chapter10 友達
翌朝に家族四人で鮭茶漬けを食べた。
母ちゃんはよく朝食で手抜きをする。共働きだから仕方ないとはいえ、この鮭茶漬けはお茶漬けの素を米の上にかけてお茶を入れるだけだ。ぶっちゃけ米を炊くだけである。
親父と弟は何も言わず、美味しそうに鮭茶漬けを食べた。だから俺も黙って食べる。
母ちゃんは依子の話をしていた。
中学のときみたいに友達はいるのかしら。いたらいじめなんて大丈夫なんだけど。
そんなことを言っていた。
今日はおかわりを控えた。一時間早く学校に来いと五頭に言われているから。
自転車をこいで、学校に着いたのは七時頃だった。生徒もまばら。早朝の空気は爽やかなものである。ただ、俺の気分は落ちたままだった。
職員室に行ってみる。今日はさすがに行かないとまずい気がした。テスト期間中に面倒事は起こしたくないし。
デスクに座っていた五頭はレンズの大きい眼鏡を上げ、校長室に来なさい、と言う。
校長室は無人だった。校長がいるのかと少し緊張したが、まだ出勤していないようだ。
五頭は黒の革張りソファーに深く腰掛け、俺を向かいのソファーに座るよう指示した。
「厳しいことを言うが、お前、この学校合ってないんじゃないか」
本当に厳しいことを言ってくる。でも、それからの五頭は粛々と、一言ずつゆっくりと俺に諭してきた。本当に学校を辞めさせようという気はないらしくて、切に俺の生活態度を改めて欲しいという願いを込めているようだった。だから俺は黙って聞いた。こんな説教ならいくらでも聞こうと思う。
いつになく素直な自分に驚く俺だった。
あらかたの説諭を話し終えたところで、五頭が一度口を閉ざし、湯飲みを傾けた。
俺もあらかじめ出されていたお茶を飲んで、それから校長室に並ぶ賞状やら校訓を眺めた。そろそろ教室戻ってテスト勉強したいんだけどなぁ。
「クラスメイトの中で、平野と一番仲が良いのはお前らしいが」
口火を切ったのはもちろん五頭だった。多分そうなので、俺は頷いた。あいつ、クラスに友達とかいなさそうだし。
五頭は俺を見つめたまま、また閉口した。何を聞き出せばいいのか迷っているのか、ともかくデリケートな問題らしい。
しゃらくせえ。じれったいので、自分から話の核心をついてみる。
「依子はいじめなんてしませんよ」
「私もそう思う」五頭は一度腕組みし、考え込む。「が、生徒に対して偏見はよくない」
頭が固い。でも教師ならこれくらいの心構えがちょうどいいんだろうけど。
「依子は何て言ってたんすか、昨日」
「いらいらしてやりました、と。それしか言わないんだ」
確かにそれくらいしか喋らないだろうな、五頭に詰問される依子を想像して納得する。
何せあいつは口下手だから、冗談だってほとんど言わないし、思ったことはどこまでも素直に言う。たとえば、自転車に乗せてほしいなと思ったら乗せてくれるまで諦めない、とかさ。嘘のほうも吐き慣れていないんだろう。
「ほら、いまどきの女子ってドロドロしてるじゃないすか。昨日の押した押さないも複雑な事情があるんですよ、きっと」まぁ、事情は知ってるんだけど。「先生まで首を突っ込む話じゃないと思う」
「そうなのか?」
五頭は珍しく、自分の判断に迷っているようだった。懇願するように俺の意見を待っている。
教師って仕事は大変そうだなと思う。どこまで生徒の人間関係に介入すればいいのか、そんな細かな所まで考慮しなければいけない。高校生ともなれば、その中で形成される人間社会もそれだけ複雑になる。
入り込み過ぎればプライバシー侵害だと言われ、ほったらかしなら監督不十分だと叱責を食らう。今の時代で金八先生をやるのは難しいんだよな。虚しい。
「本当にやばくなったら先生に相談しますよ」
「何かあってからでは遅いからな、頼む」
五頭はためらいながらも頷く。
うそぶきつつも、先生に相談するつもりはなかった。あれでほとぼりが冷めるとは思えないけれど、早川が傷ついたのは俺たちの責任だし、これは俺たちで解決することだと思うから。それに、昨日俺は大失態を犯してしまった。どうしても自分の力で挽回したい。そしてなんといっても、俺は自律したいお年頃なのだ。
五頭はお茶を飲み干した。
「あとお前、平野と親戚だそうだな」
どこまで知ってるんだよこのおっさん。
「平野が孤立しないよう、影で仕向けてやってくれないか」
「わかりました」
要は友達を作らせろと。一番の難題だけどね、それ。
教室に入ると、生徒はまだ五、六人ほどしか来ていなかった。その中に鍋島の姿も認める。
席に着いて後ろを向くと、鍋島はかじりつくようにノートを見返していた。
「おはよ」
「おはようございます」
手短かに朝の挨拶を済ます。テスト当日だけあって鍋島も切羽詰まっているようだった。
「お前さ、依子の友達になれよ」
早速と言えば聞こえがいいけれど、策もへったくれもなく俺はそう言ってみた。鍋島は弾かれたように顔を上げる。
「え」
「いやだからさ、お前、依子の友達になれよ」
「あ、はい」
反応がよろしくない。鍋島は狼狽したようにおさげを指に巻き、一度視線を下げた。
「あの、何度もそうしようと思って、いつも話しかけてはいるんですけど」
「無視されるんだろ」
「そうです。無視されるんです。全部ってわけじゃないけど、話しかけても何も返してくれないことが多くて。私、何故だか知らないけど、嫌われちゃってるみたいなんです」
鍋島は眉を下げて言う。彼女なりにへこんでいるようだった。仕方ないことだ。勇気を出して話しかけてシカトされたら、誰だって落ち込むだろう。
「安心しろ鍋島。俺もたまに無視される。あいつさ、自分にとってどうでもいい話題はしないんだよ。協調性ねぇの、性格悪いだろ」
「協調性がなくて性格悪いのは今泉くんのことだと思います」
最近鍋島と会話するようになって分かったんだけど、何気にこいつは毒舌だ。そうでなければ、鍋島は俺が何を言われても傷つかない無頓着野郎だと思っていやがる。
怒りたい気持ちをこらえていたら、また鍋島が話し始めた。
「それに、私の場合はそんなんじゃくて」
それから口をつぐんだ。ずっと目を伏せているので、俺が続きを聞き出すしかなさそうだった。
「なんだよ。本当に嫌われてるっての?」
「はい、明らかに避けられてる感じ。私、何か悪いことしたかなぁ」
鍋島はため息を吐いて、それっきり窓の外を見つめたまま黙ってしまった。かなり傷心のようである。諦めるしかなさそうだったので、俺は他の生徒を狙ってみることにした。
といっても俺もクラスメイトと滅多に交流しないので、誰に話しかけていいか分からない。なんだか悲しくなってきたぞ。
教室の扉から鍋島の友達が入ってきて、机に学生鞄を置いた。背がやたらと低い女子で、名前は確か城川だ。城川は鍋島の席に来て、鍋島と挨拶をした。
こいつでいいじゃん。依子ほどではないけど大人しそうだし、多分気も合いそう。
「城川、お前依子と友達になってよ」
城川はびくりと身を震わせて俺を見る。「わたし?」というように人差し指で自分を指す。
「え、うぅ、あ」
「なれよ」
「やめてください今泉くん。城川さんが恐がってます」鍋島の目は窓を向いたままだった。
城川は目を泳がせて、今にも逃げ出しそうに身構えていた。恐がられているというか、嫌がっているというか。どちらかというと、恐がられる方がへこむんだけど。
これ以上恐がられたくないので、俺は鍋島と城川との会話を止め、鞄から教科書を出した。
ちょうどそのとき早川と吉岡が教室に入ってきて、その二人と一瞬目を合わせてしまった。吉岡は寄り添うように早川についていて、早川は今日も職員用スリッパを履いていた。二人は俺から視線を逸らし、さっさと自分たちの机へ歩いていった。
そんな彼女らから視線を外して、俺は気分を落ち着かせるべく教科書の内容を復習する。
こんなに勉強のはかどらないテスト週間は初めてだった。
案の定、テストは撃沈した。
今日の科目は三つで、現代文と物理と世界史だった。特に世界史。暗記系は俺にとって最大の鬼門なのだ。
今日はテストの三時限だけで終わり、生徒は解散となる。
出来なさすぎて、帰って勉強する気もおきない。もっとも俺の場合は出来すぎても調子に乗って勉強しなさそうだから、本当にさじ加減が難しい。何度考え直しても、この学校に入れたのは奇跡だ。
俺は図書室へ向かった。バガボンドはもう読み終えてしまったので、今日からは一度読破したことのあるスラムダンクを読むことにする。
図書室に入って室内の混み具合に驚くと共に、受付に依子がいないことでさらに吃驚した。
受付に座っていたのは二十代後半ほどの、見たこともない男だった。さっぱりとした短髪だが、ネクタイを緩め、やる気がなさそうにパイプ椅子にうなだれていた。そんな彼の様子を見て確信する。こいつが宮下だな。
彼は何かぶつぶつ呟いていた。受付に近づくと、その呟きの内容が分かった。
「めんどくせー、帰りてー」
最悪の司書だと思った。なんとなく、「面倒臭いわねぇ」が口癖の母ちゃんを思い出した。
受付の扉を開けて勝手に中に入ると、宮下の顔がこちらを向いた。
「もしかして今泉くん?」
「よく分かりましたね」
受付内の奥を見ると、両端の本棚に挟まれて、窮屈そうに長机が設置してあった。長机には原村と依子とが対面するように座っており、二人は漫画やら小説やらを読んでくつろいでいた。
原村だけ俺に気づいて、無駄に朗らかな笑顔で手を振ってくれた。気持ち悪かったけど、俺も小さく手を振り返した。
「ここに勝手に入ってくる不良風の男子が来たら、そいつが今泉だよって。原村くんが教えてくれた」
宮下は緩い感じの笑みを浮かべた。
「宮下先生ですよね」
「はい、宮下です。司書兼、二年一組の副担任です。よろよろ」
「よろよろ」
よろしく、の意味だと思うのでそう返した。
「いや、でも本当に来るとはね。五頭先生がさ、君が必ずここに来るはずだから、来たら勉強させろって言付けされてたんだよねぇ。ちょうどよかった」
五頭という教師に改めて畏怖の念を抱いた。どこまで生徒のことを把握するつもりでいるのか。
宮下が、俺を長机へ移動するよう誘導する。原村の隣に俺専用と思われる椅子がちゃっかりと用意されていて、あれよあれよという間に、俺は原村から勉強を教えてもらう形となった。
「今日のテスト酷かったんだって? 原村くんはすんごい勉強できるからねぇ。みっちり教えてもらうといいよ」
宮下は腰に手を当て、満足そうに頷く。それからまた受付の椅子に座り、さっきの「めんどくせー」などの文言を再開した。
そんなまさか、原村が勉強できる? 昨日の原村の発言と食い違うじゃないか。そんな風なことを原村にまくしたてると、原村は偉そうに鼻を鳴らした。
「勉強出来ないとは言っていない。自分の学びたいこと以外は身にならないと言ったのは、あくまで今泉視点で助言してあげただけだ。僕にとってこの世は学びたいことだらけなのだよ」
「この裏切りもの」
「なんとでも言え」
「俺は昨日のお前の言葉に感銘を受けた。だから昨日は勉強をしなかったんだよ」ただの言い訳だけど。
「その点については僕も反省している。だから責任を取ろうってんだ」
原村は俺の鞄を引ったくり、中から教科書やノートを引っ張り出す。
助けを求めるべく依子を見たが、彼女は俺と目を合わそうともせず、お澄まし顔で小説を読んでいた。
図書室なんか来なきゃよかった。マジで。
原村とのマンツーマン学習は実に効率が良かった。しかし俺の本分は自主学習なので、いくら効率がいいとはいえ苦痛だった。
今日のスケジュールは午前で終わりだが、図書室はいつもの時間まで開いているらしい。
マンツーマン開始から二時間後、休憩と称して、原村は依子とトランプを始めた。俺も混ざろうとしたら、宮下が「サボるんなら五頭先生に言いつけなきゃなぁ」とぼやいて、俺は泣く泣くシャーペンを握った。
原村と依子は神経衰弱をやっていて、こっそり横目で眺めていると、二人の実力はほぼ互角のように見えた。
五回目の神経衰弱中、原村がぽつりと口を開いた。
「うちの妹は、最近どうかな」
依子がトランプをめくる手を止める。
「どう、っていうのは」
「いやさ、また君たちに迷惑かけてないかなって」
「原村先輩の心配するようなことは、何もありません」
冷たく言い放つ依子に原村はきょとんとして、やがて「だよね、良かった」と誤魔化すように笑った。
俺は昨日の出来事を回想した。何度思いだしてもはらわたが煮えくり返りそうだった。今の依子の言葉に対しても、思わず頬が気色ばむ。
「どうしたの、純」
それを見越したように依子が声をかけてくる。俺はため息を吐き、シャーペンを乱暴に置いた。
「人との付き合い方、考え直した方がいいかもな、依子は」
「どういう意味」
「せっかく原村が心配してんのに、そんな言い方はねぇんじゃねえのってこと」
原村が慌てるような顔した。自分のせいだと思っているらしいが、彼のせいではない。依子が原村を一瞥する。
「何もなかったって言うのは、本当だと思うけど」
俺も、昨日の件を原村に話すつもりはなかった。彼に罪悪感を感じさせたくなかった。
以前、早川の前で依子とキスしたとき、原村はどう思ったのだろう。外面ではおちゃらけていたけれど、本当のところ、早川と同様に良い思いはしなかったんじゃないか。
それに、彼の内心がどうであろうが、これ以上原村の心を乱したくはない。
それについては同意だった。けれど、この場合俺が言いたいのはそれではなく依子の人間関係の話だ。
「友達作った方がいいよお前。友達がいたら、何があったって依子の味方になってくれるんだから」
「余計なお世話」
「何を意地張ってんだよ。お前、中学んときは友達いたって聞いたぞ。何気に人気者だったそうじゃねえか」
依子はトランプを見つめまま唇を閉じた。神経衰弱で勝ち取った何組ものトランプを手でいじり、じっと視線を固める。
原村は気まずそうに俺たちから視線を逸らした。俺たちが喧嘩を始めたことに責任を感じているのか、本当に原村らしくなかった。
「友達と、そうじゃない人の違いって、なんなの」
依子が唐突な質問を投げかけてくる。返答に窮した。時間稼ぎをしようと思って、聞こえないふりで聞き返す。
「なんだって?」
「友達なんて曖昧な存在、もし作っても、いつか失望するだけだから」
依子は俺と視線を絡めてくる。彼女の瞳が揺れた。
「昔、鍋島さんみたいな友達がいたの。几帳面で、明るくて、根っからのお人好しみたいな子。話し方まで似てるから、余計被る」
鍋島のことを思い浮かべて、俺は小さく頷く。
「でも、あたしのちょっとした発言でね、あっという間に疎遠になった」
俺も原村も黙って聞く。きーんとした沈黙が流れ、ずっと何かをぼやいていた宮下も、じっと依子の話に耳を傾けていることに気づく。
無言の時間は延々と続いた。
てっきり俺は、その疎遠になったという友達について依子が何か言うはずだと待っていたが、依子はぼんやりと俺の顔を見据えたままだった。
「え、終わり?」野暮とは思いつつも突っ込みを入れる。
「うん」
「なんかないの。その友達に対してどう思ったとか」
「ない。その子のこと、もうなんとも思ってないから」
嘘だと思った。やっと俺は、鍋島が「自分は避けられている」と言った意味を理解したんだ。本当にないのなら、鍋島を故意に避ける理由なんてないのに。
依子は素直だ素直だと思っていたけれど、こうして本心を隠すのには訳があるはず。まじで面倒臭い女だ。
「じゃあ何で話したんだよ……」
さらに何か問い詰めようとしたが、原村に先を越された。
「いとこなら、曖昧な存在じゃないはずだよね」
原村は普段の笑顔で、俺の肩に手を置いた。こんなときに無理な表情だと感じさせないのは、彼のすごいところだと思う。
「ちゃんと繋がりがあるわけだよ。こうして君らは喧嘩しても、これから嫌でも繋がってなきゃいけない。ならば仲良くすべきだ。もう喧嘩はいけない」
原村は目を細め、俺の顔を覗き見る。
「確かな存在である君が教えてやんなさい。平野に、曖昧な存在がいかに尊く大切であるかを」
「いや、俺も友達いるか微妙なんだけど」これは今気づいた。やべ、そのくせ超偉そうなこと言ってたし俺。
「僕がいるだろう」
いつから俺は原村と友達になったのだろう。
「これから平野とも友達になる」
原村は俺の肩に寄りかかり、親指で依子を指す。依子は黙して鎮座していた。
「というわけで、三人でメアドを交換しよう。これも一つの繋がりだから」
なんでそうなるんだ。とっさに出てきた友達の定義の一つがメアド交換なのか。
原村に流されるままに俺たちは携帯を取り出した。初め俺は、依子は携帯を持っていないものと思い込んでいた。
依子は鞄から、白い卵形の携帯を出した。結構懐かしい機種だな。
俺はいつか、依子に携帯で叩き起こされたことを思い出した。そういえば、なんでこいつ俺の番号知ってたんだろう。
「純のうちに電話して、純のお母さんから教えてもらった」
母ちゃんから一言も聞いてないぞそんなの。これこそプライバシーの侵害だ。
三人のメアド交換が終わって、原村は満足げに携帯を閉じた。
「これから君らには毎日、一時間ごとにメールを送るよ」
「さすがにそれはうざいから止めてくれ」
苦笑して、俺も携帯を鞄にしまった。宮下が「めんどくせー」をどこか楽しそうに呟き始めた。
原村はマンツーマンなど忘れたかのように依子とトランプを再開した。そんな彼を見ながら、俺はまたしても自分の無力さを感じる。今日のはちょっと気分がいいけど。
図書室内の誰かが窓を開放した。風が受付奥のここまでそよいでくる。涼しい。これなら勉強にも身が入りそうだ。
神経衰弱も一段落して、原村は携帯をいじっていた。
「兄と妹も、ちゃんと繋がってなきゃいけないんだけどね」
ふと、そんなことを小さく漏らす原村に気づいたのは、すぐ隣にいる俺だけだった。