chapter22 ファジィ
鍋島、城川、依子とともに物理室から逃亡し、旧校舎を出て新校舎東棟の廊下を歩いていたとき。
吉岡が投げたカッターの刃の一部が城川の服の中に入ってしまっていたらしく、それを知った依子が慌てて城川の制服を脱がし始めた。
内心焦ってるくせに、普段のクールフェイスで城川のブラウスのボタンに手をかける依子。校舎の廊下で堂々と。しかも俺がいる目の前で。しかも道行く男子が怪訝に流し見る中で。
俺がそれを認めた頃には、胸リボンとボタン二つがすでに外されていて、城川は顔を真っ赤にするだけで依子の為すがままにされていて、別に死に際でもないのに、俺の目には世界がやけにスローに映った。
すぐ隣にいるくせに鍋島は依子の奇行に気づいていない。廊下の先の女子トイレを指して、「あそこにトイレがあります」と、なんのガイドだよみたいな台詞をのたまっていて、多分鍋島はそこでカッターの刃を除去しようとしていたのだろうが、そんなことより彼女の背後で行われているストリップに気づかないのは如何ともし難いもどかしさがあり、そんな焦燥とした想いがコンマで俺の脳内を巡った。
依子の両手を抑えるか、城川を依子から離すか、鬼気迫った瞬間の状況下で、城川の方が俺に近い位置にいたため、俺は彼女の両肩を掴んで依子から引っ剥がした。
鍋島がこちらを向いた。
鍋島はクラーク博士みたいにトイレを指したまま、城川の肩を掴んだ俺とブラウス半脱ぎの城川を見て、それから両手を前に出している、奇しくも危機感を煽るような体勢の依子を見て、最後に俺に視線を戻し、憎悪と羞恥を存分に目だけで表現した。ピンチ。
「誤解だ」
「速やかに城川さんから手を離しなさい」
誤解だ。
昨日の放課後みたいに全力グーで殴られるのかと思ったが、そうではなかった。
代わりに、鍋島は俺の顔も見ずに「言い訳はあとで聞きます」と言い残して、城川にがっちりと寄り添ったままトイレへと消えていった。
俺は依子を睨んだ。
「責任取れ」
「ごめん」
依子は俺から顔を逸らした。
反省しているのかは知らないけれど、俺は依子から謝られるのに慣れておらず、というかほぼ初めてだったので、俺はそれ以上の責め苦を思いつけずに黙り込み、仕方がないので依子の左目の下に貼られたバンドエイドを眺めた。
日が経つとバンドエイド姿も様になるものだ。これも慣れなのかな。眼鏡だって、最初は似合わないなと思っても時が経つにつれて定着してしまうものである。多分それと一緒。
「その傷、治りそうか」
「うん」
うなずくと、依子は唐突に顔のバンドエイドを剥がした。
傷はもうほとんど目立たなくなっていた。よく見れば、うっすらと薄い肌色の細い線が確認できるが、この分だともう痕は残らないだろう。ちなみに村瀬との図書室の一件から二日しか経っていない。
「わざわざ剥がさなくてもいいんだけど」
「もういらないと思って。いちおう、替えもあるし」
依子はポケットから絆創膏を出した。サンリオのうさぎを模したキャラクターの柄が入った絆創膏だった。なんだっけ、シナモロール? そこらへんの園児が膝小僧にでも貼っていそうな絆創膏。
「このくそ恥ずかしい絆創膏が替え? え、これ顔に貼んの」
「もう家にこれしかなかった」
じゃあ剥がすなよ。
依子はシナモロールの絆創膏を見つめた。顔に貼るか貼らないか、迷っているようだった。
「貼らない」
スカートのポケットに絆創膏をしまいかけて依子は手を止める。
ちょうど、鍋島と城川がトイレから出てきたところだった。依子は再度シナモ絆創膏を取り出し、城川の額の切り傷に目を凝らした。で、そこに絆創膏貼った。
「心結なら、似合う」
確かに似合ってるかもしれない。俺も鍋島もにやにやしてそれを見つめた。城川は訳も分からず、しきりに額の絆創膏を手で隠してもじもじしていた。
さっきの誤解はうやむやになった。
俺は三人と別れて屋上へ煙草を吸いに行くことにした。
「あ、あの、今泉くん」
図書室の前で三人と別れるとき、城川から声をかけられた。城川は手元へと視線を落としていた。
「昨日は、怒ってくれて、ありがとう」
鍋島も依子も足を止める。依子は明後日の方を向いていたが、城川の言葉に耳を澄ませているようだった。
ありがとうだなんて、俺に向けられても困るんだけどな。俺は限度を超えて感情的になって、自覚できるほどに城川を責め過ぎてしまったんだから。
「わたし、人からあんなに真剣に叱られたの、すごく久しぶりで、というか、初めてで。すごく身に染みちゃって、それで分かったの。わたし、今すごく間違ったことしてるんだなぁ、って」
城川はさらにうつむいた。
「間違ってるなんて、分かったつもりでいたんだけど、心の中で依ちゃんに謝るだけで、それって、本当は全然分かってないことと一緒だったんだなって。結局自分のことしか考えてなくて、人の痛みなんか、知らんぷりで。わたし、すごく、ひどいことしてた」
彼女は鼻をすすり、真っ赤にした目を依子の横顔へと向けた。
「依ちゃん、本当に、ごめんなさい」
依子は小さく首を振り、
「おいで」
細い声でそう言った。立ち尽くす城川の背中を鍋島が押す。
「仲なおり」
依子が城川を抱き寄せると、城川はまた泣き出した。ごめんなさいを何度も繰り返して泣いた。
俺は廊下の壁に背中を預け、窓の外を眺める。
弱いことが悪いわけではない。自分の弱さに甘えることがいけないのであって、真摯に弱さと向き合うことが出来るのなら、いくら気が弱くたって、いくら身体が小さくたって、いくら力がなくなって、いくら声が小さくたって、一向に構わないと思う。
勝利ってのは案外簡単に手に入るもので、要はギブアップしなければいいんだ。殴られ、倒されて、地面にひれ伏していたって、相手が諦める最後まであっかんべーをしていれば勝ち。自分の意志さえ折れなければ、それこそ誰を相手にしたって絶対に負けない。
「今日の城川さん、格好良かったですね」
俺の隣で、鍋島も壁に寄りかかって窓の外を見ていた。
確かにな、とうなずきながら、俺はさっきの城川を思い出した。
「そういう鍋島も格好良かったよ。あれのお陰で城川も勇気付けられたんだし」
「私なんかが出しゃばらなくても、城川さんはきっと自分で言えてたんです」
鍋島は寂しそうな目で、口元だけのアルカイックな笑みをした。鍋島の目には、今の城川は自立してしまった妹のように映るのだろう。
「きっと私は、城川さんを甘くみていたんですよ。私の知らない城川さんがまだあったんです。彼女があんなに大きな声を出せるだなんて、私、全然知らなかった」
「馬鹿とか余計なことまで言ってたもんな」
あれはちょっとスッキリしたけど。
城川はまだ依子の胸に顔を埋めていた。最後は強がっていたが、本当はかなり恐かったんだと思う。
鍋島は物思いにふけるように黙ってしまった。
寂しいんだろ、そう意味深に尋ねてみると、鍋島は人差し指と親指で五センチほどの幅を作った。ちょっとだけ、という意味だった。
鍋島って将来、筋金入りの馬鹿親になりそう。
屋上に一人で行くと、そこには原村が居たが、彼は絵を描いていなかった。スケッチブックを開いてはいたけど、今は売店で売っていたらしい棒アイスを食べるのに忙しいようだった。
絶えず降り注ぐ太陽の刺激光を手のひらで遮断する。そろそろ真っ昼間の屋上に出るのも辛くなってきた。超あちい。
「放課後、画材買いに行くんだけど、今泉も一緒に来ない? 結構買い込むから手伝ってほしいんだよね」
原村はそう言って、急いで棒アイスを口に入れなおした。
俺は煙草の三口目に口をしながら、ある提案をしてみる。
「鍋島と二人で行ってくりゃいいじゃん。あいつ、元美術部なんだろ」
「あー、なるほど」
うん、じゃあ誘ってみるよ、と原村はあっさり言う。そういうの意識しないのな。
原村から誘うのはいいんだけど、問題は鍋島の方か。二日前の図書室の件があって以来、会話の中で原村の名前が出るたびに、あいつすぐテンション落とすんだよな。
「いきなり二人きりにして大丈夫かなって思ってるだろ、今泉。こういうのって時間が解決してくれる場合もあるからね。普段と違う接し方してたら余計に逆効果だと思うよ」
さとられな俺。そしてエスパーな原村。
「で、村瀬の方はどうなったの?」
「それが全然。話聞こうとしてもシカトされるし。正直、あいつが何考えてんのかさっぱりなんだよ」
アイスは下の方から溶けていき、原村は慌ててそれを舐めとる。苦肉の策で、アイスを口に突っ込んで真上を向いた。それからうなって考える。
「じゃ、可能性をあげてみよう。その一」
原村は人差し指を立てた。
「村瀬は本気で鍋島のことが好きで、鍋島が僕にとられたように思えて嫌気がさしてやった」
「なんだそれ。マジで村瀬が女好きだって言いたいの?」
「そこまでは言わないけどさ、まぁ、これは一番現実的じゃないよね。はいじゃあ次」
原村は次の指を立てる。
「二つ目。なにかしらの原因で村瀬は鍋島が嫌いになってしまった」
「それはないと思うけどな。村瀬が騒動起こすまで、あの二人普通に仲良さげにしてたし」
「三つ、僕の唇があまりにも魅力的だったので突発的にしてしまった」
「お前、よくそういう気色の悪いこと平気な顔して言えるよな」
「四つ、村瀬は僕に一目惚れしてしまった。案外モテるアッキー」
「それが理由なら、逆に分かりやすくていいんだけど……」
それ以上原村の推理シリーズは出てこなかった。
村瀬が初めに言った『面白そうだからやってみた』、あれがただの建前だってことは分かりきってんだけど。考えれば考えるほど村瀬の行動原理が読めなくなってきた。
放課後。一年二組の教室に原村が顔を出した。もちろん鍋島を買い物に誘うためだが、それは放課後開始からたった十分ほどしか経っていない頃で、生徒も教室に七割は残っているという状態。もちろん、村瀬在室。
「鍋島ー、駅前の文房具店行こうよー」
原村、目立ち過ぎ。クラスの半数以上の目が原村に向く中、鍋島が表情をがちがちに固めて俺の背中を掴んだ。
「ですって、今泉くん。さぁ行きましょう」
「お前ら二人で行くんだよ」
鍋島は目を見開き、ゆっくりと強調するように首を横に振った。
「んだよ、今まで二人で出掛けたことないのかよ」
「あるわけないじゃないですか。だって、二人っきりですよ」
「原村のこと嫌いなの?」
「そ、そういうことじゃないですけど」
「じゃあいいじゃん、二人で行ってくれば。俺、このあと図書室で依子のメアド変更手伝ってやんなきゃだし」
「そんな……」
鍋島は恋愛事に関してはやたらうじうじする。図書室事件があった後とはいえだ。ここはあえて、鍋島を突き放すことが最善なのだと思う。
原村は扉の外から俺たちに向けて手を振っていた。
「それにほら、私最近、耳の裏ににきびができて、それ見られるのすごく恥ずかしいし、あとお腹の調子も悪くて、えーと……」
俺が持てる最大限の眼光で鍋島を睨むと、精神的にまいっている鍋島にはこれがまた結構効いたようだった。
「いいから行け」
「は、はい」
鍋島は鞄を持ち、逃げ出すように原村のもとへと駆けて行いった。
煙草を吸った後で図書室へ行こう。そう思い、旧校舎の屋上へ上がると、その場には見慣れぬ女子の後ろ姿があった。
女子はこちらに背を向けたままフェンスに腕をかけていて、そんな不動の姿勢で向こうの山と海を眺望していた。確かそっちは依子の家がある方角。
近づいてようやく分かる。やはり村瀬だった。
「よく来たな」
風の強い放課後だった。煙草の火をつけるのに苦戦しながら、俺は村瀬の隣のフェンスへ前のめりに体重を預けた。ボボボ、そんな危うい音を立てながら、百円ライターは煙草の先に火を灯す。
「今泉って、やっぱ煙草吸うんだ」
村瀬には似合わないナーバスな語調だった。
「あたしも吸ってみたい」
「だめ。残りがもったいねえ」
村瀬が瞼をぱちぱちさせて煙草の先を見つめた。盛大に煙を吸い込むと、先端は音も立てずに灰色と化し、屋上のはるか下へと降下していく。降下していく途中、乱暴な横風にぶん殴られて灰は無残にも空中分解して果てた。
ふと、唇からフィルターの感触が失せた。
見ると、村瀬が吸いかけの煙草を口に挟んでいるところだった。俺の真似をして思いっきり吸い込み、案の定、女子らしからぬ豪快さで咳き込んだ。片手で眼鏡を外し、手首で目をこすってから、「なにこれ、くそまじー」と吐き捨てる。右手の人差し指にはまだ絆創膏が巻かれていた。
携帯灰皿の口を広げて差し出すと、村瀬はそこへ半分も吸っていない煙草を突っ込んだ。ビニールの上からよく揉み込んで消す。あぁ、やっぱもったいねえ。
村瀬はフェンスの向こう側へ気怠そうに頭をぶら下げた。うっかり落ちてしまいそうな体勢。
注意喚起しようとしたところ、村瀬が先に口火を切った。
「笑わないで、つーか引かないで聞いてよ」
「あぁ」
なんの話なのか、すぐに分かった。やっと話す気になったらしい。
「よく考えたらあたし、由多加のこと、すっげー好きなんだろうなぁと」
すごいシンプル。直情的っていうか、意味不明なくらいに簡素。
「それは、どういう意味で?」
「もちろん友達として。だから、あたしはレズじゃねっつの」
原村の出した可能性その一、的外れではなかったってことか。女ってのはつくづく男には理解し難い生き物なんだろうな、と暫定的に思った。
「どんくらいのレベルで?」
「分かんない。分かんないくらいのレベル」
別の意味で俺もちょっとよく分からない。
「……友達なのに?」
「わりーか」
髪のあいだから覗く村瀬の表情はかなり傷心した様子で、そんな歪んだ心理状態を受けた俺の目と耳には変にもぞがゆい感覚が残った。本当になんと返していいのか分からない。村瀬が異常なのか、それともこれが女の友情なのか、俺には到底推し量れない一線なのだろう。いったん理解することを放棄して訊き返した。
「嫉妬、みたいなもんか」
「全然違うけど、そんな感じ」
風が止むのを見計らって二本目の煙草に火を点け、村瀬の言葉を頭の中で反芻してみる。
全然違うけど、そんな感じ。
結局どっちだ。村瀬の中でも曖昧で複雑なんだろうな。
「あたし、マジいてーよな」
「……うん」
俺は躊躇いつつ、今のファジィ状態な村瀬みたいに頷いた。
人間の無限の可能性を前にした俺は底抜けな辟易と虚脱感を覚えて、それから二十分ほどを費やして村瀬と景色を眺めた。