chapter21 悪女vs小人
翌朝。昨日のキャッチボールの影響で、腕を軽い筋肉痛にして起床。あれしきの運動でこのザマとは、俺も結構歳なのかな。しかし俺はまだ十五歳だった。中二で部活を辞めて以来ほとんど運動をしてこなかった弊害なのだと諦めるしかないのか、それとも、もしかしたら俺は後天性の虚弱体質なのかもしれない。ちょっぴり悲しくなったりもする。
目覚めになにか食おうかなと冷蔵庫を開け、冷凍庫を開けると、ガリガリ君ソーダ味を発見した。ラッキー。
台所でガリガリ君をガリガリやって過ごす。そうしていると居間の方から弟がやってきて、わなわなと震えながら俺が今まさに咥えているガリガリ君を指した。
「ぼくが、朝食べようと大切に取っておいた……」
朝からアイス食うつもりだったのか。実際食べている俺には何も言う筋合いはないのだけど。
怒り猛って襲いかかってくるのかと思えばそうではなく、弟は何故か二階の自分の部屋へと戻っていった。
しばらくして帰ってきた弟の手には水鉄砲が握られていて、弟は片方の口角だけをつり上げてそれを構えたのだ。そんな弟の立ち姿は、どこぞのロシアマフィア然とした威光を放っており、俺の方も朝っぱらから激烈に嫌な予感を受けたのだった。
「観念しな兄ちゃん。これには便器の水をためてきた」
ジーザス。
家中を走り回り、弟の便器水鉄砲の脅威から逃げまどい、朝飯もとらず追い出されるように家を飛び出した。
そんなわけで、相当早い時間に学校に到着する。生徒の影はほとんどなく、学校全体が閑散としていた。少しだけ気持ちがいい。
教室に入ると、すでに一名だけ登校していた。教室後方から入ったために後ろ姿しか確認できないが、座っている席の位置から察するに、村瀬彩音だった。窓際の最前席。
これは好機。身から出た錆である。一昨日の、繰り返された図書室事件の真意を確かめなければいけない。
自分の席に鞄をかけ、存在をアピールするように多少足音を強めてから村瀬に近づく。
村瀬はDSで遊んでいた。後ろから覗き込む。ぷよぷよだった。村瀬はやっと俺の存在に気づき、ゲームを一時停止させてから顔を上げた。
「おっす、今泉」
「おっす」
それからまたゲームを再開する村瀬。それを中腰で覗き込む俺。なんだろう、この何事もなかったような日常挨拶。
カチカチとDSを操作して、ぷよを次々と落としていく村瀬。彼女自身も完全にプレイモードだ。
「あの、村瀬」
「んー?」
「お前、鍋島と喧嘩中なんだよな」
「喧嘩中、ねぇ」
ちょっと笑う村瀬。確かに適切な表現ではないかもしれないけどさ。
「仲直りしないの?」
今度は無視された。ぴくりとも反応もしないガン無視である。
いえーい九連鎖、とかやってる場合じゃないんだけど。
「一昨日のあれ、理由だけでも教えてくんない? ほら、俺が二人の仲を取り持つこともできるし」
村瀬は答えない。俺はぷよぷよから目を離し、村瀬の横顔、というか村瀬の眼鏡を見つめた。薄赤色のセルフレーム。薄いというか、少しだけ透明を帯びているようだ。一昨日、盛大に図書室受付の床に転がしていたけれど、一見して傷一つ入っていない。衝撃に強いフレーム加工? いや、どうでもいいんだけどさ。今はシカトされてることが問題なわけで。
「あ、ここで話すのが嫌ならさ、昼休みに屋上で俺と飯食わね? そんとき話してくれればいいし」
「はぁ、なにそれナンパ?」
画面を向いたままの村瀬。どうしてそうなる、と首を傾げる俺だが、なるほど、屋上と言われれば、普通は新校舎の屋上を思い浮かべるだろう。新校舎の屋上といえば校内中のカップルが集まることで有名だ。虫酸が走りに走って発狂しそうなので俺は行ったことないけど。
「いや違くて、旧校舎の屋上なんだけど」
「旧校舎……?」
ピンと来ない様子の村瀬。旧校舎の屋上は名目上閉鎖となっているし、そもそも存在自体が希薄だから、村瀬の反応は至って普通なのだろう。
DSの画面上でデフォルメの激しいポップなキャラクターたちが動き回る。
「一昨日のあれ、みんなも訳分かんねーって状態だからさ、動機だけでも知っておきたいんだよ。鍋島と仲直りできるかは別としてもさ」
村瀬は答えない。ぷよぷよもラストステージへ突入。
「最近、城川ともあんまり話してないんだって? お前も結構寂しいんじゃないの。お前、あいつのこと相当気に入ってたじゃん」
やはり無言の村瀬。操作する指の方は一層忙しなく動く。ここまで無視を決め込まれると、俺もだんだん、拗ねた弟を相手にしている気分になってきた。
「なぁ、おい村瀬ー」
村瀬の肩を叩いた、そのときだった。
DSの画面上で表示される『ばたんきゅ~』の文字。
あーっ、と声を上げる村瀬。たじろぐ俺を前に村瀬は憤慨して、ようやくこちらを向く。
「なにすんだよっ、今泉のせいで負けちゃったじゃないかっ」
「……お前なぁ」
「コンテニューだ。今泉が責任持って勝てよっ」
言われて、村瀬からDSを押しつけられる。今さらながらこれ、レッドカラーのDSである。多分村瀬は赤が好きなのだろう。
村瀬は、さっさとやれ、と目で表現してきた。
「これで勝ったら、ちゃんと話してくれよ」
「あぁいいとも」
ほんとかよ。
それとも、俺が勝てないとでも思っているのかな。悪いけど、こっちも最近弟とはまってやってんだよ、ぷよぷよ。スーファミのだけど。
「上等だ。やってやるよ」
俺は村瀬の隣の席にどかんと腰を降ろす。村瀬が腕組みして見守る中、ぷよぷよ再開。
腕がなるぜ、なんて意気込んで次々とぷよを動かしていたら、後ろから明るい声がした。
「彩音ちゃんおはよー」
吉岡の声だった。彼女はそのまま俺の横を通り過ぎて行く。気になって、ぷよぷよを一時停止して顔を上げる。
吉岡は腰を屈め、両腕を村瀬の席に乗せた。
「おー美野里。今日も肌つるつるだなー」
吉岡の頬をぎゅっとつまむ村瀬。恐ろしい。俺には絶対できない。吉岡は口元を引っ張られながらも明るい笑顔を絶やさない。
「どんな手入れしたらこんな赤ちゃん肌保てんの?」
「えー、私、何もしてないよー?」
「肌綺麗なやつは大抵そう言うよなぁ、羨ましー」
肌なんて、にきび以外で綺麗かどうかなんて俺にはよく分からない。俺はぷよぷよを再開した。
「あの、そこ、私の席なんだけど」
はっとして後ろを向く。早川が曖昧な笑みをして立っていた。
「わ、悪い」
慌てて席を空ける俺。早川は席に座りながら、俺の顔も見ずに「おはよ」と短く挨拶をしてくる。俺もたどたどしい挨拶を返す。
とても気まずい。それからすぐに村瀬の声が飛んだ。
「サボってんじゃねーぞ今泉っ、クリアできたのかよっ」
俺はDS画面に視線を落とす。うわ、いつの間にか負けてるし。思わず、やべぇ、という顔をしたら、村瀬からDSを取り上げられた。画面を見つめて、またさっきみたいな声を上げる。
「全っ然、ダメじゃん! この下手くそ!」
しっし、と村瀬は手を振って俺を犬のように追い払う。もう一度やらせてくれ、と言いたいところなのだけど、これ以上早川の近くでぷよぷよをするのは猛烈に気が引けた。振った相手というのは接近するだけで空気が悪くなる。
迷うが、村瀬はさっさとゲームを再開してしまうし、早川は背中だけで拒絶を示してくるし、吉岡は意味不明の笑顔をこちらに振りまいてくるしで、居辛さも峠に達した俺はあえなく自分の席に戻ることとなった。
一時限目、玉木の数学。昨日のキャッチボールの件がばれていないかと、挙動不審にひやひやしながら過ごす。
二時限目、宮下の政経。俺は寝た。
三時限目、山岡の英語。実践対話で二人組を組めと言われ、余った。余った者同士ということで曽根本と組むことに。余った際はいつもなら早川の目の届きにくい隅っこで、依子とこっそり組んでいたのだけど、今回は城川に先を越された。越されたというか、依子に二人でせまって、依子が城川を選んだのだ。ショック。軽く城川に嫉妬。
四時限目、移動教室で物理。
そして昼休み。
今日はどこで飯を食おうか、そんなことをぼんやり考えていたときのことだった。
「純」
依子がいつの間にか俺の席のすぐ横で亡霊のように立っていて、俺は椅子を揺らしながらあり得ないくらいにビビった。
「どうしてびっくりするの」
「いや、なんでもない」
だって、依子が俺の席に来るなんて、もしかして入学以来初めてのことかもしれない。しかも、これがまた煙のように音もなく現れたので、うっかり心臓が口からこぼれ出るかと思ったのだ。後ろの鍋島も物珍しそうに依子を見上げた。
「なんか用?」
「シャーペンと消しゴム貸して」
「なんで?」
「ないから」
意味が分からない。今までの授業はどうしてたんだ。
今までの経験から、依子が自らまともで分かりやすい説明をしてくれるとは思えない。詳細を聞くのもいいのだけど、こちらが内容を推理した方が早いときもある。例えば、こういう小さいアクシデントの場合だとか。
家に忘れてきたということはないだろう。三時限目の英語の時間、依子の席に近づいたとき、確かそのときは、依子のナイロン製の白い筆箱は机の上にあったと思う。俺も自分の記憶に絶対の自信はないのだけど。
ここで濃厚なのは、途中で盗まれてしまったということだ。わざわざ人に借りにくるのだから間違いはないと思う。そして盗まれたのは四時限目の可能性が高い。つまり移動教室の物理。
「今泉くん」
ふと、後ろの鍋島が俺の背中をつついてくる。振り返ると、鍋島は何かに気づいたように教室中に視線を這わせていた。鍋島がそっと俺に耳打ちしてくる。
「早川さんと吉岡さん、それに城川さんがまだ教室に戻ってきていません」
はっとして俺も教室内を見回した。確かに鍋島の言う通りだった。村瀬は、他の早川の友達と席を囲み、既に昼食を始めている。
鍋島が懸念を連ねた。
「もしかして、まだ物理室にいるのかも」
絶対にそうだ。俺は突っ立ったままの依子を見上げる。依子が、「さっさと貸せよ」みたいな顔で見つめてくるので、俺は自分の缶筆箱ごと依子に押しつけてから言った。
「依子、お前はもう図書室行ってろ」
「うん」
言われなくとも、という感じで依子は教室を出て行った。それを見届け、俺と鍋島は頷き合った。
物理室は旧校舎側の二階にある。俺と鍋島は半ば走るように旧校舎へと向かった。
階段を上がると、すぐ左に物理室が見える。手前の扉は閉じているが、奥の扉は半開きになっていた。人の気配もある。というか声がした。
早川の声だった。
「あんた、何が言いたいの」
音を立てないように歩き、扉上部の丸窓から中を覗く。鍋島と俺で丸窓を挟むような形となる。
まず一番に早川と城川の姿が目に飛び込んでくる。城川は奥の壁に背中をつき、早川が退路を塞ぐように彼女を追い詰めていた。吉岡は生徒用実験机のスツールに足を組んで座り、机上に頬杖をついて二人の様子を眺めていた。
俺はその机に目を凝らす。吉岡が肘をついているすぐ傍に、案の定、依子のナイロンの白筆箱が置いてあった。さらに、筆箱の横にティッシュが一枚広げてあり、その上に無数に光る何かが乗っていた。
俺は声を殺して鍋島に話しかける。
「鍋島、あのテッシュの上にあるの、あれはなんだ? 俺、目悪いから見えねえ」
鍋島は息を呑み、俺同様に声量を抑える。
「刃、ですかね。よく分かりませんけど、たとえば、オルファの刃を細かく折ったならああなるのかも」
言われてみれば、確かにそういう風に見えてきた。あの刃を筆箱にどう仕組むのかは知らないが、依子に怪我をさせようというのは確からしい。
城川は薄く汗ばみ、畏怖の眼差しで早川を見上げた。早川は背中しか見えないが、彼女が城川を睨みつけているのは城川の様子からも間違いないだろう。早川は身長も高めなので、クラス一背の低い城川を上から見下ろすには充分だった。
「ねぇ、城川さん、黙ってないで何とか言いなよ」
鍋島が軽く俺の制服を引く。
「助けますか?」
「もう少し待とう」
「どうして?」
「あいつ、きっと自分から抜けたいって言ったんだよ。だからあんな問い詰められ方してるんだ。俺らが行っても城川のためにならない」
鍋島は何も言わず、不服そうな顔をして丸窓に視線を戻した。
黙って二人の様子を見つめていた吉岡だったが、このままじゃ城川は何も喋らないと分かったのか、柔和な声色で早川へと声をかけた。
「沙樹、もう心結ちゃんが可哀想だよ」
吉岡が実験机の黒い面をこつりと叩く。早川の後ろに結わえた髪が揺れ、顔が吉岡の方を向いた。
「ここで座ってゆっくり話そうよ」
微笑む吉岡。早川は城川を一瞥し、大人しく吉岡のもとへ行き、彼女の隣に座った。
壁際で固まったままの城川。あなたも早く来て、と早川がきつく言いつけると、城川はびくつきながらも歩み、吉岡と早川に対面するように立ち尽くした。
「沙樹、すっごく恐いでしょ。そこが可愛くていいんだけどね。ほら、心結ちゃん。私の前に座ってよ」
園児を誘導するように優しく告げる吉岡。城川は慎重にスツール引き、吉岡と正面に机を挟むように腰掛ける。三者面談のような位置取りだ。
城川は両の拳をぎゅっと握り、それを両膝の上に置いてから、頭を少しだけ下げた。
吉岡は両肘をついて五指同士を絡ませ、そこにあごを乗せて、また笑顔を浮かべた。
ふと、階段の方から足音がした。俺も鍋島も若干動揺して階段の方を見やる。
階段から上がってきたのは依子だった。どうして依子がこんなところに、と俺は冷や汗をかく。
依子は階段を上りきり、俺たちに気づくと、真っ直ぐこちらへ歩み寄ってきた。手を左右に振って、こっちに来るな、という合図を送ったが、依子は何の疑心もなく近づいてくる。幽霊なのではないかという風に足音も立てずにやってきたから、ひとまずは安心。
音を立てないように依子を掴まえ、顔を近づけながら彼女を睨み据えた。
「何しに来た。図書室行けっつったろうが」
俺がこんなに必死なのに、依子は眉一つ動かさない。状況を知らないながらも、依子も一応空気を読んだのか極小に声をひそめた。
「消しゴムが入ってなかったから」
「消しゴムだぁ?」
わざわざそれで探しに来たのか。入ってないなら入ってないで、しからばシャーペンの頭についてる小さい消しゴムを使えばいいし、つーか、俺ら以外に借りるやつはいないのかよ。
くそ、いないんだろうな。小さく舌打ちをしつつ、藁にもすがる思いで自分のポケットを探る。あ、入ってた。なんでこんなとこに入れてんだ俺。
依子の手のひらにMONOの消しゴムを乗せる。
「おら、これやるからさっさと帰れ」
依子が物理室の異変に気づいていない今のうちだ。城川が依子を裏切っていたなんて絶対に知られてはいけないのだから。
しかしここで、「世間話でもしようか」と吉岡が話し始める。
「平野さんとは、どこまで仲良くなれた?」
依子の目を覆おうとしたが、遅かった。吉岡の声に反応して、依子の顔がばっちり丸窓の方を向いた。鍋島も気まずそうに目を泳がせる。
城川は答えず、下を向くばかりだった。吉岡がまた続ける。
「情が移るくらい仲良くなっちゃったんだね。だから心結ちゃん、さっきみたいなこと言うんだよ。でもね、平野さんってすぐ友達を裏切るから、あんまり入れ込んじゃダメだよ」
あることないこと吹き込んでいるらしい。あんな風に、暗示のように何度も何度も。
俺は依子を流し見る。こうして陰口を直接立ち聞きしてしまっても、依子はやはり無表情を崩さない。
ここまで聞いてしまったのならもう仕方ない。吉岡が依子の陰口を次々と述べる中、俺は依子の耳元に顔を寄せて言った。
「城川に裏切られたなんて思うなよ」
依子は丸窓の方を見つめて押し黙る。
「たしかに最初は、吉岡に命令されて騙すつもりで依子に話しかけたかもしれない。でも今の城川は、依子と本当の友達になりたいって思ってんだよ。だからああやって吉岡たちと戦ってる」
依子は城川たちを見つめたまま、やがて小さく頷いた。
「あたし、心結のこと信じる」
「それでいいんだよ」
そのとき、早川がしびれを切らしたように大声を上げた。
「いい加減、何か言いなさいよっ!」
声に合わせて、城川の全身が震えた。城川はさらに顔を下げる。
まぁまぁ、と吉岡が早川をなだめると、釈然としないように早川はそっぽを向いた。
「心結ちゃん。私の話、つまんない?」
「そ、そんなこと、ありません」
城川がようやく答える。虫のささやきのような矮小な声だった。城川が答えてくれたことが嬉しいのか、吉岡はまた楽しそうに微笑んだ。
「よかったぁ。でも心結ちゃん、どうしてそんな話し方なの? もっと普通に話してよ。私たち、友達だよね?」
「……うん、ごめんね」
厚かましい友達意識だ。
吉岡が、ティッシュの上に乗せられたカッターの刃の欠片をいじり始める。城川が怯えてそれを見つめた。
「それで、これはどういうことかなぁ」
吉岡は手のひらの上にカッターの刃の断片を一つ一つ乗せていく。
「今泉に沙樹のノートを取り上げられて、その上、取り返せなかったんだよね。挙げ句の果てにもう捨てられた? なにそれ。沙樹、超可哀想じゃん」
やがて、吉岡の右手の上に刃の山が出来上がる。城川は目も離せずにその山を凝視した。
「それで心結ちゃん、なんて言ったっけ。いじめはよくない、もう止めよう、だっけ?」
吉岡の右手が軽く握られる。とっさに城川が目をつむり、顔を守るように手をかざした。横で鍋島が口元を覆う。
吉岡の手から刃の山が放られた。窓から射す光を浴びながら、悲鳴も上げずに城川はその雨を受ける。
「寝言は寝て言えよ」
口調とは裏腹に、吉岡は口角を吊り上げて笑った。俺たちは微動だに出来ずそれを見守る。
幸い城川の顔に目立った外傷はなかったが、ただ一つ、刃の一片が左眉の上に突き立ったままだった。城川は恐怖のあまり、こちらまで聞こえてくるほどに荒く息を吐き出した。
「心結ちゃんって、役立たずの上に頭もおかしいんだね。私たちがいじめなんてするわけないじゃん。ねぇ沙樹」
「ほんと。城川さんもひどい思い込みするわよね」
早川は先程の吉岡の行動に一切の動揺を見せていない。吉岡は小さく首を傾げて城川の顔を覗き込んだ。
「私たちがしてるのはね、いじめじゃなくて抵抗なの。平野さんが沙樹のこといじめるから、これ以上やるなら私たちも黙っちゃいないぞーって、彼女に警告してるんだよ。あの子相当間抜けだから、まだ全然分かってないみたいだけど」
鍋島からの視線に気づく。そろそろ止めに行こう、鍋島はそんな目をしていた。俺は首を振った。城川はまだ何も言い返していない。
鍋島が厳しく睨めつけてくるが、俺はあえて目を逸らした。
やがて、城川がたどたどしく口を開く。
「あのね、美野里ちゃん、わたしね、もう」
「なに? 全然聞こえない。もっとはっきり喋りなよ」
城川は唇を噛み、また下を向く。額に刺さった刃がぷつりと抜け、地面へ落ちていく。吉岡はひどくつまらなさそうにボブカットの毛先を指に巻き、それから少しだけ声のトーンを上げた。
「あの子、彩音ちゃん。あの子は使えるよね」
村瀬の名前に、城川の肩がぴくりと反応する。
「使う……?」
「人の身体べたべた触ってきて超うざいんだけどね。でもあの子、私たちの言うこと全部信じちゃうんだよ。なんでもだよ? なーんでも」
城川の反応が面白いのか、吉岡は口元に不気味な笑みを浮かべ、嘲笑した。
「なんたってあの子、馬鹿なんだもん」
城川のまつげが細かく揺れ、瞼が僅少大きく開かれる。
「あんなに頭の悪い子、私初めて見ちゃった。でもね、よく動くしちゃんと使えるんだよ。私、ほんとおかしくておかしくて。ほら、調教されたお猿さん。あれ思い出しちゃった」
早川が小さく吹き出す。吉岡はさらに口元を歪めて城川の顔を覗き込んだ。
俺は隣を流し見る。依子は一部始終を冷めた目で見つめるばかりだった。ふいに、鍋島が俺の腕を掴む。爪が食い込み、思わず声を上げそうになる。
鍋島も悔しいのだろうか。彼女がどこまで村瀬のことを許しているのかは分からない。しかし、村瀬が原村にした行為自体を許していないにしても、少なくとも鍋島が村瀬の全てを否定しているはずがない。俺の腕を掴む手が、雄弁にそれを物語っていた。
俺は物理室を見つめ、心中で城川へと念じを送る。
言え、城川。
やがて、城川が吐息を漏らした。
「村瀬、ちゃんを……」
「だからぁ、全っ然聞こえないんですけど。ちっちゃいのは身長だけにすれば?」
悔しさのあまり、城川が鼻をすすり始める。
「わたしの……わたしの、友達を……」
「わたしの友達を馬鹿にするな」
すぐ隣から声が上がった。何が起こったのか、俺は事態を一瞬計りかねた。
鍋島だった。彼女は扉を開け、城川へ向けてはっきりと言い放っていたのだ。俺は軽く頭を抱える。せっかく言おうとしてたのに。
物理室にいた全員の目が鍋島へと向いた。
「村瀬ちゃんを馬鹿にするな、ですよね。城川さん」
はぁ、もういいんだけどさ。鍋島が笑いかける。城川は吃驚したように鍋島を見つめ、目に涙を浮かべた。しばらくの沈黙が流れ、それから城川は吉岡の方を向く。
「わたしの友達を、馬鹿にするな。村瀬ちゃんを、馬鹿にするなっ――」
大きく息を吸い込み、ぎゅっと目をつむる。溜まった涙が零れ飛んだ。
「――馬鹿はお前だっ!」
鼓膜を叩き破らんばかりの怒号が飛び、俺の全身をびりびりと打つ。あの小さい身体の一体どこからあれだけの声が出るのか、本当に不思議で仕方なかった。
吉岡も早川も口を小さく開け、ぽかんとして彼女を見つめていた。
まもなくして、吉岡がまた笑う。軽く引きつった笑み。
「なにそれうける。なぁおいクソチビ。お前今なんつった? どこの、誰が馬鹿だって? こら、おい、もういっぺん言ってみろよ」
城川の前髪を掴み上げる。城川は一度喘ぐが、それでも果敢に声を発する。
「何回だって言うよっ。馬鹿、ばか、ばかばかばかばかばか」
吉岡の手がゆっくり上がっていく。さすがにもう止めるか、俺は声を上げようとしたが、先に彼女の手を止めたのは早川だった。
「もういいよ、美野里」
早川は、吉岡から軽く視線を外して言う。
「馬鹿とかどうとか、マジくだらない。こんなやつもういいから、帰ってお昼食べよう」
早川を一瞥し、吉岡は逡巡する。それから再度城川を睨みつけるが、やがて掴んでいた前髪を離した。早川の言葉には従うんだな、と俺が思ったその直後、吉岡の平手が素早く振り抜かれた。
ぱんと弾けるような音がして、城川はスツールごと床に倒れ伏した。マジでぶちやがった。
「おいっ」
城川のもとへ駆け寄り、起こし上げる。彼女は半分自分の力で起き上がった。
「もう行くぞ」
吉岡の視線を無視し、机の上に乗った依子の筆箱を引ったくるように拾い上げ、城川を連れて扉の方へと向かう。鍋島が心配そうに待っていた。
城川の頬を見ると、ばっちり手の形に赤くなっていた。左眉の上にカッターの痕も。すげえ痛そう。
そんな風に思っていると、城川がふと足を止める。何をするのかと怪訝に城川を見下ろした。
城川は吉岡の方へと勢いよく振り返り、片方の下瞼を引っ張って思いっきり舌を出した。
「あっかんべーっ」
なんと幼稚な。いまどき小学生でもやらない。吉岡の顔を見ると、しかし彼女は結構マジギレな様子で頬をひくつかせていた。
俺は慌てて、今度はべろべろばーを始める城川を引っ張って物理室を出た。依子も何故か城川を真似てあっかんべーをしていたので、軽く彼女の腕を小突いて連行。
「これ、私もやった方がいいんですか?」と鍋島。
「やらなくていいから。もう戻るぞ」
心結のくせにっ、という吉岡の怒声が室内から上がるが、気にしないようにして俺たちは物理室を後にした。