chapter33 堰を切った真実
翌々日の月曜日。
ちょっと遅刻して学校に到着し、生徒玄関に入る。
靴箱の正面には、二年生の階へとつづく階段があるのだが、何故かその階段の傍には、ぽつんと机と椅子が置かれていた。
その後、廊下で依子とすれ違う。お互い目も合わせなかったが、依子が玄関の方へ歩いていくのを見て、そういうことかと得心する。
廊下を進んでいくと、二組の教室から宮下が出てくる。ちょうど今、朝のHRが終わったらしい。宮下は俺を見つけると、アホみたいにほっぺを膨らませた。
「もう、今泉くんはやっぱり遅刻? あんまり遅刻されるとこっちも困るんだよね。宮下、ただでさえ非常勤なんだから。まー、でも欠席じゃなくてよかった。一応、遅刻なしの出席にチェックしといたからさ、こっそりと」
ねつ造教師め。地味に助かるけどさ。
じゃあ昼休みに図書室で、と俺の肩を叩き、宮下は廊下を歩き去る。今日は図書室行く気ないんだけどな。
教室のドアを開ける。みんなの視線がこちらに集まる。俺の顔を見るなり、一同、一瞬表情を引きつらせるが、それだけで、グループ各々で談笑が再開される。
予想通りだけど、依子の席は机ごとなくなっていた。
ここまで堂々としたものを見ると、やはり以前とは違うのだなと改めて実感する。
ふいに、俺の背中に、堅い何かがぶつかった。それは見事背骨にクリーンヒットし、反射的に背中をおさえて痛みに耐える。
「じゃま」
後ろを向く。机を両手で抱えた依子だった。やっぱ机の角を当てられたらしい。それっきり、彼女は俺の睨みを無視し、机を持ち直して教室に入っていく。何も言わず、俺も教室に入る。
自分の机へ行く途中、添野の席を通りかかるとき、彼から腕を掴まれ、引き留められた。俺を見上げ、添野は口元に笑みをたたえる。
「おい、今日は平野と仲良く遅刻かよ。めでたくカップル公認したからって、あんまり目立ち過ぎんなよ」
左隣の女子が笑いをこらえる。俺はため息を吐き、わざと周りに聞こえるように舌打ちをして、掴まれた腕を振り払った。唖然とする彼を睨み据え、椅子の足を蹴ると、その瞬間、教室中がしんと静まりかえった。
再び歩を進めると、あちこちから冷やかすような笑いが漏れ出す。机を通り過ぎていくたびに、ひそめた会話の内容が聞こえてくる。
「見た、今の」「本気で恥ずかしがってるよっ」「つか何あの顔? やばくね?」「おい目合わせんな」「マジびびった。添野くん殺されるかと思ったし」「中学生かっつの」「おいやめろって、もう可哀想だろ」
奥歯を噛んで、誰の顔も見ないようにする。悔し過ぎて泣けてくるが、表情を変えないように気を付けて席に着く。椅子に浅く腰掛け、視線を手元へと落とした。
俺への注目が止み、それを見計らうように、後ろから控えめな声がかかる。
「久しぶりですね」
俺は振り返らずに答える。
「三、四日振りだし、あんま久しぶりって感じしないんだけど」
「仕方ないじゃないですか。家族以外で人と話すの、私、久しぶりなんですから」
「あっそ」
切り捨てるように言って、俺は机に突っ伏した。
二時限目の体育。身体を動かす気分でもないので、俺は顔の怪我を言い訳にして、制服のまま見学と雑用に徹した。
一年の体育にはプール授業がないため、夏の時期でも体育館の球技授業となる。男子はバスケ、女子はバレーボールに別れ、体育館の中央には防球用の間仕切りネットが張られた。
雑用とは言うものの、俺はほとんどサボるように防球ネット際で座り込んでいた。男子連中は後先考えずに無邪気にボールを追い合っている。俺もつい最近まではあんな感じだったけど、こうして冷めた心持ちで眺めてみると、公園でフリスビーを取り合う数匹の飼い犬のように見えてきて、なんだかちょっとだけ笑えた。でも、やることなくて死ぬほど暇でもあった。
頭を傾け、後方を盗み見る。
依子も、俺と同じように制服のままだったが、あいつの場合、見学理由を推し量るまでもなかった。審判台に膝を正して座り、無感情に首を左右に動かし、作業的に得点板をめくる。そんな彼女の後ろ姿を、俺は暇つぶし程度に眺める。
依子の斜め後ろでは吉岡と村瀬がトス練習をしており、これがまた、寒気がするくらい喧しい。
ふいに、ネット越しに俺の向かい側へと腰掛ける者があった。
彼女は、普段は二つにしているはずのおさげを一つにまとめており、心なしか、俺の目には少しやつれて見えた。なのに、彼女は妙なくらいに、生き生きとした目をして言った。
「早川さんのこと、さっき、宮下先生から聞きました。大変だったみたいですね」
そう言うと、鍋島は体操服の襟を引き、軽く口元を隠すようにした。
「やけに見せびらかすようにいじめるなぁと思ったら、そういうことだったんですね」
俺は腰を引き、わずかながら鍋島へと近づいてから、声を低くして言う。
「平気そうだな、お前」
鍋島は襟を引いたまま、なんのことだという風に小首を傾げる。あまりにわざとらしいその仕草に、俺は不快感と気持ち悪さを同時に覚え、彼女からそっと視線を外した。
やがて教師から、男女ともに五分間の休憩を取るようにとの指示が出る。指示を受けてから喧噪が収まるまで、若干のラグが生じるが、その間に村瀬が弾いたバレーボールが、吉岡のもとを大きく逸れて飛んでいく。
ボールの先には、依子が居た。
自分に向かってきたのだと分かると、流石の依子も身を硬直させる。俺も少しぎくりとしたが、かろうじて依子が半身を縮めると、ボールは彼女の頭すれすれを通り越していった。それを見届けた吉岡はそれとなく笑みを浮かべて、くすくすと笑いながら村瀬のもとへと走り寄っていく。
「もう、彩音ちゃんってば。いくらなんでも狙いすぎだよっ」
「えー? そんなつもりはなかったんだけどなー」
明らかに作為的に打たれたボールだったが、村瀬自身も自覚しているためか、その口元で作られた笑みは不気味だった。それ以上に不自然なのは、あの二人の和気藹々とした光景なのだけど。
「女子って、偽るの上手いよな」
「ですね」
彼女らの事情を知ってか知らずか、ネット越しの鍋島は短くそう答える。流し目に視線を交わしあい、俺は静かにその場から離れた。
昼休みになって、屋上で弁当を食べるため席を立つと、何故か鍋島まで俺のあとを着いてきた。教室を出てからそれに気付き、廊下で足を止め、俺は怪訝に振り返る。
「なんで着いてくんの」
「一緒にお昼を食べるような友達、もう今泉くんくらいしか居ないですから」
この状況で平気そうな笑みを見せる彼女は、もう俺の知る鍋島ではないように思えた。顔は同じなのに、誰か別の人物と対話しているような気分までする。俺自身、ただでさえ複雑な心境の中、ひしと着いてくる彼女をどう追い返そうかと頭を悩ませる。
ふと、教室から城川が出てきて、おずおずと俺たちのところへ歩み寄ってきた。
「あ、あの、由多加ちゃん」
鍋島が振り返る。彼女の顔からは、感情が失せていた。その反応にたじろぎながらも、城川は喉を鳴らして口を開く。
「えっとね、わたし、この前のこと、全然気にしてないから、だから」
「だから、一緒にご飯を食べましょう、ですか?」
「あ、うぅ、うん……」
弁当箱の紐を握ってうつむく城川は、母からの叱りを受ける意志薄弱な童女のように見えた。そんな彼女の目を覗き込み、丁寧な口調で、かつ突き放すように鍋島は問いかける。
「どうして私なんかより、平野さんと一緒に食べてあげようとしないんですか?」
その言葉に貫かれ、城川の唇が震える。瞼を開ききり、視線を教室の方へと泳がせ、うめきにすら聞こえるような返答をする。
「それは、由多加ちゃんと、その」
「私との関係を取り戻したいからですか? ねぇ、城川さん。今はそんなことをしている場合じゃないですよね。ほら、見てくださいよ」
鍋島の瞳が動き、教室内部を捉える。そこには、床の上で上下反転した弁当箱があり、撒き散らかされた米やおかずを、何の躊躇いもなく手で拾いあつめる依子の姿があった。
周りで昼食を食べる生徒たちは、一切彼女を手伝おうとせず、むしろ、初めから見物を目的としたように、それぞれが声を高くして笑いあっていた。
それ以上見る必要はないと切り捨て、俺は城川へと視線を戻す。彼女は、教室を見ようともしていなかった。そんな城川に、鍋島はきつく問い詰める。
「平野さん、あれじゃもう、お昼ご飯食べられませんよね。ねぇ、可哀想だと思いませんか。私とご飯を食べることなんかより、正常な良心を持ち合わせた人なら、ましてや友達なら、普通は、彼女とお昼を共にしようと考えますよね?」
城川は後退り、呼吸を乱したように喘いで、開いた目に涙を溜める。ふらつき、廊下の壁側へと後退していく。それでも鍋島は詰め寄り、酷薄な詰問を連ねる。
「私には何も言う資格はない、城川さん、あなた今そう思いましたよね。たしかに、私にはそんなもの、欠片もありませんね」
だんだん、これが自分へ向けられた言葉のような気がしてきて、俺は黙り込み、彼女の言葉を胸に沈める。
「じゃあ、城川さんはどうですか? あなた、いつまで被害者振っているつもりですか? 私はね、今のあなたと同じなんですよ。いじめが大嫌いで、見るのもの嫌なくせに、自分がいじめられるのが恐いから、絶対に助けない。いじめられた者にしか分からない恐怖心があるから、絶っ対に、助けない。私たちはね、その恐怖心を盾に自分を守っているんです」
廊下の壁に城川の背中がつき、徐々に降下していく。その様を見下ろしながら、鍋島は自嘲的な笑みを浮かべる。
「城川さんは、どうしてそれを自覚しようとしないんですか? どうにかなればいいや、誰かがなんとかしてくれる、本当はそう思ってるんですよね。最低ですよ。人でなしにも程があります。私たちみたいな人間こそ、平野さんの代わりにいじめられるべきなんです。ねえ城川さん、平野さんをかばって、代わりにいじめられてみてくださいよ。ほら、城川さんをかばって、代わりにいじめられた、昔の私にみたいに」
床にへたり込み、精魂が抜け果てたように見上げる城川の頬に、一筋の涙が伝った。
「昔の私みたいに、人をいじめから庇ったことを、“後悔”してみてくださいよ」
鍋島と屋上へ行き、貯水タンクの段差に並んで座り、弁当袋をひろげる。鍋島は卵焼きを口にし、嚥下してから息を吐く。おいしい、そう言って、ぎこちない笑みをする鍋島の顔は、ひどく青ざめていた。
「今泉くん、私、」
口元に手を当て、膝に置いた弁当箱がコンクリートに落下する。一度えずいたかと思うと、鍋島は段差から腰を離してひざまづき、地面に向けて一気に吐き出した。堰を切って絶え間なく流れ出すそれは、ほとんどが白みを帯びた透明の液体だった。
俺は段差に置いたペットボトルのお茶を取り、鍋島に手渡そうとするが、彼女はひたすら、地面に広がる吐瀉物を見つめ続けていた。ひっかかるような耳障りな呼吸をして、鍋島は泣きそうな目で笑う。
「私、頭おかしくなったかも」