chapter14 呼集・考察
五時限目の現代文が終わり、依子からもらったピンクのキャンパスノートを閉じる。ノートの表紙には吉岡の靴跡がついていた。消しゴムで何度もごしごしやってみたけど、完全には消えなかった。
窓際の最前席は村瀬の席で、彼女のもとに吉岡が近づいていく。
トイレ行こう、吉岡の声が小さく聞こえた。二人は二、三言会話を交わし、それから村瀬が頷く。
さっきの掃除の時間を皮切りに、この二人はよくこうしてひそひそ話をしている。俺は今まで、吉岡と村瀬がこうして親しげに寄り添っている様を見たことがない。疑心暗鬼ならいいけど、そうでないことはもはや俺の中で確信めいている。
吉岡は先に教室を出ていってしまった。二人で行くんじゃないのか、と不審に思っていると、席を立った村瀬の足がこちらを向いた。机と机で並べられた直線を、まっすぐ俺の方へと歩いてくる。村瀬のくせっ毛気味のはねた横髪が揺れる。
俺は少しだけ緊張した。視線を村瀬から外し、窓の外の眩しい風景を見つめる。ひとつの入道雲が、空を覆いつくさんばかりに存在を主張していた。
村瀬の足音が、俺の横を過ぎていく。
「由多加」
後ろで鍋島の衣擦れの音がする。横目に後ろを盗み見る。鍋島はぼうっと顔を上げていた。
「トイレいこーぜ」
「あ、はい」
快活な笑顔をする村瀬に対して、鍋島は開けっ放しの缶筆箱を閉じた。鍋島の反応は日常に構成された何気ない一コマのようで、女子は一人でトイレに行くものだと思っていた俺からすると、ちょっと意外だった。
「おいおい、元気ないぞ由多加っ」
村瀬が鍋島の肩に抱きつく。それは唐突で、俺の視界に村瀬がいきなり入ってきて、少しどきりとしてしまった。
「なんで由多加まで落ち込んでんのさ。あたしらさ、はっきり言って関係ねーじゃん?」
村瀬がにへへと笑う。果たしてそうだろうか。村瀬だって、ひそかに依子に腹を立てているんじゃないか。少なくとも俺にはそう見えた。
「それは、そうかもしれないですけど。でも、他人事で終わらせちゃ駄目っていうか……」
「なにが言いたいのか分かんないけどさぁ、そんなことより可愛い可愛いおさげちゃんがずれてるよ。あたしが直してやる」
抱きついたまま鍋島の髪をいじりだす村瀬。くすぐったいのか、鍋島がくすりと笑い出す。
「や、やめて、それくらい自分で直します」
「親友の好意を無碍にするではないよ由多加。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから触らせて」
「ちょ、恐いです村瀬さん」
「さらさら。ぐふふ、由多加の髪、超さらさら」
二人がいちゃつく中、ふいに俺の背筋が凍り付く。村瀬が、鍋島のおさげをくるくると指に巻きながら、瞳を俺の方へと向けた。吉岡と同じ、暗く刺すような目だった。
俺はそっと、自分の足下に視線を落とした。
村瀬は、鍋島に続き城川も誘っていた。城川は自分の席にうずくまるようにしていたが、村瀬に話しかられて顔を上げた。そっと首を振って、控えめに拒否を示す。
城川の鞄には、早川の教科書類が収まった紙袋が入ったままのはずだった。五頭の授業が始まる前、紙袋をどうするかまごまごしていたが、苦肉の策で自分の鞄に入れていた。あれは、恐らくそのままのはず。
俺は鍋島と村瀬が教室を出ていくのを確認すると、目を閉じ、机に突っ伏した。
トイレから返ってきた鍋島は、どこか当惑した顔をしていた。それが何を意味しているのか、俺は特に気にも止めなかった。村瀬が鍋島をトイレに誘った理由すらも。そのとき、俺の頭の中は眠気でぼんやりとしていたのだ。
六時間目は居眠りを決め込み、HRを終えて、やっと放課後となる。今日は長い一日だった。
早川は結局、あれから教室に姿を見せなかった。まだ保健室にいるのか、それとももう帰ってしまったのかもしれない。誰も早川の名前を口にしないから、真実は定かではない。
俺はすぐに後ろの鍋島に話しかけた。
「鍋島、これから暇?」
鍋島はやはり困ったような表情をする。
「なんですか? 私、これから塾があるんです」
「何時から?」
「七時半、ですけど」
鍋島は躊躇いつつもそう答える。まだ五時にもなっていない。どうしてそんなに時間を気にする必要があるのだろう。
「まだ時間あるじゃん。ちょっと俺に着いてきてほしいんだけど。あと、城川も」
俺は教室を見回した。ちょうど、城川が鞄を守るようにしながらこちらへ近づいてきた。鍋島がとたんにそわそわとし出す。
「私と城川さんに、何の用があるんですか」
「だから、着いてきたら改めて話すよ」
城川が鞄の紐を握って、びくついたように俺たちを見てくる。
「これ、どうしよう、由多加ちゃん、今泉くん」
幸いなことに、吉岡は机や鞄の中の持ち物を確認しているところだった。俺は鍋島と城川にしか聞こえないように声をおさえる。
「ちょうどよかった。二人とも今から俺に着いてきてくれ。城川、まずはそれを俺に寄越せ」
城川は例のごとく鍋島を見て、彼女の判断をあおいだ。鍋島はためらいながらも、やがて「渡してあげてください」と言う。俺は心の中で鍋島に感謝した。
その言葉を受け取った城川は、手を震わせながら鞄を開け、周りから見えないように身体で紙袋を隠し、俺に差し出す。俺はそれを素早く受け取ると、即座に自分の鞄にしまった。
その次の瞬間だった。
「心結っ」
城川の顔が跳ねるように強ばる。村瀬がいつの間にか城川の後ろにいて、城川の首に手を回していた。みゆって、城川の下の名前だっけ。そういえばそんなんだったかも。そんな悠長なことを考える反面、俺の心臓も鼓動を早めていた。
「心結は今日もちっちゃくて可愛いねぇ。あたしの娘にならないかい、みゆみゆ」
「やめて……」
城川はきっと恐れているはずだ。俺に紙袋を渡すところを、村瀬に見られたかもしれないと。城川は嫌がるふりをしながら、さりげなく鞄のファスナーを閉めた。
「心結、これからあたしたちとちょっと駄弁ってさ、そんでマックでも行こうぜ」
あたしたち。俺はそのメンバーを予測した。あたしたちとは、鍋島のことではなく、吉岡たちだろう。
でも、と言って、城川は鍋島を見下ろした。鍋島は申し訳なさそうに、城川から目を逸らした。
「由多加は今日塾だってさ。つれねーよな、塾なんて辞めちめー!」
村瀬は酔っぱらった中年のように言う。不気味なほどにテンションが高い。
そうか。五時限目の終わり、鍋島が村瀬とトイレへ行ったとき、きっとトイレには吉岡がいたんだ。
――放課後、私たちに付き合って。
こんな風に鍋島も、吉岡や村瀬らの誘いを受けたに違いない。そして、その誘いは俺と同じように「塾だから」と断った。
鍋島は当たり障りのない笑みを浮かべ、村瀬を見上げた。
「すみません、私のことは、また今度誘ってください」
「おう、また誘うよ」
村瀬が鍋島に手を振り、城川を半ば強引に引っ張っていった。城川は困惑して、俺たちに視線を送ってくる。城川には悪いと思いながらも、やむをえまいと断じ、村瀬とできるだけ目を合わせないように明後日の方を向いた。
「どこへ連れて行くの、村瀬ちゃん」
「女子高生流の女子会のトレンドと言えば、女子更衣室に決まってるだろ!」
教室の前で吉岡とその女友達三人が待っていた。村瀬と城川が到着すると、その女子生徒、計六名は教室を出ていった。
次々と、生徒が教室から姿を消していく。時刻はほぼ五時の頃。生徒は全員姿を消した。
俺と、鍋島だけを残して。
俺は鍋島以外の生徒が出ていくのを頬杖をついて待っていた。鍋島が黙って帰らないことを願っていたが、ありがたいことに、まだ後ろに気配がある。
みんなが居なくなったあとの五分間。俺は静かに、窓の隙間から入ってくる風を感じていた。後ろで鍋島が何かを漏らす。
「今日はなんだか、みんなおかしかったです」
誰もいない中、俺が前へと送る視線を外す必要はなかった。前方の教材棚の脇に飾られたユリの花瓶を、俺はじっと見つめる。
「おかしくなっていくのは、まだまだこれからだと思うけどな」
「不吉なこと言わないでください」
微妙な差異だが、鍋島の声は荒っぽくなっていた。どこへ向けていいのか分からない不安が漏れ出したんだろう。
「吉岡たちのこと、どう思う」
「まだなんとも言えません」
鍋島ならそう言うと思った。馬鹿みたいに吉岡についていく女子たちとは違う。そんな鍋島だからこそ、俺はこうして声をかけようと思えたのだから。
俺は嘆息し、鞄をかけて席を立つ。
「頼む、俺についてきてくれ」
迷いながらも、鍋島は頷いてくれた。
これから旧校舎の屋上へ行く、そう俺が言うと、鍋島は静かに激怒した。
「新校舎の屋上じゃだめなんですか? 旧校舎の屋上は、ずっと昔に立ち入り禁止になっているはずです」
「これから俺たちは内緒話をするんだ。立ち入り禁止の場所だからいいんだろ」
まぁ、俺は毎日のように通っているんだけど。
鍋島は肩書きに違わす風紀委員然としているから、ここで鍋島に来るのを拒否するかもしれない。それだけが心配だったけど、鍋島は釈然としないながらもついてきてくれた。
屋上への非常扉を開けると、見慣れた灰色のコンクリートが広がる。貯水タンクに寄りかかって座る原村も居た。原村は、上を見上げながらスケッチブックに筆を走らせていた。町の風景には飽きたのだろうか。
原村は俺を見つけて、ぱっと顔を明るくした。
「図書室にも居なかったから、もう帰ったのかと思った。寂し過ぎて三回も泣いたよ」
マイブームなのか、その台詞。
「お前お好みの、ちょっときつめの女子を連れてきたんだ。これがまた呼び出すのに苦戦しちまって」
後ろの鍋島から背中を引っ叩かれた。
「まじで? よくやった今泉。僕が彼女大募集中なの、なんで知ってるの」
適当に言ったのに喜ばれた。恐る恐る、鍋島が俺の横から顔を出す。原村がきょとんとした。
「あら、鍋島だ」
「昭文くん」
鍋島の口から出たアキフミクンという単語に、いまいち俺はぴんと来なかった。
ねぇねぇ鍋島さん、アキフミクンって誰? と尋ねようとしたが、鍋島はチーターまがいのスタートダッシュで原村のもとへと駆けていった。
「昭文くん!」
「そういう君は鍋島か、鍋島由多加なのか」
二人はハイタッチをして、キャッキャとはしゃぎ出した。なんだろう、この取り残された感。
「この学校に入学したって聞いたのに、全然校内で会わないから、不登校になっちゃったのかと思いましたよ」
「僕は周りから神隠しの原村と呼ばれるほど影の薄い有名人なのだよ」
「相変わらず訳分かんないですね!」
なんつー矛盾。神隠しっていうか、いつも屋上か図書室受付に隠れてるだけなんだけど。
二人が落ち着いて、どういう関係なのか話を聞くと、中学時代の部活仲間らしい。案の定美術部。鍋島もたまに絵を描くという。そういうイメージ全くないんだけど。
「原村の下の名前、昭文って言うんだな」
ふと俺は言ってみた。原村が目を見開き、それから悲しそうな顔をした。鍋島は引いていた。
「なんで知らなかったんですか」
「だって、名字さえ知ってればそいつのこと呼べるじゃん。知る必要なくね?」
鍋島は呆れて突っ込みすら入れてこなかった。原村が悲しみを通り越して、絶望的な雰囲気を全身から漂わせる。俯いて、僕はそこまでの存在だったのか、としょんぼりしていた。
それにしても、ここまでハイテンションの原村と鍋島を見たことがない。いちゃいちゃする二人を前に、俺は猛烈に帰りたくなった。でも鍋島を呼んだのにはちゃんと理由があるので、とてもやりにくいのだけど、本題に入ることにした。
俺は習慣的に胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえて火を点けた。
鍋島が驚愕を顔に浮かべる。
「今泉くんが、煙草を吸っています」
「そんな英語の例文みたいなこと言われても反応に困んだけど」
「ふざけないでください。そして、煙草はいくつから吸っていいことになってるのか言ってみなさい」
「十八?」
「二十です! ていうか、もし十八だとしてもアウトじゃないですか」
激昂する鍋島を前に、えへへ、と言って俺は誤魔化してみた。そろそろ本題に入りたいのに。
「まぁまぁ、今泉だってワルになりたいお年頃なのさ」
原村が柔らかく鍋島をなだめ、フォローを入れてくれる。
「そういう問題じゃないし、それにどことなく臭うなと思ったら、まさか本当にここまで極悪の不良だったなんて……」
不良の敷居も低くなったもんだ。
不満そうにしながらもやがて鍋島は押し黙った。話が終わったら、このことについて攻めてきそうな雰囲気である。めんどくさ。
しかし、これでやっと話が出来そうだ。
日も暮れ始めていたので、俺はさっそく鞄から例の紙袋を取り出した。鍋島が表情を引き締める。
紙袋を開けると、鍋島たちの話通り、中には教科書やノートが入っていた。それらは焼却炉の灰で薄くすすけていて、それぞれの表紙の名前欄には、たしかに早川沙樹の名前があった。
「これ、もう中は見たか?」
鍋島が首を振る。
俺はその場にしゃがみ、原村と鍋島に見えるように地面にノートや教科書を置いた。二人も俺と同じように座り込み、それらを凝視する。
開けるぞ、そう言って、二人の返事も待たずに教科書を開く。世界史の教科書だ。
鍋島の、唾を飲み込む音が聞こえた。原村が顔をしかめる。
表紙を開くと、さっそく赤字の落書きがあった。ページを縦横無尽に走る赤。
死ね、の羅列だった。なんと幼稚な。
次々とページをめくっていく。鍋島は気分が悪そうに、口に手を当てていた。
と、あるページで俺は手を止めた。違和感の残る言葉だった。
根暗。ビッチ。淫乱。幽霊女。病人顔。
どれも早川にあてた悪態とは思えない単語ばかりだ。まるで依子に向けたメッセージのような言葉が、あるページに集中して書き殴られていた。
図書室での早川との一件以前、早川が、依子の援交疑惑の噂を流していた。依子が援交はあり得ないだろうけど、淫乱などの言葉はその名残りなのか。ともかく、これをやった犯人が吉岡や早川たちだということが濃厚になってきたんじゃないかな。
鍋島の方を見ると、鍋島は怪訝に眉を寄せて俺を見返した。俺は口火を切る。
「これは早川と吉岡がやったという一つの根拠だと思う」
もちろん万が一の話だけど、本当に依子が犯人の場合。これはもしものときの保険でやったということだ。このページよって、俺たちも早川たちへの疑いを強めた。
依子のカモフラージュで、わざと隠すように記したのだとしたら。
俺は心の中で否定した。あの嘘を吐くのが下手くそな依子が、こんなずる賢い思惑を思いつくだろうか。
鍋島も原村も何も言わなかった。
それから俺は数日前の、依子と早川たちの階段踊り場での一件を二人に話した。原村には隠そうと思っていたことだが、ここまで来るともうそんなことは言っていられない。原村の力も借りたい。
早川や吉岡たちは依子をはめようとしている。それを強調して二人に訴えた。
話し終えると、二人はまた口を閉ざした。二人が俺の訴えをどう思っているのかは分からない。でも俺は伝えたいことは伝えた。
鍋島は血色を悪くしながらも口を開いた。
「これは一つの可能性なので、気を悪くしないで聞いてください。このページの落書き、平野さん自身が疑われないようにするために、逆に早川さんたちに罠をかけたって可能性はないですか?」
早川たちが暗に依子を罵倒中傷するためなのか。それとも依子が、何かあったときに備えて早川への疑いを持たせるためのカモフラージュなのか、という話。
鍋島の言葉に、俺はすぐにかぶりを振った。
「それは俺も考えた。でもさ、依子と、早川や吉岡を比べて考えてみろ。馬鹿正直な依子と、なにかとずる賢い二人。印象だけで言うと早川たちの方が怪しいと思わないか」
「印象だけで言われたら、確かにそうなんですけど……」
ここで、見かねた原村の助け舟が入る。
「つまり今泉が言いたいのは、なにもこの場で真犯人を突き止めようってことじゃないんだろう。鍋島や僕が、平野と早川勢のどっちを信じてくれるのか、ということだよね」
原村の言葉に俺は頷いた。
俺たちは警察じゃない。指紋検証も権力行使もできない。犯人が認めない限り、俺たちにはどうしようもないんだ。
ならば、依子が一方的にやられてしまわないように対策しなければいけない。
「あと、こんなのもある」
俺は鞄から、依子からもらったピンクのキャンパスノートを取り出した。中には俺が現代文の板書をしたものしかないが、表紙には確かに依子の字がある。吉岡の足跡があるからちょっと見辛いけど。
表紙上部に『自主学習用』、表紙下部には『平野依子』と、依子の字で書いてある。女の子っぽくない、角張った達筆字。それを二人に見せた。
それから、早川の教科書やノートに書かれた落書きと比べてみる。こちらはいかにも女の子らしい丸文字。
「依子、小学校のときに習字教室に通ってたんだ。おっさん臭い字書くだろ。それに対してこっちの落書きは丸っこくて、女子らしさを隠せない字体なんだよ」
鍋島が反論しようとしたので、俺は先読みするように続けた。
「もちろんさっきと同じように、依子のカモフラージュって可能性もある。でもさ、いくら依子が頭がいいとはいえ一介の高校生がそこまでするか?」
「それも印象論、ってことですね」
鍋島が教科書の落書きと依子のノートを交互に見ながら答える。原村はいつもの余裕ぶった反応をする。
「筆跡鑑定だよね。僕ら、なんだか探偵になったみたいで格好いいな」
正直俺は原村の反応を警戒していた。妹の教科書にこんな落書きをされたら、兄だったら普通、問答無用で憤慨するだろう。平野が犯人だ、そうやって理性をなくしてしまうかもしれない。
しかしそこはやはり原村で、彼はいつもの落ち着きを払っていた。そんな原村に俺はまた好感を持った。
「僕は平野と今泉を信じるよ」
原村は真顔で言った。あっけなさ過ぎて、俺は思わず「は?」と聞き返す。原村は俺の肩を叩き、微笑んだ。
「だって、平野と今泉は僕の友達だからね。信じ合ってこその友達なのだよ」
原村はさらに破顔した。
これは本来なら喜ぶべきなのかな。俺の心中は複雑だった。原村にとって妹である早川沙樹は、どういう存在なのだろう。
そんな原村を見ても、鍋島はまだ真剣な表情を崩さなかった。
「私は、まだ信じるわけにはいきません」
鍋島ははっきりとした口調で言い切る。
「私、弱い者いじめって大嫌いだし、見るのも嫌。だからこそ、簡単に今泉くんの主張を鵜呑みにするわけにはいきません。私は自分の目でちゃんと見極めたいんです」
どこかで聞いたことのある台詞だった。
弱い者いじめは嫌い。見るのも嫌。
あぁ、これか。鍋島と初めてまともに会話を交わしたとき、そのときも鍋島はそんなことを言っていた。
あのときはなんとも思わなかったけど、今の俺には染み渡るような言葉だった。いじめの現場をリアルに受け止めたからだろうか。
当たり前のことを当たり前のように言うのは難しい。俺はそう思った。
今の時代でいじめと言えば、いじめられる方にも原因がある、なんて言われてしまう。
いじめられる方にもたしかに原因はある。依子を例にとってみれば、あいつは無口だし、暗いし、人のことを無視するし、その上無神経だし。早川の前で、俺にキスしやがった。思えば、あれは完全に依子が悪い。今度改めて叱ってやろう。原因は間違いなく依子にもあるんだ。
だからって、いじめっ子をどう擁護できるんだ。いじめられっ子に比べても、酌量の余地はあるのか。
いじめられる側に原因があるのは百も承知、本当は誰だって分かってる。それを踏まえた上で、俺たち部外者はいじめを断ずるべきじゃないのか。実際、俺が何も出来ないせいでクラスメイトの心は離れ始めている。これは一部の人間が心のどこかでいじめを肯定してしまっているからじゃないのか。
いじめは悪いことだなんて今日び小学生でも滅多に口にしない。当然過ぎるからわざわざ言葉にはしない。だからこそ心の中で消化されてしまって、その意味が揺らいでしまうんだ。
誰も声高に言わないから、いじめが起きてしまう。
当たり前のことを当たり前のように言うのは難しいけれど、鍋島はそれを臆面もなく言ってしまった。俺だったらそんな誰もが分かりきっていることを、こうやって真剣な顔で言うのは恥ずかしい。
俺はそんな鍋島を尊敬した。
「分かった。無理に理解を求めようとして悪かったよ」
「いえ、今泉くんがいつになく冷静なので、私も助かりました」
鍋島は頬を掻いて、今泉くんならここで怒鳴ってくるのかと思いました、と笑う。俺ってそんなに怒鳴ってるイメージあるのかな、とちょっと傷ついてしまったが、思えば結構喚き散らしてるよな、俺。
これからはもっと冷静になろう、俺は自分の頬を叩いた。
原村がそんな鍋島を見て微笑ましそうにする。
「この中じゃ鍋島が一番まともだよね。僕なんて、結局は『友達だから』なんていう感情的なものだし」
「昭文くんは私なんかよりずっと人間的で好感が持てると思います。今泉くんを友達だとは思いたくないですけど」
うんうん、いやおい待て。
「鍋島の夢って、たしか学校の先生だったよね」
「そうです。私、小学校の先生になるのが夢で」
「君ならなれると思うよ。鍋島ならまさにぴったりって感じ」
「えへへ、そんなことありませんよ」
鍋島がおさげをいじって照れる。また二人がデレデレし出したので、俺は死ぬほど憂鬱になった。なんだったんだよ、原村の彼女募集中発言は。もう鍋島と付き合えよ、くそっ。
俺は心の中で毒づきまくり、もう鍋島なんか屋上に呼んでやんねぇ、まじでそう思った。