chapter25 憂慮と暗影
あたしがいじめた。
依子は俺の手を離し、弁当を食べ終えたあと、昼休みが終わるまで本を読んだ。俺は頭の中で依子の言葉を整理するばかりで、そのまま昼休みの終わりを迎える。
いじめられた方がいい人間が本当にいるとしたら。
人を殺しすぎた人間が死刑を受けるように、人を死に追いやるまでいじめた人間も、同じようにいじめられるべきなのか。
だとしたら、道徳観念って一体何のためにあるんだろう。
掃除の時間。
「由多加ちゃんね、もう村瀬ちゃんと仲なおりしたいんだって」
城川が無邪気な笑みをして言った。城川は空き缶やペットボトルのゴミ袋を二つ両手に抱えていて、俺がそれを手伝おうということで、空き缶の袋を手渡されたときのことだった。
「昨日、わたしのところにね、村瀬ちゃんから電話があったんだよ。由多加、あたしのことどう思ってるの、って。わたしはね、由多加ちゃん、もう村瀬ちゃんのこと怒ってないと思うよ、って言ってあげたんだ」
城川の笑顔を見ていられなくて、俺は前方へと視線を逸らした。
「由多加ちゃんにそのこと教えてあげたら、由多加ちゃんもね、私も村瀬さんとやりなおしたい、って言ってたの。だからね、放課後、わたしたち三人でカラオケに行くんだ」
「よかったな」
図書室で起こったことを城川や鍋島がどう解釈しているのかが気になるけれど、城川があまりにも楽しそうに語るものだから、俺はそれくらいの返事しか出来なかった。
安直すぎる仲直りに不安を覚える。
ゴミ置き場に到着すると、そこにいた鍋島のもとへ城川が駆け寄り、なにかひそひそと話し始めた。俺はかまわずプランターの水やりを始めたが、やがて鍋島がやってきてこう告げた。
「今泉くんと平野さんも、放課後私たちと遊びませんか?」
「なんで? 三人で遊んでくりゃいいじゃん。仲良し三姉妹の復活パーティでもやれよ」
「これからは今泉くんと平野さんも入れて、五人兄弟を作るんです」
そう言って鍋島は微笑む。俺の目には今の鍋島はどこか倒錯したように見えた。浮かれているようにも、正常な思考を欠いているようにも見える。昨日の放課後に原村と出掛けて以来、悩んでいるような素振りをしていても、実は浮かれているのではないかと思った。原村がいつもの飄々とした態度で、普段通りに彼女に接したせいなのかもしれない。
原村を入れて六人兄弟にはしないの、その言葉を言うか言わないか、それを考えあぐねているうちに掃除の時間は終わった。
そして放課後。
結局、依子はカラオケは嫌いだと三姉妹からの誘いを断った。そもそも依子は図書室の仕事があるため、初めから無理な話だった。依子が行かないのなら確実に俺の居場所はなくなるわけで、俺も依子にならって「カラオケとかマジ苦手だから遠慮しとくわ」とやんわりお断りした。
鍋島と城川は残念そうな顔をしたが、すぐに村瀬の席へと歩み寄った。
村瀬は早川と談笑していたが、鍋島たちが歩み寄ると、早川に短く別れを告げて彼女らを迎えた。村瀬は屈託のない笑みで鍋島に抱きつく。懐かしい光景だった。
「なんだかんだで、やっぱ抱き心地は由多加が一番だなー」
どうやって三人がこの関係を取り戻したのか、俺は詳しく知らない。もう俺が首を突っ込むことではないのだろう、そう思ったけど、だからなのか、俺にはその三人の様が不気味で仕方なかった。
教室を出ていく三人を、依子は席に座りながら見ていた。見届けて彼女は席を立つ。俺もそれとほぼ同時に席を立ち、依子と並んで廊下を歩いた。
今日の昼休みから、俺たちの間に一切会話はなかった。
図書室には宮下がいたが、俺と依子が入ってくると、
「おっ、来たね。じゃ、あとは受付頼みますよ」
などとぬかして図書室を一目散に出て行った。声を掛ける隙すらないほどに俊敏な動作だった。あそこまで堂々とサボる意志を見せつけてきたのは、恐らく今回が初めてじゃないかと思う。明日五頭にチクっておこう。
依子は受付に座り、現代文で早めに渡された夏休みの宿題をカウンターの上に広げた。長期休暇も始まっていないうちから片付けるつもりらしい。勉強に関してはとことんせっかちなやつだ。
俺は引き出しからリアル五巻から八巻を手に取り、後ろの古書棚際で乱雑に放置されたパイプ椅子に座る。
しばらく依子の後ろ姿を眺めながら、鍋島たちのことをぼんやりと考えた。
うまくやれているか、また喧嘩などしていないか、憂いを頭の中で並べる。お互い、あれだけ及び腰で距離を取っていたくせに、唐突に和解して、しかも何の気後れもなく元通りの関係を見せてくるのだから、俺はなんだか釈然としなかった。
そこまで考えて頭を振る。
俺は一体なにを心配しているのだろう。三人の仲を知った気になっているだけなのかもしれない。きっと俺は、あいつらの友情を甘く見ているんだ。
依子の髪の間からは形のいい耳がのぞいていて、それをずっと見つめていたが、その前に形のいい耳ってなんだろう。どうでもいいことまで考え始める始末だった。
耳たぶは小振りながらも厚みがあり、そこから伸びる耳の輪郭はきれいな曲線を描いている。そこまではいい。どうして内側の耳郭って、こう、ぐねっとしていて、眺めれば眺めるほどに奇妙な構造をしているのだろう。もっとシンプルなデザインにはならなかったのかな。
だんだん、自分が耳フェチの変態みたいになりそうで恐かったので、そろそろ漫画を読もうとしたところ、ふいに耳が上向きに傾いた。依子が顔を上げたのだ。
依子の視線の先には、早川沙樹の姿があった。俺のぼやけた脳みそも覚醒する。
早川はカウンターに身を乗り出し、受付内部を覗き見るようにしていた。
「お兄ちゃんはどこ?」
俺に向けた問いなのか、依子に向けた問いなのか、恐らく俺たち二人に向けてだろうと思う。
早川の兄、つまり原村のことだ。俺や依子の前だというのに、早川は全く臆することなく、むしろいらだったように問いただす。
「彩音から聞いたの。私のお兄ちゃん、たまに図書室にいるらしいって」
吉岡のときといい、村瀬はマジでよく喋るやつだ。やつには今度苦情を入れておこう。
突然やってきて何事かと思えば、今まで俺がほとんど触れてこなかったことだった。
原村と早川が生き別れの兄妹だと知ったのは、いつ頃のことだっただろう。
たしか、この場で最初の図書室事件があって、しばらくしてからだ。屋上で原村からそれを打ち明けられたときは、こいつも複雑な事情があるんだな、程度にしか思っていなかった。
一度だけ、原村が早川をわざと避けるように振る舞っていたのを見たことがある。
吉岡と早川の女子更衣室での密談を盗み聞きした、その直後だ。二人が顔を突き合わせるのは俺も初めて見たが、原村は、早川を拒絶していたように思う。
「だんまりしてないで、早く教えてよっ」
「待て、落ち着けよ早川」
「今泉、あんた、お兄ちゃんと友達になったそうよね。お兄ちゃんが今どこにいるのか、今泉なら分かるんじゃないの?」
早川の口調は、俺たちが今まで敬遠しあっていたことが嘘のように切迫していた。
「最近、お兄ちゃんの携帯に全然つながらないのよ。校内でも全く見かけないし。ここなら居ると思って来たのに……」
早川は下を向き、諦念の息を吐く。
原村の携帯につながらないのは、俺がiPhoneを屋上から投げ壊したからだけど、早川は今までそれすら知らなかったらしい。というか俺の方は、この二人が携帯で何かしらのやりとりをしていたことだって知らなかったんだけど。だんだん混乱してきた。
まず悩むのは、ここで俺が原村の居場所を教えていいものかどうか、ということだった。原村は俺たち同様すぐに帰宅するようなやつじゃないし、多分今は旧校舎の屋上にいる可能性が高い。
何故原村が『神隠し』なんてふざけたあだ名で呼ばれるまで、生徒の前からひたむきに姿を隠そうとしているのか、俺はようやく理解した。
昼休みや放課後などの生徒たちが広く交流を持つ時間に、どうして原村は図書室受付や旧校舎屋上などという目立たない場所に居座るのか。つまり、妹である早川を避けるためではないのか。
「それとも、私には会わせるなって、お兄ちゃんに口止めされてるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
俺は二人の過去を知らない。原村は隠そうとするだろうし、俺も聞き出すのは控えていた。結局は他人の内輪事情だから、という解釈で片づけて。
「ねぇ、今泉」
顔を上げる早川の目には薄く涙がたまっていた。
依子が横目に俺を流し見る。依子が俺に何を伝えようとしているのかは分からない。
沈黙し、しばし俺は葛藤する。
兄妹というワードに、弟の顔がちらついた。毎日顔を合わせるのが当たり前で、いくら喧嘩したって、腐れ縁でつながり続けている。それが俺にとっての兄弟だった。依子だって同じようなものだ。友達と違って、大した気遣いや仲直りもなく、いつの間にか元に戻っているような、そんな奇妙な結びつきが血縁関係には存在する。
兄が故意に妹を遠ざけるなんて、何か違うような気がする。過去を語らないこと、身を隠すこと、目を背けること。どういう理由からなのかは知らないけど、原村は妹という存在から逃げようとしているだけじゃないのか。
「旧校舎の屋上。多分、原村はそこに居る」
瞬間的な、安易な判断のまま俺は答える。
「ありがとう」
早川は頬を紅潮させてうなずく。彼女が図書室を出て行くと、依子はシャーペンを持ち、カウンター上の宿題へと目を落とした。
肩から脱力するような感覚がして、開きかけた漫画を閉じる。
「なぁ、依子」
「なに」
「俺、軽率だったかな」
依子は答えずに、右手に持ったシャーペンの動きを止める。静止するその右手をしばらく見つめる。
「心配なら、見にいけば」
依子らしくない一般論的な返答だった。
彼女の言う通りにするのなら、俺は今すぐにでも早川を追いかけるべきなんだけど、何故だかそんな気にはなれなかった。半分、これでよかったのかもしれない、と思っているのだろう。
動き出すシャーペンの先を、三十分、四十分ほどじっくり眺めてから、俺はパイプ椅子を立つ。
「ニコチン切れ。煙草吸ってくる」
依子はかすかに頷く。
拭いきれない不安を胸に抱きながら、俺は図書室を出た。