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第6章:少年は斯く綴れり(4)
 黒い空。
 黒い群集。
 黒い心。
 黒い余白。
 そもそも、アウロス=エルガーデンを名乗る研究者を形成するものに、輪郭はない。
 その中枢を埋める記憶が、例えどれだけ鮮明だとしても、そこには陰と対極にある光によって、やはり輪郭を失う。
 つまりは、極端なのだ。
 絶望などと言う言葉すら溶け込むような深淵の黒に身を焦がした、遠い過去。
 希望などと言う言葉すら迷い込みそうな深遠の紆余に目を回した、近い過去。

 そして、現在。
 
 街を彷徨うアウロスの耳に、黒い声が届く。
 その声は、言葉を持たない。
 少なくとも、輪郭はない。
 明確な意味を持たない雑音は、鼓膜を揺らす事なく脳へと侵入し、ゆらぎにも似た刺激を送る。
 
 ――――残念だったね

 言葉ではない思念。
 まるで雨音のように、やけに耳に馴染む。
 まるで雑音のように、どこか遠くに聞こえる。
 
 ――――ここまでだったね

 その音ではない筈の、空気の振動ではありえない筈の声は、アウロスの歩を進める原動力となっていた。
  
 ――――でも、良く頑張ったね
 
 しかし、その活力とは言い難い原動力には、やはり輪郭はない。
 何故なら、それはアウロス自身の声だから。

 ――――偉いね

 認める。
 アウロス=エルガーデンを名乗る研究者は、それを認める。
 自分の声が、自分を癒す最低の手段であると。
 自分を根差す唯一の手法であると。

 ――――疲れたよね
 
 その声は、確かにアウロス=エルガーデンの声だった。
 輪郭なき記憶の、おぼろげな声。
 
 ――――ねえ、もう休んでよ

 自分にとって、唯一の存在。
 唯一人、同じ目線で、同じ場所に立って笑った相手。
 そして、今も尚見える、その最期の顔。

 ――――早く、返してよ

 それが、言葉を生む。
 よく響く声で。
 
 ――――その名前を、返して



 アウロス=エルガーデン。
 借りものの、名。
 許可なき借り入れは、社会性に関連せずとも規律違反。
 だが、そうしなければ、彼が生きて行く事は適わない。
 何故なら、それは彼にとって、聖水を納める器のようなものだからだ。
 どのような高価で高質の聖水だろうと、器がなければ存在し得ない。
 どのような優れた功績であっても、名前がなければ後世に残りはしない。
 それを言い訳にし、彼は名を得た。

 そして――――現在。

 聖なる水は聖沢を失い、唯の水となった。 
 唯の水などこの世のどこにでもある。
 有限なれど、代わりは幾らでも利く。
 器は、必要なくなっていた。
 彼に、アウロス=エルガーデンの名前は必要なくなっていた。
「……」 
 彼は、足を止める。
 そうすべきだと思っての行動ではない。
 身体の反射的行為でもない。
 理性が、意思を無視して稼動した。
 もう、輪郭はおろか、器すら失った筈のその存在は。
 何の事はない。
 それでも尚、在り続ける事を望んだ。
「――――動くな」
 予想よりも1秒弱早かったその声に、彼は視界を思考から切り離す。
 見覚えのある場所だった。
 繁華街【ネブル】。
 その郊外の、灯りなき路地。
 人通りは既になく、動物の声も虫の声も聞こえない。
 不自然。
 既に気付いている。
 既に足は止めている。
 次の肉声を待つだけだった。
「人違い……? いや、間違いない、か」
 彼に、その声を聞いた覚えはない。
 しかし、状況から自身に敵意を持っている事は容易に把握できる。
 それ故に、彼は対策を練った。
 その対策とは――――『彼』を、今一度『アウロス=エルガーデン』に塗り替える作業だ。
「見違えたよ。まるで死神だね」
 アウロスは、先の言を破り、振り向く。
 特にお咎めなく開けた視界には、微かに闇夜の中で一度だけその視神経に触れた、若い男の顔だった。
 ギスノーボ――――目鼻立ちのはっきりしたその男の名を、アウロスは覚えていた。
 接点は火花のように一瞬。
 それでも、記憶は忘却を許さない。
 それだけの密度と煌きが、あの時間にはあった。
「教会上位者の召使が、こんな場所に居て良いのか?」
 アウロスは言葉を綴る。
 見えない板に指を押し付けるようにして。
「俺を判別できるんだね」
 ギスノーボが意外そうに呟く。
 そして、それと同時に膨大な量の殺気を放った。
 殺気は、敵意と必ずしも等号では結ばれない。
 何故なら、殺気と名目上呼んでいるそれは、必ずしも『殺す』と言う意思を反映していないからだ。
 攻撃的な意思ですらない事もある。
 幾度となく本物の『殺意』を見てきたアウロスは、それを良く理解っていた。
「ククク……やはり、良い腕を持っている」
 満足気にギスノーボが呟く。
 その刹那、殺気は圧縮した風を開放するかのように霧散して行った。
「俺がここに居る目的が知りたいかい、アウロス=エルガーデン」
 ギスノーボが唱えたその名は、正式にはギスノーボの眼前に居る者を指すものではない。
 しかし、その投げ掛けられた言葉に、それが自分であると言う認識は、持つ必要がある。
 アウロスは、まだ器を返却してはいないのだから。
「あの司祭がどうなったかは知らないが、今でもあれがお前を手元に置いておくとは考え難い。失敗の象徴だからな、お前は。あの夜以降合流してすらいないんだろう。ここに居るのは、次の宿主を探す為か?」
「悪くない。半分正解だね」
 ギスノーボが不敵に笑む。
 アウロスの表情に変化はなかった。
「聖輦軍は繊細な組織故、少しの傷や痛みも許されない……と、お飾りの長は考えている。穢れの存在は、最初からなかった事になるらしいよ」
「典型的だな」
「わかり易くて嫌いじゃないね。尤も、この立場を覚悟した事は一度もないけど」
 口の端を吊り上げ、ギスノーボは白い歯を見せた。
 アウロスにそれが見えるくらいの距離に、二人は居る。
「一度堕ちた者は、闇に溶け込み他者とは違う領域に生きる。この世界の掟だね。グレスがそうであったように」
「……」
 アウロスは、もう二度と会う事のない知人の名を聞き、微かに顔を歪めた。
 それが面白かったのか、ギスノーボの口元の角度が変わる。
「とは言っても、俺達のような人間には、寧ろその方が居心地は良いからね。支配欲や享楽は格段に減るけども、遊びの時間はいずれ終わるものだから」
 ギスノーボの戦闘力を知るアウロスは、彼が聖輦軍の枠内に収まる存在とは思っていない。
 聖輦軍は、元々教会がメンツを守る為にこしらえた、言わば装飾のような団体。
 侵略に対する自衛手段の名目で維持しているものの、戦争時ほどの必要性も影響力もない。
 何より、アウロスに良いように振り回された事が、それを如実に表している。
 もし、ギスノーボに聖輦軍と言う足枷がなければ、アウロスに彼を攻略する手立てはなかっただろう。
 尤も、その仮定を当てはめた時点で、二人の接点は消えるのだが――――
「俺は部隊を作る」
 突如、ギスノーボがそう宣言する。
 アウロスは眉一つ動かさず、それを聞いていた。
「魔術で人を壊す部隊だ。魔術士殺し、などと言う捻りもない存在が賑わせていたようだけど……同じようなものだよね」
「それしかない、か」
「その通り。俺が生きるにはそれしかない。戦争のない今、戦闘しか能のない者にはね」
 宿主を探すには、単に戦闘力が秀でていれば良いという訳ではない。
 社会の中で何が一番大事かと言うと、膨大な金や名誉ではない。
 才能でもない。
 信用だ。
 金や名誉は、力と継続で幾らでも手に入る。
 才能の有無は、そもそも答え自体がない。
 社会では、信用こそが力となる。
 そして、社会のない世界はない。
 それが例え、無秩序な闇の領域であっても。
「存在を保つ事は容易。維持費など、その辺りを幾らでもうろついている。けど、生きるとなれば、それなりに理由が要る。そして、俺は強さの維持がそれに当たる」
 強者は、強者である事を魂が求める。
 そこから逸脱する者は、最早強者ではない。
 アウロスが強者ではない理由もそれだ。
 類稀な戦闘力を持つギスノーボは、その戦闘力に含有される権力や欲望の保持を望む。
 つまりそれは、社会性だ。
 名誉、そして立場。
 相対性がもたらすそれらなくして、強さはあり得ない。
 だからこそ『生きる』。
 教会から存在を抹消されている彼にとって、それを得るには、彼の存在を守る傘が必要。
 すなわち、宿主だ。
 消費すべき仕事と、それをこなす事で得る名誉。
 それらを与える宿主がいる事で、ようやく条件は満たされる。
 しかし、その宿主を見つけるには信用が要る。
 これまでの実績は既に教会から消去される事となる。
 新しい信用を組み立てなくてはならない。
 ギスノーボは、その為に部隊を作るのだ。
 個では時間が掛かる。
 集団になれば、役割は分担され、影響は大きくなる。
 効率的と言える。
「聖輦軍から切られた連中を拾うつもりなんだ。お前を取り逃がした連中だよ」
 ギスノーボの体が一瞬傾く。
 それは、腕を伸ばした所為だ。
「そこに、お前を迎えたいと思ってる」
 唐突。
 しかし、アウロスは動かさないよう身体に命令を下した。
 果たしてそれは遵守されたのか――――
「反応なし、か」
 どうやら、まだ生きている。
 アウロスはそう実感した。
「俺は、お前と言う人格を知らない。話に聞いている程度かな。けど、あの夜の僅かな接点の中で、俺には一つの確信があるんだよね」
 ギスノーボが一歩踏み出す。
 そして、ずっと保持していた口元の角度を、最も自然なものに戻し、鋭い眼光を更に尖らせた。
「お前には人殺しの素養がある」
 アウロスの耳に宣告されたその言葉が、アウロスの過去に触れる。
「お前は、自分自身すら無機質に変換できる。意思を消去できる。そして、理性に反射を持っている。これは、天性だよ」
 それは、アウロス自身も自覚した事があった。
 それも一度や二度ではない。
 かつて、戦争のあった数日間。
 アウロスは、周りの誰よりも人を壊した。
 焦げた肉と血の、独特の刺激臭。
 戦争において、綺麗な死体は少ない。
 それを平然と見られるようになってしまった人間――――それはある意味、その通りなのかもしれないと、アウロスは小さく嘆息した。
「十分な戦闘力も伺える。魔力が極端に低いと言う話も聞いているが、問題はないね。暗殺は、一瞬が命。そして全てだから」
 もし自分に武器があるとすれば、それは紛れもなく――――
「もう一度言うよ。お前には、人殺しの素養がある」
 アウロスはその言葉に、鮮明に蘇った過去の光景を重ねた。


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