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ロスト=ストーリーは斯く綴れり  作者: 馬面
ウェンブリー編
110/383

第6章:少年は斯く綴れり(4)

 黒い空。

 黒い群集。

 黒い心。

 黒い余白。

 そもそも、アウロス=エルガーデンを名乗る研究者を形成するものに、輪郭はない。

 その中枢を埋める記憶が、例えどれだけ鮮明だとしても、そこには陰と対極にある光によって、やはり輪郭を失う。

 つまりは、極端なのだ。

 絶望などと言う言葉すら溶け込むような深淵の黒に身を焦がした、遠い過去。

 希望などと言う言葉すら迷い込みそうな深遠の紆余に目を回した、近い過去。


 そして、現在。

 

 街を彷徨うアウロスの耳に、黒い声が届く。

 その声は、言葉を持たない。

 少なくとも、輪郭はない。

 明確な意味を持たない雑音は、鼓膜を揺らす事なく脳へと侵入し、ゆらぎにも似た刺激を送る。

 

 ――――残念だったね


 言葉ではない思念。

 まるで雨音のように、やけに耳に馴染む。

 まるで雑音のように、どこか遠くに聞こえる。

 

 ――――ここまでだったね


 その音ではない筈の、空気の振動ではありえない筈の声は、アウロスの歩を進める原動力となっていた。

  

 ――――でも、良く頑張ったね

 

 しかし、その活力とは言い難い原動力には、やはり輪郭はない。

 何故なら、それはアウロス自身の声だから。


 ――――偉いね


 認める。

 アウロス=エルガーデンを名乗る研究者は、それを認める。

 自分の声が、自分を癒す最低の手段であると。

 自分を根差す唯一の手法であると。


 ――――疲れたよね

 

 その声は、確かにアウロス=エルガーデンの声だった。

 輪郭なき記憶の、おぼろげな声。

 

 ――――ねえ、もう休んでよ


 自分にとって、唯一の存在。

 唯一人、同じ目線で、同じ場所に立って笑った相手。

 そして、今も尚見える、その最期の顔。


 ――――早く、返してよ


 それが、言葉を生む。

 よく響く声で。

 

 ――――その名前を、返して




 アウロス=エルガーデン。

 借りものの、名。

 許可なき借り入れは、社会性に関連せずとも規律違反。

 だが、そうしなければ、彼が生きて行く事は適わない。

 何故なら、それは彼にとって、聖水を収める器のようなものだからだ。

 どのような高価で高質の聖水だろうと、器がなければ存在し得ない。

 どのような優れた功績であっても、名前がなければ後世に残りはしない。

 それを言い訳にし、彼は名を得た。


 そして――――現在。


 聖なる水は聖沢を失い、唯の水となった。 

 唯の水などこの世のどこにでもある。

 有限なれど、代わりは幾らでも利く。

 器は、必要なくなっていた。

 彼に、アウロス=エルガーデンの名前は必要なくなっていた。

「……」 

 彼は、足を止める。

 そうすべきだと思っての行動ではない。

 身体の反射的行為でもない。

 理性が、意思を無視して稼動した。

 もう、輪郭はおろか、器すら失った筈のその存在は。

 何の事はない。

 それでも尚、在り続ける事を望んだ。

「――――動くな」

 予想よりも1秒弱早かったその声に、彼は視界を思考から切り離す。

 見覚えのある場所だった。

 繁華街【ネブル】。

 その郊外の、灯りなき路地。

 人通りは既になく、動物の声も虫の声も聞こえない。

 不自然。

 既に気付いている。

 既に足は止めている。

 次の肉声を待つだけだった。

「人違い……? いや、間違いない、か」

 彼に、その声を聞いた覚えはない。

 しかし、状況から自身に敵意を持っている事は容易に把握できる。

 それ故に、彼は対策を練った。

 その対策とは――――『彼』を、今一度『アウロス=エルガーデン』に塗り替える作業だ。

「見違えたよ。まるで死神だね」

 アウロスは、先の言を破り、振り向く。

 特にお咎めなく開けた視界には、微かに闇夜の中で一度だけその視神経に触れた、若い男の顔だった。

 ギスノーボ――――目鼻立ちのはっきりしたその男の名を、アウロスは覚えていた。

 接点は火花のように一瞬。

 それでも、記憶は忘却を許さない。

 それだけの密度と煌きが、あの時間にはあった。

「教会上位者の召使が、こんな場所に居て良いのか?」

 アウロスは言葉を綴る。

 見えない板に指を押し付けるようにして。

「俺を判別できるんだね」

 ギスノーボが意外そうに呟く。

 そして、それと同時に膨大な量の殺気を放った。

 殺気は、敵意と必ずしも等号では結ばれない。

 何故なら、殺気と名目上呼んでいるそれは、必ずしも『殺す』と言う意思を反映していないからだ。

 攻撃的な意思ですらない事もある。

 幾度となく本物の『殺意』を見てきたアウロスは、それを良く理解っていた。

「ククク……やはり、良い腕を持っている」

 満足気にギスノーボが呟く。

 その刹那、殺気は圧縮した風を開放するかのように霧散して行った。

「俺がここに居る目的が知りたいかい、アウロス=エルガーデン」

 ギスノーボが唱えたその名は、正式にはギスノーボの眼前に居る者を指すものではない。

 しかし、その投げ掛けられた言葉に、それが自分であると言う認識は、持つ必要がある。

 アウロスは、まだ器を返却してはいないのだから。

「あの司祭がどうなったかは知らないが、今でもあれがお前を手元に置いておくとは考え難い。失敗の象徴だからな、お前は。あの夜以降合流してすらいないんだろう。ここに居るのは、次の宿主を探す為か?」

「悪くない。半分正解だね」

 ギスノーボが不敵に笑む。

 アウロスの表情に変化はなかった。

「聖輦軍は繊細な組織故、少しの傷や痛みも許されない……と、お飾りの長は考えている。穢れの存在は、最初からなかった事になるらしいよ」

「典型的だな」

「わかり易くて嫌いじゃないね。尤も、この立場を覚悟した事は一度もないけど」

 口の端を吊り上げ、ギスノーボは白い歯を見せた。

 アウロスにそれが見えるくらいの距離に、二人は居る。

「一度堕ちた者は、闇に溶け込み他者とは違う領域に生きる。この世界の掟だね。グレスがそうであったように」

「……」

 アウロスは、もう二度と会う事のない知人の名を聞き、微かに顔を歪めた。

 それが面白かったのか、ギスノーボの口元の角度が変わる。

「とは言っても、俺達のような人間には、寧ろその方が居心地は良いからね。支配欲や享楽は格段に減るけども、遊びの時間はいずれ終わるものだから」

 ギスノーボの戦闘力を知るアウロスは、彼が聖輦軍の枠内に収まる存在とは思っていない。

 聖輦軍は、元々教会がメンツを守る為にこしらえた、言わば装飾のような団体。

 侵略に対する自衛手段の名目で維持しているものの、戦争時ほどの必要性も影響力もない。

 何より、アウロスに良いように振り回された事が、それを如実に表している。

 もし、ギスノーボに聖輦軍と言う足枷がなければ、アウロスに彼を攻略する手立てはなかっただろう。

 尤も、その仮定を当てはめた時点で、二人の接点は消えるのだが――――

「俺は部隊を作る」

 突如、ギスノーボがそう宣言する。

 アウロスは眉一つ動かさず、それを聞いていた。

「魔術で人を壊す部隊だ。魔術士殺し、などと言う捻りもない存在が賑わせていたようだけど……同じようなものだよね」

「それしかない、か」

「その通り。俺が生きるにはそれしかない。戦争のない今、戦闘しか能のない者にはね」

 宿主を探すには、単に戦闘力が秀でていれば良いという訳ではない。

 社会の中で何が一番大事かと言うと、膨大な金や名誉ではない。

 才能でもない。

 信用だ。

 金や名誉は、力と継続で幾らでも手に入る。

 才能の有無は、そもそも答え自体がない。

 社会では、信用こそが力となる。

 そして、社会のない世界はない。

 それが例え、無秩序な闇の領域であっても。

「存在を保つ事は容易。維持費など、その辺りを幾らでもうろついている。けど、生きるとなれば、それなりに理由が要る。そして、俺は強さの維持がそれに当たる」

 強者は、強者である事を魂が求める。

 そこから逸脱する者は、最早強者ではない。

 アウロスが強者ではない理由もそれだ。

 類稀な戦闘力を持つギスノーボは、その戦闘力に含有される権力や欲望の保持を望む。

 つまりそれは、社会性だ。

 名誉、そして立場。

 相対性がもたらすそれらなくして、強さはあり得ない。

 だからこそ『生きる』。

 教会から存在を抹消されている彼にとって、それを得るには、彼の存在を守る傘が必要。

 すなわち、宿主だ。

 消費すべき仕事と、それをこなす事で得る名誉。

 それらを与える宿主がいる事で、ようやく条件は満たされる。

 しかし、その宿主を見つけるには信用が要る。

 これまでの実績は既に教会から消去される事となる。

 新しい信用を組み立てなくてはならない。

 ギスノーボは、その為に部隊を作るのだ。

 個では時間が掛かる。

 集団になれば、役割は分担され、影響は大きくなる。

 効率的と言える。

「聖輦軍から切られた連中を拾うつもりなんだ。お前を取り逃がした連中だよ」

 ギスノーボの体が一瞬傾く。

 それは、腕を伸ばした所為だ。

「そこに、お前を迎えたいと思ってる」

 唐突。

 しかし、アウロスは動かさないよう身体に命令を下した。

 果たしてそれは遵守されたのか――――

「反応なし、か」

 どうやら、まだ生きている。

 アウロスはそう実感した。

「俺は、お前と言う人格を知らない。話に聞いている程度かな。けど、あの夜の僅かな接点の中で、俺には一つの確信があるんだよね」

 ギスノーボが一歩踏み出す。

 そして、ずっと保持していた口元の角度を、最も自然なものに戻し、鋭い眼光を更に尖らせた。

「お前には人殺しの素養がある」

 アウロスの耳に宣告されたその言葉が、アウロスの過去に触れる。

「お前は、自分自身すら無機質に変換できる。意思を消去できる。そして、理性に反射を持っている。これは、天性だよ」

 それは、アウロス自身も自覚した事があった。

 それも一度や二度ではない。

 かつて、戦争のあった数日間。

 アウロスは、周りの誰よりも人を壊した。

 焦げた肉と血の、独特の刺激臭。

 戦争において、綺麗な死体は少ない。

 それを平然と見られるようになってしまった人間――――それはある意味、その通りなのかもしれないと、アウロスは小さく嘆息した。

「十分な戦闘力も伺える。魔力が極端に低いと言う話も聞いているが、問題はないね。暗殺は、一瞬が命。そして全てだから」

 もし自分に武器があるとすれば、それは紛れもなく――――

「もう一度言うよ。お前には、人殺しの素養がある」

 アウロスはその言葉に、鮮明に蘇った過去の光景を重ねた。


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