chapter16 葛藤
翌日の土曜日。
俺と依子は今、清志叔父さんの入院する病院に来ている。
先々週の土曜日も、大体同じくらいの時間にここへ来た。その次の日曜日に早川とマルイに行ったりピクサー映画を観たりしたけど、たった二週間ほど前の出来事とするにはすごく懐かしい感じがする。
俺たちは叔父さんのいる202号室に入った。
叔父さんは相変わらずベッドから半身を起こしてテレビを眺めていて、俺たちが入ってきた瞬間、また柔和に笑った。
「純一か、でかくなったな」
前に来たときと全く同じ台詞。
俺ってそんなに背高いのかな、と隣にいる依子と比べてみたら、なるほど、俺と依子は十五センチ以上の身長差があるし、叔父さんがそんな感想を持つのも無理はないなと思った。
依子は先々週と同じくお見舞い品に梨を持ってきていて、また叔父さんに喜ばれていた。
俺は前回と同じく、不躾にも見舞い品を用意してきていなかったので、少し申し訳ない感じで見舞い客用の椅子に腰掛けた。いや、用意し忘れたというか、用意出来なかった、というのが正しいのかも。
ここに来るまで経緯をまとめてみる。
今日、俺は寝坊をした。いや、依子のメールに何時集合と書かれていなかったから寝坊と言うのはおかしいんだけど、ともかくお日様も真上を迎える頃に起きてしまったのだ。
俺の目を覚ましたのは依子の電話コールで、もちろん依子は大激怒していた。それからメリーさんのごとく速攻で俺の部屋に上がり込んできて、そんでこれはびっくりし過ぎて笑いそうになったんだけど、依子はイメチェンでも試みたのか、髪を頭のてっぺんでまとめていて、なんだかパイナップルのようだった。
そのあと依子と二人っきりで叔父さんの病院へ向うのだけど、途中で依子とちょっと一悶着あったり、そのくせ無駄にあっさり仲直りしたりで、俺はこの時点で相当疲弊していた。
その後は妙に依子が俺と喋りたがるので、俺はそんな依子を相手にするのが気まずくて仕方なかったのだけど、それでもしばらくは付き合ってあげて、でもやっぱり面倒くさくなってしまった俺は依子のパイナップルヘアーを馬鹿にしてみたのだが、そしたらまた依子に嫌われた。
そんな感じ。寝起きからてんやわんやの幕開けだった。
見舞い品もちゃんと前日に用意しとけばよかったと大後悔する。
それから依子は一切俺と目を合わせてくれないし、声をかけても完全無視を決め込まれる始末だった。
しかも俺に髪型を馬鹿にされて、一瞬でもとのストレートヘアーに戻してしまった。
その髪型かわいいね、とでも言ってほしかったのだろうか。俺に見せるより、原村や鍋島あたりに見せてはどうだろう。俺なんかよりすんなりお世辞も言ってくれそうだし。
それともあれか。俺がいつも依子に冷たくしてるから、ならば俺の胸でもときめかせて優しくしてもらおうとか、そういう魂胆だったのか。だとしたらマジで依子らしくないんだけど。
どうしても気になってしまって、彼女から返事を聞けるかはわからないけれど、俺は隣で梨を剥く依子に声をかけてみた。
「なぁ依子」
無視。依子はかたくなに俺をシカトして果物ナイフをさくさく扱っている。
大丈夫、名前だけ呼んでも無視されることは分かってんだよ。
「お前、イメチェンでもしたいの」
依子の手が止まる。叔父さんはテレビから目を離し、俺たちを見て小首を傾げた。
やがて依子が剥きかけの梨を見つめ、小さく頷く。
やっぱイメチェンだったのかよあれ。
「俺なんかに見せなくても学校でやればいいじゃん」
そう提案してみると、依子がやっと俺の方を見てくれた。表情がいつも通りだから何考えてるか分かんないけど。
「純に見せて、変じゃないか試した」
なんて合理的な女。俺が素直な感想を言うことを見越していたのか。んだよ、全然可愛くねえこいつ。これじゃ、俺のハートを鷲掴みにしたいから、の方がよっぽど女の子らしくていい。いや、それはそれで恥ずいんだけどさ。
叔父さんはそれで無駄にうるさく笑った。彼は事情を知らないはずなんだけど、なんとなく分かるのだろう。
それから依子の頭に手をやって、それからぐりぐりと撫で回した。
「女の子らしいのからしくねえのか分かんねえよなぁ、依子は」
荒々しい手つきだけど、依子は黙って叔父さんに撫でられた。というか、むしろ嬉しそう。このファザコンめ。
俺も叔父さんにあわせて笑い、それから依子を睨んだ。くそ、俺を変に意識させやがって、という意味を込めて。
依子は叔父さんに撫でられるのに集中していて俺の視線に全く気づいてくれなかった。ちくしょう。
叔父さんは依子の頭から手を離して、それから俺の方を見た。
「純一、まだサッカーは続けてるか」
これも前回と同じ台詞。
何を聞かれるんだろうと構えていたのに、俺は唖然としてしまった。これは、前と同じ返答でいいのかな。俺は以前、この質問に対してどう答えたかを思い返したが、そうしたらひどい罪悪感に苛まれてしまった。
中学でやめた。努力する才能がなかったから。
たしか俺はそう答えた。俺は、叔父さんに嘘を吐いたんだ。しかも、叔父さんを悲しませるような嘘。
俺は答えずに、下を向いてズボンを掴んだ。
叔父さんはきっと俺が嘘を吐いていたことを知っていて、その上でこうして同じ質問を投げかけてくるのだと思う。
もう本当のことを言ってしまおうか。けれど、あまり依子に聞かれたくない話だ。心配されたくないし、俺があまりにも情けなくて、みじめったらしい話なのだから。
「パパ」
依子は少し語調を強めて叔父さんを呼ぶ。俺はそれでも顔を上げなかった。
「純は、もうその質問には答えたよ」
依子はこの話を知らないはずだけど、俺をかばってくれているようだった。それがまた情けなくて、俺はさらにズボンを掴む力を強めた。
しばらく場が沈黙して、叔父さんは口を開いた。
「そうだったか。悪いな純一、病気が病気だから最近物忘れが激しくて」
俺は叔父さんの顔も見ずに頷いた。それからまた沈黙。
依子が梨を剥き終わって、最後の一切れを皿に並べた。依子の手の上の皿を俺は横目に盗み見る。皿の上に並ぶ八つの白梨。
依子は皿を手に乗せたまま、叔父さんの言葉を待った。前のように、食べさせてくれ、というのを。
「食べさせてくれ」
依子の皿が動きかけるところで、叔父さんがまた続ける。
「純一、食べさせてくれ」
皿が止まる。俺はここで初めて顔を上げた。叔父さんは、叔父さんらしくない弱々しい笑みで俺を見ていた。
「俺が」
「あぁ、純一がだ」
俺の手元に皿がやってくる。見ると、依子が不満そうな顔をしていて、黙って俺に梨の皿を差し出していた。
俺もそれを黙って受け取る。気持ちが揺れるのに合わせて、つまようじを取る俺の手も震えた。
見かねた叔父さんが明るい声を出す。
「依子、ここからは男子禁制ならぬ、女子禁制だ」
俺は後ろめたくて、じっと梨を見つめた。
「すぐに終わるから、純一のこと、待合室ででも待っていてくれ。今日も来てくれてありがとうな。ママにもよろしく言ってくれ」
依子は不服そうな表情をたたえたが、しばらくの間を持って、分かった、と椅子を立った。それだけを確認して、俺は帰る準備をする依子も見ずに、手元の梨に視線を落とし続けた。
正直言うと、叔父さんと二人きりにしてほしくなかった。叔父さんが、少年サッカーの監督をやっていた叔父さんに戻ったようですごく恐かった。
依子が嫌だといえば、叔父さんは依子のわがままを聞き入れそうだから、俺は少しだけ依子を恨みそうになる。こんなときだけ大人ぶる依子を、俺は恨んでしまいそうだったのだ。
依子が立ち去ったあとも俺は黙り込んだが、叔父さんはそれでも優しく声をかけてくる。
「どうした。食わせてくれないのか、純一」
「あぁ、食わせる」
俺はできる限りの笑顔をもってゆっくり顔を上げた。叔父さんはまだ微笑んでいて、それがまた俺を勇気づけるような笑顔だったから、俺は安堵して、また心が揺れた。
叔父さんに梨を食べさせる。叔父さんの咀嚼は、先々週と比べても随分ゆるゆるとしていて力強さがなかった。
梨一切れを全部食べ終えるのに五度、梨を叔父さんの口へ持っていく。叔父さんは最後の一かけを食べ終えて、また幸せそうに笑った。
「うめえな。林檎もうまいが、俺は梨の方が好きだ」
これも前と同じ。
停滞は後退である、なんて格言をどこかで聞いたことがあるけれど、叔父さんの場合、それ以上のものが目に見えている気がした。
俺はつまようじが折れそうなくらい握りしめて、叔父さんの顔を見つめた。
「サッカーのこと、なんだけどさ」
もう叔父さんに質問を促させるわけにはいかなかった。俺はこれ以上みじめで情けなくなってはいけなかった。叔父さんは黙して俺の言葉を待っていてくれる。
「中二の頃、試合で足怪我しちまったんだよ。相手校の二年だか三年だか、俺の左足、わざとらしく狙ってさ。そいつの恨みを買った覚えもねえんだけど、何故かね」
俺は曖昧に笑った。俺の誤魔化し笑いは全然叔父さんには通じなくて、俺の勇気はすぐに揺らぐ。
「それでやめたのか」
俺はまた下を向いた。
「いや、そこまではいいんだよ。ちょっと足ひねったくらいでさ、ちょっとすれば試合にも出られるはずだったんだけど」
「俺の目を見て話せ」
心臓が跳ねあがるようだった。とっさに顔を上げる。叔父さんの目は昔のそれに戻っていて、それがものすごく恐ろしくて、俺は緊張した。
声を出せないでいると、やがて叔父さんが、続けろ、と言う。なんて残酷なのだろう、そう思ったが、これは俺の構え方が甘すぎるのだろう。
俺は一度だけ小さく咳払いをした。
「そこまではいい。叔父さんも知ってると思うけど、この町で一度、通り魔が流行ってただろ。実は、俺が最初の被害者なんだけど」
叔父さんが眉をひそめた。俺がこの通り魔の被害を受けたこと、親父経由で叔父さんも知っていたと思う。それでも俺は説明をする。
「居残りしたあとの学校帰りでさ、つい帰りが遅くなっちまったんだ。辺りは真っ暗で、俺はひねった左足をかばって歩いていたんだけど、突然後ろからバイクの音がしたんだ。その音には別段、俺は気にも止めなかったんだけど」
俺はその場の状況を想像しながら続けた。
「原付バイクだった。乗ってたやつはバットか何かを持っていたらしくて、俺のそのひねった足の方、それで殴られて。びっくりし過ぎてバイクのナンバーだって見られなかった」
叔父さんは黙って耳をすませる。
「幸い骨折はしなかった。足首にひび入ったくらいで。サッカーだって、本当は続けられたはずなんだ。でも」
俺は顔を下げた。もう叔父さんはそれを注意してこなかった。だって、俺はもう泣いてしまっていたのだから。
「でも、心の方が、先に折れて」
俺の涙はぼたぼたと皿の上に落ち、梨の実にじんわりと染み込んでいった。何故こんなに泣けてくるのか分からなかった。逃げたことを後悔しているからじゃないと想う。多分、格好つけて叔父さんに嘘をついて、それが申し訳なくて、縮みこまるほど後悔して、死にたくなるほど恥ずかしくなって、心の中が罪悪感でいっぱいで、もう、耐えられなかった。
そのうち鼻水も垂れ落ちて、それも梨の上に乗っかった。やべ、もうこれ俺が食うしかないじゃん。
「恐くなったんだ。俺、もしかして呪われてるんじゃねえかって、あり得ねえくらいの被害妄想モードで。つうか、もういいやって、逃げ出したんだ」
「純一が煙草を吸い始めたのもそれからだって、純一の父ちゃんと母ちゃんも嘆いてたな」
叔父さんは俺を元気付かせたいのか、やけにおどけるようにそう言った。実際、それに少しだけ癒されたし、俺ももうちょっとだけ声を出せそうだった。
俺は叔父さんに向かって深く頭を下げた。
「ごめん。この前は才能がないからだなんて嘘吐いて。俺、本当は逃げただけなんだ」
俺はときおり涙を床に落として頭を下げ続けた。すると、俺の頭の上に叔父さんの手が乗る。
「純一も、依子も、どうしていつも強がんのかなぁ。俺らからしたら二人ともまだまだ子供なのに」
叔父さんの声は温かくて、なんか知らんが俺はまた泣いた。叔父さんがそのまま撫でてくるので、俺は依子みたいに黙って撫でられた。
「二人とも、こうやって誰かに甘えたがってるくせしてよ」
「依子は、叔父さんに甘えてんじゃん」
泣きながらだからかすげえ喋り辛い。撫でられ終わって、泣き顔見られるのは恥ずかしいんだけど、俺は顔を上げた。叔父さんはもとの笑顔に戻っていた。
「依子、ああ見えて全然俺に甘えてくれねえんだよ」
俺は鼻水をすすって疑問を顔に浮かべた。意味深だったけど、叔父さんは、ともかく、と首を振る。
「サッカーのことは怪我と一緒に忘れろ。俺はもう何も気にしない」
「でも」
「いいんだよ。俺にとっちゃサッカーなんかより純一の方が大事なんだから。こんなこと、無理に話させて悪かった」
俺はだくだくに流れる涙を飛ばして首を振った。うちの親より親らしい叔父さんだった。うちの親に聞かれたら嫉妬されるだろうな。
叔父さんは結局、サッカーのことなんてどうでもよかったんだ。俺が嘘を吐いたこと、それだけが気にかかっていて、俺が正直に懺悔したことであっさり許してくれた。
叔父さんは俺の不細工な泣き顔が面白いのか、くすりと小さく笑った。
「俺も純一に話しておきたいことがあるんだ。だから、今日はお前を呼んだ」
叔父さんはそれから、ベッド脇の引き出し棚に目をやる。
「そこにノートとボールペンが入ってる。代わりに取ってくれないか、ちょっと身体を動かすのもだるくてだるくて」
俺は頷き、引き出しを開けた。一番上の引き出しにはたしかに大学ノートとペン類が入っていたので、俺はそれらをベッド備え付けの台に乗せた。ノートを開き、叔父さんの手にボールペンを持たせる。
「話をする前に、ちょっとリハビリだ。たまにこうして書かなきゃダメだって、戸田恵梨香似の美人看護師に言われてんだよな」
「いやいや、うらやましいけど、浮気はよくないぜ叔父さん」
俺は袖で涙を拭いながら言った。道子に言ったらぶっ飛ばすぞ、と叔父さんが笑うので、俺も短く笑った。
叔父さんは鈍重な動きでボールペンを握り、その先端をノートの紙面に置く。うまく握れないのか、それだけでボールペンが紙面を滑った。手伝おうとしたけれど、叔父さんに拒否される。リハビリにならないからだそうだ。
叔父さんは自力でボールペンを持ち直し、それから再度紙の上にペンを乗せる。
「恥ずかしい話、漢字を忘れちまってな」
三分ほどかけて叔父さんが書いた字は『よりこ』だった。字体はひどく波打っていて、一見してそうは読めなかったけど、なんとなく俺には分かった。
ふいに、叔父さんがペンを落とした。叔父さんの手は震えていた。
ペンは手元の台を転がり、それから俺の足もとに落下する。俺は白梨の皿を棚の上に置き、そのペンを拾い上げ、また叔父さんに渡そうとするのだけど、叔父さんはもう、細りきった右手を台の上に投げ落としていた。
俺はペンを持ったまま、微動だに出来ずにそれを見つめる。
叔父さんは自分の手をじっと見つめ、それから窓の外を見やる。俺もつられて見ると、ちょうど、鳶が彼方の空を飛び交って鳴いていた。
「依子の依は、たよる、という字なんだけどよ」
それから叔父さんは入道雲の空を見上げ、粛々と話し始めた。
葛藤。
202号室を出て真っ直ぐ待合室へ向かう。依子が待っていた。
依子はメールでも打っているのか、長椅子に座ってずっと携帯をいじっていた。俺が来ると顔を上げ、それから微かに口を開ける。
「純、泣いてたの」
マジ泣き後の俺の顔は相当ひどいのか、依子はわりと心配してくれているようだった。依子に心配されるなんて珍しいことだから、俺はもっと恥ずかしくなって、これ以上依子に気を使われたくなくて、すぐに彼女から目を逸らした。
「泣いてねえよ。帰るぞ」
そのまま俺は入り口の方へ歩いていく。依子は何も言わずに俺に続いた。
病院を出て振り返り、依子を見つめた。依子はやはり何も言わず、こちらを見つめ返してくる。
俺は迷う。自分がどうすればいいのかが分からなかった。
俺はたった今、叔父さんの頼みを聞き入れてきた。叔父さんの想いが正しいとは到底思えない。でも、他にどうすれば叔父さんの期待に答えられるのかも分からない。
答えが二つも三つもあり、もしその選択に迷うことができるのならば幾らか楽なのだけど、この場合、正解なんてあるのだろうか。
分かるまでは叔父さんの頼み事に従うべきだ。俺はそう判断し、依子へ向けて声をかける。
「依子。これからは自分の携帯、いつも近くに置いとけよ」
「どうして」
「いいから」
依子はまだ何か言いたそうにしていたが、俺はそれを無視して自転車の駐輪場へ歩いていく。
俺はただ口をつぐむしかない。
今の俺には、それくらいのことしか出来ないのだから。