chapter27 軋轢
図書室では、もう依子が閉室の準備を始めていた。
ぼーっとそれを眺める。なんか、原村と縁切った実感が全然なかった。明日の昼休みは普通に屋上に煙草吸いに行っても大丈夫なのかな、やっぱ気まずいかな、ってどうでもいい心配をした。
「手伝って」
依子から催促され、俺はゆるゆるとした足取りで室内の窓という窓を閉めていく。
その後、図書室の外で依子を待ちながら、何の気なしに携帯を開く。着信が一件入っていた。しかも登録されてない番号。後ろでドアの開く音がしたので振り返ると、依子が入り口の鍵を締めているところだった。
「依子、この番号知ってる?」
あんまり期待しないで依子にその番号を見せる。依子は画面を見つめ、静かに首を振った。だろうな、電話番号なんて教えてもらっても覚えることなんて滅多にないし、ましてや依子のことだし。
どうせ間違い電話だろうな、そう思って俺は依子と一緒に廊下を歩いた。
廊下の途中で、今度は依子の携帯がバイブレーションを震わせる。鞄の中だ。でも依子は携帯を取り出そうともしないで、普通に前を向いたままスタスタ歩いている。
「このバイブ音、依子の携帯じゃね」
「うん」
おっさんのうなり声みたいな振動音は鞄の中で継続中。ずっと鳴り続けているから多分メールじゃなくて電話なのだろうが、依子はやっぱり携帯を取らない。
「いや出ろよ。それ電話だろ」
「面倒くさい」
「そういうの友達なくすから、マジで」
すれ違う教師に軽い会釈をしながら俺は言う。依子はやっと鞄を開いて、早く出やがれって叫んでる携帯を左手に取った。
開いたはいいものの、依子はディスプレイをじっと見つめたままで、信じがたいことに彼女は通話ボタンがどれなのかすら知らないのか、ていうか忘れたのか、開きっぱなしの携帯を俺の胸に押しつけてきた。
俺の手に携帯が渡った瞬間、着信が途切れた。
「依子、通話ボタンってこれだから。つーか俺、この前教えたよね」
そっぽを向かれた。本気で携帯嫌いになったらしい。ついでに俺にも冷たい。
着信履歴を見ると、城川からの着信が三件入っていた。見ると、俺の携帯に来たものと同じ番号だった。
ちょうど玄関に到着する。肩と頬で依子の携帯を挟んで、上履きを靴箱に入れながら、城川の携帯にかけなおす。
「依ちゃん?」
城川はおよそ二秒くらいで出た。しかも何故か涙声。
「いや、俺」
「今泉くん?」
「あぁ。依子、今携帯アレルギー発症してるから」
依子が革靴を履き終え、俺を置いて歩き出そうとするので、慌ててその肩を掴んで引き止める。
「依ちゃんと一緒なの?」
「うん。俺の目の前でむすっとしてる」
携帯越しに、鼻をすする音、ふーっと息を吐く音が聞こえた。どう考えてもこれ、泣いてんだろうな。
依子が、早く帰ろう、という顔で見てくるので、俺も、ちょっと待て、と目だけで合図を返した。
「あのね、来てほしいの」
「なんかあったの?」
「村瀬ちゃんがね、あのね、えとね」
やっぱ村瀬か。
「分かった、今から依子とそっち行くから。つか、どこいんの?」
受音口から微かにボサノヴァ風のBGMが聞こえる。どこかの店内だろうとは思うけど、城川は半泣き状態で何言ってるか分かんなかった。
「一原駅前の、ドトール」
やっとまともに言葉を発した。一原駅。最寄り駅から二つ隣だ。多分、自転車より電車乗った方が早い。
「すぐ行く」
通話を切った。急いで靴履いて、依子を追い越して玄関を出る。
「依子、一原駅前のドトールだって。俺らも行くぞ」
「どうして」
「知るか。城川が呼んでんだよ」
城川の名前が出ると、依子は若干足を早めた。
駅隣接の駐輪場に自転車を止めて、慣れない券売機を前に依子と少しおたおたしながらも、何とか切符を買って改札を通る。
ホームで電車を待つ間、依子は電光掲示板で時刻を確認したり、鞄から携帯を出して着信を気にしたり、それから携帯をポケットにしまって、やっぱり出して鞄にしまいなおして、そんでまた電光掲示板を見上げたかと思うと、今度は線路の先を遠望したりなどしていて、あり得ないくらいの挙動不審ぶりを披露してくれた。
「純、電車こない」
腕時計を確認する。午後七時三十二分。
「あと三分で来るから落ち着け」
なんて余裕ぶってるけど、依子に劣らず俺もそわそわしてる。
気を沈めるべく、俺も線路の先に目を凝らした。日も落ちかけている。ビル群や住宅などの明かりが目立ってきた。時間的にも、うっかり夜遊びしてる制服姿の生徒なんかは補導の対象だ。
やっぱ、いきなりあの三人だけで遊びになんか行かせない方がよかったのかな。俺の心配は杞憂で終わらなかったわけで、そう考えると虚しさがこみ上げてくる。ついさっき原村と絶交した俺からすれば、今日はもう友情崩壊シーンなど見たくないし、消化不良だよ。
「きた」
線路の奥から二つの丸い目が瞬き、箱型の鉄の塊がひょっこりと顔を出した。
一原駅で下車し、ドトールを探すも、普通に迷ってしまった。俺も依子も初めて降りる駅で、出口が五つも六つもある上、駅の構造もダンジョンじみているし、『駅前のドトール』だけで探せってのが無理な話だ。
携帯を開いて城川からの着信を開き、電話をかける。城川はすぐに出た。
「迷った。どこの出口?」
「えっ。えとね、たしか、六番出口出たらすぐに――」
電話を切る。挨拶なしにいきなり用件聞いて速攻切る。依子式の通話法。でも仕方ない、今の俺はちょっとばかり焦っていた。
六番出口を探し、依子を後ろにつれて階段を上がっていく。
夏にしては、いやに肌寒い風が通り抜けていた。俺らの住む町と比べればビルは高く、すでに歓楽街の体を醸し出していた。完全に夜のゴールデンタイムで、ドトールを探そうとするが、会社帰りと思われるOL一団が視界を塞ぐように目の前を歩いていく。
依子が道の向かい側のビルを指す。ビルの一部と化したドトールがこじんまりとあった。
ドトールに入り、適当にアイスコーヒーを二つ注文して、城川を探す。
城川は一人で、テーブル席にうつむぎがちに座っていた。俺が正面の椅子に座っても、彼女は顔を上げない。依子は城川の隣のソファに座る。
「他の二人は?」
城川はうつむいたまま首を横に振った。木製の四角テーブルの上には、半分も減っていない抹茶ラテのグラスが二個、空っぽで氷すらも残っていないグラスが一個置かれていて、押しつけられるようにテーブル上で佇むそれが更に重苦しさを引き立たせていた。
鼻をすする瞬間に少し見えたが、城川は目を真っ赤に充血させていた。隣のテーブルに座るおばちゃん二人組がいちいちこちらを伺ってくる。多分俺たち、すげえ目立ってる。まぁ、城川は俺たちが来るまで一人で泣いていたのだろうから、そっちのが異様だっただろうけど。
「依子、城川の顔洗わせて、落ち着かせてやって」
依子はうなずき、城川の手を取って席を立つ。
俺はその間に喫煙スペースで一服しようとしたけど、制服姿で堂々と吸えるはずもないことに気付き、大人しく椅子に座って、アイスコーヒーをすすりながら二人の帰りを待った。ちょっと苦い。
無駄に半分まで飲み干したところで、依子が保護者のごとく城川の手を引いてやってくる。正面のソファに二人が座り、城川が事情を語り出すのを待った。
しかし、彼女は中々口を開かない。
依子が、城川の指で遊び始めた。自分の膝の上に城川の手を持ってきて、人差し指と中指を開いたり閉じたりさせていた。こいつも案外落ち着きのないやつである。
俺も喫煙欲求を紛らわすようにアイスコーヒーを少しずつ消費していく。苦さにも段々慣れてきた。
「お前ら、また喧嘩したの」
こちらからそう尋ねてみると、城川は頭を振った。それから拙い口ぶりで話し始める。
「三人でカラオケ行ったあと、服屋さんとか、トイザらスとか見て回ってたんだけど、由多加ちゃんちのお父さん厳しいから、門限あって、七時までで、最近塾とかも勝手にさぼっちゃってたから、さらに厳しいらしくて、もう帰らないと怒られちゃうから、そろそろ帰りましょうって由多加ちゃんが言ったんだけど、そしたら村瀬ちゃんが不機嫌になって、由多加ちゃんも喋らなくなって、わたしは、ずっとジュース飲んでて、氷食べて黙ってたら、もういいって、村瀬ちゃん帰っちゃった」
城川が語ると、なんだかほのぼのした感じに聞こえるのは気のせいか。いやそれ以前に、話にまとまりがなさ過ぎてどこで問題が起きたのか全く把握できないんだけど。
「つまり?」
「えっと、トイザらスは、わたしが行きたいって言ったんじゃなくて、村瀬ちゃんが」
「いやそこじゃなくて。村瀬が不機嫌になったっつってたよね、そのへん詳しく聞きたいんだけど」
「村瀬ちゃんは、なんか分かんないけど、えっと、わたし、トイザらスで村瀬ちゃんに、シルバニアファミリー買ってあげようかって笑われたんだけど、そしたら由多加ちゃんが、あんまり子供扱いしたら可哀想ですよって」
「だから、トイザらスのくだりいらなくね? なんで村瀬がそういう風になったのかって聞いてんの」
「純」
城川が申し訳なさそうに顔を下げるのを見かねて、依子が非難の視線を浴びせてくる。
「あたしが聞くから、純はだまってて」
「あっそ」
背もたれに寄りかかり、またコーヒーを飲む。
どうやってこのややこしそうな話を聞き出すのか、依子の出方を観察してみるが、依子は待ちの姿勢で城川を見つめるだけだった。しかし城川にとっては話しやすいのか、ぽつりぽつりと説明を始める。
城川の話を要約すると、こういうことだ。
三人は予定通り、放課後の遊びに出掛け、元の関係を順調に取り戻そうとしていた。村瀬の様子が変わったのは、さっき出たトイザらスからのようで、城川はそれを俺に伝えようとしていたらしい。城川を子供扱いする村瀬を、鍋島がやんわり注意しただけのことだったが、村瀬は萎縮するような、白けたような態度をあらわにする。
――私、そろそろ家に帰らないと。また、お父さんに叱られちゃう。
そんな鍋島を、村瀬が引きとめる。
――いいじゃん、もうちょっとくらい。あそこでゆっくりしていこーぜ。
駄々をこねる村瀬に流され、彼女らは不承不承にこのドトールに入ることになった。
帰りたいっつってんのに、何の用もなくこんな所でぐだぐだとさせられるのだから、鍋島もやきもきしたことだろう。
――どうして、そんなに帰りたがんの。この前アッキーと遊んだときは、もっと遅かったらしいじゃん。
村瀬がそう言ったらしい。空気が読めないってわけじゃなく、多分わざと原村の名前を出していそう。
――アッキーとすぐに別れるのさびしー、ってのは分かるけどさ、そういうとこ、友達のあたしらと差作っちゃいけないと思うぜー?
すげえ嫌らしい責め方してくる。こういうことはズバズバ言う反面、まともに自分の内面すら表現できないのだ。どれほどのフラストレーションが村瀬の中で蔓延していたのか。
狼狽し、鍋島は黙りこくってしまう。誰とも視線を合わせずに。
険悪そうな雰囲気が容易に想像できる。友達が原因で出来る悪い空気ってのは、なかなかどうして息苦しいものだろう。言いたいことも言えない世の中を自分らで勝手に作ってるよ。
気まずい静寂を紛らわすように、城川はオレンジジュースを吸い続け、無くなっても行儀悪くずるずると音を立ててすすり、挙げ句に氷まで食い始めたところで、そこで村瀬が苛立たしげに席を立った。そして、小さく言い捨てる。
――もういい。
村瀬はそのまま帰ってしまったが、鍋島は顔も上げずにソファに座り込んでいた。
鍋島が声を漏らしたのは、またしばらく経ってからだった。
――私、もう友達作らない方がいいのかもしれません。普段はいい人ぶってるくせに、笑っちゃいますよね。いざというときは、こんな風に、簡単に人を裏切っちゃうのに。
鍋島は今にも泣き出しそうな顔をして言う。どうして自分にそんなことを言ってくるのか、城川にはもう察しがついていた。鍋島は言わなくてもいいことを、穿たれた傷をさらに掘り出してまで言葉にする。
――ねえ城川さん。中学でいじめを見過ごしたこと、本当は恨んでるんですよね?
城川はすぐさま首を振る。声は出なかった。
――同情っていうんですよ、そういうの。
反応を待たずに、鍋島は続ける。
――私が哀れで仕方ないんですよね、城川さんは。実際、私は城川さんよりずっと弱い人間なんですよ。口ばっかりで、行動を起こすにしたって、上っ面だけの安上がりな慈善行為だけ。私は、きっと、自分が世界の誰よりも可愛くて仕方がないんです。いじめを見過ごしたのは、自分がいじめの矢面に立たされるのが恐かったから。昭文くんにいつまで経っても告白しないのは、振られて傷つくのが恐いから。さっき、村瀬さんを前にして黙り込んだのは、うやむやにして、どうにかなればいいな、って思ったからなんですよ。これが、友達に対してすることですか? 根性曲がってるでしょう。こうならないうちに、あなたも早く私から離れた方がいいんじゃないですか。
城川は、最後まで否定を口に出来なかった。
――同情で続けられるくらいなら、私はもう友達なんていらない。
軋轢。
話し終わると、城川はまた鼻をすすった。依子が彼女の背中を撫でると、小さく嗚咽が漏れ始める。
ストローをくわえてアイスコーヒーを飲み干し、俺は席を立った。
「外で待ってる」
そう言い残してドトールを出る。
ドトールの角を曲がって路地へと入る。
ビルの間の通路には外灯もなく、連なった自動販売機の明かりがほの暗く辺りを照らしていた。
自販機の側に寄り、煙草に火を点けて、星一つ見えない灰色がかった夜空を見上げる。
依子の家の近くにでも行けば、もっとまともな星空を拝めそうだけど、こういった都会の一角から見上げる空は濁っているようで、人工的に見えて、ただ不透明でしかなかった。
なにもかもが、不透明だ。
村瀬の本音が分からない。鍋島は城川とまで縁を切るつもりでいるのか。俺は依子の過去にどう向き合えばいい。俺の足の怪我には何か意味があるのか。原村とはどう関係を取り戻せばいい。どうすれば俺は原村と早川を知れる。吉岡の背景、アキラ。叔父さんと依子、約束。
空に向けて煙を吐くと、空気の色が白みがかる。
どうしてこうなるんだろう。どこで間違ったら高校初めの一学期でこうなんだろうな。
俺たちは、そんなに間違ったことをしたのか。
違うだろ。どこまでいっても俺らは子供だし、所詮若気の至りでしかない。
なるべくしてこうなった? じゃあ俺、どうすりゃいいんだよ。
煙草を地面に転がし、踵で念入りに火だねを潰してから、二本目に火を点けた。