chapter13 紙袋とカッターナイフ
掃除の時間が終わった。
俺は並べられたばかりの机群の中で、窓際、後ろから二つめの自分の席に着いていた。さきほどの光景を目撃したのは、クラスの中では俺含め四、五人ほどで、その生徒たちは息を殺すように、俺と同じように席に座っていた。吉岡の席には村瀬が寄り添っていて、吉岡と村瀬はときおりこちらをうかがいながら会話をしていた。
続々と持ち場の掃除を終えた生徒が戻ってきて、その中に鍋島や城川の姿もあった。
鍋島は俺の方へ歩み寄ってきて、厳しい表情をした。鍋島の後ろには、鍋島の背中に隠れるように城川が立っていた。
裏庭掃除は俺と鍋島と城川の三人の担当になっている。トイレに行ってくると言って抜け出したこと、今さら思い出した。
「よくも掃除をサボってくれましたね今泉くん。こっちは、大変だったんですよ」
「何がだよ」
ここであったことより大変ならば、是非教えてほしい。
「何がだ、じゃありません」
鍋島は今にも怒鳴り出しそうにしていて、ぎゅっとスカートの端を掴んだ。城川がおずおずと一歩あゆみ出る。その小さな両手にはグレーの紙袋があって、城川は痛ましく眉を歪ませた。
鍋島は周りを気にするようにして、そっと俺に耳打ちをしてくる。
「城川さんが持ってる紙袋、中に早川さんの教科書やノートが入っています」
しばらく、鍋島の意図が分からなくて、俺はじっと紙袋のグレーに見入る。補足をつけるように、鍋島が続けた。
「裏庭の焼却炉に捨てられていたんです。誰がこんなことをしたのか、検討もつきませんけど」
「なんだよ、それ」
俺はそれっきり絶句し、また周りを見回し始める鍋島を呆然と見上げた。誰かを捜そうとしているのか、落ち着かないように指の先をいじっていた。
「早川さんはどこですか? 灰や汚れは出来る限り落としたんですけど、それでもまだ汚くて……。ともかく、彼女に見せて原因を突き止めないと」
「まて、鍋島」
早川に見せる? 鍋島の浅はかさに呆れてしまいそうだった。
俺はどこかへ動きだそうする鍋島の手首を掴み、それから城川を見た。城川はびくりと肩を震わせるが、今はそんなことに気を使っている暇はない。
「おかしいんだよ。さっきの早川の上履きといい、この捨てられた教科書といい。城川、一度それを俺に渡せ」
城川を見ると、彼女はまた怯え、助けを求めるように鍋島を見る。
鍋島は俺の様子からただならぬ予感を察知したのか、少し頬を緊張させた。
「今泉くん、早川さんの上履きって、なんのことですか?」
「早川、ここんとこずっとスリッパで過ごしてただろ。依子のロッカーに入ってたんだよ、早川の上履き。しかも刃物か何かで切り刻まれてて」
「平野さんの、ロッカーに……?」言葉を失う鍋島の横で、城川が声を強張らせた。
鍋島が疑念を顔にして、俺は焦る。依子を一瞬でも疑っているようだった。俺は鍋島の手首を持ったまま立ち上がった。「城川もこい」と言って、鍋島を廊下まで引っ張っていく。
廊下に出ると、俺は動揺をおさえ、鍋島と城川を振り返った。
「いたいです、今泉くん」
鍋島が、俺に掴まれた手首を見て顔を歪める。慌てて離すと、鍋島の手首はほんのりと赤くなっていて、鍋島は軽く手首をおさえた。
「悪い。俺もまだ落ち着かなくて」
「いえ、いいんですよ」鍋島は俺を励ますようにぎこちない笑みを浮かべる。「それより、一体何なんですか」
「何から話せばいいのか。その、つまり」
「廊下で何してんの、そこの三人」
その声は、言葉をつっかえらせながらも発言する俺を、意図的に阻もうとしているようであった。教室の中を見ると、その声はやはり吉岡のものだった。彼女の行動はまるで、このタイミングで俺たちに介入してこようと初めから計画していたかのようだ。俺は吉岡を追い払うこともせず、こちらへ近づいてくる様をただ睨み据える。ゆっくりと、教室の奥で村瀬も立ち上がる。
「その紙袋、何が入ってるの」
吉岡に詰め寄られ、城川は半歩後ずさり、ぐしゃりと紙袋を胸に抱いた。
「それ、私に貸してくれない、城川さん?」
城川はやはり鍋島に視線を送った。彼女の大きな瞳が小動物のように震える。
そんな城川を見て、俺の中でどこまでも醜い感情が湧いてくる。俺は心に浮かんだ気持ちを反芻しないように、あえてその場を見守った。
鍋島は、俺や城川、吉岡と、その隣に寄ってきた村瀬にも視線を迷わせ、息を荒くした。自分が今どう行動を取るべきか頭を回転させているはずだ。無理もない、俺でも、大体の状況は分かっているはずなのに、こうして指一本すら動かせないのだから。
「とにかくみんな落ち着いてください、まずは、まずは早川さんを」
「沙樹なら今保健室にいるよ。具合が悪い、だってさ」
吉岡は抑揚もなく言い切り、それから俺の方を刺すように見た。
「あんたんとこの、いとこのせいでね」
「依子はやってねぇっつってんだろうが。これは全部、お前らが」俺の声は掠れて、情けないことに最後まで言葉を絞り出すことが出来なかった。
吉岡は構わず俺を見つめる。
「どうしてそう言い切れるの? その紙袋を見せないのだって、おおかた、平野のいじめの証拠を隠すためなんでしょ。やってないって言うのなら、さっさと見せてよ」
口巧者。悔しさのあまり、俺は唇を噛む。またこれだ。また俺は頭に血がのぼって訳が分からなくなる。
もう我慢出来ず、怒鳴り上げようとした、そのとき。
「どいて」
俺の背中に手が触れる。やけに小さい手で、だけど邪魔だと言わんばかりに押してくる。後ろを見ると、俺より頭一個分背の低いやつがいて、そいつは俺を見上げた。
「教室、入れない」
依子は今の状況を全く読んでいないのか、いつもの無愛想な表情をたたえていた。俺は閉口し、道を開けた。依子は不審げに俺や吉岡たちを見回したが、それから何事もなかったように教室に入っていく。
ここまで冷静を貫いていた吉岡が、初めて揺らぐ。口元を歪めて怒りを露わにし、依子の背中を静かに追いかけた。
そこでようやく、俺は教室内の様子を認めた。他の生徒たちも、ほとんどこの状況を理解していないようで、ひたすら俺たちの動向をうかがうばかりのようだった。
依子はスカートの位置を気にして丁寧に座り、自分の方へ近づいてくる吉岡を小さく見上げた。吉岡は依子の机を叩き、声を上げる。
「あんた、沙樹にあんなことしておいて、よく平然としていられるね」
「なんのこと」
「あんたのロッカーに沙樹の上履きが入ってたよ。あれはなに? ハサミかカッターでやったの? あそこまでやるなんて、あんたおかしいんじゃない」
依子は訳が分からないという風にぽかんと口を開けた。俺は吉岡の図々しさに逆に感心してしまう。『おかしいんじゃない』なんて台詞、そのまま自分に向けているようなものだ。
「バックの中身を見せなさい。刃物が入ってるかも」
依子が何かを言いかける前に、吉岡は机の脇にかかっていた依子の学生鞄に手をかけた。さすがに依子も手を伸ばした。よく分からないままに、鞄を取り上げる吉岡の手を掴む。
「意味がわからない、やめて」
俺は珍しく、瞬時にこれを理解する。依子の鞄にも、きっと何か細工をしてあるんだ。
すぐさま駆け出そうとして、思わず前方にいた城川にぶつかった。城川はかろうじて紙袋を持ったまま尻餅をつく。
俺は迷った。城川に謝罪を入れて助け起こすか、それともこのまま吉岡と依子のところへ行くか。落ち着いて考えれば、城川に「ごめん」とだけ言って、すぐに吉岡たちのところへ行ってしまえばよかったんだけど、なにせ頭の中が混乱していた。城川は緊張が限界を迎えたのか、いよいよ目に涙を浮かばせ始めたので、俺はさらに逡巡する。
そのとき、俺のもとへ、無機物の落下音と、その中に隠れた光がかすかに届いた。
俺はその音の方を見送り、周りの生徒たちも同様にそうした。
依子の鞄のファスナーが勢いよく開き、中の参考書やノート、鏡などが床に散らばったのだ。後を追うように、窓から射し込む光に反射して、地面に吸い込まれるように落下していくカッターナイフが俺の目に飛び込む。カッターナイフはあからさまに刃を限界まで引き出されていて、床に落ちた瞬間、先端が音もなく欠け落ちた。
依子の隣に居た女子生徒が、短く悲鳴を上げる。
誰もがそれに見入り、沈黙に包まれる中で、最初に口を開こうとしたのは吉岡だった。
しかし、彼女が何か言う寸前、ふいに背後から怒声が上がった。
「何の騒ぎだ!」
五頭だ。彼は教材を持ち、俺たちのクラスを目を剥いて見回していた。吉岡が依子の鞄を掴む手を瞬時に引っ込める。
「高校生にもなって、まだ中学生気分が抜けとらんのか。じゃれ合うなら余所でやれ」
声量が幾分か抑えられたことで、五頭の凄みが際だった。教室が静まり返り、依子だけが床に散らばったものを拾い上げ始めた。
村瀬が眉をしかめ、口に手を当てて何かを呟く。鍋島は状況についてきていないのか、愕然として立ち尽くすのみだった。
依子はカッターナイフを見つけると、何の疑念も動揺も見せずに拾い上げて、刃を引っ込めてから鞄に仕舞い込んだ。
「何やってる。お前ら、早く席に戻れ」
村瀬、鍋島の順に、ぽつりぽつりと教室へ入っていく。俺は城川を見下ろし手を差し伸べた。
「ごめん、怪我してないか」
城川は躊躇い、控えめに頷きながらも、片手に俺の手を取って立ち上がった。
現代文のテストが返ってきた。名簿順に名前を呼ばれ、五頭からテストを受け取る際、彼がふとささやく。
「何かあったのか?」
「何もないっす。先生の言う通り、じゃれ合ってただけですよ」
俺は首を振り、それだけを告げた。席に戻るとき依子や吉岡の顔が見えて、彼女らは伏し目がちに視線を落としていた。それは他のどの生徒も同じで、五頭から見るとやはりこれは何かあったのだと思わざるを得ないのだろう。
席に座る直前に鍋島と目が合ったが、彼女もすぐに視線を逸らした。いつもの鍋島なら、今泉くんは赤点だったんじゃないですか、とでも冷やかしてきそうなのに。お互いがお互いに、どう接していいのか分からないのだと思う。誰もが同じ考えだった。
俺は音を殺して席に座り、前を向いた。
同級生たちと少しずつ亀裂が生じていくような気がして、どうしても不安を拭えなかった。