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コンフリクト  作者: 小岩井豊
本編
1/65

chapter1 関心

 このクラスで依子(よりこ)がいじめられているかもしれないなんて、俺は今まで考たこともなかった。

 それでいて俺は、「依子なら何があっても大丈夫だろう」なんて構えているから、自分の気持ちにさえ違和感を覚えてしまうのだ。



 それは六月の教室のことで、あくびをしようとしたら、ふいに後ろの生徒が俺の背中をつついてきた。

 俺の席は窓際の後ろから二つ目、そして俺の背後、最後尾の鍋島由多加(なべしまゆたか)がどこか神妙な面持ちをしながら、ある一枚の紙切れを渡してきた。

 それはノートのページの切れ端のようで、何故か採尿に使う折り紙コップみたいに折られていた。

 深刻そうな顔で折り紙コップを差し出してくる鍋島はどこか滑稽で、俺は彼女と視線を突き合わせたまま笑いそうになってしまったが、なんとか少しだけ耐えて、それでもやっぱり我慢できずに吹き出してしまった。

 季節は梅雨入りで、外はざぁざぁと豪雨がさざめいていた。俺の漏らした声は教師には届かなかったようだ。

「笑いごとじゃないです」

 何がおかしいのかという風に、鍋島は声を低くして言う。俺はその折り紙コップを受け取りながら彼女に苦笑いだけを返した。

 前に向き直ると、教師の五頭がさり気にこちらに視線を送ってきたので、俺はかたくなに知らん振りを決め込み、手元の折り紙コップに目を落とした。

 コップの口を開いて覗くと、中に何やら文字が見えた。

「これ、なに?」

 首だけ後ろに巡らせて鍋島に尋ねると、鍋島はノートに黒板の板書をしながら上目遣いでこちらを見上げる。

「回ってきたんです。ちなみに今泉くんが最後。とりあえず読んでみてください」

 筆箱の陰に隠して折り紙コップを開くと、中には三行ほどの短文が記述されてあった。全体的に丸みを帯びた字体からして、女子が書いたものらしいと分かる。


 ――緊急速報! 昨日ラブホからキモオヤジが平野依子(ひらのよりこ)を連れて出てくるとこ見ちゃいました。エンコーかな? 皆さんどー思います? 平野以外に回すように!


 読み上げて顔を上げると、早川沙樹がこちらを見てにやにやしていた。それから前の方を指さしてまた性悪そうな笑みをたたえるので、仕方なく俺は早川の指す方を見る。

 そこには平野依子の背中があった。依子の席は最前列で、彼女は行儀よく背筋をぴんと伸ばして黒板の内容をノートに書き写していた。教師に対して、いかにも自分は模範的な生徒ですとでも言わんばかりの体裁だった。本人は意図的ではないのだろうけれど。

 俺が早川に向かって肩をすくめてみせると、早川はそれでもどこか楽しそうに顔を前へ戻した。

 この折り紙コップは早川沙樹の仕業か、そう察して、俺の中で早川への印象が著しく落ちる。じめじめと他人に干渉し、こうして当人の知らないうちで噂が広がっていくような陰気な雰囲気は、本当に気分が悪い。

 ふと、突然後ろ襟を掴まれて、俺は思わずむせてしまった。振り返ると鍋島が机に腹ばいになって俺の目を見据えていた。自然と両者にらみ合うような形になる。

「びっくりしただろ」

「どう思いますか」

 鍋島はあくまで小声で怒気を露わにした。

「何が」

「それの内容です。本当に援助交際なら、平野さんに止めるよう説得しなきゃいけませんよね」

 その口調は真面目そのものといった感じで、俺は思わず拍子抜けして彼女を見つめた。俺がひねくれているのかな、逆にそういう発想は出てこない。

「お前って、意外と抜けてるよな」

「どういう意味ですか?」

 すると、五頭がしびれを切らせたように咳払いをした。慌てて俺は前へ向き直り、ちらりと五頭を盗み見たが、そのせいでばっちり彼と目が合ってしまった。

「今泉」

 五頭に名前を呼ばれ、俺は諦めて返事をした。

「お前、話聞いてなかったろ」

「はい、全く聞いてませんでした」

 はっきり言い切ってしまうと逆に清々しい。五頭は眉をひそめたが、今度は鍋島の名前を呼ぶ。

「鍋島、お前も聞いてなかったな」

 後ろで、鍋島が息を呑む音が聞こえた。「あ、あ」と喉に魚の骨でも詰まらせたような声を出していた。

「き、聞いていました」

「じゃあ俺が今なんと言っていたか、言ってみろ」

 背後にいるから見えないが、彼女が冷や汗を浮かべ頬を硬直させているのが容易に想像できた。余計なこと言わなきゃいいのに、と俺は心の中でせせら笑う。

「すみません、やっぱり聞いてなかったです」

 どっと笑いが起こる。にやにやしながら後ろを見ると、鍋島は顔を真っ赤にして俯いていた。五頭が一層厳格な表情を作る。

「二人とも、廊下に立ってなさい」



 二人で廊下に立っていると、にわかに後ろからクラスメイトたちの視線を感じて、俺は苛立ちの息を漏らした。

「今どき高校生を廊下に立たせる教師なんて、県内中探してもあいつくらいだと思う」

 老害、という言葉が頭に浮かぶ。俺が普段の声量で鍋島に話しかけると、彼女は怒りを露わに睨みつけてきた。

「もっと小さい声で喋ってください。全部今泉くんのせいですから」

「なんでだよ。そもそも鍋島があんな下らねえのわざわざ回してくるからだろ」

「今泉くんが五頭先生の注目を浴びないように配慮していれば、こんなことにはならなかったんです」

 鍋島はむすっとして顔を逸らす。俺もこれ以上言い返す気はなかった。

 廊下は思いのほか静かで、教室からの五頭の授業は幾分か抑えられていた。窓の外を見ると、にわか雨はさっきよりずっと控えめになっていて、グラウンドを叩くしっとりとした水音が心地よい。

 横を見ると、鍋島が二つに結んだおさげの片方をいじっていた。何か考え事をするように遠い目をしている。やがて俺の視線に気づいたのか、鍋島が見つめ返してくる。

「さっき今泉くんが言いたかったこと、なんとなく分かった気がします」

 すぐにはぴんと来なかった。首を傾げていると、鍋島が続ける。

「平野さんのことです。私が平野さんを説得しなきゃって言ったとき、今泉くん、お前抜けてるなって言いましたよね」

「あぁ、そういや言ったかも」

 鍋島は、続きを言うべきか迷っているように目を泳がせる。彼女が口を開いたのは、それから三十秒ほど経ってからだった。

「平野さん、いじめられてるのかな」

「そこまでは言ってねえけどさ」

 後方の窓から教室内を盗み見る。視線の先には依子がいた。

 黒髪を背中まで伸ばし、肌は病的なほどに青白い。身体も細いので、病み上がりだと言われれば誰も疑わないと思う。授業開始からずっと、規則正しく頭を上下させて黒板の内容を板書していた。

 恐らく、彼女は授業が終わっても席を立つことはないだろう。クラスメイトに話しかけることは絶対ないだろうし、そういう光景は今まで一度として見たことがない。彼女が席を立つのは移動教室のときか、昼休みか放課後になってからと決まっている。

「平野さんは美人さんだけど、すごく大人しいじゃないですか。言い方が悪いかもしれないけど、いじめられそうな雰囲気を持っているのかなって」

「美術展覧会に出てくる石像みたいだもんな、あいつって」

 俺の比喩を中傷ととったのか、鍋島が厳しい目で諫めてくる。別にそんなつもりじゃなかったので、無実の罪を浴びせられた気分で黙り込む。ほどなく、鍋島はまた元の虚しげな表情を作った。

「悲しいです。私、弱い者いじめって大嫌いだし、見るのも嫌。関係ないかもしれないけど、うちって県内トップクラスの進学校じゃないですか。こういう学校ならいじめなんて起こらないと思ってたんですけど」

「学校の程度は関係ないんじゃないか。どこの世界でもさ、集団の中でいじめが起こり得ないってことはないだろ。猿の世界にもいじめがあるくらいだぜ。きっと誰かをいじめたいって気持ちは、本能なんだと思うけどな」

 抑揚もなく言うと、鍋島はどこか不安げに見上げてくる。

「今泉くんは、いじめなんてどうでもいいと思いますか?」

 俺は廊下の天井を仰いだ。

 実感が沸かない、というのが即座に出てきたけど、そんなの答えになってない気がする。

 確かに俺は、今までいじめというものを目撃したことがない。人生経験が浅いんだ、と言われてしまえばそこまでで、偶然いじめのない環境に恵まれただけとも言える。

 実感がないというのは、つまりいじめる側、いじめられる側の気持ちが分からないということで、だからつい客観的な思考をしてしまう。

 いじめる側は何が楽しくてこんなことをやっているんだろうとか、いじめられる側は本人にも原因があるんじゃないか、とか。

 こんな考え方、ただ他人行儀で冷酷なだけなのだろうか。

 実際、依子なら何があっても大抵は大丈夫だろう、なんて他人事のように思ってしまうのだから。

「まだいじめだと決まったわけじゃないだろ」

 柔らかい口調で言ったつもりだったけど、鍋島は申し訳なさそうに目を伏せて、そうですよね、と呟いた。

 廊下に立たされた上、こんな空気になってしまっては居心地が悪い。



 腕時計を見ると、授業終了まであと十分を切るところだった。話題を切り替えようと頭を悩ませていると、ふとした疑問が頭をつく。

「なぁ、一つ質問していいか」

「なんですか?」

 怪訝そうに鍋島を見ると、彼女はきょとんとまばたきをした。

「なんでお前、丁寧語なの?」

「今さら!?」

 思えば、鍋島とまともに言葉を交わしたのは今日が初めてだ。今まで挨拶くらいしかしたことなかったし。

 鍋島が自分の声の大きさに気づいて口を塞いだのは、教室内の五頭が怒声を上げたのとほぼ同時だった。

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