の言葉が浮かばなかった。
逃げることそのものではなく、そこから腐りきってしまうことが駄目なんだ。俺は鍋島の過去に、そう結論づけた。本当にそれでいいのか? 結局なにも解決していない。自己満足で終わり、自分に言い訳をつけて、とどのつまり、逃げたことに変わりはないんじゃないか。
「やだっ、やだよっ……」
偽善で終わることに、苦しむ者がいるのに。