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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
36/65

chapter35 自覚、無自覚

 その日の放課後、親父から一件のメールが届く。

『薄力粉。牛乳。生クリーム。クリームチーズ。ゼラチン。各一点ずつ購入してくるように。金は後で払う』

 俺の目がおかしくなければ、どう見てもケーキ作りに使われる材料だった。あの親父がケーキ。山登りしてたらキノコ狩りの婆さんに熊と間違われたあの親父が、あのゴツゴツした野生児みたいなオッサンが、スイーツ作り。いくら料理に熱中してるからって、流石にこれは似合わない。想像するだけでおぞましい。

 とはいえ、親父に逆らえば問答無用の鉄拳制裁なので、俺は学校を出ると、まっすぐ駅方面へとおもむき、その向かいにある食料品店に入った。

 買い物かご片手に店内を闊歩する。帰宅ラッシュ時間帯の駅前店だけあり、それなりに混雑していたが、なんとか乳製品コーナーを見つけ、生クリームや牛乳などをかごに放り込んでいく。

 おばちゃん二、三人と肩をどつき合わせながら、今度は調味料コーナーへとたどり着く。

 薄力粉を探していると、ふと、棚の奥から、あんまり顔を合わせたくない奴が姿を見せる。そいつは俺を認めると、やけに朗らかな笑顔をつくり、正面から駆けてくるチビっ子三人組をすいすいとかわしながら俺のもとに近づいてくる。

「奇遇だね。買い食い?」

 嘲笑気味に、吉岡美野里がわりと失礼なことを言ってきた。一方の俺は、ふにゃ、みたいなやる気のない愛想笑いで買い物かごを持ち上げる。

「いや、最近暇でしょうがないから、お菓子でも作ろうかなって」親父がだけど。

 吉岡はかごをのぞき込むと、ちょっと頬を膨らませ、音もなく吹き出した。

「うわ、意外。その顔でお菓子作り? うけるんだけど。なに、ギャップ萌えとか狙ってる?」

 うるせえ。

「そっちはなにしてたの」

「私は普通に、学校帰りの暇つぶし。なんなら、買い物手伝おっか」

「あー、うん」

 激しく一人にしてほしかったけど、せっかくのご好意なので俺はそう答える。なにを欲しいのかと尋ねられ、さっきから探してるクリームチーズやその他の材料を伝えると、吉岡は「それ、このコーナーじゃないよ」と言って棚を折れて進み、その場を去った。

 わずか数分ほどして戻ってきた彼女の手には、まさに見つからなくて困っていた材料数点があった。

「慣れてるんだな」

「私たまに、アキラに料理作ってあげてるし」

 いきなり聞き覚えのある個人名を出され、俺は一瞬だけ反応に困る。

「彼氏?」

 そう訊くと、吉岡は意味深な笑みを返した。



 それから、何故か俺は、吉岡と共にサーティワンに入り、のんき過ぎるくらいにカフェモカアイスを貪り食っていた。そのアイス店は、さきほどの食品店の三階に位置し、開放的に開けたガラス窓から駅前の様子を見下ろせる高さにあった。

 吉岡は丸テーブルの向かいに座り、カップの中のベリーチーズをつつきながら、頬杖をついて窓の方を流し見ていた。無理矢理に俺を誘ってきたくせに、すごくつまらなさそう。

「なんか面白い話してよ」

 こんなことまで言い出す始末。俺は無言でプラスチックスプーンを動かし、アイスを口に運んだ。なんか、奥歯痛い。虫歯あるのかな。

 そのうち、流し気味の辛辣な視線を感じる。

「いまさら、俺とお前で盛り上がれる話とかなくない」

 投げやりに言うと、吉岡はむすっとした上目遣いで俺を見上げ、俺と同じく、かなりだるそうに携帯をいじりはじめた。西へと落ちる日の光をはじき返し、無駄にデコレーションされた携帯の表面が輝く。たびたび思うけど、女子って、よくこういう機能性無視の過剰装飾に没頭出来るよな。

 食べ終えると一気に暇になり、店内を見回した。おそるべき女性客率。そしてあり得ないくらいの疎外感。うんざりして、俺は窓から街道を見下ろした。

 ささやかに賑わう駅前商店街を、一人の小柄な女子高生風が歩いていく。位置的に顔は分からなかったが、歩幅の短い特徴的な歩き方に見覚えがあった。たぶんあれ、城川心結(しろかわみゆ)だと思う。

 吉岡もそれを見ていた。なんの感慨もなく、城川の歩く様を眺めている。

 あっ、と吉岡が視線を固定したまま短く声を上げ、俺もそちらを見る。

 城川が路上で派手に転んでいた。ヘッドスライディングしたみたいな、漫画のような転び方で、見てるだけで痛そうだった。学生鞄から教科書や文具類が地面に散らばり、よく見ると、すぐそばで薬局の立て看板が倒れていた。彼女はそれにぶつかって転んだらしい。

「ほんと、幸薄いよね、心結ちゃんって」

 痛みのためか、地面に伏したままピクリとも動かない城川の姿に、確かに幸福など欠片も見あたらなかった。しかし、吉岡はそんな彼女に辟易としたようなため息を吐く。

「ま、幸薄いって言ってもさ、心結ちゃんみたいに背がちっさくて、まさに可愛がられるために生まれてきましたーって見た目の子、大抵は周りが良くしてくれるから得だよね」

 城川の周囲にぽつぽつと集う人だかり。OL風の女性が城川を抱き起こし、制服のほこりを払う。優しそうな老人が地面に散らかったものを丁寧に拾っていき、薬局からは若い男性店員が出てきて、人のよさそうな笑顔で看板を立てなおし、彼女の安否をうかがっていた。

 城川自身は、助けてくれる人々を前にして申し訳なそうにおどおどしていたが、吉岡が指摘するように、自分が得をしているだなんて、一切自覚していなさそうだ。

 ふと、不機嫌な雰囲気を察し、俺は半分からかうように言う。

「ああいうの、吉岡でも嫉妬するんだな」

「別に。あそこまでのチビに生まれたら、ちょっと格好悪いもん」

 不服という顔をして、空のカップにスプーンを放った。

「ああいう子ってね、見る人が見たら不快でしかないんだよ。高校生っぽくない容姿に、いかにも身体の大きさに合ってないって感じの学生鞄。しかも十代後半に入ってまで、年甲斐もなくまともなコミュニケーションすら取れないでしょ。なのにあの子、今日みたいに出しゃばっちゃうし。頭からっぽなのに無理して頑張って、結局ぜんぶ空回り。今泉もさ、ああいうの見ててイラついてこない?」

 周囲に向け、何度も頭を下げながら足早に去っていく城川の背中を眺めつつ、俺は半ば無意識に答える。

「まぁ確かに、イラつくっちゃイラつくのかもな」

「でしょ」

「だからって、いじめていいかっつったら、違うと思うけど」

 携帯から目を上げる吉岡と視線をつきあわせ、俺は抑揚もなく言う。

「城川までいじめられるのはどうなのって思ったよ、今日はさすがに。どうせ、あいつがいじめなんか止められるわけないんだしさ、もうシカトで、城川の好きにやらせときゃいいじゃん」

 頬杖をつき、顔を傾けさせたまま、吉岡は携帯を閉じて俺の顔を見つめる。 俺は憮然として背もたれに腰を預け、怪訝にそれを見返す。

「やっぱ変わらないね。その中途半端なカンジ」

「なにが言いたいわけ」

 吉岡はこちらの気を逆なでするようなため息を吐き、カップの中のスプーンを手に取って指先でいじる。

「心結ちゃんのこといじめなかったら、逆に可哀想だよ。だってあの子、いじめを止めたい、っていうより、平野さんと一緒にいじめられたい、って思ってるんじゃないかなぁ」

「なにそれ。それじゃ本末転倒だろ。そんなの、いじめ自体が無くならないし」

 吉岡は、本気で呆れたような顔をしていた。はぁ、みたいな口元をたたえて、なんつーか、ものすごく面倒臭そうに説明する。

「だから、いじめなんか二の次なんだってば。心結ちゃんが一番したいことって、まずは平野さんと同じ立場になりたいってことなんじゃないかな。友達と気持ちを共有したいって、これ、当たり前の感覚だと思うけど、私、なにか間違ったこと言ってるかな」

 何も言い返せず、俺は仏頂面で黙る。痛いとこ突っつかれた気分になって、それで何故か、原村の顔が浮かんだ。

「今泉って、友達いないの?」

 どういうこういう、人の腹を探るような残酷な質問を平気で投げてくるかな。傷つくからそういうこと言うなよ、とか、あぁいねえよ悪いか、とか、軽く受け流すみたいに返したかったけど、最近すこぶる気が滅入っていた俺は、焦りを隠すべくスラックスの太もも部分をぐっと握り、心底正直に、どこまでも深刻そうにこう返していた。

「この前まで居たけど、そいつが俺のこと、必要としてなかったっぽくてさ。お前が言うみたいに、俺もそいつと気持ちを共有したかったんだけど、全力で裏切られた。俺、もうすっげえ腹立って、気づいたら、絶交言い渡してた」

「それ、最初から友達じゃなかったんじゃないの? ていうか、今泉がその友達のこと、分かってあげられなかったんだよ」

「はぁ? お前にそこまで言われる筋合いないんだけど」

 さっそく開き直ってる俺。

「俺は知ろうとしたんだよ、そいつのこと。でもさ、あっちから拒否ってきたわけ。つまり俺は振られたんだよ。男に振られるってのも変な話だけど」

 吉岡はさっと表情を失くし、頬杖を外す。両手を膝に置き、軽く伸びをするようにして、斜め下をじっと見つめる。

「昔からそうだよね、今泉って。なーんか、可哀想」

 俺は完全に言葉を失い、可哀想とまで言われる意味が分からなくて、ただ、不信感をあらわに固まった。やがて吉岡が微笑みを浮かべ、

「もう出よっか。バス停まで送ってよ」

 床に置いた鞄を取った。



「私たちが付き合ってたときのこと、覚えてる?」

 そのままバス停に直行するものと思っていた俺は、なんの断りもなく道中のアクセサリーショップに入っていく吉岡に戸惑い、さらに、キーホルダーコーナーを物色しながらそんな突拍子もないことを尋ねてくる彼女に、意表を突かれて足を止めた。

「たった二週間くらいだったけど、私はよく覚えてるなぁ。思い出っていうか、教訓みたいな意味でね」

 吉岡がタヌキの尻尾みたいなどでかいキーホルダーを手にして、感心したようにその毛先を撫でていた。

 俺は携帯灰皿付きのキーホルダーを眺めながら、ひそかに当時のことを回想する。

 中二に入ったばかりの頃、俺たちのクラスでは無数にカップルが出来上がる現象が頻発していて、恐らくそんなに好きでもなかったくせに、もはや流行みたいな調子でお互いがくっついたり離れたりを繰り返していた。

 そんな流れの中で付き合ってしまったのが俺たちで、その二週間があまりにも無味乾燥に過ぎていき、結局、俺が誰かと付き合ったのってその一回こっきりだったんだけど、それだってほとんど記憶にないくらいの淡泊さだった。どっちが告ったとか、どっちが振ったとか、それすら曖昧なほどに。

「結局、一回デートしただけで、キスもせずに別れちゃったし、なんだかんだで付き合ったこと自体もポーズだったけどさ、それでも、分かるときは分かっちゃうんだよね。付き合った相手の本質っていうのかな」

「本質って、また大きく出たな」

「これ、アキラにプレゼントしようかな」

 意味不明のタイミングでスルーされ、タヌキの尻尾キーホルダーをなで続ける吉岡をじっとり睨む。なんでもいいけど、そんな邪魔くさいものプレゼントされても男は嬉しくないだろうな。

 俺は灰皿キーホルダーを棚に戻し、ケーキの材料数点が入ったビニール袋を手に持ち直す。棚に向かって横歩きに進んでいく吉岡のあとを追わず、その場に立って店の外をぼんやり見つめた。

「あぁ、そういえばこれ。ねぇ今泉、ちょっと来て」

 手招きされ、不承不承に近づく。吉岡が腰を屈めつつ指したのは、ご当地キーホルダーを集めた棚で、彼女はその中の一点を手に取った。

「これ、平野さんの携帯についてたやつと一緒だよね」

 八景島限定のベルーガまりもっこり。俺が依子にあげたやつと、まさに同じストラップだった。

「私が図書室に遊びに行ったとき、平野さんが言ってたよ。今泉からもらったんだって」

「だからなに?」

 俺は微妙に視線を逸らしつつ言う。そんな俺を観察するように見上げ、棚にまりもっこりを戻して腰を上げる。

「こういうの、下手にあげない方がいいよ。たとえ親戚でもね。男がくれたものって、女は意外と執着しちゃうからね」

「好きじゃなくても?」

「好きじゃなくても」

 念を押されるみたいに言われた。自分なりにも後悔しているわけで、俺はそれを深く胸に刻み込むように押し黙った。



 店を出ると、吉岡はさっき購入した尻尾キーホルダーを鞄に仕舞った。駅に向かって一歩一歩踏みしめるように歩き、背の低いビル群を見ると、眩しく煌めく夕日が背景の裾野へと落ち窪んでいった。

「そういう無自覚なとこ、いい加減、目障りで仕方ないんだよね」

 毒舌風味の上、意味の分からないことを言われ、俺は彼女の顔を見て思わず首を傾げる。

「無自覚って、俺が?」

「無自覚だよ。相手を勘違いさせて、正義ぶって他人を助けて、人が良いように見せておきながら、その実、相手のことを一切考えてあげられない。さらに手に負えないのが、今泉自身にその自覚がないってこと」

 吉岡は俺を見ずに言った。駅に到着し、ゆるやかに人の往来が増えていく。バスロータリーは逆の出口側にあるため、駅の中を進んでいくところだが、ふと吉岡が足を止め、ある集団を指さした。

「ちょうど、あれと似たような感じ」

 指したのは、駅の出口付近でたむろする大学生六人組。彼らは、肩や首からかけた募金箱を抱えており、しきりに声を上げ、自分たちの活動への協力を通行人に促していた。

 世界一貧しい国、カンボジアの恵まれない子供たちに向けてのユニセフ募金活動。

「小中学生ならまだしも、いい年して募金活動でしょ。本当にカンボジアの子供たちが可哀想だって思うなら、数時間も突っ立って他人のお金なんか集めてないで、もう大学生なんだから、バイトぐらいして、そのお金を募金に回した方が、よっぽど効率がいいし良心的じゃない?」

「そういうひねくれた極論言うの、ほんと好きだよな吉岡って」

「今泉こそ、その放棄したような言い方止めてよ」

 吉岡は財布を出し、大学生たちに歩み寄りつつ言う。すれ違いざまに彼らの募金箱に千円札を入れ、振り返りもせずに駅構内へと進んでいく。すると、大学生らの視線がそれとなくこっちに来て、俺は瞬間的に迷ったが、ポケットから四百円程度を出して箱に入れ、慌てて吉岡の背中を追った。

 隣に追いつくと、彼女は鬱憤をため込んだような目を前方に向け、若干ながら歩む速度を緩めた。

「とにかく自覚がないんだよ。今泉も、あの大学生たちも。人を助けることに真剣じゃない。人を思いやることに本気じゃない。そのくせ、外面だけはいいやつ振って、あるとき、無自覚に人を傷つける」

 バス停に到着する。こちら側の出口からは人も少なく、そのバス停も閑散としており、待ち人は俺たち以外にいなかった。

 ベンチがあるのに吉岡は腰をおろそうとせず、立ち尽くし、建物の先にあるオレンジに染まった山を見つめた。俺は口を閉ざし、それと同じように突っ立つ。

「ねえ、今泉はすぐに私を悪者扱いしようとするけど、私とあんたの何が違うわけ? 人を傷つけた大きさなら、私たち、たぶん同じくらいだと思うよ」

「自覚してるか、自覚してないか、それだけ違いってこと? なあ、俺が誰かを傷つけてるって、なんでお前なんかに分かんの。俺の全てを知ってるようなその言い方、甘く見られてるみたいで心外なんだけど」

「分かるよ。普段話さなくたって、昔を知ってるんだもん。大体のことは分かる」

 言うと、ふいに吉岡が俺の顔を指した。

「その顔の怪我。あと、平野さんの手の傷」

 手に変な汗がにじむのが分かって、俺は自然と拳をゆるく握る。

「そして、予定調和のように今泉がいじめを無視し始めた。平野さんと喧嘩したんだよね。しかも、殴り合いの喧嘩。これだけあからさまな物を見せつけられて、どうして私が気づかないと思うの?」

 依子との公園での一件がフラッシュバックして、俺は静かにそれを鎮める。

「平野さんが手以外を怪我していないところを見ると、今泉、一方的に殴られてあげたんだよね。ねえ、それが平野さんへの思いやりのつもり? 好き勝手に彼女を責めてしまったから、今泉の失言も、罪も、黙って殴られたら精算されるとでも思った?」

「俺の腹ん中知ったつもりになって、いい気になるのは分かるけどさ、」

「人を軽く見るのも大概にしなよ」

 俺の台詞は吉岡の一言でねじ伏せられる。

「なんで殴り返さなかったの? 男と女だから? 平野さんがそう頼んだの? 黙って殴られてくださいって、彼女がお願いしたのかな。違うよね。口で勝ったなら、喧嘩でだって礼儀を持って相手してあげるべきだよ。殴られることで対当に振る舞ったつもりなのかもしれないけど、実は今泉って、平野さんのこと見下してるんだよね」

「俺が、依子を?」

「そうだよ。いじめられるような情けない奴、苛々して見てらんないけど、しょうがないから俺が助けてやるか、みたいな。そういう感覚だったんだよね。同じ目線じゃなかったんだよね。だから平気で彼女の欠点をつついたり、簡単に見捨てたりすることが出来るんだよ」

 ゆるく握られたはずの手が、強く固められていることに気づいた。手の汗も分からないほどに、俺の中の何かを抑えつけるように、自我を保つように拳は握られていた。俺はそっと、それをポケットの中に隠す。

 繰り返し繰り返し、頭の中で再生される、あの公園での映像。

「心結ちゃんのことだって、鍋島さんのことだって、絶交したっていう友達のことだって、誰のことだって、いつだって、今泉は他人を下に見るんだよね。だから友達も出来ないし、誰とも分かり合えないし、なにもかもが中途半端で終わる。ところで、ねぇ、今泉ってさ」

 ――じゃあ聞くけどさ、お前が誰かのために考えて動いたり、発言したことが、今の今まで一度でもあったのかよ!

「人の気持ち、一度でも真剣に見ようとしたこと、あるの?」

 ――あたしは、純のために。

 俺のため?

 顔を上げると、もう夕日は沈んでいた。遠くで改札の誘導音が鳴り、人々が革靴を鳴らして歩く音が響いた。やけに喧しく。すぐ隣の息づかいすら、俺の耳には入ってこないのに。

「殴りたいなら殴れば」

 口の中が張り付くように渇いて、訳も分からず握った拳がポケットから抜け出ていた。頭を下げ、それを見ると、頬に伝った汗が地面に落ちた。

「自覚がないから、その拳は固められてるんだよね。いいじゃん、殴れば。私は叫ばないし、今なら人もいない」

「もう、黙れよお前。俺が人の気持ちを知ろうとしないとか、俺と誰かがどうだとか、マジで、吉岡だけには言われたくない」

「私だけには、ね」

 吉岡が俺を見る。唇の端をつり上げ、目を細めて。

「ねえ、私たちが付き合ってたとき、たった二週間足らずの間だったけど、私、今泉のことなんて呼んでたか、覚えてる?」

 呆然として、瞬間的に記憶を掘り下げる。探れども探れども、呼び名どころか、そのときの吉岡の顔すらもやがかかったように霞んだ。やがて笑んだ彼女の唇から、刻み込むようにそれは呼ばれる。

「純くん」

 音が歪んだように振動し、頭の中がぐるぐると回る。

 あの日の放課後。図書室。そうだ、つい最近のこと。吉岡は受付の中にいて、俺を見るなりそう呼んだ。それで俺は、あのとき、なんて言った?

 ――その呼び方やめてくんない。なんか気味悪いんだけど。

 馬鹿じゃん。どこまで人のこと忘れてんだよ、俺。

「付き合っても、最後まで今泉のことは好きになれなかったけど、今思えば正解だったなぁ。でも、そのあと沙樹に譲ったのは失敗だった。もっと私がしっかりしていれば、沙樹が今泉のことを好きにならずに終わったのに」

 走行音に気付き、道の先を見る。路線バスがもう目前で、まもなくして俺たちの前に停車した。手のひらに爪が食い込み、下唇の裏を噛む。

「時間切れ」

 吉岡が切り離すように言うと、ふっと握った手の力が緩んだ。緊張の糸を切ったように膝が落ち、俺は倒れるみたいにベンチに座り込んだ。

 扉が開き、吉岡がステップに乗る。振り返る彼女の瞳が、暗く俺を見下ろした。

「中途半端に人を助けて、知らん顔で傷つけて、罪をあっさり忘れて、その上、その無自覚な拳すらも振りかざせない。ねぇ、今泉って、なんのために生きてるの」

 バスの扉が音を立てて閉じる。自分の呼吸すら聞こえてこず、俺は唖然と、ガラスの向こうの彼女の口元を見る。

 死ねば?

 そう、吉岡の唇がうごめいた。

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