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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
32/65

chapter31 リスカ、擦り切れた拳、奥歯

 時が止まったかのように思える数瞬の静寂ののち、すぐさま、この世が終わったような悲鳴と呼号が上がった。

 頬にぬめつく感触があり、左手で擦る。指に付着してきたのは真っ赤な液体。まばたきもせずにそれに見入る。どう見ても血だった。血液。誰の?

「見てないでだれか先生呼んでよっ!」

 背後で叫んだのが誰なのかは知らないが、俺は我に返り、まず自分の胸元へと視線を落とす。依子の頭があった。開ききった瞳で一点を見つめる依子。俺はこいつをかばうように抱いていた。ということは、待って、俺、もしかして刺された?

 気を失いそうになるのを何とかこらえ、依子を離し、慌てて自分の全身をまさぐる。全然、まったく、どこも痛くない。

「沙樹っ、沙樹っ……」

 先程と同じ声にびくりとして、振り返る。視界に飛び込んでくるのは、早川と吉岡の凄絶な光景だった。早川が膝から床に崩れ落ち、青ざめた顔色で失神していた。彼女の左の手首を吉岡がおおうように握り、指の間から止めどなく血が溢れ出す。さっと血の気が引き、目を逸らしたい気持ちをおさえる。

「なんで、沙樹、どうして、目開けてよ、ねえってばっ」

 早川の頭がうなだれ、力なく垂れ落ちた右手から、カッターナイフが滑り落ちる。鈍色の刃が鮮血を帯び、無機質な音を立てて静かに床へと転がる。

 吉岡は彼女を片手で支えるようにして、早川の左手首の出血を直接指でおさえ続けている。

 これは本来、流れ出てはいけないものだった。自分と誰かと誰かが、いくつもの失敗を積み重ね、間違えたままの道を歩み、嫉妬と未練と執着を繰り返し、ついに仕舞い込めなくなったものが、とうとう溢れ出した。

 教室中を切迫した足音が行き交い、次から次へと人が殺到する。依子が床に膝をつき、四つん這いに片手を伸ばした。

「早川さん、あたし」

「触るなぁっ!」

 怒号に反応し、依子の手が震える。瞳が揺れ、唇がだらしなく開く。吉岡が憎悪を込め、依子を睥睨した。

「沙樹に、触るなっ……!」

 吉岡の様相に俺は絶句し、歯噛みをして視線を落とす。教師が荒々しく駆けつけ、早川と吉岡を抱くようにして立ち上がらせる。視界から三人の足が消えてからも、俺は尚へたり込み、誰かから肩を叩かれるまで顔を下げ続けた。



 暗み始めた教室。

 五頭が教卓に立ち、何事かをクラスメイト全員に向けて説いていた。その斜め後ろには宮下がおり、黒板のふちに背中を預けて腕を組んで、明後日の方を流し見ていた。

 ふと、五頭が怒声を発する。俺の耳には、その内容はほとんど届いてこなかった。クラスメイトは誰一人として反応せず、それぞれの席に着いたまま机や床を見つめ続けている。依子も同じようにしていた。城川がうずくまってすすり泣き、村瀬は静かに眼鏡を外し、机に置いた。

 早川と吉岡の姿がなく、二人分の空いた席からは、明白とした事実だけが発散されいた。

 首をもたげ、俺は横目に後ろの席を見る。

 鍋島が居れば、この状況は変わっていただろうか。俺だけでは止められないことも、俺自身の失敗も、彼女が居れば埋め合わせてくれたのだろうか。

 無理だと思った。今の鍋島には何も出来ない。うろたえることに終始し、唇を噛んで黙り込む。傷つくのを恐れて、村瀬や城川を拒絶した鍋島には、きっと何も出来ない。俺はどこまでも否定的に、そう決めつける。

 それもそのはずだ。止められなかった俺は鍋島と同じようなものなのだ。しかも、俺は恐らく、これからそれ以上のことをする。



 コンビニに自転車を止め、ミニッツメイドを購入して依子に手渡す。

 真っ暗な街道を依子と二人で歩くと、すぐ近くでキジバトが鳴いた。見上げると、外灯に照らされ、エンジュの樹の枝に止まる灰褐色の鳥を発見した。よく鳴くくせに、滅多にお目にかかれない鳥だなと思う。

 道を逸れ、薄明かりに包まれた公園に足を踏み入れる。依子は一度足を止めるが、黙って俺についてきた。

 靴の裏に感じる砂の感触に懐かしさを覚えつつ、俺は木製のくたびれたベンチに腰掛けた。涼しい風が吹き、少しずつ汗が引いていく。

 依子と目が合う。ぴたりと口を閉じ、彼女はベンチのそばで突っ立っていた。

「なにしてんの。早く座れば」

 依子は一瞬不快そうな顔を見せたが、結局何も言わず、俺の隣に座った。ミニッツメイドを三分の二ぐらいまで飲み、キャップを締めて膝の上に置く。それから依子は、じっと前方へと視線を向け続けていた。関係ないけど、依子のスカートのポケットからまりもっこりストラップが顔を出していて、少し滑稽だった。

 しばらくの沈黙のあと、なるべく声を柔らかくして俺は訊く。

「五頭の話が終わったあと、お前、一番最初に教室出てったよな。やっぱ、あれ以上あそこに居んのって、超気まずいよな」

「でもそのあと、すぐに純が追いかけてきて、つかまった」

「だって、俺もたまには依子と一緒に帰りたいし」

 依子は黙し、少しずつ視線を足元へと落としていく。ときどき吹いてくる風が涼しいが、あれからずっと何も飲んでないし、喉が渇いた。

 俺は依子の前に手を出す。

「飲まして」

 依子は膝の上に置いたミニッツメイドを手に取り、俺の手のひらに乗せる。まだ買ったばかりなので、ひんやりとしている。開けたキャップを適当に地面に投げ捨て、ペットボトルを傾ける。半分まで減ったところで膝元に下げ、俺は息を吐いた。

「うめえな、ミニッツメイド」

「トロピカーナ」

 依子の言っている意味が分からなかったが、ペットボトルを改めて見て気づく。あ、ほんとだ。これトロピカーナじゃん。マジでどうでもいい。

 しばらく、俺たちはキジバトの鳴き声に耳を傾けた。人差し指と親指でペットボトルをつまみ、ぶらぶらと揺らす。煙草を一本吸って、吸い殻はペットボトルの中に入れた。

「帰らないの」

 癪にさわるような口調で依子が言う。俺は少しいらついてしまうが、しかし出来るだけ優しく答える。

「まだ、ちょっと聞きたいことあって」

 依子が何も言わないので、俺は続ける。

「お前、俺のこと好きなの?」

 依子が何も言わないので、当然場は無音に包まれる。キジバトの鳴き声も、今は聞こえてこなかった。

 ふいに、依子がこちらを見る。見てきたはいいものの、やはり何も答えてくれなかった。腹立つくらいの無表情で。

「なんか言えよ」

 ペットボトルを持ち上げ、依子の頭の上でひっくり返す。灰色がかったオレンジの液体が依子の髪に降りかかる。額から頬にかけて濁ったものが流れ、髪から伝った液体も合わせて、彼女の制服のブラウスを汚す。ペットボトルの口から煙草の吸い殻がこぼれ、一瞬だけ頭に乗り、滑り落ちてベンチの板にへばりつく。

 空になったペットボトルを遠くへ投げ、俺は依子を見る。

 依子は、それでも表情を変えなかった。

「べつに好きじゃない」

「だろうな」

「むしろ嫌い」

「俺も嫌い」

 それから、見つめあったままの無言。言い訳すらせず、超然とするばかりの依子にまた苛つく。何を考えていのるか分からない面にも腹が立つ。

 はっきり言って、高校でこいつと再会して以来、俺はこの感情のない目が嫌いだった。悲劇を終え、何もかもを失い、感情すらなくしてしまいました、みたいな、無慈悲で悲観的な目が大嫌いだった。

「ねえ、なんか言うことないわけ? なんでさっきから俺の質問に答えるばっかなの」

 依子はそれでも、何も答えなかった。俺も一応彼女の発言を待ってみたが、十秒で限界だった。

 手を伸ばし、依子の左頬をねじるように摘む。依子が目を細くし、かすかに眉根を寄せて睨んでくる。

「この口は何のためについてんだ? おい。四六時中喋らねえし答えねえ。珍しく口開いたと思ったら、自分の都合のいいことしか言わねえだろ。自分の言いたいことしか言わねえだろうが」

 さらに頬をつねり上げると、指がずれた分だけ、その跡がほんのりと赤く染まっていた。依子は、痛みに耐えるように目をつむる。

「お前何様だよ。どういう脳みそしてたら、あいつの前で二回もあんなこと出来んだよ。行為自体に意味はない? ありまくりだ馬鹿。意味がないのは、てめえの頭ん中だけの話だろうが」

「純が嫌いだって言ったのに、早川さんがいつまでもしつこいから、あたしは、純のために」

「俺のため。あー、あれ、俺のためだったのね。じゃあ聞くけどさ、お前が誰かのために考えて動いたり、発言したことが、今の今まで一度でもあったのかよ!」

 依子が俺の腕を掴む。爪が徐々に食い込んでくるが、俺は構わず続けた。

「鍋島のことだって、お前が死なせたっていう昔の友達に重ねて、好き勝手にやってきただけじゃねえか。あれで罪滅ぼしのつもりかよ。笑わせんな。鍋島はなんだ、てめえの罪悪感から逃れるための道具か。結局お前がやってんのは、一方通行で自分本位な妄想とんちき騒ぎじゃねえか。違うかっ!」

 依子が少しずつ目を開いていく。俺が依子に対して、ここまで不満や怒りを抱えていたことに驚きだった。自分の中でもはっきりとしなかった感情の正体は、不思議なことに、俺自身の口から次々と吐き出されていく。

 さらに何かを怒鳴り散らそうとした所、不意に依子が右手を振りかざし、俺の頬を叩いた。指先が耳に当たったのか、頬自体の痛みより、鼓膜がキンと震えて全身に不快感がただよう。俺はたまらずベンチから立ち上がり、耳ごと頬をおさえて依子から距離を取る。

「いってえ」

 見ると、依子も無意識に手が出たらしいのか、ばつの悪そうな顔をしていた。だからといって俺が冷静になれるわけではなく、むしろ、そういった依子らしくない表情にも苛々してきて、視線で殺せるぐらいに睨みを利かせて依子へと飛ばした。半身程度にベンチに腰掛けていた依子が、それとなく俺から顔を逸らす。

 ふと俺は、依子のスカートに目がいく。スカートのポケットから、携帯から繋がるベルーガのまりもっこりストラップが露出している。なんだかもう、俺は訳が分からなくなっていた。

「それ、返せよ」

 何言ってんだろ、俺。依子も似たような心境なのか、疑問を浮かべて見返してくる。

「そのストラップ、返せよ。また周りから勘違いされんだろ。俺があげたやつ、いつまでも大事そうにつけてるみたいに思われて、俺も気分悪いんだけど」

 彼女は唇を噛み、まりもっこりをポケットの中に隠す。

「やだ」

「返せっつってんだろ」

 依子の手首を掴む。無理矢理奪い取ろうとすると、依子が敵意を込めた目をして、掴まれていない自由な方の手をぐっと握った。殴られるんだろうな、ということは分かったけど、当然避ける暇はなく、やっぱり殴られた。わりとマジっぽく。舌が切れたらしくて、血の味が口内を満たした。

 俺は依子の手首を掴んだまま後退り、依子は立ち上がる力を利用して地面を蹴る。今度は、額を思いっきり俺の鼻めがけてぶちかましてきた。めち、みたいな生々しい音が頭の中で響いて、結構な量の鼻血が流れ落ちた。

 俺は尻もちをつき、依子の手首を放す。今まで経験したことのない量の鼻血で、ありえないくらい出てきて、逆に笑いそうになってしまったが、もちろんそんな隙だって与えられず、依子から肩を押され、俺は地面にひれ伏した。

 すぐさま、腹を圧迫されるような感覚がする。空を見上げて、俺はやっと状況を把握する。依子が馬乗り状態で、俺の胸ぐらを掴んでいた。

 依子ってこんな動けるんだ、と何故かそんな冷静な思考がよぎる。

 依子が無言で俺を殴り始めた。容赦なく、しかも顔面しか狙ってこない。これでこいつが無表情だったら、俺はこのまま殺されるのだろうと覚悟を決めるが、依子の顔には様々な感情があった。

 失望とか、怒りとか、悔しさとか、色んなものが爆発していた。

 半分無自覚に、倒れたままの俺もやり返していた。一発だけパーで叩き返すが、それだけで依子の右の鼻穴から血が垂れ出てきて、彼女の頭も少しふらつく。痛いくらい体力の差を感じた。小学生のときとはもう違うんだな、ということが分かって、いや、最初から分かっていたものを身体で理解できて、虚しくなって、俺はもう、黙って殴られることに徹した。



 奥歯が一本、地面に転がっていた。俺は公園の砂に頭をつけたまま、それを見つめていた。

 見上げると、依子が泣きそうな顔をしていた。でも、ぎりぎり泣いていなかった。鼻血を拭った跡があり、全体的に痛々しい顔だった。たぶん俺ほどではないんだろうけど。

 俺は悪あがきに唾を吐く。血の混じったそれは依子の頬に付着し、時間をかけて頬を伝っていって、ただいまをするように、俺の制服の上に戻ってきた。

「どけよ」

 吐き捨てるように言うと、依子はゆっくりと立ち上がる。その両手の拳は赤く擦り切れており、俺も相当殴られたんだろうなと思った。

 顔が曲がっているのではないかと思うほどの痛みに耐え、上半身を起こす。息をするたびに口の中で刺さるような激痛が走り、頭がきしんで熱を帯びる。

「お前、やっぱ一回いじめられた方がいいよ」

 吉岡美野里と同じ言葉をぶつける。

 依子は俺を見下し、息を荒げて言い捨てる。

「しね」

「てめえが死ね」

 睨み合い、やがて、依子が背中を見せて歩き出した。そのとき、空気を読み終えたキジバトが再び鳴き声を上げ始める。

 結局、まりもっこりは返してもらえなかった。

 俺は胸ポケットに手を入れ、煙草の箱を取り出す。ふたを開けると、案の定、煙草は全て折れていた。しばらくそれを見つめて、まぁいいや、とそのへんに箱を放り捨てる。

 早く帰って鏡見たい。

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