④サンライズ
餓鬼の外見を確かめた改は、疑問を抱かずにいられない。
先ほど確かめた時、間違いなくトイレは無人だった。
入口のドアが開く音も、中條が最初で最後だ。
窓は小さく、赤ちゃんも入れそうにない。
ではこの成人男性ほどもある餓鬼は、どこから入って来たのか?
「タネ教えてよ、忘年会で使いちゃいたい」
改は気さくに話し掛け、拍手の代わりに顔の横で手を叩く。
フラメンコで言う「パルマ」だ。
とぉ……!
あまり社交的ではないのか、餓鬼は外套から真っ赤な瞳を覗かせ、低く厳めしい鳴き声を返す。続けざま奴は中條の胸ぐらを掴み、一本背負いのように放り投げた。
残像と化し、空中を疾走する中條が、一つ二つと自動洗浄機のセンサーを横切っていく。壁と背中が激突し、激しく地面を揺さ振ると、個室の便器から高々と飛沫が舞い上がった。
洗浄用の水が小便器を流れだし、タイミングを合わせたように中條が壁を滑り落ちていく。白目を剥いた彼が地面に尻を落とすと、虚脱した四肢が床にへばり付いた。
「化け物の一匹や二匹やっつけろよ♪ タトゥなんか入れていきがってんだから♪」
使えないとばかりに吐き捨て、ミケランジェロさんは中條の腕をふらふら振る。
先ほどまで日焼けしているだけだった彼の顔は、褐色と血のストライプに劇変していた。大分引っ掻かれたようだが、幸い呼吸はさほど乱れていない。見た目のインパクトより傷は浅そうだ。
「無茶言わないであげて下さいよ」
苦笑交じりに言い、改は手首の数珠に目を向ける。ミケランジェロさんもしているそれは、「世界のバグ」に「パッチ」を当て、力を抑制するリミッターだ。
「俺たちだってとっくにトンズラこいちゃってますよ、こんなもん着けられる前だったら」
とぉ……!
ちっとも怯えてもらえないのが面白くないのか、餓鬼は威嚇するように唸り、じわじわと腰を落としていく。一転して素早く腕を振り上げると、餓鬼は伸身しながら床を蹴り、改に飛び掛かった。
引き寄せ、引き寄せ、女子をハグする距離まで引き寄せ、改は一歩下がる。中條の血を溜めた爪が目と鼻の先を滑降し、足下からツルハシを突き立てたような高音。タイル貼りの床から火花が迸り、刹那、改の視界を白く塗る。
とぉ! と床に刺さった爪を支柱に回転し、餓鬼は裏拳を繰り出す。ひょいっ! と背中を反らした改は、ついでに長い足を振り上げる。改の睫の奥、眼球の手前を裏拳が横断し、つま先が餓鬼の下顎を弾き飛ばした。
硬い顎骨を打ったにしては、妙に柔い。
ブーツ越しに伝わる感触は、まるで生肉を蹴り上げたようだ。
一直線に天井へ激突した餓鬼は、用具入れの前に落ちる。仰向けになり、手足をジタバタさせる姿は、ハムスターが車輪を回そうとしているかのようだ。
「おらあっ♪」
無抵抗な様子を見たミケランジェロさんは、壁の一部ごと小便器を引っぺがした。
ねじ切られた配管から超局地的な豪雨が降り、トイレを水浸しにしていく。念のために言っておくが、TOTOさんの施工技術は世界一だ。ただ、キングコングの襲来を想定していない。
「死ねやぁ♪」
「アウトレイジ」な掛け声と共に、今年最大の凶器が餓鬼を押し潰す。職人さんが丹精込めて焼き上げた小便器が木っ端微塵に砕け散り、女組長の顔面に夥しい返り血が吹き付けた。
F乳を震源に店内限定の直下型が発生し、酔客たちのよもやま話を阿鼻叫喚に一変させる。グラスやボトルが棚から落下しているのか、高い破裂音が間断なく改の鼓膜を突き刺した。
ひとまず揺れが治まるまで待つと、改は小便器の成れの果てである粉塵を掻き分け、現場を覗き込んでみる。
マンホールほどもあるクレーターに、ぺたんこになった餓鬼がへばり付いていた。
これはもう、もんじゃ焼き用のヘラでも借りてこないと剥がせそうにない。
「これじゃ事情が訊けちゃいませんよ」
「生かしといたところで、話なんか聞けやしねぇよ♪ 人間じゃねぇんだからな♪」
改に愚痴られたミケランジェロさんは、冷たい笑みを餓鬼に向ける。
確かに彼女の言う通り、餓鬼は人間の変身した怪人ではなさそうだ。
元人間なら絶対にぶら下げているはずのものが、胸に刺さっていない。
「にしても、どーやってトイレに忍び込んだの、チミ」
軽口を叩きながら、改は足で死骸をつっついてみる。
目の錯覚、だろうか。
端っこのほうで何かが蠢いた……気がする。
真相を確かめるべく、改は死骸に顔を寄せ、目を凝らしてみる。
ちぃ……ちぃ……。
配管の奏でる雨音に混じり始めたのは、弱々しい鳴き声。
乳でも求めるように手を開け閉めしていたのは、下半身の潰れた小動物だった。
身体が欠損していなければ、モルモットくらいの大きさだろうか。
シワシワで毛も生えていない皮膚が、黒ずんだ桃色を沈着させている。顔立ちはモグラを窓に押し付けたようで、お世辞にも愛らしいとは言えない。真っ赤な瞳もゴマ粒大で、シワの間に埋もれてしまっている。
それ以上に不細工さを強調しているのが、上下二本ずつ生えた出っ歯だ。
鼻の前まで迫り出した様子は、アメコミのウサギとでも言ったところか。しかも極度のすきっ歯で、苦しげに呼吸する度に、シーシーと歯間から空気の抜ける音を漏らしている。
「……そういうタネか」
呟いた改は、答えの出た爽快感に浸る間もなく半歩飛び退く。瞬間、前髪の裏を閃光が横切り、短くカットされた毛が糸くずのように舞い落ちた。
「あぁ~ん、カリスマにカットしてもらったばっかだったのぃ~」
女々しくビブラートした改は、少し短くなった前髪を弄ってみせる。
切実な苦情への返答は、アクビのように間延びした「とぉ~」だった。
ああ、よく寝た――。
だるそうな動作で主張しながら、床にへばり付いていた餓鬼が起き上がっていく。配管から溢れる水飛沫が、寝起きの奴に吹き付けると、ぺらぺらの身体がぺなぺな震えた。トリックが判っていても、心臓には優しくない光景だ。
とぉ!
腹這いになった餓鬼は、一反木綿のようにしゅるしゅる身をくねらせ、壁際まで這っていく。慌てて捕まえようとした改の手は、下手なクレーンゲームのように空を切る――いや空を挟むばかり。驚嘆すべき素早さは、流石ゲゲゲの愛機と言ったところか。
とぉ! と扁平な身体を鞭のように撓らせ、餓鬼は壁に強烈な頭突きを見舞う。
屋外へと続くトンネルが開通すると同時に、轟然と吹き荒ぶコンクリ片。突風と化した寒気がトイレに雪崩れ込み、改の肌から血色と感覚を吹き飛ばす。配管から降る雨が水煙に一変し、視界を薄く霞ませていく。
風圧によってよろける改を尻目に、餓鬼は悠々トンネルへ逃げ込む。
ミケランジェロさんは脇目も振らずに後を追う――どころか、走り出そうとしていた改に掴み掛かった。胸ぐらに掛かった手が激しく改を揺さ振り、大事な脳味噌を繰り返し頭蓋骨の内側に衝突させる。
「逃げられたじゃねぇか♪ どう落とし前を着ける気だ、あぁ?」
思う存分唾を吐き散らしたミケランジェロさんは、改の小指と鋭利なガラス片を交互に窺う。一般的なJKにとって小指とは恋の約束を交わすものだが、彼女にとっては始末書の代わりに提出するものらしい。
「アイシー! アイシー! 後で幾らでも聞いちゃうから今は追わせて」
「ならノロノロしてんじゃねぇ♪」
三〇秒前の行動を忘れた怒号と共に、ミケランジェロさんの回し蹴りが改の尻に炸裂する。脱線事故が可愛く思えるほどの衝撃に晒された改は、半ば蹴り飛ばされるようにトンネルへ転がり込んだ。