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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
37/65

chapter36 隙だらけの顔

 翌日、あまりの暑さに目を覚ますと、まだ早朝の五時だった。

 布団から重い身体を起こす。背中が寝汗でびっしょりで、脳みそに直接響くような鈍痛もあった。内容は全く覚えていないが、かなり悪い夢を見た気がする。

「純一、昨日うなされてたよ。歯ぎしりも、すっごいやかましかった」

 居間に降りると、朝飯を作る母ちゃんがそう告げた。

 汗を流すべくシャワーを浴びる。その後は自分の部屋でぐったりしようと考えたが、寝転ぶだけで、床と当たる部分が蒸し暑かった。シャワー浴びたばっかりだし、汗をかきたくないので、諦めて制服を着て部屋を出る。

 そこで、ちょうど部屋から出てきた弟と廊下ではち合わせる。

「兄ちゃん、昨日寝てるとき、壁ドンドン蹴ってたでしょ。寝相悪すぎ。超うるさかったよ。ねぇ、死んで」

 死んで?

 朝っぱらからトラウマレベルのきつい一言を浴びせられ、俺はテンションをガタガタに落とし、とぼとぼと弟の横を通り過ぎる。

「すんませんした」

 ちっちゃく謝りながら。俺が弟に謝ったのって、何年ぶりだろ。



 朝の天気予報によると、本日はここ四年内で最高気温を叩き出しているらしい。どうりでくそ暑いわけだ。

 生徒玄関で村瀬彩音と出会う。

 村瀬は靴箱から上履きを出しながら、片手に団扇をあおいでいた。俺に気づき、その顔を向ける。すると、玄関側からの日光にあてられ、なにかが光ったような気がした。すぐさま、その正体に気づく。

 村瀬が前髪を全開で上げていたのだ。赤いピンで髪を止めており、つるっつるな額が、心なしか神々しく瞬いた。暑さのせいか、彼女は気だるそうに細めた目を赤縁眼鏡の奥から覗かせる。

 その前に、どうでもいいことかもしれないけれど、

「でこ広っ」

「うるっせえっ! 死ねっ!」

 死ね?

 ひどく落ち込み、いよいよ本気で死にたくなってきた俺は、黙って村瀬の隣を通り過ぎた。今度は、謝る気力すら出てこなかった。



 一時限目が始まる直前、トイレから戻ってきた依子が、全身ずぶ濡れで席に着いた。すごく当たり前のように。

「涼しそうでいいねー、平野」

 その後、教室に入ってきた女子が、依子の机を通りかかりつつ笑った。

「うっわ、ブラの紐、超透けてるし。俺、ちょっと興奮してきたかも」

 教室後方で談笑していた男子の一人がそう言った。無性に癇に障って、俺は黙って席を立つ。また冷やかされそうだったが、あの依子には、さすがに何か言ってやりたかった。

 しかし、そちらを見ると、依子の隣には既に曽根本が居た。彼はうわずらせたような声で言う。

「保健室、いけば」

 依子が顔を上げ、曽根本の真っ赤な面を見る。そのせいで彼はさらに顔を赤くして、そろそろ鼻血でも出るんじゃないかくらいに紅潮させて、目をぎゅっとつむって教室の扉を指した。

「だからぁ、保健室いけって。ブラウスの替えくらい、貰えるからさぁっ」

 思いっきり声が裏返っていた。依子は小さく頷き、音もなく席を立つ。髪や制服の端からしずくを垂らしながら、曽根本の指し示す方向へと導かれるように、静かに教室を出ていった。

 その瞬間、あちこちから、曽根本を茶化すような歓声や口笛が巻き起こる。たじろぎ、曽根本は慌てて辺りを見回した。

「うるせえっ、黙れよ、お前らっ……」

 だんだん声を小さくして、ついに耳まで赤くなる。それっきり彼は、口を結んで席に着き、じっと顔を下げた。

 それでも鳴り止まない冷やかし。ずっと俺は、この空気が気に食わなかった。黄色くて目障りな声に、耳がうずうずとして、腹の中に真っ黒なものが溜まっていく。

「もう一回告ってくりゃいいじゃん、ロベルト」

「そうそう、今ならオッケーもらえるかもよー」

 曽根本はさらに顔を下げ、唇を噛む。

 鼓膜がどんどん汚染されていく感じがした。視界もぐっと狭まる。意図せず、頬が引き吊る。

 曽根本が机に顔を伏せ、耳を塞ぐ。ジェルで固められたその頭を、近くに居た男子がぐしゃぐしゃと揺らした。

「きめぇんだよお前。死ねよ」

 死ねよ。

 あいつに死ね。こいつに死ね。どっかの誰かに死ね。じゃあこいつらは、何を考えて、何を思って、何が楽しくて、こんな下らない生き方を続けるんだろう。

 だんだん、全身になにか衝動感みたいなものが張りつめてきて、なんだかよく分からない、架空の糸みたいなものが切れた。ぷっつりと。

 全力で蹴った椅子が軽く浮き、後方の生徒用ロッカーに激突する。そばにいた男子生徒が小さく悲鳴を上げると、激しい音を立て、椅子が床を壊さんばかりに落下した。

 蹴った足が、じんじんと痺れた。

「黙れっつってんだろうが」

 俺は荒い息吹をして、気持ち悪いくらい大人しくなったクラスメイトたちを見渡す。

「毎日毎日ぴーぴーぎゃーぎゃー。気色のわりい団結力見せつけやがって。なんだよお前ら。全員どっかで頭でも打ってんのか」

 前方に目を向けると、扉付近に、教材を脇に持った宮下が立ち尽くしていた。どうでもいい。

「黙って席着いて勉強でもしてろよ。マジでうぜんだよ。マジで耳障りなんだよマジで吐き気がするんだよ。おい、いっそ殺してやるか。全員この場でぶっ殺してやろうか」

 昨日の今日。俺も俺。マジで、何言ってんだろ。

「殺せるなら殺してみろよー」

 視線を移す。窓際に背中を預けていた男子が、はっと口元を抑えた。

「あっそ。じゃあお前から殺すよ。おい、どけ」

 前方にたむろする生徒たちを押して退かし、その男子めがけて突き進む。思考が完全に意識と分断されていて、止まりそうになかったし、止められそうになかった。

 硬直して動けない男子の胸ぐらを掴む。それと同時、俺の振り上げた手首が、誰かの手によって強く握られた。

「はいそこまで」

 掴んでくる相手を睨むと、宮下だった。つか、なんでこんな時まで笑顔ぶっこいてんのこの人。

「全く今泉くんって子は。ガチな不良にでもなるつもり? そういういじめの止め方、よくないですよ」

「はぁ、何なの? どの口がほざくんだよ。じゃあお前ら教師が止めてみろよ、いじめ。毎日アホみてえに繰り返されるこの糞集団のせっこいいじめをさ。なにボサッとしてんだ、馬鹿かてめえら。早川が手首切った時点ではっきりしてんだろ。人にもの教える前に授業捨てて原因洗い出せよ。どこまで無能なんだてめえら教――」

 手のひらの先を全力で首に突かれた。思わず首もとを抑え、俺は一歩後ずさる。短い間だが、息が出来なかった。なんて言うんだっけこれ。貫手?

「宮下の学生時代なら、目上の人にそんな口を利く子は、おもっきしグーをお見舞いされてたんだけどね。時代の流れって、めんどくせーよね」

「充分殺人的だわハゲ教師」

「宮下はハゲていません。宮下家は先祖代々、フサフサ遺伝子をフサフサに受け継いでいます」

「うっせえどけ」

 宮下の肩を押そうとするが、またしても手首を取られ、今度は背中に回すようにねじられた。すごく痛い。意味分からん。

「とりあえず、生徒指導室いこっか」

 痛みで徐々に戻ってくる理性は、やがて教室中から向けられる視線により、一気に冷静になる。誰もが軽蔑の眼差しを俺に向けていた。視界の端に、吉岡の顔が映る。あざ笑うかのように口元を隠し、体温が下がるかのような冷たい瞳で俺を射抜く。

 やっぱり、全然変わらない。

 吉岡は、そんな目をしていた。

 急に羞恥心が込み上げてきて、捕まれた手首を無我夢中で振り払う。腕の関節がみしみしいってるのも関係なく。危険を察したのか、宮下がぱっと手を離した。

 俺を食い潰さんばかりの視線の雨。息づかい。漏れる嘲笑。疎外感。差別感。圧迫感。

 痛んだ腕を振り、乱れきった息を吐いて、それからすっと吸い込む。

 死ねよ、てめえら全員。

 たぶんそう叫んで、俺は教室を飛び出した。



 旧校舎屋上の扉を開ける。

 腹立つくらい生暖かい風が全身を通り抜け、太陽から逃げるように、俺は視線をコンクリートへと落とした。

 背後から生徒呼び出しの放送が聞こえた。五頭の低い声が、粛々と俺の名前を呼ぶ。後ろ手に扉を閉じ、その音を遮断した。

 いつまで経っても変わらない。どうしても変えることが出来ない。頭に血が上ったら、それで全部終わり。もしかしたらこれは、不治の病なのではないかと思った。今朝感じた頭痛がぶり返し、その場にしゃがみ込もうとしたとき、ふいに声が聞こえた。

「おー、久しぶり」

 顔を上げる。原村が、地面を通るパイプ管に腰をおろし、アイスを食っていた。

 俺はしばらく呆然として、声が出てこない代わりに、煙草をくわえた。いまだ高ぶった息を整えつつ、俺は尋ねる。

「何? なにしてんのお前」

「なにって、どう見てもサボりだろう」

「よく聞こえない」

 ていうか、今はあんまり人と話したくない。ましてや、原村とか。

「だから、サボりだよサボり。リピートアフタミー? さーぼーりー。はい」

「言うか馬鹿」

 俺はその場で火を点け、彼から顔を逸らし、腹に溜まったもの全てを排出するかのように煙を吐いた。

 横目で確認すると、原村はもうアイスに夢中になっていた。どう話しかけていいものか分からず、俺はただ所在なさげに立ち惚け、間を埋めるようにひたすら煙草を吸った。

 時間がやけに長く感じた。授業終了のチャイムが鳴る頃、気づけば俺は煙草七本を消費していた。

 改めて、ちらりと隣を見る。原村は食べきったアイスの棒をしゃぶるようにくわえており、何故か、俺の横顔を見つめていた。

「なに見てんだよ」

 訊くと、原村は口から伸びる棒をぶんぶんと上下させ、ぱっちりと瞼をしばたかせた。

「いや、顔の怪我の具合、眺めてた。絵になるのではないかと考えてみたけど、やっぱ、ぜんぜん駄目だね」

 駄目とか言うなくそっ。

 俺は原村の左手首へと目を移した。その手首には、根性焼きの痕を隠すように、細く包帯が巻かれていた。俺は次に、あの日の早川のことを思い出した。

 自傷兄妹。不謹慎にもそんな造語が浮かぶ。

 プッ、そんな間抜けな音がして、前方から何かが飛んできた。俺は煙草をくわえた状態のまま、避けもせずに、それを顔面で受ける。

 ぴちゃり。嫌な音。飛んできたそれが一瞬だけ顔に貼り付き、地面に落ちていく。

 視線を落とす。俺の顔にくっついて落ちたそれは、原村がくわえていたアイスの棒だった。うわっ、汚ねえ。俺は死にものぐるいで顔を拭った。

「そのうち、ぽっくり逝っちゃうんじゃないか、みたいな顔してるね、今泉。隙だらけだったよ」

 言って、原村が爽やかな笑顔を見せた。緩みきったその顔を眺めているうちに、何故だか俺は、奇妙な気分になっていた。今までとは別物の感情の渦だった。瞼と眼球の間が熱くて、鼻の奥がじんとして、頭の中が熱でいっぱいになって、息が出来ないくらい、胸が苦しい。

 そんな俺を気遣うように、ふいに原村が視線を逸らし、非常扉の方を見つめた。

 空気が静けさを増す。暑苦しい風が、屋上一帯に吹き付ける。

 しかし、優しい笑みをたたえる原村の横顔は、吹いてくる風なんかより数十倍あたたかくて、俺はどうにも、溢れて出てくるものを我慢できそうになかった。

「おい、こっち見んなよ」

「見ないよ」

 原村は体育座りするみたいに膝を折って、パイプ管の上で回転した。その背中を確認すると、俺は声を殺して泣いた。

 高校に入って、人前で泣くのはこれで二度目だった。一度目は叔父さんの前。二度目は、今この瞬間。泣き顔を見られない分だけ、少しだけ気が楽だった。だから俺は安心して泣いた。声を出さないようにだけ注意して、それはもう、まさに隙だらけのクソガキみたいな面で。

 なんでこんな優しいのこいつ。俺がお前に何したか忘れちゃったの? 知られたくないこと、無理に聞き出そうとしたし、手首焼いたし、友達じゃねえとか言っちゃってるしさ。訳分かんねえ。頭悪いんじゃないの。もう死ねよお前。あ、死ぬのは俺か。分かったよ、死ねばいいんだろうが。今からここでノーロープバンジーで死んでやる。やってやるよ、上等だボケ共が。その代わり、てめえらも全員死ね。

「もう大丈夫?」

 動かしかけた足を止める。

「暇だし、散歩でも行こっか」

 二時限目開始の予鈴が鳴り響き、原村がそう言った。背中越しでは見えないのに、俺は何も言わずに頷いた。

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