chapter20 弱虫と懺悔とキャッチボール
夕暮れに染まる夏の教室は安穏としていたが、俺と城川を挟む空間だけは緊迫していた。確実に主導権を握っている俺でさえ息が詰まりそうだ。
俺は手のひらにあごを乗せたまま城川の目を覗き込むが、城川は額に薄く脂汗を浮かせ、視線をあちこちへと這わせている。逃げようにも、腰から全身から力が抜けて身じろぎ一つできないという状態だった。
責めるのをやめてあげたい、というのが半分、いたく嗜虐心を煽られるな、というのが半分だった。自分でも最低な心理状況だったと思う。
「依子のメアド回したのって、城川?」
「……はい」
緊張でまともに答えられないだろうと思っていたが、彼女も腹を決めているのかもしれない。
「ノートは?」
「え」
「依子の、あのノートだよ」
城川の身体が震え、大きな目をさらに見開かせた。俺も思わず語調が強くなってしまったようだ。
城川は俺の鞄をぎゅっと抱きしめ、左上に目をやり、右上にやり、そして俺の胸元まで泳がせてから答える。
「あさ、朝早くに学校に来て、依ちゃんの机に、入れました。それで、それで」
「焼却炉には」
「焼却炉には、三時限目の休み時間に、トイレに行くふりをして、入れにいきました」
城川の声質にはもう水気を感じなかった。
「落書き自体も城川が書いたのか」
「かか、書いてませんっ」
「だよな。城川にそんなこと出来るわけねえよな」
落ち着かせるべく微笑みかけたつもりだったが、城川は唇の奥でかたかたと歯を鳴らして押し黙った。
皮肉と受け取ったのだろうか。落書きは出来ないけど、捨てにいくことは出来るんだな、という皮肉に。
「他には?」
城川は答えない。机を叩くと、コンマ遅れて城川の全身も跳ね上がった。
「他には?」
「剃刀、を」
「剃刀を?」
「朝、剃刀の刃を、上履きにしかけました」
「それ、どうなった」
「依ちゃんはすぐ気付いたみたいで、し、新聞紙に、くるんで、捨てていました」
「よかったな、城川。せっかく作った大切な友達が怪我しなくて」
城川は下を向き、みしりと鞄を抱く。俺の鞄なんだけどなぁ。横髪が肩から落ちて目元を隠す。歯のかち合う音も些少大きくなる。
俺は城川の唇を見つめた。震えているというより、ぱくぱくと開け閉めしているように見える。何か言いたいらしい。ここにきて何故か、俺は彼女の言い訳を聞く気がしなくなっていた。
俺はそのまま続ける。
「依子と友達になりたいって言ったのも、全部こういうことだったんだな」
ううう、と城川が咽ぶ。ぎゅっと閉じた瞼の間から一雫。
「別に依子が傷くどうので怒ってんじゃねえよ。俺、結構お前のこと信じてたんだよな。こうして城川に裏切られてさ、今すげえ泣けてくるんだわ」
言い過ぎだ。
「誰に仕向けられた。吉岡か? それとも早川? そんなにあいつらは恐いか。いじめに走りたくなるくらい恐えのかよ」
「……なさい」
「あ? 聞こえねえよ」
止めろって。もうマジ泣きだから、城川。
「……ごめんなさいっ」
「聞こえねえ聞こえねえ全く聞こえねえ。俺はな、お前のそういうめそめそうじうじしたところが前々から鼻についてたんだよ。そのどっちつかずの態度がよっ」
本当に城川は悪いのか。俺は、誰かに責任転嫁したいだけなんだ。
「すみません、もう、許して」
それとも俺の頭がおかしくなったのかも。だって、可哀想だなんて微塵も思えなくなってきた。
城川は鞄を落とし、守るように頭を抱える。俺は隣の席を蹴ってから、城川の肩を掴む。彼女は小さく悲鳴を上げた。
「やめ、てっ」
「何とか言え。はっきりものを主張しろ。 わたしは、どっちにつく、おら言えっ!」
「ううっ……」
はっきり喋らない。恐れる。負ける。泣く。逃げる。震える。怯える。臆病者。
弱いことは、悪いこと?
「お前は、卑怯なんだよ!」
卑怯はどっちだよ。
「今泉くん」
俺?
左頬に石が突き刺さった、と思った。視界に星がちらつき、何故か土星やスペースシャトルまで見えた。感触からして、石だと思っていたそれは拳だった。しかも俺よりずっと小さい。反動で右側の窓にこめかみから激突する。みしりという音がした。窓の音か、俺の骨の音かは分からない。
視界の端に、グーを振り抜いた鍋島の姿があった。なんで鍋島がここに居るんだ。城川は口元をおさえて言葉を失った。
「どうりで騒がしいと思いましたよ」
俺はとっさに右のこめかみと左頬の両方を抑え、机に顔を落とした。口の中で血の味がした。超いてえ。
「こういうときって、普通パーじゃね?」
「今泉くんにはグーがお似合いです。本当は目潰しでも良かったんですけど」
じゃんけんは三すくみ型ではなくピラミッド型だと知る。
頭を下げつつ、まず窓に視線を送った。あれだけ全力でやられたのにヒビ一つ入っていない。前方にシフト。城川が居ない。左へ。鍋島が城川を隠すように抱いていた。
「お前なっ、鍋島がそうやって甘やかすから城川は」
「あなたが城川さんを語らないで」
鍋島の気迫に俺は口を閉ざした。為すすべもなく机の平面に視線を落とし、頬とこめかみのじんじんとした痛みに耐える。
痛みより先に、徐々にではあるが思考の方が冷えてきた。あと、目も覚めた。
「今泉くんの味方集めってこういうことだったんですね。ありえない。最低。これじゃ、吉岡さんたちの方がよっぽどましです。この大バカ泉。唐変木。変態。痴漢。暴漢魔」
鍋島の辛辣な言葉が降りそそぐ。二つの意味で頭が痛い。痴漢とか暴漢魔とかはちょっと違う気もするが、言い返す筋合いは一糸たりとも俺にはなかった。
激痛に耐えながら再度視線を上げる。鍋島は未だ激情を顔にして、軽蔑と敵意の眼差しを俺へ向けていた。
城川は、鍋島に抱かれながら震えた手をぶら下げている。もう泣いていなかった。代わりに、痛ましいほどの謝罪の色を浮かべる。
「ごめんね、今泉くん」
「城川さん、もうこんなのに謝ることはありません」
痛みがだんだん引いてくる。俺は静かに椅子を立ち、二人へと正対した。鍋島が警戒する。また殴られそうだったが、俺はそのまま頭を下げた。
「ごめん城川。俺、ちょっと頭いかれてた」
視界いっぱいに教室の床が映り込む。夕暮れはもう色をなくし、淡いグレーの木目を晒していた。
「卑怯は俺の方だったよ。本当は城川に悪気はないって分かってたんだけど、調子こいて、マジださかった。ごめん」
それから顔を上げると、城川は沈んだ顔で俺を見返した。斜め下を向き、また涙を一つ落とす。鍋島の手を解いてから、今度は城川から頭を下げてきた。
「ごめんなさい」
しかも、俺よりずっと深く。
「もう、負けないから……」
それから城川は後ろを向き、小走りで自分の机にかかった鞄を拾い上げる。鍋島が彼女の名前を呼ぶが、城川は止まらなかった。ときおり椅子や机にぶつかりながら、教卓側の出口から走り去っていった。
きんとした静寂が訪れる。鍋島は扉の方を向いたまま立ち尽くした。鍋島が城川へ向けて伸ばした右手は虚空を握り、膝元へと落ちる。
俺はその右手を見つめる。握られた拳は、まだ俺への怒りを残しているからなのか、それともまた違う意味なのか。
「今泉くんにだけは、話しておきます」
「なにを」
やがて握られた拳がゆるやかに開かれていく。静寂の中に紛れ込むように、鍋島の声が宙を浮いた。
「城川さん、昔いじめられてたんですよ」
俺は彼女の右手から、おさげが二つさがった後頭部へと視線を移した。
「中学三年生のときだったかな。私が初めて城川さんを知ったのも、ちょうどそのとき」
鍋島が横顔を見せた。口元は曖昧に緩んでいたが、心を揺すられるほどに哀しい目をしていた。彼女が振り返りきって、その目で見つめられると、俺の心臓はまたじりじりと熱く痛んだ。
「城川さん、引っ込み思案だし、気も弱いじゃないですか。それにあの頃は身体もずっと弱くて、風邪ばかりひいてて。いじめられたって、彼女、何も言い返せないし、されるがままだったんですよ」
いじめられる城川を想像する。確かにいじめやすいだろうな、と思った。依子と比べてもずっと。実際、さっきの俺がそうだった。責めれば責めた分だけ謝るし、もしこっちが完全に悪いとしても、城川はそれでも謝り続けるだろう。叩いても叩き返さないし、物を盗んでも諦めるだろうし、裏切られても文句すら言えないし、何をされたって無抵抗。
今みたいに、鍋島のような存在がいなければどうなるか。
「だから私、助けようとしたんです。止めろって喚いたり、直接先生に訴えたり」
鍋島は俺へと向けた目を伏せる。それから、二度と俺を見ようとしなかった。
「そうしていると、今度は私がいじめられ始めたんです。そのおかげで城川さんは一時的にいじめの標的から外されたんですけど」
こんな顔をするのならいっそ泣いてくれた方がいい、一瞬だけそう思った。二度目の罪悪感が俺を襲う。
「私、城川さんがああして恐がる気持ち、なんとなく分かる気がします。いじめられて、初めて見える景色があって」
いじめられる鍋島を想像する。
叩かれても盗まれても裏切られても何も言えない鍋島。想像出来ない。本人とは食い違う。ただし、俺の中での鍋島だけど。
「景色が色褪せて見えるんです。視界が狭くなるんです。何も見えなくなるんです。どろどろです。朝を迎えるだけで気分が悪くなる。足は鉛みたいになります。月曜日が嫌いになって昼休みが嫌いになって体育が嫌いになって行事が嫌いになって、頭の中にあるのは、明日の不安だけ。こうなったらもう、心の中で泣き叫ぶことしかできない。お願いだから、もうやめてください、って」
俺は何も言えないまま、崩れるように椅子に座り込んだ。俺は、鍋島のことを全然知らなかった。
「結局、私は逃げました。三年生の残りの半年間、逃げて逃げて、また城川さんがいじめられ出しても、逃げて、全力で逃げきりました。どうして城川さんが今、私と普通に接してくれるのか、正直、全く理解できません。いっそのこと、好きに罵ってくれればいいのに」
そう言うと、鍋島は両膝を床についた。両手もつき、力なくうな垂れる。
「私、弱いものいじめは大嫌いだし、見るのも嫌なんですけど、でも」
床を打つ涙。おぼつかない声色。
「されるのは、もっと、嫌だったから……」
今の鍋島に、俺はどうすべきなのか。褒めることは出来ないし、かといって蔑むことも出来ない。
いじめに立ち向かって負けたからって誰が笑えるか。負けたことより、そこから腐ってしまうことが問題だ。だとしたら鍋島はまだ全然腐っていない。
とにかく、目を逸らしては駄目だと思った。鍋島のとった行動を悪だというのならば、目を逸らし、鍋島を見捨てることの方がもっと悪なのだから。
「城川さんや今泉くんに、私には何も言う資格はありません」
俺は椅子を離れ、彼女のそばに腰をおろした。
「本当に、すみませんでした。私のことも殴ってください。私も、目を覚ましたいです」
「殴らねえよ」
代わりに鍋島の頭に手を置く。もし俺が原村なら、ここで抱き締めて慰めることも出来たかもしれない。しかし人には適材適所というものがあるから、俺に出来ることといえば、これくらい。
「話してくれてありがとう。お前が完璧人間じゃなくて、逆に安心したよ」
俺は心のどこかで鍋島を尊敬していた。いじめは悪いことだと言い切る姿勢を尊敬していた。
尊敬という言葉について考える。
相手の人格を崇高だと敬いながら、実のところ相手を突き放すことになっていたのかもしれない。尊敬にも種類はあれど、俺が彼女に向けたのはそういうものだった。同じ人間として対等な目線に立つことを放棄していた。
鍋島は強いだなんてただの思い込みで、ただずさんな扱いをしていただけで、彼女への配慮を怠っていただけだった。
今からでもいいから、鍋島を助けてあげよう。
「これからは、鍋島も城川も依子も、誰もいじめられないようにしないとな」
鍋島は声もなく頷いた。
教室を出て鍋島と別れる。鍋島が泣き止むまでにも結構時間がかかった。
図書室へ行くと、当たり前なんだけど、もう閉室になっていた。そして、これまた当たり前のように依子と原村も居なかった。とても薄情なやつらだと思う。ちょっと鞄取ってくる、だけで一時間近くも戻らない俺が言うのもあれだけど。
校舎を出ると、もう辺りは薄暗く、かなり寂しい思いでとぼとぼと自転車置き場へ向かった。一度校舎の方を振り返る。職員室にしか明かりは灯っていない。そのうちあの明かりも消えて、ついでに校門も閉まってしまうのだろう。せかせかと歩く。
自転車置き場の照明に照らされ、依子と原村がキャッチボールをしていた。二人とも額に青春の汗をにじませていた。特に原村。
おーし、えいしゃおら、しゃーこら。変なかけ声。
「置きっぱなしの自転車のかごにグラブとボールがあったからね。こいつぁやらなきゃ損だろうと。一心不乱の無我夢中で平野と放り合いしてたんだ。楽しかったなぁ、平野」
原村の説明は説明になっていなかった。無駄に爽やかな感じで顔面の汗を手の甲で拭う。
「原村先輩に、無理矢理つきあわされた」
不憫な依子だった。グラブにバンドエイド顔のザ・野球少年依子。いじめを受ける張本人なのに、こいつが一番お気楽としているのは気のせいなのか。
「もしかして俺のこと待ってた?」
「正確には、今泉ともキャッチボールしたいから待ってた」
俺が原村のiPhoneを投げ壊したこと、もう忘れたのかな。
それから三人で三十分ほどキャッチボールをした。そうしていると、生徒指導の玉木が怒鳴り声を上げて校舎から出てくる。真っ暗でよかったと思う。からくも玉木の魔の手から逃げ帰った俺たちだった。