泊まらせてくれない旅館
実際、こんな旅館はありません。たぶん。
T氏は憤慨していた。
予約までして、楽しみしていた温泉旅館。
それを、当日になって宿泊拒否されてしまったのである。
「どうしてですか!? なんで泊まれないんですか!? 理由を言ってください、理由を!!」
「まことに申し訳ございません。キャンセル料金はもちろんいただきません。ここまでの交通費も往復代分お返しいたしますので、ご遠慮願えませんでしょうか」
「私は理由を言ってくれ、と言ってるんです!!」
人の良さそうな、若女将。
着付けもしっかりとしていて、利発そうな女性である。
「他のお客様の身を守るためでございます」
T氏は笑った。
身を守る?
何を言っているのだ、この女は。
自分がそんなに犯罪者のように見えるのか。
「あのですね、私のことあまり知らないようですけど、実は私、こう見えてもテレビによく出る有名人なんですよ? そんな、人に危害を加えるような人間じゃありません」
「ええ、よく存じております」
若女将の言葉にT氏は目を丸くした。
知っていながら宿泊を拒否するとはどういうことか。
「女将さん、もしこんなことがマスコミにでも知られれば、この温泉旅館の経営がまずくなるんじゃないですか?」
「あなた様を泊めたほうが、よっぽど悪くなる可能性があります」
「ですから、私は人に危害を加えるような人間じゃありません! むしろ、感謝状すら贈られている人間ですよ!?」
「存じております」
話にならない、とT氏は思った。
ここまで頑なに宿泊を拒否するのには、なにかわけがあるのだろう。
「わかった、今、部屋の清掃が終わってない。だから、泊まらせたくない。そんなところだろう?」
「いいえ、お部屋はお客様がお見えになる3時間前にはきちんと整えております。理由はそれではありません」
「じゃあ、肝心の温泉が枯渇してしまった。それをテレビに出ている人間にバラされたくない。そんなところか?」
「いいえ、温泉は今も湧き出ております」
「もしかして、私を目の敵にしている人物が泊まっているとか? だから私をこっそり帰らせようと?」
「いいえ、あなた様の存在は決して口外しておりません。他のお客様も同様です。プライバシーは厳守しております」
T氏は困った。
他に理由が思いつかない。
その時、彼の体をどかすように、一人の怪しい男が姿を現した。
全身黒スーツに、サングラス、目深に帽子をかぶっている。
「予約していたKだが」
「これはこれはK様。お待ちしておりました。どうぞ、こちらに」
女将はそう言って、後から現れた怪しい男をすんなりと通してしまった。
納得いかないのはT氏のほうである。
「ちょっと、さっきの男! あっちのほうが十分危険そうじゃないですか!」
怪しい男を通し終え、戻ってきた若女将にクレームを突き付ける。
「お客様、失礼ですが人を見た目で判断するのはいかがなものかと」
「見た目で判断してるの、そっちでしょう!」
T氏はもはや意地となっていた。
ここまできたら、絶対に泊めてもらうまで帰るものか。
すると、そのすぐあとで別の3人組が姿を現した。
「予約していたSとIとYです」
「S様、I様、Y様、ようこそお越しくださいました。どうぞ、こちらに」
そう言って、さらに3人の客を通す。
戻ってきた若女将にT氏は言った。
「わかった、名前だな!? 名前が関係しているんだろう! 泊めたくない理由は、ズバリ、私の名前」
「名前で判断するのもいかがなものかと」
どうやら、違うらしい。
まあ、確かに名前で宿泊拒否されたのだとしたら、余計に理由が見当たらない。
「ああ、わからない! なんで泊めてもらえないんだ!」
頭をかきむしるT氏があまりに不憫に思ったのか、若女将は宿泊させない本当の理由を語った。
その理由を聞いたとたん、T氏に笑顔が戻った。
「むむ、なるほど! いや、まさにそれは一理あり! はははは、なんだ、そんなことか。すまん、散々、悪口を言って悪かった」
T氏は最初の頃の不機嫌さとは打って変わって、ひどく上機嫌になった。
「いえ、こちらこそ、勝手なお願いで申し訳ございません」
「いや、若女将の客を思う気持ちが十分伝わった。確かに、私が泊まればここの宿泊客の身が危ないな。若女将、あなたはまさにキレモノだ」
「T氏様ほどではございません。では、こちら、往復の旅行代金です」
「ありがとう」
そう言ってT氏は若女将からお金を受け取ると、意気揚々と帰って行った。
T氏が帰ったのを見計らって、若女将はホッと胸をなでおろす。
そして、帳簿に書かれたT氏の肩書をチラッと見た。
そこには、こう書かれていた。
『職業:名探偵』
多くの客たちが賑わう温泉旅館。
どんな人間がどう繋がっているかなど、わからない。
しかし、これだけは言える。
名探偵の泊まる旅館ほど、危険な場所はない。
お読みいただき、ありがとうございました。
名探偵が泊まる旅館なんて、怖くて泊まれないです。