chapter15 刎頚之友
原村と鍋島は中学時代の思い出話に花を咲かせていた。俺は全くついていけなくて、一人寂しく煙草を吸い、屋上からの暮れなずむ景色を見下ろした。
三十分しても四十分しても二人は話し続けていた。午後六時過ぎ。鍋島はそろそろ塾に行かなくていいのか。忘れていそうな雰囲気である。
でも教えてあげなかった。さんざん惚気を見せられて、俺はご立腹なのだ。
「先に帰るわ」
そう言ってみると、原村も鍋島もぞんざいに手を振って、それからまた会話を続けた。寂しすぎて三回くらい泣きそうになった。
屋上を出て階段を降り、廊下を進んでいく。今日は一人で帰るのが無性に寂しい。図書室へ行って依子と一緒に帰ろうかと思ったが、こちらから誘うのはこっ恥ずかしいのでやめておく。
暗み始める廊下の先、なにやら姦しい声が聞こえてくる。そういえば、この先には女子更衣室がある。
夏だというのに、ギャーギャーと暑苦しいくらいやかましかった。もし俺が女子であの中に混ざっていたら、とっくに鼓膜が熱で破れていると思う。
一気に通り過ぎてしまおう。女子更衣室直前で歩を早めようとすると、ふいに更衣室の扉が開いた。そこから次々と出てくる女子たちは、見慣れた顔ばかりだった。
村瀬の顔もあって、そうか、たった今更衣室の女子会とやらは終わったのだなと得心した。
城川が最後に出てきて扉を閉じる。五名ほどの女子群の中で、吉岡だけが居なかった。城川は俺を見つけると、すぐに視線を足下の床に落とした。他の女子たちの反応も似たようなものだった。
村瀬は俺を一瞥し、城川の肩に手を置く。
「みんな、これからマックでいい?」
女子たちは顔を明るくして村瀬に頷いた。女子の一人が、村瀬みたいに城川の頭を撫でる。
「心結ちゃんも行くよね?」
女子に問いかけられ、城川は下を向いたまま頷いた。どうしてなのか、彼女の手は震えていた。
女子群は俺を一切無視して廊下を進んでいく。それはいいんだけど、やはりどう見ても吉岡がいない。
閉じられた更衣室の扉を、俺はしばらく見つめた。
ここで何があったのか大体は想像できる。吉岡も、俺みたいに誰かを味方につけようとしていたんだ。孤立しないように、依子を安全にいじめ抜くために。
味方集めをしていたという点で、俺は吉岡と同レベルのように感じられた。すぐに否定する。違う、俺は正しいことをしているんだ。そう自分に言いきかせた。
「いくらなんでもやり過ぎだわ」
突然扉の奥から聞こえてきた声に、俺は反射的にのけぞった。聞き覚えのある声で、これは早川のものだと確信した。
保健室に行ったと聞いて、俺はもうてっきりそのまま帰ってしまったものだと思い込んでいたから、余計にビビった。
早川のヒステリックな声が続く。
「なんで私の上履き、あんなに酷くしちゃうのよ。あれじゃもう履けないじゃない」
「でも、ああした方がみんなの怒りを買えるでしょ。きっとみんなも平野のこと大っ嫌いになったよ」
こちらは吉岡。早川がいるということは、なんとなく、吉岡はまだこの更衣室にいるんじゃないかと思っていた。
「大丈夫。沙樹の新しい上履きなら、私がもう買ってあるんだから。上履き代は私がもつから、それでいいでしょう?」
「だからって……」
だんだん二人の声が小さくなっていく。俺は更衣室の扉の近くに寄って周りを確認した。時間が時間だから、この廊下には誰も見当たらない。俺は慎重に扉に耳をつけた。耳たぶに冷たい木の感触がつく。
次に声を上げたのは早川だった。
「あと、世界史の教科書はどうするのよ。ノートはいいけど、教科書のことは私、全然聞いてなかったわ」
「世界史の教科書ならアキラからもらったよ。知ってた? ここで使ってる世界史の教科書、ここ二年は改訂されてないんだよ」
アキラ。誰かの名前だろうか。どこか聞き覚えのある名前で、喉の奥につっかえるような気持ち悪さがあった。
俺が思い出す間もなく、早川の涙ぐむ声がしてくる。
「嘘でしょ、まだあんな人と付き合ってたの。ねぇ美野里、悪い冗談はやめてもう普通の子に戻りなさいよ」
「最初から付き合ってなんかないよ。セフレってやつ。お金にもなるし、アキラは私のためならなんだってしてくれるんだよ」
「私に、あいつの教科書を使えっていうの」
戦慄する。俺はここで原村の言葉を思い出した。
――早川沙樹ってさ、やばーいやつらとの付き合いがあるんだぜ。
まさか、と俺は額に汗をかく。やばいやつとは、もしかして吉岡美野里のことで、ひいてはアキラとかいう男のことなんじゃないか。これはただの直感だけど、俺にはそうとしか思えなくなってきた。
「どうして、ここまでするの。いくらなんでもこれじゃ平野が……」
早川の切実に訴えるような声がしてくる。吉岡がそれを聞いて不気味な笑い声をあげた。
「平野が、なに? 可哀想だって言いたいの? 馬鹿なことを言ってるのは沙樹の方じゃん。あいつ、沙樹から無理矢理今泉を奪って、それで沙樹のことを影で笑ってるんだよ。マジで魔性だよね。今頃、沙樹のこと馬鹿にしながら今泉を食ってるかも」
早川は何も言わなかった。
「今泉だってそうだよ」
吉岡が俺の名前を指して、俺はまた嫌な汗をかいた。
「あいつ、沙樹にあんな酷い振り方をしておいて、よく平気な顔して教室に出てこられるよね。本当なら今泉のこともどうにかしてやりたいんだけど、それでも沙樹、今泉のこと諦められないんだもんね?」
数秒の間を置いて、早川が言い漏らす。
「でも、美野里には関係ないことじゃない。傷ついたのは私で、美野里には」
「私には関係ないってなんだよっ!」
吉岡が空気を裂く大声を張り上げて、俺の鼓膜を打った。俺は身じろぎ一つ出来ずその場に固まる。息が荒くなって、この音が早川と吉岡に漏れ聞こえないか、俺は気が気でなかった。
吉岡が荒く息を吐く音がする。扉越しに伝わる一触即発の空気。それを和らげたのは、吉岡自身の優しげな言葉だった。
「私たち、友達でしょ」
早川は何も言わなかった。
「私の親友を傷つけたあいつらを、私は絶対に許さない。私は沙樹のためなら命だってかけるよ。沙樹のこと、大好きだもん」
扉の奥から音がした。誰かが立ち上がる音。俺は想像を巡らせる。
「ありがと、美野里。私も大好きだよ」
多分今早川は、吉岡を抱き締めて泣いている。
歪んだ友情が扉の奥にある。こんな形の友情があるのかと、おぞましくて背筋が震えた。胃の中のものがこみ上げてくるようで、俺は唾を飲み込み、ぎゅっと瞼を閉じてそれに耐える。
それから一分、二分と立っても俺は動けなかった。早川たちがそのうちここから出てくるかもしれないのに、一歩も動けずに扉に耳をつけ続けた。
「なにをしてるの」
隣で声がして、俺は女みたいな悲鳴を小さくあげた。そこには依子がいて、憮然として俺を見つめていた。
「きゃあ」
依子が珍しくふざけて俺の真似をした。今日はあんなことがあったのに、逆に感心してしまう。
そんなことより、更衣室の中に俺の悲鳴が聞こえなかったかが心配だ。俺はその場に立ちすくんで扉の方へ注意を向ける。幸い、依子は黙っていてくれた。
反応なし。ここでようやく、ふぅ、と息を吐いた。
改めて依子の方を見る。よし、さっさとこいつを引っ張ってこの場から遁走だ。そう判断して依子の手首を握る。依子は不思議そうに俺を見つめた。
そのまま駆け出そうとしたが、運悪く、廊下の奥から鍋島と原村が歩いてきた。見つかってしまったのだ。
「おう偶然。一緒に帰ろうよー」
遠くから、原村が満面の笑みで手を振ってくる。しかもこの二人、やたらちんたらちんたら歩いてくる。一緒に帰るのはいいけどとっとと歩きやがれ、俺は叫びそうになるのを我慢した。原村と鍋島を無視してこのまま逃げようかとも思った。しかし逃げると、余計に騒いで追いかけてきそうだ。
仕方なく人差し指を口に当て、『黙れ』の合図を送ってみたが、これがびっくりするくらい伝わらなかった。原村は馬鹿みたいに手を振っておーいおーいと叫んでいる。俺は原村のえびすスマイルに拳を突き立てたくなった。
二人がやっと近くに来て、そして原村がにやりとした。
「手なんかつないじゃってどうしたの。もしやこれからデート」
言葉を切って、原村はドン引いたような顔をした。
「うわぁ……」
なんだろう。俺は自分の立ち振る舞いを見改める。片手に女子更衣室の扉、もう片方の手は依子の手首。
「神聖な学業の場で何をするつもりですか、今……エロ泉くん」
鍋島が軽蔑するような目を向けてきて、依子は嫌そうに俺を見る。
「けだもの」
「お前ら、なんか勘違いしてるだろ」
ふいに、片手についていたはずの扉の感触が失せた。
反射的に俺は身を引く。いきなり俺に引かれて、依子が転びそうに軽くつんのめっていた。
扉が開き、中から早川と吉岡が顔を出した。
早川も吉岡も、俺を見て表情を固める。早川だけは目を腫らしていた。それから吉岡が、原村と鍋島を見回し、最後に依子を見て、嫌悪感いっぱいな表情をした。早川は原村を見つけて、どこか嬉しそうにする。
原村は、ぞっとするほどの無表情をたたえた。
なんだ居たのか、俺はとっさにそんな顔を作った。どんな顔かは分かんないけど。でも、依子と鍋島はそれに近い表情だった。
「お兄ちゃん」
「行こ、沙樹」
早川が何か言い終わる前に、吉岡が彼女の手を引いて歩き出した。吉岡に手を引かれながら、早川はときおり原村の方を振り返った。俺たち四人は無言でそれを見送る。
ばれてない、ばれてない。心の中で繰り返して気持ちを落ち着かせる。振り返る早川に、俺が盗み聞きしていたことを悟られたくなかった。
二人の姿が見えなくなってからも俺たちは沈黙した。たった数秒が長く感じる。
最初に声を出したのは、鍋島だった。
「四人で、帰りにどこか寄っていきませんか?」
俺はみんなの顔を見た。鍋島はぎこちない笑みで、依子は廊下の先をじっと見据えていて、原村は、何故か目を閉じていた。早川を見ないようにしていたのだろうか。
まだ依子の手首を握っていたことに気づいて、俺は手を離した。依子は俺の手跡で黄色くなった手首を見つめた。
「あぁ、どこ行く?」
俺の喉もとからやっと声が出てくる。原村がゆっくりと目を開け、口を開いた。
「マックへ行こう」
マックは駄目、そうやって俺が叫ぶと、三人から変な目で見られた。
今日一日を振り返る。
テスト最終日で、昼休みの弁当は卵が飛散して悲惨で、原村と仲直りして、依子にメールの打ち方を教えて、まりもっこりストラップをあげて、掃除サボって曽根本殴って、依子のロッカーから早川の上履きが出てきて、村瀬の様子がおかしくて、早川の教科書類が焼却炉に捨てられていて、紙袋に入ったそれは城川が隠してくれて、吉岡と依子がもみ合って、依子の鞄からカッターナイフが出てきて、五頭がキレて、鍋島と城川が更衣室に誘われて、それを断った鍋島と屋上に行って、鍋島と原村はラブラブで、早川の教科書とノートを調べて、更衣室で歪んだ友情が繰り広げられていて、鍋島は塾サボって、そんで、依子と原村と鍋島と四人でガスト行って帰った。
記憶力の悪い俺でも、最初から最後まで忘れられない場面ばかりだった。これが全部一日の間で起こったのだ。最後のガストは微妙だけど、鍋島が塾をサボると言い出したのには驚いたので、やっぱりこれも印象深い。
俺はアキラについて考えた。
俺はアキラのことについて、未だにもやもやしていた。どうしてアキラという名前に引っかかるのかは分からない。早川はこの名前を聞いて、なにか怯えた様子だった。
俺は城川について考えた。
城川が吉岡たちに誘われたのは、もちろん味方集めのためもあるけど、一番の目的はあの紙袋にあるのではないか。吉岡は、更衣室で紙袋の中身を女子たちに見せて、みんなの士気を高めようとしたに違いない。しかし、件の紙袋は俺の鞄の中にある。多分、城川や鍋島や原村以外には誰にもばれていないと思う。俺は未だにこのグレーの紙袋をどうするか考えあぐねていた。
帰ったら卵サンドについて親父に苦情を入れようと思ってたけど、疲れていたのでやめた。言ったとしても、じゃあお前が作れ、とぶん殴られてしまいそうだ。まじで自分で作ろうかな。
飯食ってきたから夕飯いらねえ、そう母ちゃんに言ったら、ちょうどよかった、帰りが遅いから雄二が純一の分も食べちゃったんだよ、と言われた。いつもならここで弟を締めあげるところだが、腹はいっぱいだし今日は全身が疲れで重かったので、風呂に入って部屋で煙草を吸ってベッドに転がった。
携帯にメールが届いていた。ガストでメアド交換したばかりの鍋島から一件、依子から一件。原村からはない。原村のiPhoneぶっ壊れてるし。もう眠いんだけど、内容だけは見ておくことにした。
まず鍋島。
『夜分遅くに失礼します。今日はお疲れさまでした。平野さんや早川さんたちの件、月曜の朝に改めて話し合いましょう。それはそうと、昭文くんの笑顔はかわいいですよね』
そうか、明日は土曜だから学校は休み。休日大好きな俺が、ここに来て初めて意識するのは珍しいことだった。
前半はいいけど、最後の一文はにやにやする鍋島の顔が浮かんできたので腹が立った。うるせー馬鹿、と返信しようかと思ったが、指が疲れるので断念した。
そして依子。
『お見舞いに来てほしいと、パぱがいっていた。あしたあたしのいえにしゅうgo』
俺が教えたことは一体なんだったのだろう。あり得ないほどの虚しさと敗北感を覚える。
というか、誤字ばかりのメールをどうしてこうも平気で送ってくるのだろう。依子には、「今日せっかく教えてもらったのに、これじゃ純が悲しむな。今回はメールじゃなくて電話で伝えよう」とか、そういう気遣いはないのか。
憤りも不満も様々だったが、こちらも指が疲れるので断念。俺は携帯を閉じ、扇風機の風向きを調整してから眠りに落ちた。