chapter3 上履きと学生証
翌日。
三時限目の移動教室で物理室に行くとき、そこでやっと気づいたんだけど、依子は上履きを履いてなかった。代わりに履いていたのは群青色の職員用スリッパ。
俺は今日一時限分の遅刻をして、二時限目はずっと居眠りをしていた。三時限の前にクラスのみんなで廊下を歩いていて、誰ださっきからペタペタと間抜けな音鳴らしながら歩いてるやつは、と前をよく見てみると、それが依子だったわけだ。
早川沙樹が俺の肩をちょんとつついて、依子を指さして笑った。俺は昨日依子に生意気な口を利かれたから早川と一緒に笑ってやろうと思ったが、多勢に無勢は卑怯だし、それ以前に人として何か終わる気がしたので、早川に下手くそな愛想笑いだけを返して、それから依子の隣に並んだ。
「俺の上履き貸してやろうか。もう一足あるし。超汚れてて、もう捨てようと思ってたやつ」
依子が俺の上履きへと視線を落とした。つられて、俺も自分の足元を見る。
「サイズが合えば、貸して」
次に俺は依子の足元を見た。スリッパは気持ちぶかぶかなようで、依子の足は余計小さく感じる。
「二十四センチくらいか。俺の二十六だけど、ギリいけるだろ」
「二十二センチ」
俺は言葉を失って、頭頂の辺りを掻いた。こいつと話すとやけに空回りする。
すると、鍋島も依子の隣に並んできた。俺と鍋島で、依子を挟む形になる。
「そのスリッパ、私の上履きと交換しませんか」鍋島がにっこりと微笑む。「青系って好きなんですよね」
俺は入学当初の頃を回顧して、鍋島がクラスメイトとの顔合わせで「好きな色は黄色と澄色で、苦手な色は青と黒です」と言っていたのを思い出した。それを口に出すのは野暮なんだろうな。
依子が首を小さく振り「スリッパは蒸れないから」と言って、鍋島の提案を拒んだ。意地になっているのか、それとも鍋島に気を使ってるのか、はたまたそれが本心なのか。彼女の声の調子からは計れなかった。
昼休みになると、依子はふらりと席を立つ。
この日も弁当箱と参考書とノートを小脇に抱えて音もなく立ち上がり、気配を殺すようにすいすいと机と机の間を縫っていった。
早川沙樹の机の横を通るとき、彼女に軽く肘を当てられた。
早川沙樹は女子の友人らと席をくっつけて卵焼きをちびちびとかじりつつ談笑していたが、依子が歩いていくのを認めた瞬間、瞳をすこし薄めた。机に乗せた肘をさりげなく横へ突きだし、依子の腰にぶつけた。
依子はよろめきもせず、どころか表情一つ変えずに歩みを続け、何事もなく教室を出ていった。早川沙樹が嫌みったらしく顔を歪めて依子を見送る様子を、俺は視界の端にとらえたのだった。
そこで、俺は視線をそばに戻す。
鍋島はいつもの友達二人を合わせて、三人でお昼を食べていた。
俺の机と鍋島の机は、昼休みだけ一体となってその三人の食卓と化している。俺は邪魔だと言わんばかりに席を立たされ、仕方がないでうしろの棚に寄りかかり、鍋島たちの背中や横顔を眺めつつカツサンドを頬張った。
鍋島たち三人のガールズトークがまれにこっちへ飛んでくることがあったが、俺は「あぁ」とか「うん」とか気のない返事を返すだけで、やはり会話の中心は女子三人の中でループした。
鍋島は会話に集中するあまり箸が進んでいなくて、依子がいつもどこへ弁当を食べに行っているのか、そんな気をかける暇もないようだった。
依子はいつも図書室で食べているんだろうな、と俺は勘ぐる。昼休みや放課後に依子が消失してしまうのは、やはり図書室が落ち着くからだろうと思った。
最後のカツサンドを口に入れ、俺はさっさと教室を後にした。
屋上へ上がり、タンクの裏へ煙草を吸いに行くと、ヘッドフォンをつけたままの原村がスケッチブックを広げていた。
よう、と声をかけると、原村は小さく右手を上げた。タンクに寄りかかって煙草に火をつけると、原村が顔を上げて、どうだった、という顔をした。
「マジで図書室に漫画置いてあったわ。ありがとな、しばらくあそこに入り浸るかも」
原村は頷き、またスケッチブックに向かう。ヘッドフォンからはオーケストラらしき音色が漏れている。
原村はいつも屋上から町の風景を描いていて、毎回同じ絵を描いて一体何が面白いのだろうと思ったが、原村はいつも音楽を聞いているし、彼とは今までほとんど会話を交わしたことがなかったので、今さら聞く気にもなれなかった。
分かるのは、ブレザーのネクタイの色から彼が二年生だということだけだ。
煙草を吸い終わると、原村に「お前も図書室来る?」と尋ねてみたが、彼は小さく手を振るだけだった。
それから、俺は図書室へおもむいた。やはり図書室の受付には依子が居たし、司書の宮下先生は今日も不在だった。
彼女は昨日と同じように勉強をしていたが、近寄ると、「開いてるよ」とだけ言った。
受付の内側に入る。依子のパイプ椅子の下には食べ終えた弁当箱が置いてあった。半ば本の倉庫と化しているそこはやけにかび臭く、古本屋を連想させた。俺としては、そんな場所で食事をする気にもなれない。
引き出しを開けてバガボンドの十六巻を手に取ると、昨日のパイプ椅子を探して首を傾げた。
「あれ、椅子なくね」
「今週の土曜、というか明日だけど、保護者会があるでしょ。宮下先生が椅子足りないからって、持ってった」
「そうなの?」
「やっぱ、いつも寝てるんだね、純って」
依子が呆れたような息を吐く。顔は参考書を向いたままだった。俺は壁に背中を預け、そのまま滑るように腰を降ろす。
「先生が何度も言ってたじゃん。保護者だよりも出てたし」
「保護者だより? 捨てたかもしんねえ」
俺が漫画を広げつつ言うと、依子は顔にかかった髪を手で払いながらこちらを見る。
「あたしのあげよっか。ママ、どうせ来ないだろうし」
俺は吹き出しそうになるのを抑えた。我慢はしたが、それでも依子は察したようだった。
「なに?」
「道子叔母さんのこと、今だにママって呼んでんだなって思って。お前がママって、似合わねえ」
「ママはママだし」
それ以上のことは俺も言及しなかった。依子がこういう些細なことで怒り出すのを見てみたい気持ちもあったが、今は漫画に集中したかった。
「清志叔父さんは?」
「パパは寝たきりだから無理」
彼女の言葉を流しそうになって、俺は耳を疑った。
「はぁ、なんで?」
「ちょっとした事故。バイクを運転してたら車とぶつかったみたいなんだけど、右足を骨折しただけで済んだよ」
「まだ入院してんの?」
「うん、もうすぐ一年になるかな」
「骨折って、一年も入院するもんなの?」
依子は何も言わなかった。聞こえていないかのように、ノートに英語の単文を翻訳している。
代わりに俺は、昔小さい頃に遊んでもらった叔父さんの顔を思い出す。記憶の中の叔父さんは、病気や怪我など俺には無関係だ、などと笑っていた。
何か他の事情があるのかな、とも思ったが、俺は黙って漫画を読み直した。
カリカリ、というシャーペンと紙の擦れる音がする受付室内は、漫画を読むのにはすごく集中できる。欲を言えば、ここで煙草も吸えたら最高なんだけどな。
昼休み終了まで十分を切ったところで、依子の手が止まった。図書室入り口のガラス扉の方を見ている。
俺もそちらを見ると、そこには依子を発見してしかめっ面をする早川沙樹が立っていた。早川の隣には同じクラスの友達も居たが、俺はその女子の名前を思い出せなかった。
入学して三ヶ月は経つが、クラスの生徒の名前は半分も覚えていない。
多分早川は、依子が図書室の受付をしていることなど知らなかったのだろう。早川は友達の手を引き、すぐさま参考書コーナーの奥に消えていった。
「いじめてくんのって、あいつだろ?」
依子を見ると、彼女は早川のことなど意に介していないようにノートを読み返していた。
「直接話しかけられたことはないけど、周りから見ればそうなんだと思う」
「依子ってマジで周りに感心ないよな」
「そうだね。純に言われたくないけど」
やがて、早川とそのプラスアルファが早足で受付にやってきて、カウンターを叩くように和英辞書を置いた。そして依子が和英辞書に手を伸ばすところで「早くして」とあからさまに急かす。辞書を手にしたまま固まっていた依子が、ふと口を開く。
「学生証は?」
「は?」
「学生証がないと、貸し出しできないんだけど」
早川が眉根を寄せ、明らかな不快感を示す。貸し出しって学生証いるんだな、と俺も初耳だった。
「教室にあるわよ、そんなもん。ないと出来ないの?」
「うん」
「なによ、融通が利かないわね」
ご年配のクレーマーみたいだ。早川が隣のプラスアルファに向かって、あんたは持ってないの、と詰め寄るが、彼女も苦笑いで首を振った。俺は財布から学生証を取りだし、受付に顔を出してみる。
すると、早川が驚いたように一歩身を引いた。
「なんで今泉がそこにいんの」
「バガボンド読んでた。俺の学生証使えば?」
いいだろ、と隣で静かに鎮座している依子を見下ろすと、依子はすまし顔で頷いた。
早川はひるんだように俺が差し出す学生証を見つめたが、やがて引ったくるようにそれを受け取る。
依子は流れるような動作で学生証に記載されたバーコードを読みとると、いつもの能面のまま早川に和英辞書を渡した。
「返却は再来週の金曜まででお願いします」
早川は舌打ちだけを返し、それから友達の手を引いて入り口へと向かっていく。一度依子と俺の方を流し見て、何かを呟いて出ていった。様子から、何か悪態を吐いたんだと思う。よく聞こえなかった。
「なんで早川、俺にビビってるみたいな感じなの」
尋ねると、依子は前を向いたまま「だって純、不良っぽいじゃん」とだけ言う。何だか腑に落ちない。
昼休み終了のチャイムが鳴り、もっとクラスと交流を図った方がいいのかな、と俺は思ったが、不特定多数の友人らに囲まれる自分を想像しただけで、もう肩が凝ってきた。じじい臭え。