chapter15.5 依子の頭はパイナップル
土曜日の朝のこと。
時刻は七時ほどで、布団の中、半分眠っている脳みそで俺は考えた。
俺のいとこの平野依子から、昨日送られてきたメールの件である。
『お見舞いに来てほしいと、パぱがいっていた。あしたあたしのいえにしゅうgo』
依子の父、つまり俺の叔父にあたるわけだけど、その叔父さんが俺にお見舞いに来いと、そういう要求らしい。
何時に来いという指定はなかった。出来れば昼頃まで惰眠を貪っていたい。ていうか、わざわざ一度依子の家へ行く必要はあるのだろうか。そのまま病院で落ち合えばよくね? お前の家なら一人でgoしてろ。
いや、そもそも何故依子は俺ばっかりを自分の家に誘って、あいつからは俺の家に来ないのか。
あ、弟がいるからか。あいつ馬鹿だしうっせえし、依子が来るとアホみたいにはしゃぐし。俺も依子もうるさいのは嫌いなので、お互いのためにもなるだろう。空気を読める歳になるまでの辛抱だ、弟。
蝉がうるさくなる時分だったが、中途半端に暑いし、扇風機の風が超気持ちいい。ちょっと二度寝する。ぐう。
ちょっぴり寝た。
携帯がピーピーと雄叫びをあげるので、寝起きの気だるくなった筋肉を無理に働かせて携帯を取り、いらつきながらも通話ボタンを押した。
「納豆風呂で溺れろ」
開口一番、俺はそんなことを言っていて、はて、一体何の夢を見ていたんだろうと自分の発言に首を傾げた。
「死んじゃえ」
やたらと辛辣な台詞が携帯の受話口から飛び出し、はからずとも口喧嘩風のスタートを切る。ブチ切れ状態の依子だった。声の調子はいつものローテンションなんだけど。
俺は部屋の壁掛け時計を確認した。
昼の、ほぼ十二時。二度寝開始から五時間。
「どうしてもっと早く起こしてくれなかった」
「死んじゃえ」
相当怒っていた。でもお前、何時に来いとかメールに書いてなかったぞ、とは言わなかった。死んじゃえ、から、殺してやる、になりそうだった。
「純が遅いから、今そっちに向かってる」
「まじか、すぐに支度する」
依子が電話を切った。
俺はあくびをして、半身を起こしつつ煙草に火をつけた。十二時間ぶりの煙草の味は極上で、俺の脳内にアルプス山脈でも出現したのではないかと錯覚してしまうほどの爽快感だった。ゆっくり吸って息を吐き、窓から差し込む昼間の優しい陽光を全身に浴びて、それからゆっくりと伸びをしていると、唐突に部屋の扉が叩き開けられた。
なんだろうと振り返ると、扉の方では弟が憤怒の表情で立ち尽くし、右手には何故か仮面ライダーのプラスチックソードが握られていた。危険を察知してとっさに煙草を灰皿に押しつけて火を消す。
案の定弟が駆け寄ってきて、死んじゃえ、と叫びつつプラスチックソードを俺の頭に叩き落とした。意味が分からない。鬼畜ヒーローとはまさにこのことである。
俺は涙目になりつつ頭をさする。弟が、うおー、と勝ちどきをあげた。
「すぐに支度してないじゃん」
顔を上げると、扉の方には依子が立っていた。怒ってるくせにいつも通りのポーカーフェイス。白のチュニックにレギンス姿で、暑いからかなのか、髪は頭頂でハーフアップに留められていた。似合ってるのか似合ってないのか知らないけど、それがまたパイナップルみたいで笑えた。
「いや、お前が来るの早すぎんだよ。メリーさんかよ」俺は思わず半笑いで答える。
「ばかにしてる。雄、やって」
依子が悪の女帝のごとく弟に命令を下す。俺は頭を守るようにしたが、それでも弟のプラスチックソードは襲いかかってきた。弟がソード片手に粋がる姿は、なんというか正義のヒーローというより、無闇やたらに棍棒を振り回すゴブリン兵士のようであった。ほどなくして俺はそのゴブリン兵士を叩きのめした。
弟はべそをかきつつ俺の布団をかぶったが、依子は弟を用済みと判断してさっさと部屋を出ていき、俺も当然無視した。
居間には親父と母ちゃんがいて、親父は畳の上で大の字になっていびきをかいていたが、母ちゃんの方はやたらきらきらした目で依子を見つめた。
「純をお借りします」
依子がそう言うと、母ちゃんは首がもげんばかりに頷いた。二人で玄関へ歩いていくと、居間の方から、かっこいい、と母ちゃんの声が聞こえた。多分俺のことではないと思う。
玄関を出て自分の身なりを確認したら、俺はユニクロの黒スウェットのままだった。やべぇ、寝間着のまま出てきちまった。次に頭に手をやる。両側の側頭部の髪が盛大にはねていて、猫の耳みたいになっていた。
「ちょっとここで待ってて、すぐに着替えてくる」
俺はたしかに依子へ向けてそう言ったはずなのに、依子は普通に自転車に乗って普通にこぎ出した。
俺は家の玄関と、自転車で走り出す依子とを見比べて、かなり迷ったのだが、ともかく自分の自転車を引っ張り出して依子を追いかけた。住宅街で道が狭かったから、少し恐い思いをする。
依子の自転車をこぐスピードに容赦はなかったが、なんとか依子の隣に着いて彼女の横顔を見た。いつもの無表情だった。
「なぁ依子。変じゃないかなぁ、俺の格好。ねぇ!」
無視された。むしろ自転車のスピードを早められた。変なことは百も承知で問いかけた上シカトされたのだから、俺はものすごく傷ついた。というかむかついた。
「おい、いくら俺が寝坊したからって知らんぷりはねえだろ」
依子は答えない。狭い道での併走は危険だった。俺そっくりな頭をした猫にぶつかりそうになる。
「おいっ、無視すんなら帰るぞ。いいのかよ、帰宅するぞっ」
ふいに、依子が急ブレーキで自転車を止めた。突然の彼女の行動に動揺しながらも、俺も慌ててブレーキを引く。依子の五メートルほど先で、ようやく俺の自転車は止まった。俺の前方すぐに電柱があって、顔面からしこたま冷や汗が出てきた。
「なんなんだよ、もう」
「帰るの」
振り返ると、依子はかすかに眉根を寄せて俺を睨みつけていた。依子なりの最大限の表情表現で、結構真面目に怒っているようだった。
「純は、パパのことなんかどうでもいいの」
そう責めたてられて、俺はやっと依子が怒っている理由を知った。俺が寝坊したからとか、依子の髪型を笑ったからとか、依子の手下を叩きのめしたからとか、俺の格好がださいからとか、そんな下らないことじゃなかった。
女ってめんどくせえ、そう思う反面、俺はものすごく反省していた。
「悪かった。どうでもいいなんて思ってない。俺だって」
俺だって叔父さんをすごく心配してる、言いかけて、俺は口をつぐんだ。今の俺に、そんなことを言う資格はない。俺は自転車を降り、丁重に頭を下げた。
「とにかく、ごめん。今すぐ帰ってすぐに着替えてくるから、悪いけどちょっとだけ」
「はやくしろ」
今日の依子は恐かった。
俺は何も言えず、速攻で家に帰り、迅速に着替えて、ぞんざいに寝癖をなおし、電光石火のごとくさっきの場所に戻った。そこに依子は居なかった。
そこから少し進むと、二連の自動販売機があって、そのそばの縁石に依子が腰をおろしていた。依子は爽健美茶を飲んでいて、縁石の上にはもう一本、ジョージアのコーヒーが乗っかっていた。
気づけば、俺は汗だくだった。
俺が近寄ると、依子は縁石上の缶コーヒーを手にとり俺に差し出してくる。
「仲なおり」
サバサバした性格なのが依子の数少ない長所の一つだと思う。仲直り超楽だし。
本当のことを言うと、炎天下の中で自転車こぎまくって喉が渇いてたから、俺も爽健美茶を飲みたかった。でも多分、俺が喫煙者だからコーヒーが好きなんだろうと、依子なりに配慮してくれたんだと思う。ギャップ効果というやつで、その上相手があの無神経依子だからか、俺は感激して涙がもうちょっとで出そうになった。
だから俺は、ありがと、とだけ言ってそれを受け取った。
なんでこいつ、こういうときだけ気が利くんだろ。
駅近くの総合病院。
受付を済ませ、依子と二人で待合室の長椅子に座り、案内を待っているときのことだった。
「純の家にいく前に、神社にいってきたよ」
聞いてもいないのに依子がそんなこと言ってきた。依子が話題提供をすることがまず驚きだし、しかも何が言いたいのか分からない。
「へ、へぇ」
しかし、せっかく依子が出してくれた話題なので俺も気の利いたことを言いたいのだけど、やっぱりどう返せばいいか分からなくて、しばらく待ってみても依子から何の説明もないし、なので俺は眼光を強めて依子を見るのだが、依子は依子で、せっかく話題振ったのになんか言えよ、みたいな顔で見つめ返してくるしで、だんだん頭に来た俺は若干キレ気味で口を開いた。
「だからなに」
「願掛けしてきた」
それを早く言えよ。
やり切れない苛立ちを自分の膝を叩くことで解消する。どうして、いとこを相手にここまで気まずい雰囲気を作らなきゃいけないんだ。
「また、絵を描かせてほしいと言われた」
「絵?」
神社、願掛け、絵、と聞いて、俺は梅雨時期に祖母ちゃんの田舎に行ったときのことを思い出した。
たしかあの日も、俺や依子は叔父さんのお見舞いに行った。この病院へ行く途中、偶然原村と出会って、彼は一晩中神社の絵を描いていたと。そのときだ。たしか原村は、数時間前まで平野が神社にいたよ、と言った。そして、絵のモデルになってほしいと頼んで、断られたと。
なるほど、だんだん読めてきた。
「つまり、叔父さんの病気回復を願って、依子は毎回お見舞いの前に神社へ願掛けに行く。たまに原村がそこで神社の絵を描いているから、原村から絵のモデルになってほしいと頼まれてしまう。あたしは嫌だと言ってるのに。さぁ困った。どうしよう、ってことか」
「うん」
しゃあっ、と俺はガッツポーズをした。受付のおばさん看護師から変な目で見られた。
つくづく思うけど、依子との会話は頭の体操になるから非常に健康的だ。さっき、女ってめんどくせえ、なんてすごく失礼なこと考えたけど、女というより依子が面倒くさい。
「いいじゃん、描いてもらえば。モデル代金もらえるかもしんねーだろ」
「やだ」
「なんで?」
「一度、いいよ、って言ったんだけど、じゃあ笑ってみて、って言われた」
「それでも描かせてくれって言われたのか」
「うん」
依子は視線を落とした。自然に笑えないこと、自分なりに気にしているようだった。
さすがにこれは原村がデリカシーを欠いている、依子が可哀想なので今度注意してやろう、そう思ったが、俺も依子に似たようなことを言った記憶がある。いつかの学校の図書室受付のときのことで、たしか俺も依子に、笑ってみて、と言った。
そのときのことを思い返すと、俺も原村の気持ちが分かった気がした。
「原村もさ、依子に笑ってほしいって思ってんだよ。だから絵のためだなんて言い訳して依子に笑顔を作らせようとしたんだ。あいつ、ほんとやり方が回りくどいよな」
「意味が分からない。どうしてみんな、あたしに笑ってほしいと思うの」
俺は腕を組み、斜め上を見上げて考えた。
たしかに俺も、どうして依子に笑ってほしいのか、実はよく分かっていないのかもしれない。図書室のときは『女友達を作らせるため』なんて銘打っていたけれど、俺自身がどうして依子の笑顔を見たいのか。
考えていると、依子がまた続けてくる。
「愛想笑いってあるでしょ。あれは、結局笑ってないのと一緒じゃないの」
この話題、やけに依子の方から食いついてくる。それだけ依子にとって大きな悩みなのだろうか。依子から相談を受けるなんてことが滅多にないから、俺は結構たじろいでいたし、割と真剣に答えてあげた。
「愛想笑いはさ、その人と仲良くなりたいからするんじゃねえか。依子が笑わなくたって、相手から笑顔で話しかけてくることもあるだろ」
すごく当たり前なことを言ってる気がする。これくらいなら依子だって分かっていそうなはずだけど。
「あれは、愛想笑いだったの」
ちょっと感心してる感じの依子。なんだ、この幼児を相手にしてる感覚。毎日のように本読んでるくせに、これくらいの理解力持ってろよ。
小学校のときは愛想笑いなんかなくても素の笑いでいけたから、だから依子にも友達が居たんだけど、じゃあ中学のときはどういう友達付き合いしてたんだ。親戚なのに、考えれば考えるほど依子が分からなくなる。
「俺も依子と話すとき、面白くもねえのに笑うだろ。ていうか依子と話すのくそつまんねえし。あれも愛想笑い」
「じゃあ純も、あたしと仲良くなりたいの」
「あー、うん」
すごく答えに困る質問だった。訊かれる方が恥ずかしい。つーか、依子と俺で仲良くなるもくそもないと思うんだけど。
依子がじっと俺の目を見据えてくる。俺はちょっと引いた。これもいつも思うんだけど、依子って、完全に目を逸らすか、マジでこっちの目を見つめてくるかしかしない。ぶっちゃけビビるんだけど。
仕方なく俺は、依子の頭のパイナップルを眺めた。
「みんなが笑わなくなると、どうなると思う」
答えに窮するとはこのことなのか。中々難しい質問をしてきやがるなこいつ。十五歳にして真面目な顔してこういうことを聞いてくるのはどうなんだろう。
海は何故青いのかだとか、鶏とひよこはどっちが先なのかだとか、どうして飛行機は空を飛ぶのかだとか、ご飯食べて大きくなるなら自分はご飯でできてるのだから自分のことも食えるんじゃねえか、とか。
みんなが笑わなくなると、どうなると思う?
子供がしてくるような、大人ならもう気にもとめないような疑問だ。それをまさか同い年の、しかも血の繋がりも近いやつに聞かれたのだから、俺は相当に追い詰められていた。それはもう、精神的に。
知るかこの馬鹿、といつもなら答えているところだけど、なにせ今の俺は真剣モードだった。ふと、ある言葉が頭をついて、どうしても離れなかったから、俺はついそれを口に出してしまった。
「不安になる」
「不安?」
興味津々に聞き返してくる依子だが、ごめん、今俺適当に言ってるから。
「うん、不安」
「不安?」
「うん、すっげえ不安……」
だんだん、依子の将来の方が不安になってきた。俺は下を向き、病院の真っ白な床をただじっと見つめて押し黙った。
「平野依子さーん」
受付のおばちゃん看護師が依子の名前を呼ぶ。はぁ、ようやく依子との二人きりの時間が終わる。
「ねぇ、どうしてあたしの頭ばかり見るの」
ふと、長椅子を立ち上がりかける俺に、依子が少し不満そうな顔で訊いてくる。俺は浮かしかけたお尻を戻して、今一度依子のパイナップルを見つめて、さてどう返そうと悩んだが、いい加減、俺も依子に気を使うのが馬鹿らしくなってきた。
「お前、なんか今日パイナップルみたいだよなと思って」
「トイレにいってくる」
依子が有無を言わさずさっさと行ってしまったので、仕方なく俺が代理で受付へ向かう。
三分ほどしてトイレから帰ってきた依子の髪は、やっぱりというかなんというか、いつものストレートロングに戻っていた。
「写メ撮っときゃよかった。せっかく面白かったのに」
「やっぱり、純は死んじゃえ」
依子は俺の顔を見ようともせずに、廊下をずかずか歩いていった。