chapter12 ストラップ、早川の上履き
テスト期間最終日。テストは四時限までで、五時限目、六時限目は通常どおり授業がある。
三日目のテストもよく出来た。二日目ほどではないけれど、自分なりに満足のいく出来だった。でも、周りの奴らはもっと前々から効率のいい勉強していただろうから、俺がいくら試験前日に足掻いてみせようが学力を覆せるはずもなく、また母ちゃんや教師から『この子はやればできるのに』の烙印を押されてしまうわけである。俺はこの高校に受かったことに未だうかれている状態なので、この『やれば』のところは絶対にしない。一日目以降は頑張ったから、許してください。
四時限目のテストが終わって、昼休みに卵サンドを食べる。親父が作ってくれた卵サンド。今日からリフレッシュ休暇を取ったから暇だったそうだ。しかし所詮は下手の横好きなので、サンドイッチの入った弁当箱を開けたらかなり凄絶な状態だった。なにか、黄色い半ジェル上の物体が弁当箱の中いっぱいに飛び散っていたのだ。パンに挟まれた卵が、見事に半生だった。
「卵が飛散して悲惨だね」
鍋島の友達が俺の弁当箱を見てそう言った。赤い縁取りの眼鏡をかけた女子で、たしか村瀬。
俺と鍋島の席をくっつけて座っていた鍋島アンド城川は、おほほ、とお上品に笑った。村瀬だけはゲラゲラとやかましく笑った。全く笑えないのに、俺にしてみるとかなり異常な光景だった。愛想笑いは女子の人間関係を円滑良好にするための必須スキルなのだろうか。
俺はいつもどおり席を立たされて、後ろの生徒用ロッカーに寄りかかって卵サンドを素手で食べた。卵はパンから垂れて、俺の手のひらをつたい、床にぼたぼたとこぼれた。鍋島がそれで眉をひそめて「食べ終わったらちゃんと片づけてください」と言った。
いざ食べ終わって、床に落ちた黄色い斑点を眺めながらどうしようかと悩んでいると、視界の端に城川の横顔があり、彼女はもぐもぐと小さな口を動かしていた。
「城川、ティッシュ貸して」
城川がせき込んだ。それから怯えた目つきで俺を見る。あわててポケットからティッシュを出して、賞状贈呈みたいに両手を添えて差し出してきた。
「すみません」
「なんで謝るの」
「気が利かなくて、すみません」
どうしてここまで恐がられるのだろう。何か悪いことしたかな。考えても分かるわけがないので、黙って城川からポケットティッシュを受け取り、丹念に半生の卵液を拭き取った。それから恐がらせないように、恐る恐る城川に返す。
その一連の流れを見ていた鍋島に、「今泉くんは声と顔が恐いんですよ」と言われてしまった。今年で一番酷い言葉だった。
屋上で、原村は音楽を聴きながら絵を描いていた。普通に話しかけるとやはりそっぽを向かれたので、俺はポケットから四千円を出して「十二回払いでお願いします」と頭を下げた。
原村は俺の差し出す四千円をじっと見つめる。やがてヘッドフォンを外し、優しく微笑みつつ首を振って、俺の手を引っ込めさせた。
「喧嘩のあとは友情の絆を強くする。だが、これからは気をつけなさい」
原村と握手を交わした。安い友情劇だなぁと思いつつ、ひとまず安心した。携帯代は、夏休みにバイトして改めて返そうと思う。こちらの方は安くはない。
図書室に行き、依子に携帯の使い方を教えた。
今日はちゃんと司書の宮下がいて、例の愚痴をこぼしながらも受付をやっていたから、俺と依子は長机に並んで着いて、ゆっくり依子に教えることができた。
昨日帰ってから一人で練習していたのか、少しだけ要領を得ているようだった。それでも機械音痴のお婆ちゃんを相手にしている気分なのは変わらない。
依子にものを教えることに、俺は少しだけ優越感を感じた。
昼休みは短い。
依子はプチトマト大にかすかに唇を開け、携帯に顔を近づけて、一心不乱に俺宛ての練習メールを打っていた。受付内の壁掛け時計で時間を確認すると、もう昼休みは七分しかなかった。
「五時限目ってなんだっけ」
俺は依子に問う。メール作成を続けるか、俺に返事をするか、依子はしばらくまごついて、やがて諦めたように携帯から目を離した。
「五頭先生の現代文。たぶん、テストの結果が返ってくる」
「まじか。テストの結果はいいんだけど、今日はノート忘れてきた。一冊もねえ」
テストのことばっかり考えていて、ついうっかりしていた。板書をしない生徒を、五頭は問答無用で晒しあげる。
依子は「だからなに?」という顔をして、再び携帯の画面に目を落とした。本当に冷たいやつだと思う。
「なんでもいいからノート貸して。ページ破ったやつでもいい」
「あたしのロッカーに、使ってないピンクのやつがある。もうあげる」
「悪いな。お礼にこれやるよ」
俺は自分の携帯からストラップを外し、依子に手渡した。ご当地限定、まりもっこりストラップ。中学の修学旅行で金沢八景シーパラダイスに行ったとき、ノリで買ったやつ。
依子は自分の手のひらに乗ったまりもっこりを見て、一瞬、すごく嫌そうな顔をしたが、「ありがと」と言って、自分の携帯に取り付けた。
あ、使うんだ。
俺はとてもいいことをした気分になった。また時計を見上げる。昼休み終了まであと五分。
終わるまで依子と駄弁っていようと思い、話題を探すと、ずっと依子に聞きたいことがあったと思い出した。
「そういえば、依子の笑ってるとこ見たことないな」
依子はまばたきもせずに俺を見返して「ないの」と言った。
「ない。お前、小学校のときはよく笑ってたけど、今全然笑わないじゃん。ロボットみたいで気持ち悪いんだけど」
男友達はもう原村がいる、ということにしておいて、女友達を作るには、一番重要なのは笑顔なんだと思う。さっきの鍋島たちを見て、俺はそういう結論に至った。
依子は斜め上を見て考えた。もしかしてこういうことを言われたことがないのか、迷っているようだった。
「すごく面白いお笑い番組を観たときは、極まれに笑う」
「笑ってみせて」
「じゃあ、面白いこと言って」
そう来ると思ってちゃんと用意してある。俺は鞄から空の弁当箱を取り出して、中に卵液が飛び散ったままなのを確認して、依子に見せた。
「見ろ依子。卵が飛散して悲惨だ」
無視された。
依子は俺の渾身のぱくりギャグを見事に無視してくれて、メールの続きを打ち出した。本当に冷たいやつだと思った。
そんな感じで今日も平和な昼休みを終えたのだが、掃除の時間になって、俺は持ち場である校舎裏庭をサボって教室におもむいた。それから依子のロッカーを探した。
どうして五時限目前にそれをしなかったのかというと、単純に早川にそれを見られたくなかったからだ。ただでさえ、今は早川の前では依子との関わりを極力避けているというのだから。
教室では早川の友達の吉岡美野里が掃除をやっていたが、早川と一緒に見られるくらいならば、まだこっちの方がましだ。
生徒用ロッカーは教室後方に配置されていて、一人分のロッカーの奥行きが40センチほどあり、木製だが、容積はなかなか大きい。しかも引き出し式で一見して中身は見えないから、置き勉をしたい生徒には最適というわけだ。といっても、あからさまに置き勉をする生徒は俺以外に知らない。
依子のロッカーを見つけた。迷わず開けると、中の私物類は割と几帳面に整理されていた。俺のロッカーとは大違いだ。
ノートやプリントなどが積まれていて、依子の言っていたピンクのノートとやらを探した。すると、ノートの下に何か不可思議なものを見つけてしまったので、俺はいったん引き出しを閉じた。
それがまた意味の分からないものだったので、俺は長考した。
周りを見回すと、吉岡が箒を動かしながらこちらをちら見していた。他に教室に居た生徒は村瀬と、あー、名前を覚えていない生徒が三人。あ、曽根本も居た。
曽根本は俺と目が合った瞬間、ものすごい形相をして、持ち上げていた机を乱暴におろし、やたらと慌ただしげにこちらへ歩み寄ってきた。
「平野のロッカーになんの用だ、このヘンタイ野郎」
この前の拳骨の痛みはもう克服したのだろうか。
「依子にノート貸してって頼んだら、あげるって。だから探してんだけど」
「ほー」
曽根本は腕組みをして、少し顎を上げながら言った。『ほー』の語尾のイントネーションが上擦っていたので、俺はウグイスの真似をして『ホケキョ』と言いたくなった。言わなかったけど。
「そんなうそで俺を騙そうってか。あの平野が、お前みたいなチンピラかぶれに、ノートを貸す。馬鹿にしてんのか」
「悪いか。ちなみに、俺はノートの代わりとして依子にまりもっこりストラップをプレゼントした」
曽根本はこれを冗談と取ったのか、小馬鹿にするようににやりと笑った。
「まりもっこり? お前はやっぱりヘンタイだな」
「でも依子、ありがとうっつってたけど」
「ほー」
「ホケキョ」
今度こそ言ってしまった。決してわざとではなく、でも出てしまった。窓を拭いていた村瀬がそれを聞いてフッと鼻で笑う。
曽根本はまたすごい形相をして、一度咳払いをしてから、余裕ぶった引きつり笑いをしてみせた。
「あはは、ユーモラスだなぁ今泉は。俺にはどうやったって、そんな小学生じみた低レベルな返しは出来ないよ」
無理矢理上げた口角がぴくぴくとしていて、あぁ、無理をしてるんだなと分かった。だんだん相手をするのが面倒になってきたので、俺は彼から視線を外して依子のロッカーを眺めて、さてどうしようかと頭を抱えた。
無視された曽根本は、ついに堪忍袋の尾にほつれが生じたのか、いきなり俺の肩を掴んできた。
「どうせ平野のリコーダーでも入ってないか探りを入れに来たんだろ。あわよくば舐めに来たんだろ! あわよくばお持ち帰りする気だろ!」
なんと低次元な妄言。俺は曽根本のことが恐ろしくなってきた。それから、うちの学校にリコーダーを使った授業があるかを思い返してみた。そもそも、高校生にもなってクラス全員でピーヒョロピーヒョロやってたらおぞましい以外のなにものでもない。そんな想像をしても違和感がないというのか、この男は、と俺はやっぱり曽根本のことが恐ろしくなった。
誰かが、「きも」と呟いた。窓を拭き終わって、俺たちを見物する村瀬だった。村瀬は赤縁眼鏡の奥から、軽蔑するような目を曽根本に向けていた。
曽根本は自分の発言を思い起こしたのか、この世が終わったような顔をした。
「そうだよ、ヘンタイは俺だよ」
曽根本は俺を押しのけ、依子のロッカーの引き出しに手をかけた。
「俺だって、平野のロッカー開けてみたいよ!」
開けた。
はっとして、俺は急いで曽根本の脳天へ渾身の拳骨を食らわせる。曽根本はやはり泣き出し、殴られた頭を抱えながら俺を見て、それからよく分からないことを叫びながら教室を飛び出していった。
ほっとしたのもつかの間で、俺は視界に映る依子のロッカーの中身を見て、また嫌な予感を受けた。
上履きだった。ノートの影からのぞくそれは、もはやほとんど元の形を留めていなくて、もっと言えば、刃物かなにかでズタズタに切り裂かれていた。
誰のものなのか、二つ可能性があり、それは依子か早川のものだ。
しかし依子はさっき図書室にいたときまではちゃんと履いていたから、それはないと思う。すると、早川の上履き?
俺はすぐさま引き出しを閉めようとしたが、先にロッカーに手が掛かったのは、吉岡の手だった。吉岡はしゃがみ、ロッカーの中に手を入れた。
「ねぇ、これはなに」
ぴくりとも動けないでいる俺の横で、吉岡が訝しげな顔をして、引き裂かれた上履きをつまみ上げた。上履きはつま先部分に深く切れ込みが入っており、ゴム底の皮一枚でつながっているような状態で、吉岡が取り出した途端、ぷつりと千切れてしまった。
後ろで村瀬がはっと息を呑んだ。
吉岡の手の下で、細かく裂傷の刻まれた綿布の塊が揺れる。
「どうして平野のロッカーから、こんなひどいものが出てくるの。これは、だれの上履き?」
「俺が知るかよ……」
吉岡は俺の目をじっと見つめたままだった。暗くくすんだ瞳に、俺は目を離すことも出来ずに、首筋に嫌な汗をかいた。
吉岡は依子のロッカーに手を入れて、かき混ぜるように荒々しく動かして、そして目を歪めさせた。
「やっぱり。かかとのとこ、沙樹の名前が書いてある」
ロッカーの中身をぶちまけながら上履きの残骸を引っ張って、吉岡は俺の眼前にそれを見せつけた。ぶら下がった布きれの先には、たしかに『早川』とマジックペンで記載があった。ピンクのキャンパスノートが地面に落ちて、吉岡が俺へとにじみ寄ってくることで、ノートはタイミングよく踏みつけられた。
俺は吉岡の手を弾いて、彼女を睨んだ。
「ふざけんなよ。お前ら、この前の件じゃ飽きたらず、また懲りずに俺たちを嵌めようってか」
「なんのこと?」
「これはいつ仕組んだ? 依子のロッカーに、いつこれを入れた」
「あんたは、もういい」吉岡は上履きの残骸を一つ一つ拾い集め、地面を蹴るように立ち上がった。
「平野に問い詰めてやる。あいつ、絶対に許さない」
吉岡は言い捨て、教室を出て行こうとした。依子は図書委員だから、今は図書室を掃除しているはず。俺も立ち上がって吉岡を追いかけたかったが、床に散乱したプリントに足を取られ、床に両手がついてしまう。
ふつふつと、小さな怒りが少しずつ積み上がっていくような感じがした。数日前の階段踊り場での感覚と同じで、俺はこの抑えがたい気持ちをどうしていいか分からず床を拳で叩いた。
「沙樹……」
教室の入り口の方から吉岡の声がした。視線を上げると、吉岡の前には、気脈を通じたように早川が立っていて、彼女は吉岡の手に収まっているものを凝視して離さなかった。
「どうして、ここまで酷いことをするの」
早川が唇を震わせた。下を向いて床に涙をこぼし、拳を握った。
「私が、何をしたっていうのよっ」
早川が叫ぶ。誰に向けての訴えなのか、恐らく、依子がここにいたなら間違いなく彼女に向けていたのだろう。早川は奪い去るように上履きの残骸を取り上げて、しゃくり上げながら俺たちの前から姿を消した。
吉岡が悔しげに斜め下を見下ろす。隣のクラスの男子が何事かと顔を出してくる。俺たちの教室は誰もが動けないでいて、やがて村瀬だけが歩み、吉岡の横に立った。
吉岡の近くでささやきかけ、吉岡が小さく頷く。それから、村瀬は流すように俺を見た。
敵意を持った目だった。