chapter19 放課後、教室にて
放課後だからなのか知らないけど、保健室に保険医の先生は居なかった。肝心なときに運が悪い。
加えて、俺も依子も保健室に入るのは初めてだった。扉が開いていたからよかったものの、物の場所を把握していないために二人でもたつく。
室内の隅に簡易洗面台があったので、まずは依子にそこで傷を洗うように指示し、その間に俺は救急箱を探す。救急箱はガラス棚に三箱並べて置かれていた。使用記録帳なんてものもあったが、これはよく分からないので無視。
傷を洗い終えた依子と丸椅子で向かい合うように座る。
動かないようにと首根っこを掴んだら少しびっくりされた。弟と喧嘩するときの癖が何故ここで出るのかはよく分からないが、とにかく慌てて離した。
依子の左目の下には長さ二センチほどの切り傷が入っていて、血はもうほとんど止まりかけていた。出血が酷かったので傷も深いだろうと思っていたが、こうして見ると案外そうでもないのかもしれない。
ただちにバンドエイドで傷を覆う。
なんだか、やんちゃな野球少年のようになった。色白の依子には似合わない。
「これで大丈夫だと思うけど、一応、形成外科行く?」
「行かない」
依子は小さく首を振る。こうして傷を心配してあげているのに、こいつはやたらと平気そうな顔をしている。普通、顔の傷って女の方が気にするものじゃないのかな。
本人がいいならいいんだけどさ、俺はやっぱ後味が悪い。
「痕、残らないといいな」
「残らないよ」
妙に自信ありげな依子。
「昔、純と喧嘩して、あごのところ引っ掻かれたときも、ちゃんと治ったし」
「あったな、そんなことも。あんときは悪かったよ」
「あたしもいっぱい純のこと叩いたから、おあいこ」
小学校低学年の頃か。小学生なんて男子も女子も体格は変わらないから、昔は依子とよく引っぱたき合いの喧嘩をしていた。俺ほどではないにしろ、依子もすぐに感情的になるガキだったし、今以上に喧嘩は絶えなかった。昔は手が出て、今は口が出てって感じだけど。
「お前も女の子らしくなったと思ったんだけどな。なにかある度に思うけど、やっぱ人って簡単には変わらねえのな」
昔と比べれば異常なくらい大人しいけど。
依子は口をつぐみ、俺の膝元に視線を落とした。さっきの騒動も、一応反省はしているらしい。反省なしなら叱りつけようと思っていたけど、これならもういいか。
「この前、中学のときに鍋島そっくりの友達がいたって言ってたよな、お前」
依子は躊躇いがちに頷く。
「頭にきたんだろ。そんときの友達が馬鹿にされたように見えて」
依子は下方を見つめたまま押し黙った。
否定しないところを見ると遠からず近からずって感じか。自分でもよく分かっていないのだろう。
「明日、ちゃんと村瀬に謝れよ」
「嫌」
「なんでだよ」
「あの子が鍋島さんに謝ったら、あたしも謝る」
ふてくされる依子。まだ村瀬の件は根に持っているらしい。意地っ張りなのか、中々強情なやつだ。
こういうときって、謝る優先順位なんてものはあるのかな。鍋島を故意に傷つけた村瀬と、その怒りに任せて村瀬を殴りにかかった依子。どっちもどっちな気もするけれど、原因を作った村瀬から謝る方がお互いすっきりするかもしれない。
それにしても、やっぱり依子は鍋島のことが気になるのだろうか。そのくせ鍋島を避けようとするのは、好きな子をいじめたくなるみたいなお子さま的心理なのか。何しても、とことん不器用なんだろうな。
図書室に戻ると、もう利用者の姿は見当たらなくなっていた。大きな騒ぎにはならなかったようだ。
依子を後ろに連れて、受付の扉を開ける。城川はすでに帰ってきていた。外の雨でブラウスが湿っている。彼女は長机に突っ伏し、数秒間隔で鼻をすすっていた。
原村は受付を離れ、城川の隣に椅子を置き、頭を垂れて座っていた。俺たちが入ると原村は顔を上げ、口元だけで笑う。
「眼鏡だけは渡せたらしいんだけどね」
原村が城川の肩をぽんと叩くと、城川も伏せた顔を少し上げた。鼻頭が真っ赤で、随分と泣きはらしていたようだった。スカートのポケットからハンカチを出し、じっとりと濡れた目をしきりにこする。
「もうわたしたちには関わらないって、それだけ言われて、逃げられちゃった」
それっきり城川はハンカチに顔をうずめてしまった。依子は城川の隣に腰掛け、彼女の髪をすくように撫でる。
原村はそんな二人の様子に苦笑いを浮かべた。
「もう僕には何がなんだか」
原村は説明を求めるように俺を見てくるが、俺もどう説明していいのか分からない。鍋島が彼に向ける好意を、軽々しく俺が口にしていいものかどうか。
一度後頭部を掻き、誰にも聞こえないくらいに小さく息を吐いてから、俺は口を開いた。
「明日、村瀬と話してみるよ。俺の知ってることだけじゃまともな説明はできないし」
とりあえず保留。原村は曖昧な笑みのまま頷いた。しかも、これは村瀬が明日来てくれればの話だ。ついでに鍋島も登校してこないかもしれない。うちのクラスって、なにかショックを受ければすぐ休む風潮があるんだよな。すこぶるメンタルが弱い。
城川はハンカチから顔を覗かせて、不安そうに俺を見上げた。
「もし話せても、村瀬ちゃんを怒らないであげて。きっと村瀬ちゃんにも、なにか理由があると思うから」
「怒らねえよ。話聞くだけだ」
よかった、と城川が小さく笑う。それから俺は依子に視線を送るが、依子は城川の髪を撫でつけるままで、俺と目を合わせようともしなかった。
「言っとくけど、僕は何も気にしてないからね」
ふと、原村がそんなことを言う。
「あんなものはただの行為だし、気持ちが伴っていなければ何の意味もない」
そうだろ、平野、そう原村に問いかけられ、依子は疑問を表情にする。
「早川沙樹の前で、平野が今泉に迫ったときのことだよ。たしか平野はそう言ったんだ。こんなものに意味はないって」
原村の問いかけに、緩慢な間をもって依子は頷く。
一週間以上も前、配役は違えど、この場所で今日と似たような出来事があった。そのときの依子が早川になんと言ったかなんて、俺は動転していたから欠片も覚えていないんだけど、原村と依子がそう記憶しているのならそうなんだろう。
「だから僕も、今日のことは意味のないこととしてすっぱり忘れるよ。だから僕のことは気しないで、あとは頼む」
「原村」
原村は笑顔のまま、返事もなく俺を見返す。
「どうして鍋島があんな風だったのか、お前、実はなんとなく分かってんだろ」
原村がたまに俺と依子のことで茶化してくるように、俺も彼の調子を真似して訊いてみた。原村は目をぱちぱちとしばたかせて、んー、と唸り、それから気色の悪いはにかみ笑いを浮かべた。
「んふふ、どうだろうね」
訊かなきゃよかった、と俺は激しく後悔した。とても癇に障る反応をしてくれる男だ。鈍感で無頓着な原村が俺は好きだったのに。くそ、裏切られた。正直、すねを二、三回ほど蹴り小突きたいな、とも思った。しかし今の雰囲気だと冗談半分でも許されないので、余計に悔しかった。
原村ははにかんだままの顔で、鳴らすように手を打った。
「みんなご傷心のようだけど、そろそろここも閉室だから、僕らも引き上げようか」
原村はもっと傷心した方がいいと思うが、帰ることに関しては俺も同意だ。
依子も城川も、彼の言葉に控えめに頷く。俺は窓から外を遠望する。
雨雲は、もうすっかり形を縮めていた。
途中でブックオフに寄り、それから家に帰る。夕飯を食べ、一度ベッドで横にながら煙草を吸っていたときのこと。携帯に依子からの着信があった。
「なんだよ」
もしもし、という合い言葉は依子流マナー事典には存在しないので、俺は端から用件を聞くことにした。
「携帯に変なメールが来る」
「迷惑メール? どんくらい来んの」
「五十件くらい」
俺は煙草をくわえたまま勢いよく半身を起こした。
「なんでそんなに来るんだよ」
「わからない」
「内容は?」
「きもいとかうざいとか。面倒臭かったからあんまり見てない」
半分しか吸っていない煙草を灰皿に押しつける。スパムメールの類ではなさそうだ。
嫌がらせメール。いかにも今どきのいじめって感じがする。
「依子、学校の生徒には誰と誰にメアド教えた?」
依子はしばし考えるように口を閉ざす。
しばらくして彼女は口を開いた。嫌がらせメールなどものともしていないようで、依子は淡々とその名前を言い連ねる。その生徒名を頭の中で並べ、よく思案してみると、やがて俺は考えたくもない可能性に行き着いてしまう。
「分かった。明日、アドレス変更の仕方教えてやる」
「うん」
依子が電話を切るより先に、俺は通話を切断した。もう一度煙草に火をつけ、天井を見上げるようにベッドへ横たわる。可能性で終わることを、ただ願った。
翌日の火曜日。
俺は遅刻した。割と久々に寝坊をした。ブックオフで買ったクローズ全巻を読んでいたら、つい、というわけである。
三時限目の政経で、教室後方の扉からこっそり入ろうと計画していたが、廊下側の窓から見える教師の顔が何故か司書の宮下だったわけで、あいつならバレてもいいやと勢いよく教卓側の扉を開けたところ、宮下は満面の笑みで俺を指さしてきた。
「これから五頭先生に怒られる今泉くんだー」
「なんで宮下先生がここにいんの」
宮下のはやし立てを無視した。
「政経の池田先生が今日から産休に入るんですよ。だから一年の政経はしばらく宮下が受け持ち。よろろん」
「よろろん」
よろしく、意味だと思うのでそう返した。
教室を見回した。一番に早川と目が合い、お互いすぐに目を逸らす。村瀬も鍋島も全員登校してきているようだ。村瀬は頬杖をつき、窓の外を眺めていた。彼女の右手を注視すると、人差し指の爪を巻くように絆創膏が貼られていた。
鍋島は手元に視線を落としていたので表情は分からないが、ちゃんと学校に来たのは意外だ。真面目なのか、ただ無理をしているのか。
依子は昨日と同じくバンドエイドを貼った野球少年的な面持ちをノートに向け、城川はそわそわと心配そうに俺を見つめ、吉岡はつまらなさそうにペンを回した。
自分の席へ向かおうとすると、すぐに宮下から肩を掴まれる。そしてにっこりと微笑まれた。
「君の来るべきところはここ一年二組の教室じゃありません。生徒指導室で鬼の五頭がお待ちですよ」
「宮下先生も指導された方がいいんじゃないの」
「宮下に母ちゃん以外の指導は意味を為しません」
「俺には五頭先生の指導も母ちゃんの指導も意味を為さないんだけど」
「なるほど。自分に似て君もかなりの問題児だ。よーしみんな、残りの時間は自習にします」
笑顔の宮下に引っ張られていく。廊下に出ると、教室から曽根本一人の寂しい歓声が上がった。
結局俺は三、四時限目を生徒指導室で過ごした。学年主任の五頭と生徒指導の玉木に交代で見張られながら、ひたすら四時限分の設問を解かされた。
帰ってきたのは昼休みに入った頃で、自分の席に座り、すぐに疲れで机にうな垂れた。いつもならここで鍋島がせせら笑いながら話しかけてくるところだが、やはり今日の彼女は大人しかった。
机に寝そべったまま後ろを見ると、鍋島もこちらに気づく。鍋島は一人で弁当箱を広げていた。
「昼飯、城川と食わねえの」
あえて村瀬の名前は出さなかった。すると、鍋島は力のない笑みを浮かべる。
「城川さんは、図書室で平野さんと食べるそうです」
「だったら鍋島も図書室で食えばいいじゃん」
「城川さんにそう誘われたんですけど、えっと、遠慮しておきました」
今日は一人にしてほしいのだろうか。しかし鍋島の顔を見ると、どうも俺にはそう思えなかった。きっと、城川や依子に気を使わせたくないのだろう。
教室の前方を見渡す。早川と吉岡のグループに、村瀬が混ざっていた。彼女らは寄り集まり、姦しく騒ぎながら昼食をとっている。そんな一団から目を離し、俺は横向きに座りなおした。
「たまには俺と飯食うか」
鍋島は下を向いたまま頷いた。
鍋島との無言の昼食会が始まる。横綱力士六人分ほどの重い空気が襲いかかり、息苦しいほどに気まずかった。本当は旧校舎の屋上で原村と食べるか、もしくは図書室で依子たちと食べた方がずっと気は楽なんだけど、鍋島を一人にするのはあまりにも酷だ。
俺は、親父が再挑戦して作ったサンドイッチを無言で食べた。卵サンドは大分ましになってはいるが、今度はカツサンドの方がびちゃびちゃだった。ソースかけすぎだよ。今回ばかりは自分で持ってきたポケットティッシュを駆使する。
鍋島のために、ない話題を必死で探した。明るい話題をフル回転で模索する。あ、一つだけあった。
「依子と城川、すっかり仲良くなったみたいだな」
言葉にしてみて、これもどうだろうと頭を抱えた。その影響で鍋島は一人きりの昼休みを過ごすところだったのだから。
「いいことですよね。平野さん、孤立しないで済みそう」
「だな」
逆に鍋島が孤立しないか心配する俺だった。
沈黙、第二ラウンド。
そもそも俺は会話下手なのだ。この役どころは荷が重い。カツサンドに苦戦しつつ、紙パックの野菜ジュースを飲む。手も紙パックもべたべたになってきた。
そのうち、鍋島の方からぽつぽつと話題を振ってくる。
「昨日、平野さんから電話がありました」
パン生地が喉につまりそうになった。信じられない、という顔で鍋島を見る。鍋島は弁当箱の中を見つめたままだったが、どこか嬉しそうに口元を緩めていた。
「依子、なんて言ってた?」
「開口一番に『大丈夫?』って訊かれました。大丈夫ですよ、って答えたら『よかった』って言われて、すぐに切られちゃいましたけど」
悪戯電話かよ。聞くやつが聞いたらただの嫌がらせだ。依子も鍋島を心配してのことだったんだろうけど、もっと上手い慰め方は思いつかなかったのか。
「依子も、鍋島のこと相当心配してくれてたんだろうな。昨日のあいつ、お前のためにかなり怒ってたんだぜ」
とりあえずフォローを入れる。村瀬を引っ叩いたことまでは伏せておいた。
「依子だって実は鍋島のこと気にしてんだよ。鍋島からももっと話しかけてやってくれ。そのうち心を開いてくれるかも」
「そうします。昨日の電話をもらってから、私、すごく救われた気がしました。嫌われてるわけじゃないんだなって」
「そうだよ。今度からは依子と城川と三人で食べたらいい」
鍋島の笑顔も幾分か自然になってくる。
「はい。今泉くんも、いつでも混ざっていいですからね」
「あぁ、気が向いたらな」
重い空気はいつの間にか取り払われていた。
そのうち鍋島との昼食は終わり、鍋島はさっそく図書室へ行くと言い残して教室を出ていった。昨日の今日であの場所に行く鍋島も、かなり精神的にタフなのだなと思う。
早川の一団の方を見やる。村瀬と話をするとは言ったものの、あの中にいては話しかけられそうもない。
俺は生徒指導室の鬱憤を晴らすべく、煙草を吸いに屋上へ向かった。
昼休み終了後の掃除の時間のこと。
裏庭の焼却炉を鍋島と城川と三人で掃除していたところ、焼却炉の蓋を開けた鍋島が声を上げた。
「今泉くん、城川さん、ちょっとこっちへ来てください」
訝しんで鍋島のもとへ歩み寄ると、鍋島が焼却炉の中を指した。
「また、捨てられています」
見ると、灰や木炭に薄く隠れて一冊のノートが捨てられていた。人差し指と親指でつまみ上げると、名前欄にばっちり『平野依子』と書かれていた。見覚えがある。依子のロッカーに入っていたものだ。鍋島と城川が絶句する横で、俺は表紙を開いた。
予期した通り、依子へあてたばり罵詈雑言の数々。見ていても鬱になるだけなので一瞬で閉じる。
「仕返しのつもりみたいだな。よっぽど暇なんだろうな、あいつらも」
もっとも、これは依子に見せなければ意味がないのではないか。すると、城川がもごもごと発言した。
「依ちゃんから聞いたんだけど、依ちゃんの机の引き出しにもこれと似たようなノートが入ってたんだって」
「じゃあ、こっちのノートは俺へのあてつけってわけか」
早川たちから宣戦布告を受けた気分だ。今日の依子を思い出すが、今の俺よりよっぽど泰然とした様子だった。いじめる側としては手応えを感じなかっただろう。
「こんなこと、もう絶対に止めさせましょう。私たちがなんとかしないと」
鍋島が悲痛に訴える。もはや彼女も、依子は完全にいじめられる側だと認識しているようだ。俺は頷き、手を汚しながらノートを焼却炉の奥へと突っ込んだ。灰が舞い上がり、俺は顔をしかめた。
「あの、今泉くん」
城川に背中をつつかれる。声量も極小なので、彼女がそうしなければ俺も意図せず無視していたかもしれない。
「なに」
「あの紙袋、どうなったの?」
「紙袋?」
一瞬なんのことか分からなかったが、すぐに思い出した。早川のノートが入った紙袋のことだ。そうか、城川はあれから紙袋がどうなったのか知らないんだっけ。これについてどう答えるべきかと俺は長考する。城川は俺の返事を待つ間、じっと斜め下に視線を落とした。
「あれなら、俺の鞄に入ってるよ」
灰の中から手を引き出す。うわ、腕まで真っ黒。
「鞄の中に? 持ち歩くのは、危険じゃないですか?」
鍋島の言葉に俺は首を振る。
「何かあったときに備えてだよ。早川と吉岡を追いつめるために、逆に証拠として使えるだろ」
「そうでしょうか。あんなの、どう考えても決定的ではないような気がします。逆に揚げ足を取られそうな……」
「いいんだよ」
言い捨てるようにして俺は焼却炉の蓋を閉じる。心の中で、執拗に自分の発言を正当化させた。
そんな俺を見て、鍋島と城川は不思議そうに顔を見合わせるのだった。
放課後になり、誰もが教室を後にした頃。
一度図書室へ行き、気分を落ち着かせるべくスラムダンクを読んでいた。図書室には依子と原村と、あとは宮下がいた。宮下については図書室に来るだけで感心ものである。本当に俺の言える義理じゃないけど。
依子と原村と三人で神経衰弱をした。六回やって、一度たりとも二人には勝てなかった。
壁掛け時計を確認する。そろそろか。俺はパイプ椅子を立った。
「鞄、教室に忘れてきた。ちょっと取ってくる」
二人にそう言い残し、俺は図書室を出た。
まだ依子にはメールアドレスの変更をさせていない。真意を確かめてからでも遅くはないと思ったからだ。
夕日の射し込む廊下を歩く。夏にしては、やけに涼しい空気が辺りに漂っていた。コピー室の前を通りかかると、偶然そこから出てきた鍋島と出会う。彼女は両手に書類の束を抱えていた。
「これから帰りですか?」
「そんなとこ。鍋島は?」
「委員の仕事です。夏休みも近いので、ちょっと忙しいんですよ」
それから適当に挨拶を交わし、鍋島と別れた。鍋島は書類を持ち直し、早足でどこかへ消えていった。それを見届け、俺も歩き出した。
進むにつれて足取りは重くなるが、なるべく気にしないようにして進む。
教室に到着する。薄暗くなった教室の中を、扉に隠れてそっと覗き込んだ。
一つの影が、忙しなくいそいそと蠢いていた。ちょうど俺の机の付近である。ここからではその顔は判然としないが、体格からして、俺の予想は外れていなかったらしいと分かる。一度だけ入るのを躊躇う。見逃してあげたい、そんな考えが今日だけで何度と頭をかすめたことか。こうしてはっきりと目撃するに至ってまで、俺は今だに彼女を信じている。
数回の深呼吸を敢行し、俺は静かに扉を開けた。
影は跳ねるようにこちらを向いた。それから怯えた目つきをたたえ、慄然とした足取りで後ずさる。
俺は確認を取るように彼女の名前を呼んだ。
「城川、俺の席に何か用か」
城川の胸には、わざと置き忘れた俺の学生鞄が抱かれていた。
「あの、ここ、これは、その」
言い訳をする余裕もないらしい。ついでに彼女は嘘を吐くのも下手くそだ。よく観察すれば、城川は呆れるほどに正直者なのだなと分かる。
昨日の夜の依子との電話、彼女が並べた名前。依子が直接メールアドレスを教えたという生徒たち。その中に城川の名前があり、ここで予想の半分以上は固まった。
そして今日の掃除の時間、焼却炉でのやりとり。そのときの城川も、隠しているつもりだったのだろうが、どこか動揺を隠せないそぶりを見せていた。そもそも、あのタイミングで紙袋の詳細を聞いてくること自体が疑わしい。彼女には悪いとは思いながらも、俺は罠を掛けた。
歩み寄ると、城川は俺の鞄を抱いたままぺたりと窓に背中をつける。唇を震わせ、血の気の失せた顔をしていた。
「それに紙袋は入ってねえよ。鍋島の言う通り証拠にもならないし、もう捨てた。ごめんな、嘘吐いて」
「そ、そんな」
言いかけて、城川は片手に口を塞ぐ。
「まぁ座れよ」
震え怯えつつも、城川は大人しく俺の席に座った。俺は彼女の前の席に座り、頬杖をついてその顔を見据える。
「ちょっとだけ、俺と駄弁ろうか」
城川は小刻みに息を吐き、焦点の合わない視線を返した。