chapter34 KY
その日、昼休み終了と同時に、鍋島を保健室へと連れていった。HRになり、鍋島がそのまま病院に運ばれたことを宮下が教えてくれた。話によると、彼女は先週の金曜からほとんど食事をとっていなかったらしく、点滴と自宅療養が必要らしいとのことだった。
夏休みまであと三日という時期。もしかしたら、当分鍋島とは顔を合わせないかもしれない。
HRが終了し、椅子に横向きに座り、鍋島の机を見下ろした。ここで初めて知ったのが、その木面に刻まれた悪意だった。彫刻刀かカッターで彫られたのか、一画一画を定規で引いたように、それは悪辣に刻まれていた。
『KY』
よく聞く略語だし、俺もたまに使う。ただ、この状況での『空気を読む』という行為の悪質さに、今の俺は、ただ目を背けることしかしない。このクラスで出来上がっている空気というのが、いじめを促すこと、いじめを見過ごすことであり、みじめなことに、俺もある意味その荷担者だった。
今日、鍋島が見過ごしてきたいじめの数々も、この『KY』が引き起こした結果なのだろう。城川に振りかざした言葉は、鍋島自身に向けた言葉でもある。結局彼女は、机に彫られた二文字と、自身の意志に挟まれ、限界を迎えた。
すぐそばで気配を感じて、俺は顔を上げる。
城川が鞄を片手に提げ、制服の胸あたりをぎゅっと掴んでいた。机に刻まれた文字へと徐々に視線を落としていく。
「この言葉、わたし、昔よく言われた」
呟いて、鍋島の席に座り、床に鞄を下ろす。彫られた二文字を指でなぞった。
「初対面のひと、すぐ怖がって、なかなか友達も出来なかったし。喋らなきゃいけないときでも、うまく喋れなくて、喉がつっかえる。怒られたり、からかわれたりしたら、すぐ泣いちゃって。だから、ばかにされて、何回も言われた。何回言われても、ぜんぜん慣れない言葉だった」
三分の一だけ開放した窓から風が入り込み、睫毛を撫でた。城川は胸辺りでゆるく拳を握り、こちらまで聞こえてくるような小刻みな息を繰り返す。
「KYって言われるたびに、もしかしたらわたしは、ここに居ちゃいけないんじゃないかって思った。わたしがここに居るのは何かの間違いで、わたしが死んだって、学校は何も変わらないんじゃないかって。わたしは、綺麗な風景の中でぽつんと浮かぶ、異物みたいなものなんじゃないかって」
教室に残っていたのは、俺と城川、そして、依子だけだった。依子は鞄を肩にかけ、生徒用ロッカー付近に立ち尽くし、前方の黒板を静観していた。彼女の左手を注視する。ボールペンで刺されたような赤くて黒い点が、親指の付け根付近に一つ穿たれていた。
「でも由多加ちゃんは、空気なんか読めなくても大丈夫、って言ってくれた」
横風にすら負けてしまいそうな繊細な声。
「無理に空気を読むと、わたしがわたしじゃなくなるから嫌だって、昔、由多加ちゃんが言ってくれた。自分がしたいことをしたいように出来るような、純粋で素直な子でいるのが、一番素敵なんだって、由多加ちゃん、言ってくれたから」
俺は頭を垂れ、顔を左手で支えた。左目を閉じ、手のひらにずっしりと沈める。
「だからわたし、いじめ、止めてみる。KYでもいいから、わたし、依ちゃんを助けてあげたい。由多加ちゃんが言ってくれたように、わたしは、自分がしたいようにしたいから、大好きな友達と一緒に笑ったり、一緒に泣いたりしたい」
瞳を動かし、城川と目を合わせる。その目を見ると、余計に自分の醜さを露呈されるようで、俺はほとほと嫌気がさして、左手で顔を隠しきった。
それを見届けるように城川は席を立ち、依子と並んで教室を出て行く。
自分の意志を実行に移すのがどれだけ難しいことか、城川は分かっているのだろうか。それが出来ない奴ばかりだから、俺たちのクラスはこんな風になっているのに。
翌日の朝、教室の扉を開けると、女子の一人が黒板に何かを描いていた。
彼女は俺を認めると、慌ててチョークを板から離した。その挙動に、そこに何が書かれているのか、あらかた検討がついた。俺は例の如く深いため息を吐き、彼女の手にするチョークを叩いて落とした。女子は叩かれた手を抑え、痛みを訴えるかのような仰々しいしかめっ面をしたが、俺は構わず、その肩を押して退かし、黒板に書かれたものを見ないように、雑ぱくに黒板消しで拭い去った。
周囲のリアクションを相手にするのも面倒なので、速やかに移動し、自分の席に着く。
その後依子が入ってくると、教室内のあちこちから含み笑いが聞こえた。
依子の机の上には、濡れた雑巾が数枚張り付くように乗っており、さらに、コンビニで買ったような500mlの牛乳パックが無造作に転がっていた。机の端から雑巾が垂れさがり、その先から白く濁った液体が滴る。
依子の後ろから城川が顔を出し、一瞬身を引き、頬をこわばらせた。彼女らしい反応はそこまでで、すぐさま教室後方のロッカーに向かい、箒とちりとりを手に依子の机へと戻ってくる。
「片付け、手伝う」
ひたむきな口調で城川が言うと、依子が無言で箒を取った。場が静まりかえり、誰もが不純物を見るかのような目をする。いくら彼女らが純正だとしても、不純だらけのこの環境の中では、二人は異物に他ならないのだ。
「城川ー」
誰かがぽつりと言い、雑巾をつまむ手が止まる。
「空気」
揶揄されたように強調したその言葉に、城川の肩が次第に上下し、呼吸が乱れ始めた。ちりとりへと放りかけた雑巾が、宙ぶらりんに停止する。黙然とした教室で、やがて城川が引きつった笑みをする。鞄からポケットテッシュを出し、つたない手つきで一枚ずつ引き抜く。
「依ちゃん、わたし、机拭くね」
そのとき、城川の背中めがけ、丸められた菓子パンのビニール袋が飛ぶ。それは彼女の後頭部に当たり、かさりと音を立てて床に落下した。
「KY、つってんじゃん」
それを皮切りに、次々とゴミ屑や消しゴムの欠片が放られ、彼女の背中や頭に当たっていく。浅ましい集団心理の迫害に晒される中、城川はひたむきに頭を下げ、一心に机を拭いていく。依子から肩に手をかけられ、押しとどめられようとしても、城川は大きく首を振り、ただ手だけを動かし続けた。
三時限目の物理室に移動する最中、城川の姿が無いことを知ると、俺は踵を返して教室へ向かった。
東棟二階の階段で、うずくまって座る城川の背中を発見する。足を止め、その後ろ姿を見る。頭から水をかけられたのか、髪と制服が濡れそぼっており、人気のない階段の途中、城川は膝を抱えて震えていた。髪の毛先から水滴が落ち、赤く染まった膝に止まる。
「辛いのは、わたしだけじゃ、ない」
薄暗く、静かなその場所で、浮ついたように吐き出された独り言を耳にする。それを確認すると、俺はそっとその場をあとにした。
辛いのは自分だけじゃないとか、やれば出来るとか、ありのままの自分でいいとか、誰かが無責任に発した『人を勇気付ける言葉』に、今だけは、嫌悪しか抱けなかった。