chapter30 鮮血
教室を出ようとした生徒たちが足を止める。教室内の異変に気づき、クラスメイトの視線が依子と村瀬に集まる。
依子が一歩詰め寄り、村瀬は一歩退いた。
「おい今泉、こいつどうにかしろよっ。なんか恐えんだけど!」
村瀬に名前を呼ばれて、今度は俺に注目が集まってくる。慣れない多数の視線に気持ち悪さを覚えながらも、一度早川と顔を見合わせ、やむなく依子に近寄る。肩を叩くと、依子が俺を見た。たしかに目恐いかも。
「なにがあった?」
依子が、村瀬の隣にいた女子を流し見つつ言う。
「あの子が、どうして鍋島さんは今日休んだの、って言ったんだけど、そしたら村瀬さんが、昨日の鍋島さんのこと、ばかにするみたいにあの子に話してたから」
こいつがキレるのって、なんだかんだで鍋島のことばかりだ。中途半端な説明だけど、詳細を省いて依子の背中を押す。
「分かった。気持ちは分かるけど落ち着けよ。なにも、こんな所でする話じゃないんだしさ」
「あたしは落ち着いてるし、ここじゃなきゃだめな話」
「ここじゃなきゃ駄目って……」
辺りを見回す。HR終了直後のため、二組のほぼ全ての生徒が、教室、または廊下側に残っている。つまり依子の言いたいことってのは、クラス全員に向けてってこと?
「いや、でも唐突過ぎるよ。もう帰れお前。帰って頭冷やせよ。図書室の仕事は、宮下先生に言ってやらせるから」
「やだ」
依子に胸を押され、俺は半歩さがる。
すると、村瀬の鞄の端を吉岡がひいた。吉岡は蔑んだように俺たちを見て言う。
「もうこんな奴ら放っといて帰ろうよ、彩音。ほら沙樹も。一緒に帰ろ」
吉岡が振り返る。早川は机に着いたまま視線だけを上げ、弾かれるように立ち上がった。
「俺らも帰るぞ」
依子の肩を掴んで村瀬たちから遠ざける。早川が依子に謝るのは、もう今日じゃなくていいだろう。ふと思い出し、城川にも声をかける。
「城川も一緒に帰る? ほら、駅前の本屋でも寄ってかね?」
二人とも本好きそうだし。適当に誘いをかけると、城川は少し怯むが、鞄を持って席を立つ。空気も少しずつ和らぎ始めるが、俺の手は依子によって叩き返される。
おい依子、ひっくり返ったみたいな恥ずかしい声で俺は呼びかけたが、依子は村瀬たちへと歩み寄る。村瀬が眉をひそめた。
「まだ何か用?」
「これからあたしといっしょに、鍋島さんの家にいって」
「謝りにいけってか? ざけんな。こっちは何も悪いことしてねえっつーの」
俺も依子たちのもとへと近づくが、なんと口を挟んでいいのか分からない。どうでもいいけど、今俺の手汗、すごいことになってる。
「じゃあどうして、今日鍋島さんは休んだの。あなたに、ひどいことされたからじゃないの。原村先輩のこと、鍋島さんから無理にひき離そうとしてるんでしょ」
「だったらなんだよっ!」
ついに声を荒げ、教室中の空気が一気に慄然とする。村瀬は口ごもり、何かを言いかけるが、依子が続ける。
「それに、鍋島さんはもっと、村瀬さんに遠慮して言えないことがある。村瀬さん、その鞄かして」
意味が分からない、という表情で村瀬が固まっていると、依子がぱっと村瀬の鞄を取り上げた。流れるような動作で、誰もが一瞬反応を遅らせる。最初に動いたのは、すぐ後ろにいた俺だった。
「なにするつもりだお前。もうやめろって」
「うるさい」
依子は俺を引きはがし、村瀬の鞄を開く。何故か村瀬は、その行為を憮然として見届けるだけだった。
彼女が鞄から出したのは、一着の体操服だった。クルーネックの首もとが赤色で、一年の女子用のものである。依子はそれを近くの机に乗せた。ハーフパンツの腰部分には名前が書かれており、そこには依子の名前があった。
鞄のファスナーを閉じ、村瀬に返す。辺りがしんと静まりかえると、ほどなく依子が口を開いた。
「あなたがたまに人の物を盗んでいること、たぶん、鍋島さんは気づいてる。盗んだものを捨てているのか、燃やしているのか知らないけれど、そのせいで、鍋島さんは余計、あなたに不信感をいだいている」
村瀬はそれを聞くと、口元に笑みを浮かべた。
「人の物っていうか、平野の物だけだけどな。由多加が気づいてるんだろうなってことは、なんとなく分かってたけど、まぁ、平野の物を盗んでるのって、あたしだけじゃないし」
俺は息を呑み、周りに視線を這わせた。いじめに荷担しているであろう女子たちが、それぞれ後ろめたそうに顔を下げている。村瀬の背後で、吉岡がひそかに唇を噛んでいるのが分かった。
「ていうか、そっちこそいつになったら気づくの? 平野さ、お前、女子全員から嫌われてるよ? いじめられてるくせに、馬鹿みてえにぼけーっとしてるの見るとさ、マジ笑えてくるんですけど」
「村瀬さんこそ、ばかじゃないの。そんなこと、言われなくても誰だって知ってるし、あたしはそんなの、どうでもいい」
挑発されるが、意外にも村瀬は表情を変えない。むしろ、彼女はさらに笑みを浮かべて言った。
「あたし、別にいじめ自体には興味ないんだけどさ、平野とか由多加みたいなの見てると、イラついてくるんだよね。異性とのいざこざで、わーっ、てなってる感じ。馬鹿みたい。ピエロじゃん。結局最後はヤるかヤらないかなんだろ? 恋愛相談とかってたまにあるけど、どうせ友達のことなんか見えてないんだろ? 男しか見えてねえんだろ。そういう話されるの、いい加減うんざりなんだよ」
村瀬のヒステリックな声がさらに続く。
「ヤるならヤるで、どっかで隠れてやれよ。友達との間で、んなくだらねえ話持ち込んでくんの、マジ迷惑なんだよ。気持ちわりい。平野もそろそろ今泉とやりたいんだろ? だったらきっぱりそう言ってよ。だからいじめられるんだよ。曖昧にするから沙樹が傷つくんだよ。ほら言えよ。あたしは今泉とセックスしたいですってさぁ!」
教室は水をうったように静まり返り、俺も生唾を呑んで押し黙った。いくらなんでもぶっちゃけ過ぎだ。依子は何も言わず、呼吸を荒く繰り返す村瀬を見つめる。
環境音だけが耳に届く。誰かが鞄を持ち直す音、椅子や机を鳴らす音、果てには、遠くからのブラスバンド部の演奏音まで聞こえてくる。
早川の挙動に気づく。今まで吉岡の斜め後ろで、ずっと下を向いていた彼女だったが、鞄を肩にかけなおし、弱々しい目つきで辺りを見回していた。覚悟を決めたように、早川は唇を結んで一歩前に出る。
「ねぇ、みんな」
生徒たちもそれに気づき、早川へと視線を集める。
「平野のこといじめるの、もう止めない? 最初は、平野が私をいじめるからって、みんなに味方してもらってたけど、あんなの、全部私たちのでたらめだったって、みんなもすぐに気づいてたんでしょ?」
誰となく無差別に視線を絡め合い、お互いの顔色を確認しあっている。
「私の上履きがズタズタにされたのだって、私の教科書に落書きされたのだって、どれも平野がやったんじゃない。私たちの自作自演。そんなの、みんな知ってたくせに、馬鹿だよこんなの。いくらなんでも平野が可哀想よ」
誰かが鼻をすすった。そちらを見ると、城川心結だった。彼女も一度いじめに協力されられていた。それを思い返して心を痛めているようだった。
吉岡はしきりに早川から視線を逸らしていた。早川の台詞の中に吉岡の名前が出てこないのは、早川が少しでも彼女をかばおうとしているからだろう。
「平野、一番悪いのは私だから、まずは私に謝らせて」
依子の前に立ち、早川は頭を下げる。目に溜まった涙がこぼれ落ち、依子は黙ってそれを見下ろす。
「ごめんなさい。許してもらえるか分からないけれど、もう絶対、こんなことしないから」
泣き顔を上げ、早川はクラスメイト一人一人を見回していた。しかし俺はここで、ある不穏な気配を感じた。
「ねえ、みんな、どうして黙ってるの……?」
一部の女子の表情に、何か煮えきらない色がある。言葉にしないそれは伝藩し、白けたような空気だけが全員に共通しはじめていた。
その正体がなんなのか分からず、ふらつきかける足元を持ち直し、俺は声をあげた。
「おい、どういうことだよ。いじめを始めた本人が正直に告白して、ちゃんと謝ってんだろ。そそのかされて早川に味方したやつらにだって、いじめの責任があるはずだ。お前らもちゃんと謝るべきだろうが」
俺の言葉もクラスメイトたちには届かない。訳が分からなくなって、俺はその場に立ち惚ける。
そのとき、依子が静かに呼びかけた。
「早川さん」
何故か早川は、依子の顔を見ようとしなかった。
「きのうの、早川さんと純との電話の内容、純から教えてもらった。早川さんがあたしにあやまってくれることも、わるいけど、全部しってた」
でも、話がちがうよね。丁寧に問う依子の横顔を、俺は呆然と見つめる。彼女は冷えきった瞳をたたえていた。
依子は自分の机に近づき、引き出しからある物を取り出す。使い古されたメモ帳だった。めくっていくと、依子のシャーペンの字の上に、マジックで書いたような落書きが殴り書きされていた。
「これ、今日の朝、あたしの机に入ってた。字体を崩して書いたみたいだけど、文字のくせだけは隠せない。あたし、この字に見覚えがある」
次に依子が向かったのは、早川の机だった。俺は早川を流し見る。彼女は下を向いたまま肩を震わせ、おぼつかない指先で学生鞄の紐を掴んでいた。
依子は机の足を掴み、乱暴にひっくり返す。床と机がぶつかる激しい音が響いた。折りたたみ鏡や筆記用具、ノートが床に散らばり、そのうちの一冊を手に取る。それから依子は、そのノートと先ほどのメモ帳を放った。ノートとメモ帳は空中で音を立てて開き、早川の足下に落下する。
近くにいた吉岡と村瀬もそれに注目した。
「メモ帳の落書きと、早川さんのノートの字、あたしには同じに見える」
ひそひそとした声があちこちから漏れる。
「わ、私じゃない」
「早川さんはまだ、あたしのことが憎いんだよね。純にあんな約束までしておいて、今度は隠れて、一人でいじめを続けるつもりなんだね」
「これは、私じゃ……」
早川はだんだん声を小さくしていく。
「もういいよ。他の誰かも、早川さんがあたしの机にこのメモ帳を入れているところ、見てたんでしょ。だからみんな、早川さんが謝ってるのに、しらけてるんだよ」
「ちょっといいかなあ、平野さん」
吉岡が黒板に寄りかかり、声を低くして言った。依子は怪訝に吉岡を見返す。
「いじめられてたからって、あんまり調子に乗るのもよくないなぁ、と思って。そんな落書きの一つくらい、目をつむってあげたらどうかな?」
その問いかけに依子は答えない。吉岡は呆れたように息を吐く。
「沙樹ね、まだ今泉のこと、諦められてないみたいなの。昨日の今泉との電話のことだって、沙樹、超嬉しそうに話してくれたんだよ。今泉ってお人好しな所あるし、ちゃんと相談聞いてもらえて、沙樹がそういう気持ちになるのも無理はないよね。好きだったらなおさらだよ。高ぶってたみたいだし、沙樹もちょっと魔が差しただけじゃん。だいたいさ、平野さんって、ノートとかメモ帳に落書きされたくらいじゃ、大して気にも止めないでしょう?」
「それとこれとは関係ねぇだろうが!」そう叫ぶのは、廊下側から荒っぽく入ってきた曽根本だった。つーかいたのかお前。「いじめを止めようって言い出すやつが、また同じこと繰り返してたら全く意味がねえ。だから皆こんな空気になってんだよっ」
みんな、と曽根本は言うが、少しだけ雰囲気が変わりつつある。クラスの女子が段々、今の吉岡の意見に賛同し、早川に同情するような様子が見受けられるのだ。
「いいじゃん。沙樹だって真面目に謝ったんだし。平野さんも、沙樹の机ひっくり返したり、酷いことだってたくさん言ったんだから、もうおあいこでしょ」
吉岡の口調は、まるで二組の女子の総意であるかのように聞こえた。実際、みんなの気持ちは傾き始めており、どこからともなく意見が飛んでくる。
「そもそも、原因は平野じゃん。わざと早川が傷つくようなことしたんだし。あれマジ引いた」
誰かが語感を荒げて言う。
「だからっていじめが許されると思ってんのかよ。引いたのは俺らの方だ。陰湿なんだよ。これだから女子は」
誰かが責任転嫁を口にする。
「いじめる方もそうだけど、男子だってずっと見て見ぬ振りだったよね。あんたらには何も言う資格ないと思うんですけどー」
「黙っとけよブス。てめえが平野の靴箱に雀の死骸入れてんの、俺見てんだからな」「だからそれ見てるだけじゃん! 今まで何も注意出来なかったくせして、こんなときだけ調子こいてんじゃねーよデブ!」「落ち着けこうよみんな。というか、結局一番悪いのはいじめる方なわけだからさ」「はぁ、なにそれ? 見てるだけなのもいじめだって、小学校で習いませんでしたぁ?」
誰かが身も蓋もない中傷を発した。お互いを責めあい、罪をなすりつけあう。クラス中が騒然として、女子の一人が泣きだし、ある男子が椅子を蹴り倒した。
「そういやぼくも、平野さんの弁当箱がひっくり返されてるの見たなあ」「あれって翠のせいでしょ」「はぁ? なんであたし?」
どこかで言い合いが始まる。
「もう医者に診てもらえよお前。いいか、診てもらうのは頭と顔だ」「え、顔関係なくない?」
我関せずとふざけ合う奴もいる。
「私カンケーないし塾あるんで帰っていいすかー」「あたしも部活ー」「逃げんのかよ」「は? つかお前だれ」「おーどうしたの二組ー」
騒ぎを聞きつけた隣のクラスの生徒が顔を出す。
「離せバーカ」「みんな当事者だから」「あんた、一昨日平野の財布から金ぱくったべ」「信じらんない! そのことは秘密って約束したじゃん!」
どこかで悲痛な声があがる。
「女子全員が謝れば済む話だろ」「お前、茜まで加害者だって言いたいの?」「だって事実がそうなんだから」「いいからもうどけっ」
男子の一人が床に倒れ込む。
「てめーも謝ってこい」「いやウチは加わってないし」「あれもいじめに入んの?」「最低。死ね」「あー、手出すとかやっばー」「今のはこいつが勝手に」「言い訳すんな」「これもう停学もんだよ」
はっとして顔を上げる。早川が自分の机のそばで座り込んでいて、依子がそれを見下ろしていた。騒ぎの中、二人の会話は聞き取れず、俺は焦りつつもそこへ歩み寄る。
「どうしてなにも言わないの。全部あなたのせいだよ」
俺は依子の腕を掴み、早川から遠ざける。それから依子を睨み据える。
「お前、頭おかしいんじゃねえのか。謝るときの早川の顔見たよな。こいつ、もう反省してただろ。もう十分だ」
「純も、吉岡さんと同じこというの」
「これ以上言い合う必要はねえっつってんの」
腕を掴む手に力が入り、依子が顔を歪める。そのとき、座り込んだままの早川が顔を下げたまま、何かを呟いた。
「なにか言った」依子が訊くと、早川が涙をためた目を見せる。
「もう、今泉に近づかないで」
ふっ、と鼻だけで嘲笑するような音が聞こえる。見ると、依子の口元が少し笑っていた。ぞっとして、俺は掴んだ腕を離す。
「純はもう、早川さんのこと、嫌いっていったよ。なのに、あなたがそうやっていつまでも執着するから、こんなことになった」
何をするのかと身構えていると、不意に、依子が俺の腕を抱いた。怪訝に見下ろすと、依子もこちらを見つめ返してくる。
「村瀬さんが言ったように、もう一度、はっきりさせればいいんだよね」
「やめてよっ、お願いだからっ……」
すぐ周辺に居た生徒たちが気づき、俺たちを注視する。そこに居た、泣き出しそうな顔をする城川と目を合わせると、依子がさらに密着してきた。視線を戻す。依子の顔がすぐそばにあり、次にはもう、俺たちの唇は重なっていた。頭でなにか浮かぶが、すぐに消えてなくなる。
周囲の人間が言葉を失い、不穏に気づいた他のクラスメイトたちも、やがてこの光景に唖然とする。
俺はなにかを叫び、依子を突き飛ばしていた。思考が蘇り、頭の中に残るのは、判然としない出所不明の怒りだけだった。無意識のうちに、尻もちをつく依子の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしかけると、視界の端で早川が立ち上がった。
右手を止め、戦慄してそれを見上げる。彼女の右手に握られていたのは、十センチ近く刃を露出させたカッターナイフだった。窓からの斜光を受け、刃が光を反射する。
付近にいた女子数人が悲鳴を上げる。ほぼ全員の生徒が危険を察し、後退って距離を取るなか、吉岡だけは駆け寄ろうとする。しかし、早川はすでに依子の前に佇んでいた。見開いた瞳で依子を見下ろす。
早川が動いた。俺はとっさに、二人の間に身体を入れこもうとする。もう一度吉岡が叫び、手を伸ばした。
「沙樹!」
ほんの一秒あと、鮮血が飛んだ。