chapter29 後悔/苛立ち
「――ありがとね。今泉に話してよかった」
電話越しの声を聞きながら、俺は徐々に、早川の言葉に現実味を抱いていく。なんとかなるかも、と漠然とした希望を持つ。
「別にいいけどさ、あんま無理するなよ」
「うん」
「じゃ、また明日学校で」
「うん、ばいばい」
通話を終える。全身にどっと疲れを感じ、本日最後の一服を肺にしみこませる。俺らの騒動なんて所詮、餓鬼の喧嘩みたいなものだし、やってみれば案外どうにかなるものだ。そう考えると、気が楽になってきた。
窓を引き、網戸をして、湿気の立ちこめた部屋の空気を開放する。風が涼しい夜だったので、そのままベッドに転がって眠りに落ちた。
翌日の金曜日。
少し早めに登校し、生徒玄関を抜ける。廊下の壁に、上位三十名の成績順位表が掲出されていた。ささやかながらも人だかりが出来ている。
シャボン玉ほどの儚い願望を抱きつつ、今泉純一の名前を探してみるが、突如、偶然となりに立っていた曽根本に睨めつけられ、「お前の名前なんか載ってねーよばーか」と肩を小突かれる。やり返したかったが、殴られた部分がゾワゾワしてきたので慌ててさする。朝からすげえ胸くそ悪い。
「鍋島と平野、やっぱ頭いいよな。まさに高嶺の花みたいな」
曽根本が順位表をさして言う。こいつからまともに話しかけられたことなど、多分これが初めてなので、俺は若干動揺しつつも貼り紙に目をやる。
平野依子、一学年二百三十八人中、八位。思ったより微妙。いや、でも結構すごいのかな。
鍋島の名前はどこだろう。徐々に視線を上げていく。上位三名は、ちょっと可哀想なことに、名前を拡大して印字されている。鍋島は、まさかの一位だった。あ、そういう人だったのね。今まで生意気な口利いてすみませんでした。
適当に見回していく。十一位に吉岡美野里。こいつは中学の頃から成績良好。十八位、早川沙樹。右に同じ。で、二十三位は城川心結。あぁもう、マジかよ、お前まで。
「あの、おはよ、えっと、あのう、おはよ」
声をかけられて俺は振り向く。誰もいない。と思ったら、城川が軽くこちらを見上げていた。まじまじと城川の顔を見返す。頭の骨格、小さそう。なのにこの高成績。
「うん、おはよ」
気にしないようにして順位表に戻る。二十八位、曽根本。いやいやいや、流石に嘘だろこれは。ふと、曽根本の顔面の異変に気付く。自慢げに長ったらしい前髪をかき上げていて、それで、言い表しにくいけど、とにかくむかつく顔してた。死ね。
二年の方を見ると、三位の欄に原村昭文の名前があった。いい加減、俺の中で何かがハジけてしまいそうだった。
「あの、今泉くん。わたし、チビだから、は、貼り紙見えなくて」
「あぁ、ごめん。お前二十三位だよ」
人混みにうろたえる城川にそう教えてあげて、教室へと向かう。がむしゃらに足を動かしながら思う。
どうして人は無意味に順位や優劣をつけたがるのだろう。何故、数字やデータごときに踊らされなければいけないのだろう。この当たり前のように行われる残酷かつ無神経なシステムに腹が立つ。
一等賞とり続けたら偉いのかよ。一位キープしてたら王様にでもなれんのかよ。お前ら全員、一生教材とお話ししてろ!
教室に入ろうとして、扉付近にいた村瀬とぶつかりかける。おーびっくりした、と村瀬がおどける。
「あ、そういや今泉。政経のテスト、さっき宮下せんせーに聞いたんだけど、うちのクラスで赤点なの、あたしと今泉だけらしいじゃん。馬鹿同士、これから仲良くやろーぜっ」
「うるせえ!」
一喝して自分の席へと急ぐ。
なんだよヤニ切れ? と後ろからぼやきが聞こえたが、俺は頑なにシカトを決め込んだ。
HR開始まであと十分。机にうなだれて教室の前方を見渡す。
吉岡の席で、女子数名が固まって騒いでいる。さっきの成績順位表のおかげで、ちやほやされているようだった。村瀬がペットみたいに、吉岡の背中に覆い被さるように抱きついている。モテモテである。
女子の中に、早川の横顔を見つける。塗り固めたような笑み。昨日の図書室や電話でのやりとりからは、想像も出来ない表情を浮かべていた。
やがて、教室に依子が入ってくる。女子一団はそれを盗み見るようにして、声をひそめてせせら笑う。相変わらず、見ているだけで胃が痛くなる光景だ。それなのに依子は、まるで自分が笑われているだなんて気づきもしないようだ。
席に着いてさっそく本を開いている。俺は依子の足元を見た。つい昨日新調したばかりのような、新品同然の上履き。実際そうなのかもしれない。しかし、あれは一体、何足目の上履きだ?
――お金ないから。
昨日の依子の言葉を思い出すたびに、頭痛がしてくる。
HR開始まであと五分を切ったところで、後ろの席を振り返る。今日はまだ、鍋島が登校してきていない。
昼休みになり、恐る恐る屋上へ上がった。
非常扉を開けると、生ぬるい風が前髪を撫でる。初夏の日射に目を眩ませながらも、俺はコンクリートの先を見据えた。ただでさえ広く感じるそこは、昨日と比べても、さらに広大に見える。分かりきっていたことだが、原村は不在だった。
胸騒ぎと違和感を抱きつつ、煙草を一本だけ吸って屋上を出る。
足早に図書室へ向かう。図書室のガラス扉には、夏休みに向けた図書だよりが貼られており、開けると、受付の依子のもとに女子が三人寄り集まっていた。いぶかしんで近づくと、彼女らが好奇な視線を向けてくる。
「あー、噂をすれば。ねぇ今泉、昨日のデート楽しかった?」
女子の一人が尋ねてくる。唐突過ぎてなんのことだか分からない。依子は黙り込んでるし。返答しかねていると、また別の女子が重ねて言う。
「昨日、夜遅くまで二人で遊んでたって聞いたよ。結構話題になってるんだけど。ねえねえ、恥ずかしがらないで教えてよ」
昨日の定食屋での光景を思い返す。ガラス越しに、からかうような笑みを見せてきた添野。嫌な予感がしてたけど、やっぱあいつが言いふらしたのか。くそ、どうすりゃいいんだよこれ、面倒くせえ。
「いや、昨日のはデートとか、そんなんじゃなくて」
「っていうか一時期、平野と今泉が付き合ってるって話あったよね」
「そうそう、あれ結局うやむやになったけど、これ、もう確定っぽくない?」
こちらの弁明は、女子三人の勢いにあっさり遮られる。俺は、受付内に入れもせずに固まった。
「でも、やっぱいとこ同士って異常じゃない? 法律的にアウトでしょ」「いやセーフだから。ギリだけど」「ほんと? つか、たとえセーフだとしても、ちょっと引くよね」「でもさ、うちのクラス、他に親戚とくっついてる子いるって話じゃん。ただの噂かもだけど」
耳が痛い。イライラしながらうなじを掻いて、いまだ受付室内に入るに入れず、俺はカウンターに寄りかかった。
「純、この子たち、うるさい」
依子が不機嫌そうに俺を見つめる。依子の声量では女子三人には到底届かず、真っ黄色な金切り声はエンドレスする。
「あー思い出した! あれでしょ、いとこでカテキョっていうあれ」「ていうかもうさぁ、知ってる人ぶっちゃけてくんない? 誰なの、その、既にいとこと付き合ってるって子」「だっから、いつも言ってんじゃん。絶対、奈実だって。最近付き合い悪いってか、なんかこう、色気付いてる感じで」「わかる。色気ってか、ケバいってか、もうあれ高校生ってレベルじゃねーよ。いい加減誰か指摘してあげなって」「奈実とかまんまじゃん。鍋島は?」「ないない。由多加ちゃんって、超真面目そうだし」「だからぁ、ああいう真面目そうなのに限って――」
「ねえ」
依子が若干ながら声を張る。三人の顔が依子へと向く。
「ここ、図書室だから、しずかにして」
女子たちは顔を見合わせてくすりと笑い、内一人が口を開いた。
「あー、ごめん。でも平野さん、ここだけの話さ、今泉とは本当の所、どうなの?」
依子が苛立たしげに口の端を噛む。空気が一気に悪くなるのを感じ取っていると、依子はそのツラのまま俺へと視線を投げた。ここでこっちに振ってくるか。他三名の目もこちらを向き、いよいよ逃げられなくなった俺は、渋々答える。
「ほんとに依子とは何にもないの。友達以下ってか、もう親戚以下みたいな。むしろ俺ら、仲悪いし」
「うそだ」
「うそじゃねえよ」
「でも今泉って、昼休みはいつもここ来てるよね」
「それは、お前、あれだよ……」
ここからは長くなるので省略。十分近くの質問責めに合い、俺もややキレ気味の返答を繰り返していると、女子三人は確実に納得していなさそうな顔をしながらも、その場を離れていった。
ようやく解放された俺は、しばらくカウンターに寄りかかった。
依子もじっと黙っていたが、三人が居なくなってまもなく、深いため息を吐いて手元で文庫本を開いた。
「しねばいいのに」
いらついて、辛辣な台詞を吐きながら。
その後、図書室内の生徒たちからの痛い視線を感じた俺は、結局受付に入ってゆっくりすることも出来ず、何のために図書室へ足を運んだのかも分からないまま退室した。
再度屋上へ行き、原村が来るかもしれないという可能性にびくつく。しかし当然のごとく彼が現れるはずもなく、そのまま無作為に時間を潰した。
掃除の時間では、城川と二人きりで裏庭掃除をすることとなる。鍋島が欠席だと分かったいま、俺たちの間では事務的な会話しか交わされなかった。
もやがかかったような、得体の知れないものを抱いたまま、一日が過ぎようとしている。
終業のHR。担任の池田は産休中のため、駄目司書でお馴染みの宮下が代理として教卓に立ち、HRを進行していく。
話を聞き流しつつ、ひそかに帰り支度を始める生徒たち。俺は特に、早川の背中を眺めていた。昨日の彼女との通話の内容を、ぼうっと思い返す。
◆
昨日、俺が早川からの着信を折り返したのは、一度、家に戻ったあとのことだ。風呂に入り、歯を磨いて、落ち着きのなかった気分を沈めるべく、二、三本喫煙して、それから早川の番号にかけなおした。
電話に出た早川の声には、放課後同様、いつもの活発さが見られなかった。俺は牽制するように軽く挨拶をして早川の用件を待つ。
「今日の放課後、今泉、屋上に行ったのよね。お兄ちゃんが何か言ってなかったか、教えてほしくて」
しおれたような口調で切り出される。俺はむろん、原村から何も聞き出すことが出来ず、しかも絶交という最悪の形で終えてしまった。それを正直に話すと、早川の相づちも一層小さくなっていく。
しばらく、お互い何も言えずに黙り込む。すると、俺が知りたがっていたことが、やがて彼女の口から明かされていく。
「私、お兄ちゃんから恨まれてるのよね。まぁ、今思い返せば、当然のことなのかもしれないけど」
「恨まれてるって?」
早川は細かく息を呑む。
「私たちのお父さん、おおげさな言い方かもしれないけれど、私が、殺したようなものだったし」
俺は耳を澄ませ、早川は粛々と語る。
「私たちの両親、もとは二人とも、小学校の教員だったの。私たちが産まれて、生活が安定してくると、お父さんが、お母さんに仕事を引退しろって言ったらしいのよ。お父さん、昔から何でも背負い込んじゃう性格だったみたいで。私、お父さんはずっと一人で働いていたものと思っていて、お母さんが昔、学校の先生だったなんて、全然知らなかったくらいなのよ」
早川から家庭の事情を聞き出すのは、中学で知り合って以来、初めてのことだった。自然と俺も、話の腰を折らないよう務める。
「私が小学校四年生くらいのときかな。そのときお父さん、学校を異動になったの。異動した先がひどい職場だったらしくて。そこ、特別支援学級のある学校だったんだけど、あ、特別学級って分かる?」
「あぁ、俺の通ってた小学校にもあったから、なんとなく」
精神遅滞だったり、身体虚弱だったり、主に健康障害のある生徒のための学級だ。たしか俺の小学校では、特別教室は別の棟に移されていた。そのためか、特別学級との交流はほとんどなかったし、俺の中での印象もかなり薄い。
一息して早川が続ける。
「お父さん、仕事出来る人なんだけど、新しい学校に配属されていきなり、その特別学級を受け持たされたのよ。ほら、そういうクラスって色々面倒事が起きそうだし、普通は誰も受け持ちたがらないものじゃない? でも、お父さんは押しに弱い人だったし、責任感も強かったから、引き受けたみたい。その他にも学級主任をやったり、社会科の授業研究員の仕事をしたり、PTAの主事を任されたり、毎日毎日、早朝に出勤して、深夜に帰宅して、数時間寝て、また出勤、みたいな」
俺は首を傾げる。
「小学校教師って、そんなハードな仕事だったっけ。一人の教師にそんなに仕事押しつけるなんて、誰か止めたりしねえの」
「普通はそうだと思うけど、でも、そういう雰囲気の学校だったから、誰も彼も、見て見ぬふりだったらしいわ。生徒が暴れて、怪我をさせられそうになっても、他の先生は素知らぬ顔で、残業代だって出なくなるくらい深夜まで学校に残っても、お父さんを残して、みんな揃って定時退社していく……」
すうっと、受話越しに息を吐く音が聞こえる。
「ストレスで、ついに胃に穴が空いちゃって、お父さんは入院したわ。たった一週間の入院で復職したけど、数日出勤しただけで、またすぐ休職したの。お父さん、完全に鬱になっちゃって」
俺は黙って早川の言葉を飲み込み、身体の中に沈めてみる。
俺は今まで、バイトすらしたこともないから、仕事で責任を負わされる辛さなんて、まだよく理解できない。しかし、その一週間の入院が早川の父にとって、目を覚ます機会になってしまったのではないかと思う。一日中を職場で過ごす生活から、入院という名の休息を与えられた瞬間、自分に課せられてきた理不尽の数々、職員たちの本質、過酷さに気づいてしまった。人間不信にだって、鬱にだってなるかもしれない。あくまで、俺の想像だけど。
「お父さんはそのまま長期の休職に入って、そうなれば当然、家庭を支えるために、今度はお母さんが仕事に復帰しなければならなくなったの。私、昔っからお母さんに依存していたところがあって、よく一緒に出掛けたり遊んでりしていたから、その時間を削られるのが、ものすごく気に食わなくて」
早川の言葉に、静かに嫌悪が混ざる。
「私の目には、仕事が嫌だからって、何ヶ月も働こうとしないお父さんは、甘えているようにしか見えなかった。今まで、主婦やパートのイメージしかなかったお母さんが、教職に復帰するのは、なにかおかしいんじゃないかって、私は真面目に思った。お母さんとお兄ちゃんには、お父さんのことは、出来るだけそっとしておいてって言われたんだけど、私は、我慢出来なかったのよ。ひどいことをいっぱい言ったわ。もう、何をどれだけ言ったのか、思い出せないくらいに」
しばらくの無音が続く。煙草に火を点け、じっと待つ。自嘲したような、殺したような笑いが漏れてくる。
「そうやって、お父さんが私の言葉に責任を感じて、自分で命を断ったきり、お兄ちゃんは私と口も利いてくれなくなって。気づいたらお兄ちゃんは、父方のお祖父ちゃんの家で暮らすようになっていた。何故お父さんが死んだのか、自分のどこが悪いのか、全然分かんなくて、意味分かんないって感じで」
「それが、五年前に起こったことか」
「うん。私って今までずっと、やけになってて、色んなへましてたんだなって。今日の屋上で、お兄ちゃんに色々言われて、叱られて、気づいちゃった。まぁ、半分叱られるつもりで、私もお兄ちゃんに会いにいった所もあるんだけど」
早川の声の調子に自虐が混ざるが、俺はあえて尋ねる。
「依子のことも、原村にキレられた?」
彼女は何も言わなかったが、なんとなく、電話の奥でうなずいているのが、雰囲気が伝わる。
原村がこの日の放課後、早川に本音をぶちまけたのは、原村自身、依子がいじめを受けている事実に耐えられなくなったのだろう。自分の妹が、友達を傷つけることに耐えられなかったんだ。
それからの早川は、徐々に泣き出してしまったために、ほとんど言葉が聞き取れなかったが、今まで依子をいじめたり、からかったりしたことへの謝罪を連ねてきたことだけは分かった。
「そういうの、依子に謝ってくんなきゃ意味ないと思うんだけど」
「そうだよね、ごめん」早川は鼻をすすって言う。「明日、ちょっと頑張って、謝ってみる。でも、美野里になんて言われるかな」
「吉岡? 吉岡なら、お前が止めようって言ってやれば、納得してくれるんじゃねえの」
「……そうだよね。そうだといいけど」
ここでほっと息をつく。柄にもなく人の話を真面目に聞いたせいか、すごい勢いで脱力してきた。
「ありがとね。今泉に話してよかった」
ぽつぽつと挨拶をして通話を断つ。携帯を閉じ、布団の上に投げ出して転がる。
これが昨日の晩の、早川とのやりとりだった。
◆
HRも終わり、宮下が退室したあと、生徒たちはそれぞれ帰る用意をしたり、部活に行く準備を始めていた。
俺ものんびり支度して席を立ち、早川の席へと歩み寄る。昨日の電話を境に、早川とのわだかまりはいくらか解消できただろうと思う。それに、依子への謝罪も手伝ってやんなきゃだし。
早川の隣に近づくと、彼女は照れくさそうに顔を上げる。とりあえず、一つ問題が解決しそうだな。そう俺が安堵の息を吐いた、そのときだった。後方から、村瀬の不快感をあらわにした声が上がる。
「なんだよ、うぜえなっ。もうどいてってば!」
見ると、教室を出て行こうとする村瀬を前に、依子が立ち尽くしていた。明らかな敵意を向ける目で。
「どうして、あやまらないの」
「だから、あたしが由多加に謝ることなんか何もねーだろっ」
なにやってるんだろう、この人たち。